7話
夢を見ることが、何かしらのアドバイスになると聞いたことがある。その夢の内容によっては、悪い夢に思えたとしても良い意味があるのだという。
しかし自分が見る夢は何時からか無くなっていた。現実的な夢と共に、眠りについて見る夢ですら失っていた俺は、眠りと共に消えてなくなる。そうやって眠っている間はまるで死んでいるみたいだなとか考えていると、死んだらどうなるのだろうかとか考えてしまった。
色々考え、悩み、苦しんだ。その結果、人は死んだらとりあえず概念となって終わりなのだという自論に辿り着いた。死んでも両親が存在したという事実は俺や弟に妹が覚えているだろう、そして二度と出会えない存在になったとしても、その名を貶めるような事はしないと――少なくとも俺は――誓っている。
だが、俺の死は? 弟や妹は流石に覚えているだろう、けれども――それだけだ。たぶん誰も悲しんだりはしないだろう、そしてその死を悼む人だっていない。なんて人生か、誰にも影響を与えられないままに死んでいく、生きていたということすら認識されない背景の人生。
――嫌だ。子供の頃は弟に頭の良さで比べられ、妹には幅広く誰にも好かれる人望で比べられ、じゃあ何が出来るのかを考えても勝るものが何も無かった。常に俺に向けられる視線は呆れ、そして表情は苦笑。それでもこいつにしかない良いところが有るさと父親に肩を叩かれた事も覚えている。
いつか、本当に認めてもらいたかった。こいつは、こういう所で優れているんですといわせたかった。なのに、積み重ねたリボンと線の数を見せる前に親は死んだ、認めてもらう前に消えてしまった。
「――それが、一番の心残りなのですね」
「……俺は、死んだっけかな」
何度か訪れた、死後の場所。女神のアーニャと対峙する形で椅子に腰掛けていた俺は、また死んだのかなとか考えていた。
「いえ、少し所用で全然サポートできなかったので、寝ている間に意識だけをここに――」
「それ、幽体離脱とか魂のみの肉体離脱って言って、生きてるように見えて死んでるんじゃ……」
「いっ、いえ! そんなはずありません! そんな訳、無いじゃないですか。大丈夫……ですよね?」
「それを自分に聞かれてもなあ」
「もっ、もし死んでたとしても生き返らせますから大丈夫です!」
凄いトンデモ理論が飛び出たものだ。死なないように対処します! とかじゃなくて、死んでも生き返らせます! なあたり、何の対策も取れてない事実が窺える。
まあ、新米って言ってたし、仕方が無いのかな。神様がそもそもでか過ぎて耳も遠いとか言ってたし、コレくらいユルくないと天使とかの連中も身が持たないのだろう。
「すみません。本来なら個人情報を全て読んでから、適切なサポートをするようにと言われていたのですが。それを教えてもらったのが先ほどでして……」
「おし、お前の上司を出せ。部下の教育は上司の義務だって文句言ってやる」
「それが、自分を教育した人は昨日付けで勤務先が変わりまして……」
なんて酷い。責任者をどこかにすっ飛ばす事で紛糾を誤魔化すつもりなのだろうか。文句を言いたいところだが、会社でもなんでもないので下手な事を言えば悲惨な結末になりそうだ。生意気だから次は団子虫にでもなってろとか言われたらどうしようもない。
「経歴を見たのですが、日本の軍隊に居たのですね」
「軍隊じゃ――はぁ――もういいよ、それで」
「? 軍隊とどう違うんでしょうか」
「その説明をするのに第二次世界大戦まで遡って説明したくない……」
何が悲しくて敗戦からの警察予備隊設立、数年後に保安隊に変更され、最終的に自衛隊になったということを”理解してもらう為に”国際情勢やら何やらを含めて説明しなきゃいけないのだろうか。
けれども、国外の認識も似たようなものだからもうなれたものだ。Japanese Self-Defence Forces、略してJSDF等と面倒くさい呼び方をしてくれる人なんて少ない。
少しゲンナリした俺を見て不思議がる女神のアーニャ。けれども弱々しく横へと首を振ったのを見て、問題ナシと見て話を続けた。
「えっと、高校卒業から直接日本のジエータイに入って五年間頑張ったと。
幾つか勲章を貰って、お仕事の方も良い評価をされていたみたいですね」
「――頑張る事しか能が無かったからな」
「昇進の為の訓練中に両親の死去、それと負傷で辞めると。なんか勿体無いですね」
アーニャが読み上げる簡単な経歴。そして両親の死と、負傷で当時の事を思い出した。通過率の低い陸曹の試験を通過し、陸曹教育――陸教に行くところまでは良かった。後は陸曹として訓練を乗り越え、曹になれば任期に悩む事無くずっと国や国民の為に働ける、国防という任務にずっと携わっていられると……少なくとも、誇ってもらえるだろうと思っていた。
しかし、伝えられた両親の死が自分自身をも殺した。失意の中で事故に会い、膝を壊してしまったのだ。陸上自衛隊、普通科と言えば走るのが仕事だ。装備を身に付け、平野、森林、市街地、山岳問わずにその足で進み、任務を達成しなければならないのに――。
親の死に目にも会えないと、入隊する時に言われた。そしてその事は承知していた。なのに、両親が亡くなることを――こんなに早く、居なくなってしまう事を全く想定していなかったのだ。
「……その話は止めよう」
「はっ!? す、すみません!」
「謝られてもなあ。話を進めよう。それで、何か有るのかな」
一度死に、世界ごと色々なものを捨てたとはいえ感情や記憶は俺のものだ。踏み込まれて泥のような何かが胸中にたまりこむが、それを目の前の彼女にぶつけた所で余計に惨めになるだけだ。
慌てている彼女が俺が怒ってないかを横目で見た、怒鳴られても縮まれるように若干身構えてさえも居る。
けれども俺は苦笑し、そして一つため息を吐いてから「怒っても仕方の無い事だし」と言うと、ようやく落ち着けたようだ。
「えっと、経歴を知っていたならもうちょっと要求した装備も使い慣れたもので揃えておいた方が良かったかもしれませんね……」
「あ、そうそう。結局さ、持ち出せなくて半分以上は隠してるんだよね。
大量に貰っといて悪いんだけど、持ち運びで困ってるんだよ」
「それなら、無属性の魔法の中に”ストレージ”というのがあるので、そちらを使っていただければ自由にモノを出し入れ出来ますよ」
マジか、そんな便利な事が出来るだなんて知らなかった。
「けど、俺は無の魔法を使えるのか?」
「一応全属性を最大ランクで使えるようにしてますが――言ってませんでしたっけ?」
「全くもって聞いてないな! よし、『ストレージ』!」
俺が魔法を使えるようになったというのは聞いていたが、それがどれくらいまでなら使えるか等の話は一切してなかった。なので喜んで”ストレージ”と唱えてみた。
すると自分のそばにディスプレイが有る訳でもないのに”ストレージ内部”という文字と枠組みで囲まれた空っぽの空間が現れた。その隣には自分が今見につけているもの一覧が出てくる、それを試しにフリックで移動させてみると、ストレージ内部に移動させた上着の名前が表示され、それと同時に自分が来ていた服が消失していた。
「わぁお、すっげ」
「貴方様にしか見えてないので盗難の恐れとかは無いですよ。
それに、同じ魔法を使える人同士ならこういうことだって出来ます!」
そう言ってアーニャが「『ストレージ』」と言い、なにやら操作をしていると俺のストレージの傍にもう一つストレージが出た。スッカスカな俺のストレージに並んで、同じようにスカスカのストレージ。名前が互いに表記されていた。
「同じ魔法が使えるのなら、このストレージ間で交換したり出来ます。それじゃ、今回はこれをどうぞ」
「ん?」
ポイッと自分のストレージに放り込まれた何かを見る。一度目のタップで選択、その何かの説明が表示がされる。その何かの名称は”女神からの加護”と書かれている、説明文は”使用するまで分かりません”となっていた。
「なに、これ」
「サポート外の出来事が起きてしまったので、プレゼントですっ!」
「人、それをアフターケアとか詫び石って言うんですが、それは」
「要らないのなら良いですよ?」
「要ります、要ります! わ~い、ナニカナー!?」
即座に服も着なおし、取り出して物質化する。其処にあったのはプレゼントを入れた箱のようなものだった。なんだろうとアーニャを見て、彼女が物凄くニコニコしているのを見て悪い物は入っていないだろうと開ける。
すると出てきたのは一冊の本で、表紙に『魔法指南書』と書かれているのに気がついた。
「――本を貰っても、結局夢から覚めれば無くなるんじゃ」
「そう言われると思いまして、ちゃんと対策してるんですよ!」
「あ、うん。へえ、そう?」
「興味無さそうです!?」
ショックを受けるアーニャ、新米だからかポンコツっぷりが目に見えてやばい。対策してあるんですよと誇られても、今までが後手後手過だったのがマイナス評価になってる。
下手したら落とし穴がありそうで、手放しで喜べなかった。
「くすんくすん……、確かにこのままだと持ち出せませんが、ストレージに入れれば概念のような存在になるので、ちゃんと起きてからストレージを見れば見つかりますよう……」
「って事は、何かプレゼントがあるときは夢の中で貰えば良いのか」
「その通りなんですよ! もし私がまた何かやらかした場合、全力で補償にあたりますから!」
「あ、失敗しないようにする努力じゃなくて、失敗した後でフォローする事をがんばるんだ……」
まあ、それでも何も無いよりはマシか。それに可愛いし、物腰柔らかいし、元気なドジっこと考えれば――多分許せる。
「指南書の中身って何?」
「無の魔法とか、ランクの高い魔法って使い手が少なく、しかも技術を秘匿したがるので使い方も分からないままだと思うんですよ。
けど! その本を読めば、魔法の習熟具合に応じて一定量ずつ使えるようになります!」
「あ、アイテムかな? スキル本かなにかかな?」
「それに、多分無の魔法は貴方様のいた世界で言う”ゲーム”に類似したものが多いと思うので、事実上失われた魔法にも近いんですよ?」
「伝説って言われるくらいの意味はあるんだなあ……」
そう言いながら本をぺらぺらとめくると、ゲームで聞くようなワードが多いこと多いこと。けれども、そうだな……。魔法の効果とかも事細かに書かれているし、ミラノから教えてもらったような詠唱が無いままに発動できるというのは大きい。パタムと本を閉ざしてストレージに放り込むと、後でゆっくり読もうとストレージも閉じた。
「そういえば、魔力の総量ってどうなってるんだろうか」
「とりあえず人として持てるだけ突っ込んだ感じですね!」
「わ~い、チートだ~」
「ですが、そうでもしないと転生した先で死んじゃう人が多いって言うんですよ。
だから人よりも強い身体! 強い武器! 深い知識! 特別な事をしなくても人気になる魅力!
こういったのをとりあえず突っ込んでおけばそうそう死なないだろうと聞きました」
「神様も大変なんだなあ……」
あの世での魂の洗浄って言うのも時間がかかるものなんだろうなあ、不備があると記憶とかが引き継がれてしまうとか言ってたし。それの回避策として記憶とかそのまんまに異世界に放り込んで自由に、有利に生きてもらった方が負担が少ないって言うのも理解が出来る。
とはいえ、そうやって生きていくと腐り果ててしまいそうなものだが。
「そういや、使い魔を送る時に連絡するって言ってたのに全く連絡無かったんだけど」
「えぇ? 私はちゃんと連絡しましたよう……。貴方様の分かる時間で言うなら、使い魔のゲートを潜ってから三十分後ぐらいにでしょうか。こう、こそそ~っと言いましたとも」
あの後三十分後だとしたら、多分意識が無かった間かもしれない。そもそもここに居る時間と現実世界との時間で流れが等しいとも限らない訳で、こうやって談話して帰ったら朝とかありうる。
「……で、その使い魔に何を仕込んだのかお兄さんに言ってごらん?」
「な、なんか私って信用されてないです?
基本的な言語能力と思考能力、それと貴方を基準にあの子の魂で魔法の調整をして、人になれるようにしただけですね。ある程度の知識とかもサービスしておきました!」
「何で鼻息ふんすふんすと得意げなんだ……」
人間味の強い女神だなとか思ってしまうけれども、もしかすると徳の高い人で亡くなってから女神職に就いたのかもしれない。女神職っていうのも、発想としては良く分からないが。
「……けど、多分貴方様は満たされないのでしょうね」
「――……、」
「だって、モテたいとか、有名になりたいとか、強くなりたいとか、そう言うのじゃなかったじゃないですか。ただご両親に認められたかっただけで」
「……親は、そういえばどうした?」
話題逸らしとも、自分にとっても気になる話題とも言える。どうなったのかを知れるというのであれば聞いておきたい話でも有った。
それに対してアーニャはにこりと微笑んだ。
「ご子息の事を、心配しておられました。けれども、不意に死ぬのもまた人生だと受け入れて去っていきましたね」
「――……、」
一瞬だけ、血が頭に上った。けれども目の前の無邪気な女神を見て、ここで喚き散らすのもみっともないと自制する。そして、頭に上った血が下りていくのと同時に虚しさや悲しさが勝った。死に対して抵抗を覚えなかった両親と、みっともなく生きながらえようとしている自分。生きてなお妄執の如く両親を想っている自分と、自分らが見ていなくても大丈夫だろうと笑って去っただろう両親の差に。
――そんな訳無いだろ。俺は両親の為に死ねなくて、両親は俺や弟、妹を想いながらも生き延びてまで心配しなきゃいけない相手じゃないと安らかに逝ったんだ。クッソ情けない、其処までご大層な人じゃないってのに……。
「死んだ者を取り返す方法があれば、戦争は終わるだろう」
「ほぇ?」
「死んだ人を取り戻せるのなら、多分狂ってしまわずに済んだ人も多かったんだろうな。
死は、二度とどうする事もできない溝や壁の向こうに色々なものを追いやってしまうんだからさ」
「誰もかもが、自分や身近な人の死を覚悟できてるわけじゃないと思いますよ」
「そりゃそうだ。だから、結局のところ自分の為にまだ死んで欲しくなかったって考えてる自分が、ただただ我侭で子供なんだよ」
誰かが悪いわけじゃない、自分が悪いのだ。自分の不出来を弟と妹が優れているからだと卑屈になり、立派な自分を見てもらうまで死んで欲しくなかったという我侭。
自分のような他人が他にいたらどうだっただろうかと考え、自分を客観視する事が出来なければどう行動するのかも想像できなかったので断念した。
「それでも、使い魔になったとはいえ恵まれすぎている。十二分に、何とかやっていけると思うよ」
「そうですか。もし何かしら不具合や悩める事があれば私にお話していただければ助けになれると思います」
「――了解」
「アニエス教会に行けば私に会えますよ。そこで祈りを捧げながら話しかければ、きっとお答えできます」
アニエス教会に行けば会えるという事は、石像か何かで存在しているということなのだろう。そこで手を組み、頭を垂れて祈りながら話しかければ良いと。まるで神様みたいだなと考えながら、彼女は一応女神だったなと思考が辿り着いた。
「話題を変えよう。ちと心苦しすぎる」
「そうですね。というわけで、お茶でも飲まれますか?」
「一気に現実臭くなったなあ……」
「少しでも色々しておかないと、前の自分を忘れてしまいますから」
そう言って彼女は指を鳴らす。すると目の前に机が現れ、その上にはお茶会の準備が済んだ様子でティーカップだのお菓子だのと色々存在する。過程を色々とすっ飛ばして完成品だけが目の前にあると、なんだか目の前の彼女がせっせとお菓子を作ったりお茶を準備する姿を見たいとも想った。
「前の自分、というのは?」
「私も以前は普通に生活していた人間でした。それが死んだ後にスカウトされて、こうやって女神をしているのです」
「神様方面に行く事もあるのか」
「基準は良く分からないですけどね~。忙しいですが、人の為に何かが出来るっていうのは良い事じゃないですか」
なんか、三途の川で石を積んでは崩されるという光景を想像してしまった。魂の洗浄と再利用システムがおっつかない限りは、こうやって延々と働き続けるのだろう。俺には耐えかねる行為だろうと思いながら、きっと彼女は性善説を信じて綺麗に生きたままに死んでいったのだろうと考えた。
住む世界が違うのだろうと思いながら、彼女の用意してくれた飲み物とお菓子に手を付ける。
「……美味しい」
「有難うございます。これでもだいぶ練習していたのですよ?
食べて欲しい方が居たのですが、結局告白も出来ないままに別れてしまったのですが」
「そっか――」
彼女の生前がどういうものかはあまり想像がつかない。けれども今のところ想像出来るのはドジでおっちょこちょいで、けれども真面目で性善説を信じてそうなほどに清らかなのだろうという事。
――其処まで考えて、まるで彼女が良い人であることを証明する証拠を必死になって探し、処女であることを求めてしまうようなオタクのような思考をしている自分に気がついた。そして、彼女が良い人であって欲しいという立場からくる思考をしている自分に苦笑した。
「お口に合わないでしょうか?」
「いや、美味しいよ。そう言えばお菓子とか、お茶を飲むのはいつぶりかなって思って」
「あまりそう言ったものを口にしてなかったんですか?」
「学生の頃ならいざ知らず、無職になってからはそんな贅沢しようとは思わなかったなあ」
遺産は、どういう取り分だったかは知らないけれども大目に貰った事は覚えている。
『兄貴が今一番必要なのが金だろ』
『兄さん、私は困ってないから』
等と言われた、その言葉だけがはっきりと耳にこびりついている。葬式を挙げたのは、除隊が決まってからだっけ。貯蓄はそれなりにあったはずで、弟よりもあったはずなのに――
気がつけば、片足を引きずらなければ歩けなかった。最近になってようやく痛みを我慢して普通に歩けるようになったぐらいだ。弟と妹に哀れまれたのだ、俺は。
そしてそんな二人に甘えて、落ちぶれた。
「――自分で調理した方が安上がりだし、収入が無い俺が金をまき散らかしても死ぬしかないだけだからな~」
「自炊の方が安いですよね~。それに好きな味付けにも出来るので」
「……なんか人間味濃すぎるな。差し障り無ければいつごろ逝去したか聞いても?」
「四年前に、事件に巻き込まれてですね~。銀行でお金を下ろそうとしてたら、気付いたら死んでました」
笑い事のように語るけれども、苦しんで死んだわけじゃない事ならせめてもの救いだろう。一番飛散なのは致命傷なのに死に切れてなくて、激痛と目に見える死期に泣き喚きながら死んでいくことだろう。
「……悪い、無神経だった」
「いえいえ、受け入れてるので大丈夫ですよ。確かに最初はポカンとしてしまいましたけど、納得がいかないから無かった事になんて出来ませんよ」
「それはどうして」
「そうやって、皆さんが生きてきたからです」
そんなに眩しい顔をされても、俺は直視できない。
けれども直ぐに彼女を直視して、そういえばと思い出した。
「肉体さ、強化を頼んでおいてなんだけど、どれくらい強くなってるの?」
「あまり強すぎても生活に困ると思ったので、普通の人よりも優れてるくらいに設定してますよ?
ただ、こう――」
そう言ってアーニャが何かごそごそとしていた。何をしているのだろうとぼんやりしていると、彼女が何かを出してきた。
それが何なのか認識するよりも先に、ただ脳が警告してくる。危ないぞと、痛い目にあうぞと。訓練でもこんなに集中した事がないというくらいに、時間が遅く感じた。そして彼女が出しているのがバターナイフだと言う事を理解しながらも、椅子ごと倒れこんだ。
「と、今のように危機が迫ったりするとアドレナリンに反応して時間が遅く感じられます。これで危ない時でも助かる可能性アップです!」
「今ので俺回避してなかったら、どうするつもりだったん!?」
「? 避けたから良いじゃありませんか」
――後先考えない子なのかもしれない。座りなおして、詳しい説明を求める事にした。
「アドレナリンが分泌されている状態になると、時間の流れが遅く感じられるということを聞きまして。じゃあアドレナリンが出ると言うことは危ない状況が多いということもあって、それで感じる時間の流れを遅くしてしまえばとっさにどうするかも考えられますよ!」
「まあ、確かにそれは一番必要そうな能力だな。これからどうなるか分からないし」
アドレナリンの分泌の一説として、”闘争か逃走か”の判断を迫られるような事態に陥っている時に分泌されやすいのだと言う。交感神経がどうのこうのという話を聞いたことがあるが、今となっては火事場のバカ力が出るようになるというフワフワした認識しか出来ていない。
それでも、ピンチになった時に意識して使えたら強いだろう。あれ、なんか最近のゲームに多いシステムのような気がしないでもないぞ?
「折角担当したのですから、生きて今度は満足した生を送ってもらいたいと思うんですが――おかしいですか?」
「他人想いな女神様でこっちは担当して貰えてるだけありがたいさ」
そう言うと同時、いつから其処にあったのか分からない目覚まし時計がけたたましく鳴り、それを聞いたアーニャが残念そうにした。
「そろそろお時間ですね。帰さないといつも起きる時間に間に合わなくなってしまいます」
「そういえば、アーニャは寝なくても良いのか?」
「大丈夫ですよ~。時間の流れは少し違うので、貴方様がここを出たらゆっくりと眠らせてもらいます」
なんて不公平な、俺は夢の中でも起き続けて相手は眠るだなんて……。
「それでは、またお会いしましょう!」
「だからって落下オチは嫌なんですがぁあああぁあああっ!!!!?」
そして俺は突如出来た穴に落下していった。そしてどれくらい落下し続けた分からない中で気がつけば、地べたで寝ていた自分に”戻って”いた。
……身体は寝ていたのに精神だけは疲れている、今日は辛い一日になりそうだなと思いながらも窓から差し込む薄ら光に嫌気が差した。それでも起きねばならぬ、やらねばならぬ。生きるという事は、そう言うことだった。