57話
――☆──
その後、マリーは大人しくしていた。ミラノが警戒し、毛嫌いし、意識している中でヤクモは皆を引き連れて出来る限り何も無い、なだらかな丘へと向かう。その理由として、今回手榴弾を使うのでその破片の効果を最大限防ぐ為であった。
そして公爵に頼んで、今回の演習で破損や修繕するには耐久度的に限界を迎えた装備を借り受けて、それらを馬に載せて移動する。道中、ミラノやアリア、アルバートは馬に乗って移動したが、それ以外の人物は徒歩で移動するという、何かが色々と異様な光景も存在した。
移動後、ヤクモは装備がどういうものかを大まかに説明する。拳銃、小銃、手榴弾。煙幕手榴弾、閃光手榴弾などと、当然言っても理解してもらえる物は殆ど無かった。それどころか、服装が地味な上に防弾チョッキを防具だと言った事でアルバートが噴き出す始末でもあった。
しかし、アルバートやミラノ達のノンビリとした穏やかな雰囲気は装備の展示説明や、実際の射撃や使用が進む毎に薄れていった。当然だろう、幾ら補修だの修繕で装甲の厚みに問題が出た代物とは言え、「弓より凄い」位の説明しか受けていなかったのだから、笑えるくらいに穴が出来るのを見て「防具に意味が無い」と言う事を理解したのだ。
そんな事をしておきながら「もう一つの六四小銃のほうが火力があって~」等と説明している、そちらも実際に射撃したヤクモだが、出来た穴の大きさが明らかに違うのだ。威力の大きさを理解して、それでもアルバートは連射に食い下がった。
矢を筒から出す、番えて引く、狙って放つ。そういった「手間」はどうなっているのかと訊ねられ、それもヤクモは説明する。今使っていた銃には切り替えが可能であり、単発で撃つ事もできれば、三発で制限して一回の射撃で弾が三発出るようにする事、引き金を引いている限り弾が無くなるまで撃ち続けることができるという事も伝える。
そして自分の格好で、弾嚢があり、そこに弾を篭めた弾倉を幾つか入れて置く事で、手間自体を少なくしてあると言う説明もされる。ヤクモは説明に少し苦労したが、それでも彼らに理解させる説明をし続けていた。
そして装備をそれぞれに説明し、ミラノ達だけではなく英雄達も表には出さないまでも驚いていた。彼らもまた、魔法や剣や槍、弓といったものが戦いの基礎だったのだ。ミラノ達のように「魔法とはステータス」といった考えは無いものの、それでも「魔法があると一人で何十、何百、何千人もの働きが出来る」という認識はあった。
それでも、彼らの中には確かな物があった。魔法に頼りすぎても魔法に対抗できる相手が居たら、魔法だけじゃ乗り切れない。武器に頼りすぎても、魔物の中には脂肪の厚さや皮膚の硬さなどといった身体的特徴に阻害されて勝てない相手が居ると。だからこそ魔法とは、手段であり、それらを使い分ける事で戦いを有利にする物だと思っていたのだが──。
目の前で、破壊が撒き散らされているのを見て、彼らは驚くしかなかった。投げて爆発を起す手榴弾だけではなく、そもそも”対人火器ではない”、装甲や障害向けの百十個人携行対戦車弾等も目の当たりにする。
そして説明されるのは「こういった装備を、大体皆が使える」と言う事であった。そしてアイアスは舌打ちする。一人でそこまでの破壊──否、戦果を挙げられるのであれば「そんな装備を沢山持った人が居れば、もっと簡単に勝てる」と言う事実を理解したからだ。
先日までの演習で得た効高揚が、一気に冷めて行くのを感じていた。綺麗に整えられた部隊、人の数や装備を見せ付けるように進軍してくる敵。”一見”と言うものが、圧力となって相手の軍への攻撃となる。兵士とて人間であり、怖気づいた兵士は士気が低く壊走しやすい。だから色々と考えなければならないのに──今目の前で見たものを、アイアスなりに置き換えて想像してみた。
オークのように人の力では致命傷が与えにくい脂肪を持つ敵や、ゴーレムといった魔法生命体のように鉱石だの岩だので身体が構成されていて物理的な手段では歯が立たない。インプだのハーピーだのと、弓や魔法でしか対抗できない場所に位置する敵だとか色々見てきた。けれども、その全てが粉砕され、破壊され、死んでいくのだ。ゴーレムを倒すためにマリーに援護を頼み、魔法を行使するために梅雨払いや安全の確保をしていた苦労が、一人で、しかも詠唱だの魔力だの関係無しに当てればおしまいである。そんな装備を全員がしていたなら、十倍の敵、百倍の敵であろうと兵士だけで大半がなぎ倒せたのだ。
アイアスはこみ上げてくる何かを、震える息を吐き出す事で誤魔化した。そして目の前で「ただの確認と、カティアを主に置いた装備への理解と、使用時の立ち回りへの要求」をしているヤクモを視界から外し、もはや無表情どころかどこか疲れきったかのように、気だるげで眠そうな表情をしたマリーへと眼を向けるアイアス。
「──マリー、ミラノに絡みすぎだ」
その一言で、マリーが我にかえったかのようにハッとする。そしてアイアスを見る事無く、目の前で行われている「彼にとっての当然、それ以外にとっては非常識な装備」の威力だの何だのから目を離す事はなかった。
「ほっといて。私は、あの子を見ているとイライラするの。何でも出来ると思って、けど自分から他人に関わっていかないで自己満足の世界に浸ってるような子を見ると」
「だとしても、今日のアレは言い過ぎだろ。良いか? 俺やお前も、あのミラノって嬢ちゃんも人だ。色々な違いは有れども、心臓が動いている、頭で考えている、んで制御の難しい”感情”って奴があるのは同じだ。当然、俺もな」
そう言いながら、アイアスはトントンと確認させ、意識させるようにマリーの胸、頭、へと人差し指を文字通り触れさせた。最後にそれらをひっくるめてというように円を中に描いたが、直ぐにマリーの足がアイアスの足を鋭く踏みつけた。それを痛がりながらも、アイアスは何とか耐える。
「お前のそれは、ただの自己嫌悪、同族嫌悪だ。お前は、遠まわしに自分を嫌悪しているんだ。
分かるな?」
「……そんな事無いわ」
「いいや、あるね。他人と関わるのを好かないお前が、あの嬢ちゃんにだけやたら絡んでるからな。
それに、お前が魔法使いとして成長した理由を知らないとは言わねえし、言わせねえ」
「それを言うのなら、貴方もそう。アルバートを物凄い苛めてるじゃない」
「けど、教えるべき事は教えているし、間違った事は間違ってると何度でも教え込んでる。
俺とお前の違いは、相手に利益があるかどうかだ。俺は意味が有るが、お前はどうだ?」
アイアスの問いに、マリーは黙り込んだ。そして何の回答も出せずに、彼女は少しばかり草臥れた三角帽子の唾を掴み、表情を隠すように引き下げた。
「──ええ、そうね。私は、ただ八つ当たりしてただけ。御免ね、アイアス。やっぱり、魔法意外はダメね、私」
「……ま、気にすんなって。ただ、あの坊がヤクモの坊が言った通り、変に突っかかるのは止めとけ。どうしても突っかかっちまうのなら、その分何か与えてやれや。
俺達は英雄かも知れない。けどな、そんなもんただの代表と言う意味でしかねえよ」
アイアスはそこで言葉を区切った。その意味を、マリーは理解している。自分達を信じてついて来た兵士や、支援してくれた人々の事を言っているのだ。彼女たちは、結果論で言うのであれば英雄である。けれども、その英雄と言う肩書きの下には生死問わずに多くの人たちがいるという事だ。生き延びた兵士も、死んだ兵士も彼らにとっては同じように「自分達を支えてくれた」と言う意味では同じなのだ。
アイアスの言葉で色々な言葉を思い出すアイアスとマリー。その途端に、目の前の光景が遠い物に思えてきたようであった。英雄達にとっては既に別世界のような場所であり、目の前でヤクモが色々な説明をして、アルバートが質問をしたり、グリムやロビンが好奇心で触りたがって大焦りしていたり、ミラノやアリアの言葉に至極全うに彼なりに答えを出していたりと──言ってしまえば”平和な光景”なのだ。
今この瞬間にも襲撃される危険性も無い、命どころか人類と言う種の存亡を背負った戦いに身を投じているわけでもない、荒廃した荒れ地じゃ無くて自然一杯で、彼らにして見れば欠伸の出そうなくらい平和な一時。
「なあ、マリー」
アイアスが、少しばかり困ったような声を出した。それに対してマリーは「なに?」と短く、素っ気無く返す。
「もしこの召喚が無意味で、ただ無意味に終わるなら──どうしたい?」
「なにそれ。もう未来の話?」
「まあ落ち着けよ。人類の危機が無かった場合、或いは問題なく人類の危機を乗り越えた場合……俺達はその役目を終える。
ただ、その場で消えるのか、それとも契約破棄されてようやく消えるのかは分からないんだが。もし、仮にだ。全てが終わっても生きていけるのなら、どうしたい?」
「──そうね。その仮定には、多分に憶測や推測、情報不足や認識不足で、言うのも馬鹿らしい”もしも”の話になるけど、それでも良いかしら」
「あぁ」
「……今度は間違えない。遅すぎるかもしれないけど、素直に生きてみたい」
その一言に、どれほどの意味が有ったのだろう。けれども、遠まわしにその言葉の意味を理解したアイアスは「そっか」と言って、マリーの頭を帽子ごと鷲掴みにするようにしてワシワシと撫でた。
「わわ──」
「なら、もちっと頑張らねえとな。お互い、な」
そう言って、アイアスはマリーから離れた。そして彼も輪に加わるように歩いていった、ただ肩越しに手を振っているのは、言葉にしないけれども「頑張れ」とも「待ってる」とも言っているように見えて、マリーは少しだけ苦笑した。
「もう……。けど、そうね……」
マリーはアイアスのように輪には加わらず、魔道書を取り出して指をぱちりと鳴らすと土から精錬されて出来た椅子に腰掛けた。そして魔道書を暫く眺めていたが、ため息を吐いてから閉じてその表紙を撫でた。世界に一冊だけの、自分だけの、自分で作った、今の魔法使い達が垂涎物の知識と技術で作られた一冊。
その隅っこにかつての皆の名前が書かれていたが、その中に存在する掠れた場所にDと言う文字だけが辛うじて残っていた。その文字を見てマリーは悲しくなり、遠くで楽しそうな皆を見てからゆっくりと目蓋を閉ざした。目蓋の裏で、幾つも遠い日の記憶を思い返すマリー。けれども、楽しい事が有れば有るほどに、辛さが彼女の中では影を落とした。
あの時ああしていれば、良かったのでは、こうしていればもっと良かったのではと、後悔が渦巻いていく。そして後悔が渦巻くと、全身に刻み込んだ刻印の意味が実は違うものなのだとマリーは思った。
それは全身を縛る鎖でもあり、亡くなった人達の存在を刻み込んだ墓標でもあり、自分の過ちの全てを忘れないようにと刻み込んだ記録でもあり、自分が自分であるという証拠でも有るのだから。
だから彼女は眠る、目蓋の裏で遠い遠い過去の記憶。
──お前にゃ、ついてけねーよ──
全ての過ちでもあり、全ての始まりでもある出来事。一人の男が、荷物を纏めて出て行く光景が映っている。まだ魔法使いとして未熟で、アイアスやヘラ、ロビンとのやり取りのような最低限の会話ですらぎこちなかった頃の光景。
彼女には恋心も何も無かった頃に、傍に居るのが当たり前だと思っていた相手だった。しかし、歳を重ねて家や身分を重視するようになり、意見ややり方の相違が顕著になった。その結果、男は荷物を纏めて出て行った。それだけの、何処にでもある安い話なのだ。
そんな男の、死を目の当たりにした。それですら遠い記憶で、そこまで思い出したマリーは眠りへと落ちる。そう、彼女にとって平和も、楽しい時間も遠い日の中で止まったままだった。そして彼女もまた眠りと言う停滞の中へと沈んでいく。まだ、アイアスほどに現実に出すら馴染めていないのだから。
――☆──
装備の展示説明が全て終わり、座学に入ってからは時間を大分食った。理由としては単純に、アイアスやロビン、アルバートやミラノ等と言った本来居ないはずの客がいるからだ。カティアとは「この武器を使っているときは、こういう行動をするから、こうして欲しい」等と言ったことをとりあえず学んで欲しかったのに、それ以外の質問が飛んでくるからだ。
アルバートは「これでどれくらいの敵が倒せるのか」と言う事を聞いてきたし、アイアスは「どういった時にそれぞれの武器を用いると効果的なのか」を聞いてきた。グリムは「全員がこれを持つの?」と言う素朴な疑問点を訊ねてきたし、ロビンは……「ずっとそのかっこ?」と、色々な物を粉砕しそうな疑問を投げかけてきた。
当然、装備に関しては学んできたとおりの事しか答えられない。それぞれに答えられる範囲で回答をして、英雄たちはどうかは分からないけれども傍に居る事が多いだろうアルバート達には適切な知識を与えておかないと後々困るという判断も出来た。
何だかんだと時間を使ってから小腹が空いたのを自覚し、意識せずにシステム画面を確認した。一刻──いや、二時間は普通に過ぎ去っていた。普段ならおやつだのお茶だのと騒がしい時間でもあった。
「──装備はもう使わないから戻ろう。勉強会なら部屋でも出来るし、と言うかまた後日と言うことで」
「──何で?」
「武器は手入れして、整備するもの。それをやりたいんだけれども、この銃の整備中に事故が起きたらもう使えない。しかもその為に臭いのキツい油を使わなきゃいけないし、服についたら当然落ちない。俺は戦力が下がるし、そっちは大事な服装が臭くなる上に落ちない汚れがつきかねない。
因みに早めに整備しないと、武器自体がダメになるから後回しも無しで」
そう説明すると分かってくれたようで、ミラノ達も特に色々と言っては来なかった。ただ、まあ、あんなに大爆発だの破壊だのを目の当たりにして平常で居られるかと言われれば疑問だろう。ミラノ達はまだ「魔法とは、杖が必須で詠唱と言う時間を必要していて、魔力の総量などによって行使できる魔法に違いがある」と言う段階だ。けれども、俺の持つ武器は「品質、整備度合い、使い手の技量」に多少縁るけれども、基本的にもたらす効果自体は一定して安定しているのだ。
魔法と違って弾に限りがある事も説明したが、俺が貰った武器の一つは可変式で魔力を弾丸にすることに対応している。まだ使い勝手を良く理解していないし、性能の差も分からないけれども、魔法と変わらずに「魔力がある限り、あの破壊を撒き散らせる」と言う事だ。
じゃあ、武器を奪えば良いのではと言う話になったが、最近徐々に魔法を理解しているので、手榴弾と同等かそれ以上の爆発程度なら起せると言う事にしておいた。実際には周囲の建築物を巻き添えにいくらか半壊させたくらいの自縛アタックであったが、あまり過大評価しすぎても意味が無い。
屋敷に戻ってからは、目論見どおりになった。ミラノ達はそれぞれに散っていき、英雄達もそれぞれに帰っていった。ただ、マリーはどうやら今日公爵と色々話をする予定だったのを後回しにしたツケが来たらしい。クラインが発見し、マリーに対して色々言っていたが、マリーが結局項垂れて連れて行かれた。観念でもしたのだろうか? まあ、俺にはどうすることも出来ない話なのだが。
そして部屋に戻り、廃油と油差の両方とウエス、ブラシや銃口通し等々を全て用意して、今日使った装備の整備に入った。確か、係陸曹の教えでは「三日」だったはずだ。整備時間がどれくらい関係しているかは分からないが、段で考えるのなら一時間半ばを使用したほうが良い。ダラダラやれという意味ではないので、その時間でとりあえずは拳銃、MINIMI、六四と八九の四丁を整備しなければならない。
出来るかなと思ったが、当然の如く出来そうになかった。当たり前だ、そもそもMINIMIの整備が入っている時点でダメなのだ。六四と八九に関しては、一年で触れない月が無いと言えるほどに触れてきている。分解一分未満、結合一分ちょっとでいける。これぞまさしく歩兵の武器である、なお今回は銃剣は腰に下げていただけの模様。
銃整備の時間は、実に楽しい。射撃と同じで、自分にも取り得が有ることを実感できるのだから。理解してもらえないが、射撃のコツの大部分が”カン”なのだ。ゲームで大部分を見てきたので、それを真似しましたと言っても、多分理解されないだろうが。
新隊員教育に行き、班付や班長として経験をしていたならば色々違ったのだろうが、残念ながら俺はそういったものには参加していない。どこか人として、或いは自衛官として問題があったのだろう。もしくは、単純にその時期の部隊の行動と適正で他に回されただけなのか。大型車両の運転とかは滅茶苦茶楽しかったが、残念な事に免許を取得するだけして早い段階で陸曹教に行き、そのままドロップアウトして除隊したので公式に運転した事はない。
自分も車を持とうと思った事はないし、バイクもゲーム内部で運転する方が自由で好きだったので──父親のバイクが、寂しく玄関先でカバーを被って、時折メンテされるくらいであったが。
「──さて、頑張りますかねえ」
雑毛布の上、胡坐をかいて座りながら、整備の続きをする事にした。服が大分硝煙や火薬の臭いがするが、それですら懐かしいと思った。
~ ☆ ~
ヤクモが整備で鼻歌を呑気に口ずさんでいる中、ミラノ達は幾らか落ち着きを見せていた。魔法とは違うもの……ヤクモに言わせると”カガク”と言うものらしいけれども、その全てが彼女達からして見れば見知らぬものであり、そして──ある意味脅威であった。
「しかし、何故あ奴はあれほどの装備を持ちながら……その、なんだ、何故普段は”ああ”なんだ?
少しは力を誇示するとか、或いは──別の道も有っただろうに」
アルバートの部屋の中に全員が集っていた。そのままミラノやアリアはそれぞれの部屋に戻ろうとしていたのだが、そんな二人をアルバートが呼び止めたのだ。庇ってもらった事も有るし、そして何よりも──やはり、今日の出来事で気になる事が幾つか出てきたからだ。
その事を告げると、ミラノもアリアも素直についてきた。アルバートも普段であれば自分がとんでもなく”勇気のあること”をしているのに気づいただろうが、今回はそんな事にすら気が回っていなかった。
カティアも整備作業に加われない事を悟り、客人として部屋に招かれている。全てはグリムが執り行っており、お茶の振る舞いや居場所を整える事など普段の彼女からして見れば大忙しに見えただろう。
グリムはグリムで、長年一緒に居た仕えるべき相手が人を招くという珍しい出来事に少しばかり驚きを隠せずに居たが、それも話題の内容で理解と納得をした。
「それは、私に喧嘩を売ってるのかしら?」
「いや、だが、そうではないか? あんな……装備を持っていて、戦いにも精通している。魔法も使えて、それこそ”ありえない”という言葉でしか表現できぬぞ。
確かに、以前であれば使い魔と主人と言う絶対的に逆らえない繋がりがあった。けれども、今はそうでは無いのであろう? それでこそ、今日だってそうで、これまでもそうであった。体調を崩していても、とりあえずは口先で非難はするが暫くは付き合ってくれる、それに……そうしようと思えば、我等を脅す事も出来たのだ」
「──私達を脅しても、そんなの知れたら大事ね。アルバート、大丈夫?」
「ミラノの方こそ、なぜそんなに安穏としていられる? 学園では、我等は家とは切り離されているようなものだ。あの場で我らが脅されても、それを知らせる手段が無い。しかも壁など意味が無い、どんなに大勢が居ようとも薙ぎ倒される。
魔法であれば、この学園の服で多少は防げるだろうが……アレは、そうではないではないか」
アルバートは、不可解で板ばさみになっていた。恐ろしさを抱き、もしあんな物を自分に使われたならどうなるかを想像し、震えた。そこまで考えると、連鎖的に自分が何をしてきたのかを考えてしまったのだ。まだ英雄ではなく、ただの使い魔だったときには食事を蹴飛ばし、決闘に見せかけたただの私刑を行い、願い出たとは言え訓練内容にケチさえつけているのだ。一応ワインを提供したりしてはいるが、彼にとっての利益はそれしかない。
だが、そこまで考えてから、理解できない事があった。もしその気があれば、その技術や武器、装備などで色々と出来たに違いない。アレでさえほんの一握りだとすれば、アルバートにも思いつかない手段や方法が色々有るだろうと考えた。だが、今日と言う今日までその素振りを見せなかったのだ。怒る事もせず、かと言って忍耐しているようにも見えずに。
「……アルバート、もしかして、怖いの?」
「ではミラノ。逆に訊ねるが、貴様は怖くないのか?」
「そうね。怖くないと言ったら、嘘になるわ。私も、色々として来た訳だし」
ミラノはミラノで、使い魔の時は床で何も無しに眠らせ、食事は床で残飯のような物を食べさせてきた。それどころか使い魔じゃ無くなってからは徐々にではあるが行為が過激化し、殴る蹴るの暴行を加えている事をも思い出す。
無知で無教養な相手だと思って、それなりに失礼な事や物言いもしてきた。字が読めないし書けないと言ってはいたが、そもそも”違う場所に居た”と言うのが、彼女の知っている範囲の場所ではないという事も考えなかったのだ。
字が読めない、無教養な人物かと思っていたが──そうではなかったのだ。ただ違う言語を知り、違う文字を使うだけで教養がない訳でも、無知で無辜な民ではなかった。学が幾らかあり、彼女達の知らない事を──空間だとか、振動だとか、そういった”訳の分からない事”を当たり前のように知っている。
そうやって色々な事が分かってくると、今度は懸念が生じたのだ。「もしかすると、どこかの国の、どこかの国で”良いご身分”の家柄だったのではないか」と。歴史が失われ、世界と言う物は周辺国しか存在しない。ミラノやアルバート達も、世界がどうなっているかなんて多少は齧っている。しかし、それは家に保管されているような周辺国までの地図や、特定の場所まではそれらしく描かれた物でしかない。つまり、公爵たちと何ら変わらないのだ。
「──もしかすると、家柄が良い」
「それは……」
グリムの一言で、考えはしていたけれども個人で考えているから考えないようにもしていたし、疑念でしかなかった。けれども、他人も同じような考えに到ると言う事は、ミラノにも断じて違うと言い切れる程に何かを知っている訳じゃなかった。
「──かも」
「……まあ、そこまで大きな家じゃない事は確かね」
「ほう、何故そう言い切れるのだ?」
「男なのに料理が好きで、兵を従えるのではなく兵としての経験が多そうだったから、かしら」
「だがミラノ、ツアル皇国出身の奴らと名が近い事も踏まえるとあまりそうとも言い切れぬのではないか?
あそこでは兵を従えて後ろで構える奴の方が少ないと聞く。兵を従えつつも、本人も前に出るのだそうだ。地位にもよるだろうが兵との接触は、此方に比べると多い方だと思うぞ。その一環として兵と同じ飯を食う事が多く、その結果料理に拘りだしたという可能性もある。
それに、あそこでは家柄や身分は此方ほど重視されぬと聞く。確かに、魔法が使えるものとそうではない者の差は大きいらしいが、それでも実力が有り有能であれば兵を率いる立場にもなれるのであろう?」
「──そういえば、ツアル皇国に似た場所だって言ってたかしらね」
かつてそんな事を言っていたかなと、ミラノは思い出した。そう考えると、学園では大分落ちこぼれの部類に入る二人と、親しげにしているのも納得出来るかなと考える。実際に文化や在り方等がそれぞれ近い物があり、謙遜や身分や地位をそこまで感じさせないという点で三人は出会いから良かった。
その事を思い出したが、それでも疑念は尽きなかった。
「けど、似てるって……じゃあ何処?」
「む、確かに……」
「ツアル皇国であのような武器はありませんでした……よね?」
「──ん、聞いてない」
ヴォルフェンシュタイン家、ヴァレリオ家を支える彼女達の家は情報収集にも長けている。家の足しになるのであれば、他国の情報も取り入れ、様々な事態に対処できるようにしている。当然、他国の動きや他家の動きにも気を払っているが、そのヴォルフェンシュタイン家にもヤクモが使った武器の事は引っかかっていない。
「──それに、アイアスたちも知らなさそーだった」
「となると、その時代の物でもないと言う訳だな」
「……アルバート、論点がずれてる。アイツが信じられるかどうかと言うのに、場所も国も関係ないでしょ。それに、確かに色々分からない事は有るけど、それだったら無意味に人を助けたり、私達を助けたり、兄さまを病気から治してくれたりする理由が……見当たらないでしょ?」
「それは、見返りを求め──いや、そうではない、か」
「ええ、そうでしょ?」
アルバートは、ヤクモが恩を売る事で利益を得ようとしたのではないかと言おうとしたが、それを口にしかけて自分から否定する。見返りを求めるのであれば、それらしい事を言っているだろうし、そもそも英雄として祭り上げられた時点で何かしらの反応を見せているはず。けれども、彼は式典ですら「肩が凝るし面倒」と言い、英雄という肩書きですら「邪魔臭い」といっている。一代限りの爵位ではあるが騎士になったのに、それに関してもあまり興味を示さなかった。爵位も持たない、素性の知れぬ相手に仮初とは言え騎士になる機会なんて、そう多くはないというのにだ。
じゃあ金が欲しいのかと言えばそうでもなく、ただただ「目の前で人が困っていたら、出来る事をしようと思っただけ」だと言っている。その結果、彼女達の価値観からして見れば”理解不能”という回答にしか行き着かなかった。
「──ミラノ、だが……危険だ。信じすぎると、痛い目を見る」
「ええ、そうね」
「目的も、考えも分からない以上、警戒したほうが良いやも知れぬ」
「なら、貴方もアイツの見返りの無い、訓練や稽古から手を引きなさい。
言いたい事は分かる、その危険性もね。けど……何と無く、思うの」
「……なにをだ」
「アイツは、生まれや育ち、経緯や環境は違うかもしれないけど……兄さまに似てるの。
頭がおかしいって言われても、仕方が無いだろうし、笑われてもしかたがないだろうけど──」
そう言って、ミラノは──苦笑を見せた。ただ、その笑みは学園で見るような飾った物ではなく、歳相応で、本当に笑っていたのだ。自分でもおかしいと分かっている、けれども仕方が無いといった様子で。
アルバートはそんなミラノの表情を見て、即座に顔を背け咳払いを数度繰り返した。カティアはピクリと反応したが、笑みを隠すようにお茶を飲む。ミラノから背けた顔が、幾らか赤くなっているのを見てしまったからであった。
「……信じている、と言うことか?」
「ええ。何だかね、私達が悩むのが馬鹿らしいほど、実はあんまり意味は無いのかも知れない。
だって、兄さまに似てるって考えたら、考え方も一緒なんじゃないかと考えると、全部すんなりするもの」
「ふっ、確かに……そうであったな」
引き合いに出されたクラインだが、その時くしゃみをヤクモも同時にしていた。遠まわしに侮辱されたのだが、そう感じさせなかった。クラインは姫に引き連れられて外出した先で魔物から彼女を守った、そして誘拐されたミラノを救う為に単身で乗り込んでいったり等している。自分より身分の高い人を守るのは当然だとか、家族が攫われて助けるのは家族愛だとか説明できただろうが、そのどちらでもクラインは利益らしい利益を受けては居ない。アルバートも、そういった武勇譚は兄経由で聞かされていたので知っていたし、それでも学園に入ってからの数年ですっかり遠い記憶になっていたのだが……。
「──顧みず、誰かの為に行動する。なるほどな」
「ま、だからこそアルバートも理解してるでしょう? 知らない場所で勝手に大怪我をして返って来るんだから。疑うよりも、むしろしんぱ──じゃなかった、世話が焼けるの」
「ふふ……違いない。あ奴め、休みに入ってから大怪我で死に掛けるとはな。不幸なのか、それとも生き延びるほどに悪運が強いのか分からぬ」
「だから、ほら。バカなのよ、バカ」
「あぁ、確かにバカだ!」
そう言ってからアルバートは、何と無く合点が言ったかのように笑い出した。ククと、忍び笑いでは有ったが、バカと言う二文字の言葉がしっくり来るのだ。爵位を面倒がるバカ、英雄扱いされても面倒だと思うバカ、謝礼を求めぬバカ、であるにも拘らず人助けを当然だと思って大怪我するバカ。
そう、バカなのだ。ストンと疑問が落ち込んで、納得できた事で更に笑いが深まったアルバートは笑いが止まらないようであった。そんなアルバートを見ていて、ミラノもなんだか笑みが浮かんだ。
「ええ、バカなのよ」
「そうだ、バカに違いない。あんな……あんなバカ、見た事が無い!」
「そうね、見たことの無いバカね」
「クク、だな。バカだ、あれは」
「……宜しいかしら、皆様? 私が居る事を、お忘れなのかしら?」
カティアが流石に抗議の声を上げた。たとえ悪い意味には取れなくても、バカと連呼され笑われる自分の主人の事に絶えられなかったのだろう。ミラノは「ごめんなさい」と謝罪し、笑いをこらえようとした。しかしアルバートだけは聞こえなかったように笑い続けたので、ついには光球を横っ面に喰らって黙らされた。グリムはそんな自分の仕える相手を見ていたが、少しばかり首を傾げて頷いていた。どうやら彼女的には、カティアが少しばかり怒ってアルバートを黙らせる為に行使した今の行動は納得の範囲だったのだろう。実際には身分的にはアウトなのだが、アルバート自身がそこを気にしていないのでグリムも気にしないことにしていた。
「すっ、済まぬカティア。けっ、決して馬鹿にしたわけではないぞ? 本当だぞ!?」
「誠意には誠意で答えると仰っていたアルバート様らしくないですわね。
謝罪であれば、謝意をしめすのが筋ではないかしら?」
「あ、う、うむ。そう、だな……。こっ、今度甘味でも持っていくので、それで許せ……」
「ええ。けど、そうね……ご主人様の分も貰って良いかしら? まさか、器の小さな事は仰いませんわよね?」
「とっ、当然だ! ヤクモと二人──そうだな、部屋に招いて歓待してやろうではないか!」
「お招きいただき、感謝しますわアルバート様」
そしてアルバートはカティアに怯え、その上、上手く言い包められてお詫びの提供をさせられていた。今日の出来事でヤクモに対する認識が変化し、物凄く強い奴なのではと考え出したが、カティアに関しては以前からアルバートは畏怖していた。それは、それほどまでに強い相手を普通に足蹴にして吹き飛ばしていると言う事実を、学園内部で何度も目にしているからだ。
小さな体躯から繰り出される蹴りだけで、多少武に精通しているらしいヤクモが目の前で浮かされて地面を滑っていく。そんな光景を目の当たりにしていれば怯えても仕方の無い話で、そんな力を向けられた日には満足に歩けるかどうかも疑わしいと思えたのだ。
遠まわしに収益を得て喜んでいるカティアを他所に、アリアは少しだけ呆けていたが。咳き込むと彼女はブルリと震えた。
「──姉さん。私、ちょっと調子が悪いみたい」
「あ、そう……。大丈夫? 部屋まで戻れる?」
「うん、大丈夫」
「カティ、悪いんだけど、アリアをお願いできる?」
「ええ、大丈夫ですわ」
「御免ね、姉さん」
「良いのよ。最近が調子良すぎただけだもの」
カティアに支えられ、アリアが部屋を出て行く。今まで静かだったのだが、もしかすると体調が少し優れないのを隠していたのかもしれない。そう考えて、ミラノは少しばかりため息を吐いた。
「──アリアの体調は、良くならないのだな」
「えぇ、昔からね。身体が弱かったから、風に当るだけでも風邪を引いてしまったりしたもの。
良くはなってきたんだけど、時々、ね」
「ふむ、そうか。難儀よな」
ウムウムと、アルバートは腕を組んで頷いていた。アリアの身体が弱いのは有名な話で、魔法の詠唱も長文の物になると、どうしても咳き込んでしまって詠唱しきれないと言う事で魔法使いとしては見下されているのだ。それに、比較対象としてミラノが存在しているので、勉学にも優れている彼女が大きく見えてしまい、結果としてアリアは学園において「魔法使いとして致命的な欠陥がある」と認識されているのであった。
アルバートはそもそも「凄くなりたい!」と言うことしか考えていなかった上に、ミラノの事しか見ていなかったのでアリアの事を色眼鏡で見ることは無く、グリムも同じように「ヴァレリオ家と交流が深いデルブルグ家の娘」と言う事を確りと認識しているからそういった事を考えたりもしなかった。
なので、ミラノは今までは「父親の友人である公爵家の三男」としかアルバートを見ていなかったのだが、腕を組んで頷いているアルバートを見て少しばかり認識が変わる。アルバートといえば、尊大で弱い物虐めをしているという人物像ではあったが、ヤクモを経由して関わるようになってから色々な面に触れることが出来るようになったのだ。相手が下であろうとも、実力が優れていれば頭を下げて教えを請う事が出来るとか、恩や忠節には報いる性質をしているとか、時折素直に他人の辛さに同情する事などだ。
そもそも、去年までであれば互いに相手の部屋に入ると言う事なんて無かった話で。交流はあるはずなのに、それが上辺だけでしかなかったとミラノは気づいた。その裏にはやはりクラインを死んだ物として、家の為に優秀な旦那を迎え入れなければならない役割を負う物として、脇目を見る余裕が無いくらいに突っ走ってきたからという理由もあるのだが。
「アルバートって、優しいのね」
「ぶふっ!? ななな、何をいきなり!?」
「──おぉ」
ミラノが思ったことをそのまま口にし、アルバートが大慌てし、グリムが思っても居なかった展開に驚く。アルバートがミラノを好いている事をグリムは知っていたが、その想い人が初めてアルバートに対して好意的な評価をしたのだ。社交辞令でも何でもなく、素の彼女として。グリムですら驚きを隠せなかった、理由が何なのかは分からないけれども自分の仕える主人の恋が一歩進んだのではないかと考えた。
「だってアルバート、アリアの心配してくれてるし、変な風に見てないし」
「へへ、変な風に見るものか! ただ……辛そうな所を見たらこちらも辛くなる、そういうものではないか?」
ミラノとアルバートで齟齬が生じていたが、それを知るものは誰も居なかった。そしてミラノはただアルバートの言った言葉を素直に受け取る。
「──なら、やっぱり優しいと思う。今まではアイツが何で貴方と上手く付き合えてるのか不思議だったけど、今何と無く分かった」
「む? 何故だ?」
「アイツもアルバートも、弱い人の目線を持ってるからだと思う。グリムに時々褒美を与えたり、世話になってるアイツに礼をしたり、今みたいにアリアが辛そうにしてるのを見て『辛そうだなあ』って言えるのは、少なくとも──そう多くなかったんじゃないかしら」
「む……」
弱い人の目線といわれ、アルバートは少しばかり突き刺さるものがあったが──けれどもヤクモと似ていると言われて、その痛みは直ぐに消えた。かつて街中で襲撃を受け、兵士達が死んでいった中で生き延び、教師のメイフェンに助けられて避難所に連れて行かれたときの事を思い出す。
あの時、アルバートは混乱と興奮の中に居た。自分の状態が把握できず、ただただ初めての実戦に対して喚く事でしか自分が普通じゃない事を示せなかった。しかし、ヤクモはあの時アルバートを落ち着かせてくれた。強い語気でもなく、かといって放置する事も無く、理解者のように。
『力を抜け、大きく息を吸え。それと──周囲を見るんだ。首じゃなくて、目も使って。
ほら、何が見える?』
『──人、だ。多くの、人』
『ここは、戦場か?』
『いや……』
『──腹は、減ったか?』
『ああ、減った、な……』
『じゃあ、座って待ってろ。何か探してくるから』
決して笑う事無く、そしてあの時の事を一切後にも触れたりはしなかった。あの場において、アルバートは身分や立場を忘れ、死ぬか生きるかでしか物事が考えられないほどになっていた。その取り乱した所を、宥めるようにして落ち着かせたのだ。
ミラノは少しばかり考え、あの時取り乱していないのが自分で、アルバートのように混乱して興奮状態にヤクモがなっていたら如何しただろうかと考えて、直ぐに自分が如何するかに思い至る。叱責し、しっかりしろと怒鳴りつけて、苛立っていただろうと。
「──否。我はあ奴ほど……」
「けど、ヤクモにお酒あげたりしてたでしょ? カティから聞いてるんだから。
そういった事が出来るなら、無じゃない、有でしょう?」
そう言われ、アルバートはどうして良いか分からなかった。好きな相手に、良い印象を持ってもらえているという事実と、褒められると言う事に不慣れすぎて戸惑う事しかできなかったのだ。だからと言って考え込むと顔が赤面していくのを自覚してしまい、どうしようもなかったので先ほどからにしたはずのカップを口へと運んだ。
本来であれば何も入っていないはずなのだが、二つの意味でアルバートは失敗する。空であればただの間抜けを晒した事になるが、その部屋がアルバートの部屋であり従者のグリムが部屋に居る事を失念していたのだ。
主人のカップが空になれば、そっと新たに注ぐのがグリムの役目であり、忠実にそうしていた。その結果、少しばかり人の舌に触れさせるには高温なお茶が勢いよく口内へと流れ込む。
「ぶほぁっ!?」
当然、自然な反応として熱さに驚いたアルバートの身体が拒絶反応を起す。熱い物に触れたときに手が引っ込むように、口の中の物を吐き出すという愚挙を行ったのであった。その結果、被害者は居ないのだが貸し与えられている部屋を汚すという事をしてしまい、ミラノに壮絶な白眼視をされる事になる。
アリアを部屋へと送り届けたカティアが戻ってきて、盛大にため息を吐きながら頭を抱えているミラノにメイドを呼んできた時も、アルバートは舌の火傷に悶え苦しんでいる最中だった。
~ ☆ ~
「──なんだろ、風邪かな?」
寒くないはずなのにくしゃみが出てしまい、俺は鼻をすすった。鼻水は出てないし、汗ばんでもいないので寒気からくる物じゃないだろう。廃油の臭いに鼻をやられたのだろうか? そう考えながら、遠くの部屋で聞こえる「ぶほぁっ!?」という声に、何事だろうかと思いながらもMINIMIの結合を終えた。
銃をとりあえず”トコロテン”状態にして、一日目の整備を終える。射撃をすると煤がこびりつき、それによって性能が下がり、最悪の場合動作不良や暴発を起しかねないからだ。最低二日、通常なら三日はかけろと武器陸曹に口酸っぱく言われてきているので、その教えを忘れないようにする。
たとえ大量に銃や弾薬を付与されたとしても、それで消費する事に慣れてしまうのではなく常日頃から物品愛護の精神を持っておきたい。物を大事にすると言う事から、他人への接し方にも関わってくるだろうし、それこそ評価にも繋がるだろうから手を抜けない。そうでなくともこれから命を預けていくのだ、何十、何百、何千、何万とある銃の中のたった一丁であっても、どれも等しく大事にしたい。
そういえば先ほど馬の嘶きやクラインたちの声が聞こえたから、乗馬の訓練にでも向かったのかも知れない。大分時間を使ったなと腕時計を見ると既に五時を回っていた、夕食まで時間があまり無い。
部隊に居たら既に課業終了時刻を回っている、中退毎に集合して「ご苦労さん」という中隊長の声に「オス!」と言っていただろう。その後動隊板を見に行っていたのだろうが、今じゃそんな事も無いのが寂しい。
整備に区切りがついたので一息つき、自然と右腕に触れていた。そこには陸士長の階級章が縫われており、それが俺の最終階級を現している。任期隊員とも言うが、俺が居た時は四年位で除隊、理由があれば六年は居られた。結婚をしていない俺は隊舎に済んでいたが、タコ部屋生活は楽しかった物だ。
そういえば、アイロンをどうしようか考えて居なかった。流石に電気アイロンのような物は無いだろうし、日本だと……炭火、アイロン……だったか? それに類似する物がある事を祈るしかない。
銃をストレージに叩き込もうかと思ったが、あそこに入れてしまうと時間経過と言う概念から切り離されてしまい、トコロテンと言う所謂油塗れの状態にしておく事で煤を浮かせる事ができなくなってしまう。仕方が無いので部屋の隅に脚を立てて置き、絶対に触れられないようにするしかない。とりあえず雑毛布を被せておき、触れるのを禁止とした。本来は銃架に格納して取り出せないように保管した上で武器庫そのものを施錠し、防犯装置を作動させるなどと何重にも安全対策をするのだが、弾が入ってなけりゃただの棍棒だと開き直る事にした。
さて、部屋が油臭いから換気をしよう。そう思って俺は窓を開けることにした。クラインたちは二階だが、俺は正式にヤクモとして滞在するようになってからは一階に移った。客人では有るが、公爵たちの方が偉いから当たり前なのだが。
窓を開けば直ぐ傍に花壇の植え込みがあって草花が見られる、自然が近くにあるのは良い事だなと思ったのだが──。
「えへへ、こんにちは」
「ッ──!?」
俺は、息が止まった。油断していたと言うのも有るが、屋敷で夜中に変な音がしたと言う事である種の警戒状態にはあったはずだというのもある。だからこそ、開けた窓の下に誰かが居るだなんて、全く思いもしなかったのだ。
咄嗟にそちらを見て、人物を確認する。先ほど”課業外”と言う事を考えてしまった事も有って、飛びのいて部屋の中に転がるという回避行動を選べない。もしこれが刺客だったのなら、俺は間違いなく殺されたり、相手の目論見どおりに何かをされていたに違いない。
けれども、そうはならなかった。それも当たり前で、相手は刺客などでは無かった。そこに居るのは、屋敷に居るはずのない人物で更に驚かされる事になった。
「マっ──!?」
「騒ぐと気づかれてしまいます。少しお話をしに来たんです……っと」
マーガレット。マーガレット・マルグレイブ・フォン・シャルダン。ニコルの娘であり、色弱……らしいと言う事と、未来視なのか、それとも予見か予言に当ることが出来る……みたいな事を仄めかしていた。
彼女が何をしに来たのか分からないけれども、窓の縁に手をかけて「んしょ、んしょ」と、何とかしようとしている。しかし、その華奢な指や身体の細さでは自分の身体を持ち上げる事も出来ないのだろう。どうしようか戸惑っていたが、こんな所で発見されても困るので俺は「失礼」と一言断ってから身を乗り出し、両脇を抱えて持ち上げた。
ビクリと身を震わせた彼女であったが、直ぐにそれを受け入れると素直に持ち上げられてくれた。そして部屋の中に入ると綺麗な服をまるで汚れているかのように叩いて、身なりを整えたかのように演出する。そしてコホンと咳払いをした。
「──お久しぶりです、ヤクモ様。あの時は、とんだご無礼をしました」
「……いや、何の話だ? 互いに挨拶して顔を合わせるのは、これが初めてじゃ?」
「いえ、この前はクライン様としてお会いしてる筈です。あの時私、感極まってはしゃいでしまいました、申し訳ありません」
「なんっ……」
一瞬、色々な事を考えてしまったが、彼女が少しばかり恥ずかしげに「その」と漏らした。
「実は、あの時の事も前々から見えていたんです。なので、お父様を探しに言ったというのは嘘で、本当はヤクモ様に会いに行ったんです。けど、その……はしたないと思われても仕方ないのですが、舞い上がってしまって……」
との事らしい。どうやらあの時俺が酒を飲んで若干開き直ってニコルの話を聞いていたのを、クラインではなく俺と認識していたという事でもある。なんだか空恐ろしさがあるが、だからといってどうしようもないのだが。
「それで、どうやってここまで?」
「今日、お父様とこちらまで来たんです。それと、マリー様が此方でお世話になっている事もあって、話が長引くそうなので遊びに来ちゃいました」
あぁ、そりゃ……マリーに対して話を聞きたいって話にもなるか。そう言えば近日来るって話もあったし、そりゃ警戒するか。ただ、あの音の原因を俺は知っているが、それを説明しなかった事でマリーにシワ寄せが行ったわけか。そう考えると申し訳ないが、どう説明すべきか判断するのも一苦労なので黙っておくが。
頭をかいて、どうしようか迷った。けれども、俺はとりあえずどうぞと席を進める事しか出来ない。英雄たちは無遠慮だから拒絶できるし、ミラノ達には理由を付けて追い出すことは出来た。けれども彼女に関しては父親にくっついて来たという「デルブルグ家への来訪者」である為に、下っ端である俺がどうこう出来る話ではない。
「ごめん、さっきまで武器の整備をしてたから部屋が臭うのと散らかってるんだ」
「ええ、ヤクモ様の武器……ですよね? ヤクモ様の居た場所、いえ……世界……の、物ですね」
「──それは予感?」
「はい」
予感、と言うよりも確信のようだ。色素の薄そうな瞳で俺を見て居るけれども、そこに自分の発言が間違っているようには思っている要素を感じさせない。普通の人が「それ、貴方の居た”世界”の物ですよね」なんて言わないだろう、むしろ「居た場所」と言う方が現実的なのだから。
「お茶は、要る?」
「大丈夫です。ただ、ヤクモ様が飲まれるのでしたら、その香りだけでも楽しめたら良いなと」
「あ~、うん。まあ、飲みたくなったら言って? 俺は……いえ、自分は飲むので」
頭を振り、俺は立場を弁えようとした。知り合いで対等な立場を求めているアルバートや、主人ではあるけれども騎士……と言うか、戦う人として口調を多少頼もしくして見せたものの、流石にマーガレットに対してまで同じようにするのは失礼に当ると思った。けれども彼女はクスリと笑うと「いえ、自然にされてください」と言ってきた。
「ここには私しか居ませんし、飾っても──あんまり意味が無いと思います」
「あぁ、えっと……。そっか。じゃあ、ごめん。場所によっては弁えるけど──」
「もう少し、乱暴に」
「あぁ、う? そう、だな──。じゃあ、場合に応じて話し方は変えるけど、それは……理解してくれ」
「はい」
俺は一応マーガレットが飲みたいと言っても直ぐに出せるように、分量は多めに作っておく。紅茶じゃなくてそろそろ珈琲が飲みたくなってくる。そもそも紅茶しかないからとりあえずこれを飲んでいるだけであって、コーヒーがあればそちらの方が飲みたい。苦味とか、飲みすぎると吐き気がするし、胃が荒れてダメになるけれどもあちらの方が良い。
まあ、我慢するしないの話じゃないので良いのだけれども、マテ茶だって懐かしくなってきた。アレはアーニャに頼んで仕入れるかな……。
そんな事を考えてお茶の準備をして、席に戻るけれども、彼女は俺の事を楽しそうに見て──と言うか、感じていた。こう、なんと言うか、傍に居るだけで幸せだとか、仕草や行動を見て居るだけで幸せだというような様子だ。目を閉じて、微笑んでいる。なんか、こう……漫画のワンカットのようにも思えた。
「どうしたのさ、そんな……微笑んだりして」
「いえ、ヤクモ様が傍に居て、お茶を淹れたり、生きて、動いているのが楽しいなって思ったんです。私には色は見えませんが、どのような動作をして、どのような表情をしているのかが見られるので、それだけでも楽しくて」
「そんなに?」
「はい。今までは、遠巻きに眺めるか、夢でしか見ることが出来ませんでしたから。
近くにヤクモ様がいる、それだけでも私には夢のようですから」
こう、なんと言うか。儚いと言うか、淡い子だ。なんと言うか、嫌味だとか、裏を感じさせない。言ってしまえば守りたくなるような感じであり、ほんの些細な事でさえも喜んでくれるような子にも思える。……言ってしまえば、アニメやゲームなどで言われる”天使”と言われるジャンルに該当するのだろう。
ただ、そういうのはやはり現実としての相手として関わった事は無い。言ってしまえば、こちらが気をつけないと傷つきやすかったり、知らぬ間に傷つけてしまったりする可能性もあるのだ。しかもカティアとは違う好意の示し方をしている、カティアには懐かれているが、此方は完全に”Love”なのだ。
政略にしろ何にしろ、結婚相手の一人として挙がっているのだ。しかも本人の望みであり、それに関しては父親のニコルも言っていた。まあ、なんと言うか。悪い気はしないし、彼女が本当に俺を好いてくれているんだろうなって言うのは分かる。
だからこそ、俺は怖くなる。人間強度と言うワードがとある作品で出てきて、それが真理であることを俺は知っていた。友人や親しい相手を作ると、悩むようになり、個人としての俺が弱くなり、脆くなると言うことだ。実際に、それを悪用しているのがマスコミや活動家である。機動隊の家族に脅しや危害を加える、犯罪者の家族やその友人にしつこく付きまとって生活を破綻させる等と……ろくな物じゃない。
彼女自体が俺の弱点になると言う考え方も出来るが、彼女によって俺が制限されるという考え方も出来る。今は行動や活動の根底は俺個人に存在する。ミラノに使えている、カティアが俺に仕えているという単純な上下から、デルブルグ家のミラノに仕えているという大きな見方は出来るが──今の所それぐらいだ。それは『公』だが、ここで『私』も混じるような物を抱えると、大分重荷になりかねない。
……とか、何だかんだ言ってるけれども、ただ単に自信が無いだけなのだが。
「あぁ、えっと……。一つ、聞いても良いか?」
「はい。私に答えられる事なら、何でも」
「その、なんだ──マーガレットは、何処まで見えるんだ? 色々な事、聞いたわけでも無いのに色々見ている。それが何処までなのか、気になって」
何故俺が好きなのか、それを聞こうとして──ヘタレた。たぶん、言われたら、言葉にされてしまった時点でそれは事実として俺に刻まれてしまう。そうなったらもう逃げられなくなる、それに……クラインを演じていた時にも、同じ事を聞いていたが、あの時は他人として聴いていたので殆ど記憶していない。防御無しで殴られればダウンするしかない、そんな危うさがあった。
「眠った時に、時折現実のように色々な事が見えるんです。決まって私が居る場所の出来事で、知っている場所や知らない場所も関係なく。
私、デルブルグ家に来るのは今日が初めてなんです。けど、ヤクモ様が何処の部屋に居るのかも見えました」
「……それが確かだとすると、結構凄いんじゃないか? けど、そうか。常に自分の視点で物事が見えるって事は、自分が絶対に行かない場所での出来事では見ることが出来ないと言う事か」
「はい、そうですが──。まだ、そうだと言い切れないんです。私、ヤクモ様と魔物の襲撃があった時に、学園まで守られたと言うのは、違いますよね?」
「それは……、未来の出来事だったから外出をしなかった結果、回避できたという話じゃないか?
もし外出をしていた場合、その展開になっていたという事かも知れない。見えるのは、未来だけなのか?」
「未来……と言っても、それが何時なのか分からないんです」
「あぁ、なるほど……」
俺も何と無く、最近英雄達の過去を追体験しているかのようなビョーキが発生している。アレを見て居る俺としては、それが誰なのか分かった所で、何時の何処なのかまでは分からないのだ。つまり、未来を見たとしてもそれが何時の何処なのかを知る事ができなければ生かせない事が多いのだろう。ただ、それが個人的な情報なら別なのだろうが。先ほどの俺に関する情報のように、時間と場所を合致させずとも事実と言う事柄だけは残るのだから。
色々考え込んでいると、マーガレットはクスクスと笑う。笑われる事でもしたのだろうかと戸惑ったが、どうやらそうではないらしい。
「ふふ、嘘だとか、不気味だとか思わないんですね」
「ん? いや、だって……なあ? 嘘じゃないし、そもそも──面白そう、と言うか。
そんな事を言ったら、俺の事だって不気味だとは思わないのか?」
「人を悪く言ったりしない、態度にも見せない人に悪い人は居ませんから」
変な信じられ方をしたもんだ。けれども、まあ……信じてもらうと言うのは嬉しい。流石に恋愛だの好意は戸惑うしかないけれども、信用してるとか信頼しているとかの話であれば散々言われたり聞かされたり言ったりしてきたからなれたものだ。全部自衛隊での話だが。
「そういえば、変わった服をされてるのですね」
「これは……。俺の居た場所での、此方で言う兵士の服装なんだ。俺は……国の為に仕え、尽くし、何か有れば国の為に人を危め、死ぬ事を良しとしていた事がある。
とは言っても、辞めてから時間が大分空いたけどさ」
「そうなのですか」
……この話は彼女の中には情報として存在しないようだ。武器とかは知っているけれども、この迷彩服とかは知らないということは、どこかで俺が語った、或いは漏らした情報の中に彼女が聞いたりしたものがないという事なのかも知れない。マリーが居る場では迷彩服に関してロビンが触れていたし、俺はそれを肯定した。つまり服装に関しても情報を彼女が知っているのであれば、少しは疑えたのだけれども、余計に難しくなっただけだった。
沈黙が続いてから、俺は戸惑って「大丈夫か? 退屈、してないか?」と声をかけてしまう。デートすら経験したことが無い上に、異性を異性と認識した上で場を持たせる事を体験した事もないので、どうにも勝手が分からない。
普段は質問する、訊ねる、聞くと言った三コンボで何とかしている。どれも必要上している事だから、別に気兼ねはしなかった。何故ならここで言うのなら「認識の共通化」とか「服務上において必要な事柄」とか「情報の提供及び受領」だった。相手の事を理解する、自分の事を理解してもらう為に話すのもそう言えばやって来なかった事で、余計に場が持たない。
好きなアニメ……アニメって何だ? 好きなゲーム……ゲームって何だ? ラノベ、漫画、音楽、テレビ、映画、食事──どれも俺の知っている物と、彼女の知っている物とで合致する物がない。ヤバイ、積んだ、デレない。
「──休みは、何を?」
なんとか搾り出せた問いは、喉が張り付きそうな物だったが。言ってから数秒後、案外的外れな事を聞いている訳じゃないんじゃないかと気づけた。うん、変な事を聞いていない。少なくとも自然だし、変な会話じゃない。お互いに知り合って間もない、それで居て沈黙よりも有意義な時間だ。
「私、お裁縫が好きなんです。母が亡くなってからは私がお父様に色々と編んでるのですが、それが楽しくて。あと、お庭のお花のお世話だとか、お家の事で色々な所を見るのも楽しいんです」
「裁縫か、簡単な縫い付けしかやった事ないなあ……。けど、色は大丈夫なのか?」
「はい。糸玉には何色なのかを書いたものを括ってるんですよ? 字に色は関係ありませんから」
「なるほど。発想の勝利だ」
「そうですね。けど、それを教えてくれたのはお父様なんです。私は子供の頃から色に弱くて……。それでもお父様は嬉しそうに襟巻きを受け取ってくれて、付けてくれるんです。
それが似合っているかどうか、色が判らない私には分からないですが」
「──……、」
また、俺は少し考えた。あと何ポイント得点は利用できたっけ? それを考えて、まだ複数あるはずだと思い出す。二点だか、三点だか有る筈だから……使っても問題は無いんだよな。ここで考えるべきは利己的になって「まあ、色くらいなら別に」と思うのか、それとも「色が分かるようになったら、きっと素晴らしい事になるんだろうな」と独善的になるか。
――ま、考えるのは不要だと思った。迷わずに俺はアーニャへと話をつける。当然彼女は呆れ、ため息を吐いた。前世が不満タラタラで、幸せになりたかったと思いながら死んでいった奴が、望めば使い切れない金や、それこそ万人に愛してもらえるような補正をもらえる特典を利用して、やる事が他人の回復なのだから。
ノックが聞こえ、意識が疎かになっていた俺は反応が遅れた。慌てて「はい」と答えると、その声はニコルのもので余計に焦る。
「済まぬな。娘が此方に行くと聞いていたのでね、訪ねさせてもらった」
「いえ、失礼しました。ニコル・マルグレイブ・フォン・シャルダン様」
俺は即座に立ち上がり、頭を深く下げた。そして数秒ほど四十五度の敬礼をしてから、直立不動の”気をつけ”の姿勢でニコルと相対する。こういったとき、今までは公爵だのミラノだのは相手が最初から崩していたから楽だったが、ニコルと俺は一応これが初対面なのだ。どうしてよいかは分からずにいたが「楽にするがいい、青年」と言われたので休めの姿勢へと変えた。
「お父様。お話は済んだのですか?」
「ああ。聞けば、そこの青年にマリーが助けられたらしい。それに、色々と話も聞けたのでね。
長居しても良く無さそうだ、早めに退散するのが良いだろう」
「そうですか……」
どうやらニコルと公爵の対話は終わったらしい。そしてもう帰るそうだ。そもそも、俺に会いに来たと聞いていたが、どうやらそれはメインではなかったということだろう。ホッと一息吐いたが、そんな様子をニコルにねめつけられた。めちゃ怖い。
「それでは、失礼しますヤクモ様。次にお会いする時は、もっと色々とお話がしたいです」
そう言ってマーガレットは綺麗な礼をして見せた。そしてクルリと反転して部屋を退出しようとする彼女に、ギリギリで入手できた物を急いで掴む。そして「マーガレット!」と呼び捨てにしてしまい、ニコルの表情が引きつるのを見てしまったが、それを一旦見なかった事にした。
「これ、持って行ってくれ!」
そう言って、俺はクラインの時と似たような小瓶を渡した。今回のも、結局の所彼女のためになる物だ。流石に色白で華奢、儚げで虚弱そうに見えるのにメスを入れるのは躊躇われたので、渡してから少し迷いながら言葉を選ぶ。
「これは?」
「それは……薬なんだ。信じられないなら捨ててくれて構わない。けれども、信じてくれるのなら──」
そこまで言って、なんて言おうか選び損ね、言葉を失ってしまった。結局、彼女は未来が見ることが出来るかも知れないという秘密を明かしてくれたのに、俺は理解してもらえるかどうかを考えてしまって、真っ直ぐに言えばそのまま伝わるはずなのに、言えなかったのだ。
けれども、俺が何か言葉を探すよりも先に彼女は微笑んだ。嬉しそうに、疑いも無く、手渡したソレを大事な物のように胸元で優しく両手で包み込む。
「有難う御座います、ヤクモ様」
そう言って、先ほど俺がそうしたように頭を下げた。そしてそのまま俺の言葉を待たずに、彼女は部屋を綺麗に出て行った。俺にはその後ろ髪ですら掴む事が出来ず、それどころか動く事さえできずに彼女を見送る事しか出来なかった。
当然、俺が追い縋った分だけ出入り口に近づいている訳で、そうなると彼女の父親とも近づく訳で。先ほどニコルの顔が引きつったのを見逃さなかった俺は、ドッと心臓が冷えるような錯覚を覚えた。彼の眼が、俺を見ていた。
「その、すみません」
「いや、構わぬよ。娘があそこまで嬉しそうにするのは、あまり見ないのでな。それに免じよう。
さて、青年。手紙を受け取った。驚きはしたが、同じように無の魔法が使えるというのであれば此方としては問題ない。むしろ、相手が公爵の息子ではなくなっただけありがたい話だ」
そう言って、彼は俺がカティアに渡した手紙を取り出した。それは確かにカティアに頼んで渡すように言った物だ、内容も覚えている。クラインを演じていた事とその謝罪、そしてクラインとして約束した事柄を自分がそのまま引き継ぐ事と、自分が無の魔法を使えるという事実なども沿えた。
当然信じてもらえるとは思っていないが、それでも”クラインを演じていた”という事実が真実である以上無視できない。何故ならニコルがクラインとした約束そのものが、別人だった以上は無かった事になるのだから。となると新たに接触を図るしかない。その先がクラインか──そうじゃないかだが。
「当然、やり易さの為に誤る訳にはいかぬのでな。時を見て声をかける。
実際に無の魔法を使って見せたまえ。もちろん、今この場で出来ると言うのならそれでも良いが」
値踏みされている、試されている。俺はこれで通じるかどうか分からないけれども、ストレージから俺はストックされていた八九小銃を新しく取り出した。当然見慣れないものだろうが、それを両手で銃口を斜め下に保持する。それから一息置いてから「無から有を取り出しました」とだけ言った。
当然、相手の冷たく細められている目が表情と同じように変わる事がない。ダメだっただろうか? そう思ったが、ニコルは「ふっ……」と笑みを浮かべる。
「喜びたまえ、青年。君は勝ち取った。彼の青年ではなく、君を使うことにする。
それでは、また」
そう言って、ニコルは去って行った。なんか、色々有って疲れた。俺はニコルが去るのと入れ替わりにやって来たメイドさんが食事を運んできたのを見て、それを受け取ると「今日は食べたら寝るんで、寝てても勝手に持って行っちゃって下さい……」と、元気なく伝えると部屋に引き篭もった。食事を終わらせると戦闘服を脱いでハンガーにかけ、私服に着替えるとさっさとベッドに潜った。
そういや、マリーはどうなったのだろうか。連れて帰ったのだろうか? それとも、なにか言い訳でもして居残ってるのだろうか? そもそも戻ってきてからはみんなと別れたけれども、今はどうしているのだろうか?
色々考えはしたが、やはり久々に数多くの実弾を撒き散らしたり、思い出すことに苦労したり、教えたりしたから頭が疲れていた。肉体的な疲労よりも精神的な疲労が勝り、酒の力も無しに眠りが来るのは早かった。
目蓋を閉じた裏で、俺が今居るのは練馬駐屯地の隊舎なのではないかと、空間が誤認させられる。練成館と表された建物、タコ部屋の中で白いブツブツの天井が有るように思え、悪夢の心配ですら不要だった。
目を閉じ、夢も見ずに眠りにつき、喇叭に叩き起こされ、点呼に行くのだと考えると不思議と安心できる。そこに存在する辛さは平等だった、個人じゃなくて集団であり、”名も無き我ら《Никто, кроме нас》”だったのだから。




