55話
指導及び教育は、簡単じゃない。それを言ったのは同じ部屋の先輩と、副班長だった。副班長は三曹であり、先輩は陸士であったが同じ班の人間だった。
俺は除隊する最後の年になって部屋長になったが、それまでは入隊した時の部屋で同じ先輩たちと生活してきた。同じ班長、同じ副班長と毎日顔を会わせ、朝礼と終礼で顔を必ず突き合わせていた。
教育は”知らない相手に”と言うものであり、相手の理解力や物覚えに依存する。いきなり新隊員必携を手渡して、頁を指定して「全部暗記しろ」と言っても難しいだろう。指導と言うのは、その一つ上の段階の話だ。教育を施して程度の差異は有れども理解した相手に「ここは違う、アレはこうしろ」と補微修正していく物だ。此方は変な癖や変な理解、或いは個癖によって歪んだ物を正す場合にも行われ、一度は修得や習熟した筈のものに対しての物なので反省などが入ってくる。
新隊員は何も分からないのだから、出来なくても仕方が無い。けれども一日でも早く全部叩き込ませる為に、或いは反省と言うもので更に打ち込ませたり肉体的に苛める事で身体能力を強化させたり、或いは班員同士の団結を高めると言う思惑が有ったりもする。
翌日、午前中の内にトレーニングをしこたま行っておき、俺はストレージの物資を確認したり、アーニャに渡されたゲーム機をベッドの中で遊び倒したりするのに費やした。妄想科学アドベンチャーと言うジャンルで、以前弟に推されていたゲームを思い出したのだ。そのパブリッシャーは知っているので期待して始め、そしてとりあえずは幾らかは進めた。そしてウトウトしてきたのでそのまま眠りについて目覚めれば十時だ、三時間ほどの二度寝を満喫した事になる。
先日の体調不良の余韻があるのか、頭がボーっとする。熱は無さそうだが、血が足りなくて頭にまで巡ってきてないといった感じだった。先日公爵にカティアとメイドさん以外の出入りを避けるように頼んでおいて正解だった、多分今の調子じゃ気苦労やらなんやらでまた体調悪化して病気にでもなっていたかもしれない。
そして可能な限り安静にし、カティアとの授業に備えて幾らか考えた。カティアとの約束での勉強が始まった午後、俺は自分が覚えている範囲での自衛隊及び対応する英語での用語だの行動だのを説明し、教える。これに関しては即座に覚えろとは言わないが、彼女には必ず覚えるようにと厳命する。じゃ無ければ先日彼女が言った「遠隔召喚」と言うのを行うのはリスクが高すぎると説明し、連携できない事でどちらかが相手の負担になることで共倒れになることも説明した。
彼女は──素晴らしいほどに、従順であり、素直に俺の教えることを飲み込もうとしてくれた。その光景は、まるで中隊配属された後輩を部屋に案内し、色々な事を教えている頃の自分を思い出すには十分だった。
「ねえご主人様、何で他言語での指示も必要なの? 今使っている共通のでも良いと思うのだけど」
「何が有るか分からないだろ? いざと言う時に相手が理解や予想、予測の出来ない言葉を使うことがそのままアドバンテージになる。例えばカティアが人質に取られて、俺が武装解除を言われて武器を落としたとする」
「そういう時は、構わず相手を斃して欲しいけど──」
「馬鹿言うな、見捨てられるか。助けられる人を助けないのは”最善”とは言わない。俺は可能な限り身近な奴だけでも見捨てない、助ける為に最善を尽くしたい」
「ん、了解。それで、人質に取られてるとして、どうするの?」
「例えば、武器を手放した瞬間に相手の意識がそっちに向いていたり、気が緩むかも知れない。その瞬間を見逃さずに脱するとか、俺がそこを突くかも知れない。何が出来るかは状況によりけりだろうけど、どちらか一方が抵抗しても危うい事だって有ると思う。
そうじゃなくても、例えば俺が敵に包囲されたりして抵抗できないけどカティアがバレてない時とか、はカティアが俺を救ってくれるかもしれない。そういう時、大きな声で叫ぶだけでも相手は驚くだろうし、それが”走れ”とか”逃げろ”とかでカティアの行動を受けて俺がどうするかも変わる訳だ。
他にも右を見ながら左と言う事だって有るかも知れない、左を指差しながら右と言うかもしれない」
「けどご主人様、それだと……どっちに反応したら良いかで戸惑わない?」
「声と動作が一致している時はそのまま、動作と声が一致していない時は声を優先するようにしようか。それまで十分、反応できるかを互いに訓練しなきゃいけないだろうけど」
「そうね」
そして、教えられる範囲で指示や命令、そして咄嗟に口にするだろう言葉を思い出せる範囲で教えていく。右、左、右方、左方、ミギカタ、ヒダリカタ……。匍匐、伏せ、寝撃ちの姿勢……。迂回、超越、側面、背後、裏取り、十字攻撃、挟撃。近接戦闘、中間距離、遠距離射撃──。
幾らか思い出せず、けれども必要だと思った言葉も織り交ぜていく。そして必要な所では自分のメモに図解を示し、それを見せながら「こういう場面で、こういう行動をする事を言う」等と伝えた。思い出しながらでの教育だったので後になればなるほど時間がかかるようになり、最初は意識してカティアがメモを取るまで待っていたが、後半ではそれも不要になっていった。
三時半ばほどになり、休憩を挟んだ所で体調が過ごしだけ悪化した。思考が霞みの向うに行きかけて、頭がスカスカになる。そして机に突っ伏した所で、また俺は狂う。
「ほら、そんな所で寝てると風邪をひくよ?」
その声に頭を上げると、そこに居るのはカティア──に、良く似た女性だった。ただ違うとすれば雰囲気だろうか? リボンをしていないし、身に付けている物がそもそも違う。軽装では有るが防具を身に纏い、綺麗には見えるが傷が幾つか残っている。そして年齢は──カティアよりも一回りか二周りほど年上に見えた。そもそも、性格が違うのだが。
『ああ、すまない。どうやら、疲れていたみたいだ』
「気をつけてくれよ? ただでさえ片目を失っているんだ、その影響がどのように現れるかは分からない。無理をせずに、休めるうちに休んで欲しいな」
片目を失っている──。そう聞いて、前回もそういえば最後に視点が移った時は少しばかり視界が狭くなっていたのを思い出す。どうやら英雄の中には部位欠損と言うか、負傷した奴も居るようだ。そもそも全員が五体満足と言うのがある種奇跡だと思うが、それでもこうやって見ると悲しくはなる。
『大丈夫……。いや、そうだね。俺は少し早く休ませて貰うよ』
「うん、そうした方が良い。これからも頑張ってもらうんだから、倒れられるとこっちも困る」
『そっか、そうだね──。君も、早めに休みなよ? 連日兵士達を見て回ってるみたいだけど、君はもう俺達の主力の一人なんだ。いや、それはちょっと過小評価のしすぎかな……』
「いや、それくらいで良いよ。自分の事は、ちゃんと弁える。それに、戦いが終われば──身分も地位も、政は分からないから出番は終わり。剣や魔法で戦うのが多少劣っていても、それは自分には出来ない事だからさ」
そう言って、彼女は困った表情で笑った。確か、身分や地位がないとマリーたちが言っていたのを思い出す。つまり、戦いでこそ彼女は優秀ではあるけれども、それ以外は専門外と言った事なのかもしれない。
『──君は、戦いが終わったら、どうするつもりだい?』
「また、気楽な傭兵家業でもするよ」
『勿体無いなあ』
「戦う事でしか役に立てないんだから、そうしたほうが諍いも起きないからね」
『だったら──俺を支えてくれないか? 一人じゃ不安なんだ』
「考えておくよ──」
考えておくよ、その言葉を聞いてから瞬きがヤケに遅く感じられた。そして開かれた視界の先では、俺は涎で机の上に池を作りながら突っ伏している所だった。そして、揺さぶられているのに気が付く。
「ご主人様? ご主人様!」
「カ、ティア……」
涎が溢れている事に気が付き、口元を拭って身体を起こす。やはり頭がスカスカな気がするが、俺はまた過去に飛んでいたみたいだ。今までだとロビンだのマリーだのと、彼女達が近くにいたり触れている間しか見られない幻想だったが、今回はカティア以外に誰も居ない。
もしかすると血が混ざったのかも知れない、それによってかつての映像が見えてるとか……そういうものなのだろう。超常現象、非現実的、論理的ではない事象だ。他人の過去が見られるとか、頭がおかしくなっていると言われた方がまだ納得できる。
けれども──残念な事に、これが妄想じゃなくて事実だから尚更厄介なのだ。寝ている時だけ見るものじゃなく、意識が薄れたりすると見られるようだ。ただ、好ましい事じゃないが。
俺は頭から血の気が引いているのを自覚し、これは隠せないなと思った。流石に顔色までは分からないが、生気の抜け落ちた顔になっているかもしれない。
「──悪い、すこし眩暈がして。どれくらい倒れてた?」
「数分、かしら。ちょっと席を外してたから、それくらいだと思うけど」
「……休憩時間を大きく取る。はい問題、休憩を時間の長さで二つに分けて呼ぶけど、なんて言うか」
「小休止と大休止ね」
「大事を取って、大休止を取るから。カティアはそのまま休憩、俺は──ベッドに戻ろうかな」
「支えるわ」
席から立とうとした俺をカティアが直ぐに支えられるようにと近くに立つ、それに「ありがとう」と言って俺は彼女が身体を支えてくれるのに甘んじながらベッドまで歩んでいった。そしてベッドに倒れこんで天井を見上げ、少し血の気が戻ってきて思考能力が戻ってきたように思えた。
「結構、重症かなぁ」
「ヘラ様が言うには、あのままじゃ死んでたって話だもの。そりゃあ、血が足りなくなるわよ」
「輸血とか出来りゃ良いんだけどな。これじゃあ──この休みが終わるまで俺は半病人か」
「良かったじゃない。無理が出来なくて私は安心よ」
「俺はそもそも病気とか体調不良って言うのが嫌なんだけど」
俺がそう愚痴ると、俺の視界を埋めるようにカティアが顔を近づけて「ご主人様?」と言って来た。覆い被さる様な状態で、ドキリとしたが、それも直ぐにズキリという頭痛で打ち消された。
「今までがそもそも無理と無茶の連続だったのよ。それとも、ご主人様はスーパーマンにでもなったつもり?」
「そんな訳無いだろ。けどカティア。だったら教えて欲しい。あの魔物の群れの中で俺がもし非力で生き延びなきゃいけないとした場合でも、カティアは俺を見捨てたか?
目の前で普段接している相手が殺されそうになった時に、それを見捨てた自分を良しと出来るか? 俺にはどちらも難しい」
「──そういう質問は意地悪。私がご主人様を助けるのは当たり前だと分かってて聞いてるでしょう」
「カティア。俺はカティアも守りたい、だけど──多分、我儘なんだと思う。最初は、ただの手段の一つの筈だったんだ。けど、アルバートと戦って仲良くなって、グリムも良く分からないけど居てくれるようになって、ミナセやヒュウガとも知り合って──ミラノやアリアと一緒に生活してる内に……なんと言えばいいのかな、居場所が出来つつある気がしたんだ。
もしかしたら別の場所、他の誰かの傍の方が居心地が良かったりするかも知れない、俺をより良く遇してくれるかも知れない。けど──」
「あ~、はいはい。分かったから、それ以上言わなくても良い。
けど、そうね。どんな状態でも私が呼べる様にしておいて。本当に、この前みたいに負傷して動けないって時もありそうだから」
「それじゃあ──。この状態でやってみるかなぁ……」
カティアの肩を押して、退いてと言う意思表示をした。彼女は別段抵抗する事無く、トンと、軽い足音と共に俺とベッドから降りた。俺はそのままベッドに横たわったままに、如何すればいいのだろうかと考える。俺が使い魔だったときはその契約の証を示す呪文みたいなのが有ったが、そういえば呼び出す魔法は知らないのだなと思い返す。
頭を搔いた、困った。何かをしようと思ったけれども、その手段や方法が分からなくて手詰まりだなんて笑える話だ。俺はため息を吐いた。
「やっべ、如何したらいいんだ?」
「そう来ると思って、私がすでに調べてあるわ」
「わお、優秀」
「それで、詠唱が有ったけどそれを前に教えてもらったシステム……何とかで見て、必要最低限の語句だけに絞ってあるの。短いから便利よ」
「ん、優秀。それで、なんて言えばいいんだ?」
「ヴェニーテ、その一言で私に応じる意思があれば行ける──筈。そういう風に聞いてる」
「成る程ね」
それを聞いて少しばかり安心する。俺がカティアを召還した時に、何かしらの行動中だったりしても強制だった場合は──時間帯や場合によっては悲惨な事になるだろう。流石に入浴中や用足し中だったら俺は殺されても文句は言えない、それを回避できるのは素晴らしい事だと思う。
「それじゃあ、まずは拒否や拒絶が出来るかどうかってのを試そう。要らん場所で唱えて、全てをフーバーにするのは嫌だからな」
「フーバー?」
「あぁ、えっと。取り返しがつかないくらいに滅茶苦茶になる、だ」
Fucked up beyond any repairの頭を取っていってFubarという、アメリカのスラングだ。もっと自虐的に言うのならスナフー、Snafuなのだが、そちらだと「いつも通りの目も当てられない有様だ」と言う意味になってしまい、カティアに対して悪いので使わなかった。
「それじゃあ、『ベニーテ』」
「っ」
ピコンと、カティアから猫耳と尻尾が出た。何かに反応しているようだが、直ぐにその耳と尻尾もシュルリと消えた。何もおきない、少しばかり不安になったが今回に限って言えば何も起きないのはとりあえず目的には準じているので良いのだ。後は召喚を受諾してカティアが現れれば、呪文が間違っていると言う懸念は払拭できるし、カティアの意思によって応じるも応じないも選べると言う事だ。
「これで良かったのか?」
「ええ、今私に”召喚の呼びかけに答えるか否か”みたいな声が聞こえたの。それに拒否したから、間違ってないはず」
「それじゃあ、次は召喚だな……。それじゃあ、部屋を出て離れて貰った方が良いな」
「じゃあ、ちょっと出るわね。えっと、三十秒くらい、かしら? それくらい経ったらやってみてくれる?」
「ん、了解」
カティアが部屋を出て行き、俺は腕時計を見た。そういえば、召喚される時って身に付けている物ならともかく、所有や所持している物も一緒に移動するのだろうか? それと、誰かと手をつないで居たりする場合はどうなるのだろう? それも後で試してみよう、そんな事を考えてから数度呼吸を繰り返すと三十秒が経過していた。念のために十秒近く待ってから『ベニーテ』と唱える。
一秒、二秒──決して長くは無い時間だったが、召喚にかかった時間はおよそ三秒くらい。良い具合に早く、彼女は現れてくれた。ただ、その場所がベッドに倒れこんでいる俺の目の前であり、空中だった。彼女が現れた瞬間に、お互いの表情が引きつる。そして膝が俺の腹部にめり込み、俺は声も上げることすら出来ずに悶絶したまま時間を経過させた。
「ごめんなさい……」
「あ~、なんだ。召喚……眼前に現れるとか、そういう縛りでも有るのかな。それか、カティア側で何か意識するとか、そういう話なのかな……」
ベッドに倒れこんだままなのは変わらず、鈍痛が身体から抜け切らぬままに俺はまた”実験”を進める。カティアは自分が俺に危害を加え、痛めつけた事を気にしていた。そういや、ミラノとかと違ってカティアは口撃はするが、実際に肉体的にダメージを与えてきた事は──無かったはずだ。
「よし、次は……部屋に置いてある本を持ったまま召喚してみたらどうなるかも試そう」
「それって、重要?」
「重要、重要。今の所考察のし甲斐はあるけれども、カティアは身に付けている物で何か置いてけぼりにしたものは有るか? 俺は──その、疎いから細かい変化はわからないけど。服装や装飾に変化は無いから、身に付けている物は召喚されても一緒に来ているように思えるんだ」
「あ、えっと、そうね。少し待ってくれる?」
そう言って彼女は鏡の前に行く。まるでおめかしした小さな子が自分の姿を確認している様に見えて微笑ましく、身体を半ばほど傾けて少しでも自分の背面を見てみようとしていたり、顔を鏡に近づけて頭の後ろで結わえているリボンの様子を確認している。そして身嗜みオッケーと言うことなのか、満足げに頷いていた。
「身に付けている物は全部有るわ」
「他にも色々試したいんだ。手にしている物や持っているものも全部召喚時に此方に来るのか、身に付けている物や持っているものが肯定的なものや否定的なものでも関係無しに来るのかどうかとか。さすがに人ごとは無理だとは思うけど試せることは全部試したい」
「肯定的なものや否定的なものって、何かしら?」
「例えば、カティアが手を拘束されていた場合。当然、カティアは縛られて嫌だろ?」
「ご主人様に縛っていただけるのなら、私、受け入れますわ」
「縛られて嫌ですよね! 頷いて? と言うか、俺が縛ったのに召喚って、それだと俺はカティアを縛って放置したど外道になるんですが!!!」
脳裏で想像してしまうが、今の所小悪魔的な表情を見てないのでタオルや手ぬぐいで手を拘束するという、エロティカな光景よりも人攫いとかの光景が色強く写された。あれ、おかしいな。未成年略取とか、そういった想像をするのが有る意味正しいのではないだろうか? 俺の思考も少し物足りなくなっているらしい、或いはその為のエネルギーを血液から受け取ってないのか。
叫んだせいで少し辛くなるが、実験は続ける事にした。今回はカティアに本を持って行ってもらい、俺とカティアでそれぞれに召還する時される時で場所や位置を意識するようにと共通の目的も持った。
二度目の召喚、俺はベッドの右側、カティアはベッドの左側に出るという意識をする。そして実際に召喚がされた時にカティアが出て来た位置は俺の意思が優先されたのか、ベッドの右側に彼女が本を持ったままに立っていた。
じゃあ次は俺は何も考えずにカティアを召喚してみる、なのでカティアはベッドの傍に出る事を意識するようにと伝えて今度はコップに水を入れて出て行ってもらった。後で考えると「あれ、これさっきみたいに俺の真上に召喚されたら、水を被るんじゃね?」ということに思い至ったが、それに関しては特に問題は無さそうであった。
何故コップに水を注いだのかと言うと、間接的接触や保有に関しても対応してくれるかどうかと言う実験でもあったのだ。例えばカティアがカバンを背負っていて、中に衣料品や食料が入っていたとする。その際に召喚してみたらカバンの中身だけ現地に置き去りで、カバンを背負ったカティアが召喚されたという可能性も考慮できたからだ。
ただ、今回ので「召喚主が場所を意識すればそちらに、特に指定が無ければ多少の位置は使い魔側で指定できる」という事が分かったし、「コップに入った液体など、間接的に保有した物も一緒に現れる」と言う事も分かった。ただ、どれくらいまでなら可能なのかと言うのも調べたい所だが、多分「事実上の保有」と「概念的の所有」では違うのだろうと思った。
「そういや、カティアって魔力で構成されてるんだよな。食事とかしなくても、生きていけるの?」
「一応、ね。食事をするとそれが魔力になって身体に組み込まれるみたい。だから全く飲食が無意味って訳じゃ無いみたいだけど」
「飲食に関して、別に制限を課したりはしないから自由に飲み食いしてくれ。好きな物を、好きなように摂取する。生きる上で精神的に宜しい事をわざわざ規制するつもりは無い」
「ご主人様って、食べる事と飲む事に関しては意欲的だものね」
「飲食は生命の基礎基本、何かをしてもしなくても腹は減るし喉は渇く。喩え辛い事があっても美味しい食事を満足に食べられたら幾らか誤魔化せるし、腹が満たされればとりあえずは生きていける。
カティアも……って、そうだ。カティア、今更だけど趣味とか好きな事って無いのか?」
美味しい食事が三食食べる事ができる、それだけでも一日が楽しいんじゃないか? そう訊ねようとして、『カティアの楽しみってなんだ?』という所に戻ってきた。それは先日のやり取りでも思い浮かんだ事であり、若干忘れていた所だ。たしか本が好き~みたいな事は以前聞いたが、それ以外は何も知らない。ミラノとかアリア以前に、自分の使い魔のことを知らないことを思い出した。
「ご主人様を眺めているのは好きですわ」
「そういうのじゃなくて」
「ご主人様ウォッチング?」
「よー見るよー見るよー見るよー見る……って、言ってる場合じゃないか。そう言えば前に本が気になるとかどうとか言ってたけど、結局何か好きなジャンルは有ったのか?」
「今の所はなんとも言えないかしらね。幾つか興味を持って買って見たけど、そもそも読書と言う習慣が馴染んでないから中々、ね。まだ学園の教科書を読んでいるほうが楽しいかしら」
「それは、まあ……分からんでもないけど」
教科書を読むのが楽しいというのは、俺にも判るし経験がある。小学校に入る時、中学になる時、高校に入る時と、それぞれに俺は教科書を読み倒していた事がある。興味が有る事に大しては食指が動くのか、とりあえず面白そうな教科を優先的に全て読んでいた記憶がある。
とは言え、教科書を読み倒したからといって成績が良いと言う訳ではない。アインシュタインの発言にも有るとおり『学んだ事を一切忘れて、それでも残った物、それが教育だ』と、興味のある事は記憶されるが、そうじゃない箇所から優先的に忘れていった。自衛隊に入った時も、新隊員必携や服務小六法等も興味から読み漁ったりもしたが、五年以上も経過すれば殆ど忘れている。今でも覚えている箇所といえば、やはり六四と八九小銃の諸元や性能のあたりだろうか。武器の分解結合も、経験を加えて今でも覚えている。
「……じゃあ、魔法に関わる本とかが好きって事──でもないのか」
「売りに出されている本ね、重要な箇所が一番短いのよね。前書きとか、いかに苦労したかとか、そういった魔法じゃなくて個人の情報を長々と書いてるの。買った本を間違えたのかしら、それとも個人で出した本と言うのは皆あんな感じなのかしらね……」
等と、とても辛辣だった。俺は売りに出されている書物を一冊も目にした事が無いので何とも言えないけれども、カティアの評価からすると「前口上や個人的な感想が多く、魔法に関してが一番短い」と言う事なのだろう、立ち読みさせて──は貰えないだろうが、安易に買うのも考え物だ。
「絵を描く、小説を書く、音楽を嗜む……って言うのも、この世界じゃ気楽な物じゃないんだよなあ」
「ご主人様はそういった多機能の道具が有ったでしょうけど、ここじゃ使えないでしょ?」
「まあなあ」
そもそも電気が無い、ネットワークが無い、サーバーも無ければサイトも無いという状況だ。アーニャの所に行くとネットしてるし、ニコニコやyoutube見てるし、ゲームや音楽、アニメに映画とやりたい放題だから忘れがちだが、そのどれもがここでは難しい話なのだった。
「小説を書くにしても、インクとペン、紙が必要。絵を書くにしてもキャンバスや絵の具、筆が要るでしょうね。それに、音楽を聴きたいのなら依頼して奏でてもらうしかないのだからおあ金がかかるわ」
「……俺達の居た場所って、恵まれてたんだなあ」
「二四時間営業のお店がある時点で恵まれてるわね」
コンビニの事だろうが、それもそうだ。夜遅くに帰宅して冷蔵庫を空けたら空っぽで、空腹を誤魔化す努力をしなくても済む。ゲームやアニメに夢中になりすぎて、買い物を忘れて丸一日何も食べてない事が重く圧し掛かるという事も無いのだ。コンビニまで足を運ばなければならないが、それでもお弁当やおにぎりといった完成品が陳列されていて、買って温めて直ぐに食べられるのは贅沢にも程がある。現代人は、恵まれすぎていたんだなと改めて思い知らされた。
俺は一応音楽はウォークマンで楽しめる訳だし、まだ文明の利器を喪失していないので失念していた。
「あんまり気にしなくても良いわ。今の所、学園の教科書だけでも十分楽しめてるし、教科書を読んでから売りに出されてる本を読むだけでも違うでしょうし。それに、漫画もあるのよ」
「ふぅん……」
風刺画の集まりかな。何にしても、この時代の漫画と言うのが俺には遠い物だと感じた。アルバートが前にそんな事を話していたような気はするが、ふと世界史の授業を思い返して当時の絵等をネットで見たのを思い出す。ただ、この世界は千七百年代ヨーロッパのような街並みをしていながらも、科学関係は三百年近く遅れているという有様だから想像から外れそうだが。
俺の気の無い返事を受けてカティアは少しばかり笑った。
「あら、興味が無いって感じね」
「何か、俺の知っている漫画と描写がそもそも違う気がするんだよなぁ。まさかThe Japan Punchみたいなポンチ絵レベルの物が有る訳無いだろうし。葛飾北斎の北斎漫画のような物を出されても困るんだが……」
「実物を見てみたら意見が変わるわよ──っと」
そう言って彼女は何も無い場所で何かを操作するように手を動かし始めた。それを見て、システム画面でも開いたのかなと思ったが、少しして彼女の手元に何かが現れるのを見た。何も無い空間から、突如として一冊の本が現れる。成る程、他人から見たら俺がストレージを操作して物の出し入れをするとこう見えるわけか……。
「あれ、ストレージって、教えたっけか」
「ご主人様に”システム”と言うのを教えてもらってから、色々と自分で見たりしたのよ。
このストレージって、便利ね。物は出し入れできるし、数や重さを無視できるし、空間も取らないし」
「便利だぞ? 俺も、滅茶苦茶色々と溜め込んでるし、この中に入れたものは時間が停止してるらしいから飲食物の保存や保管も出来るし、温かい物は温かいままに、冷たい物は冷たいままに、腐敗を気にしないでいられるから」
「あら、良い事を聞いた。つまり……ご主人様、お酒を溜め込んでるのね?」
君のような勘の良いガキは嫌いだよ。なんて事を言うと死亡フラグなので、俺は沈黙を貫いた。彼女は何を思ったかは分からないが「まあ良いわ」と言ってから、その本を俺の胸の上に置いた。あんまり見たくないな、ルイ十六世の処刑画みたいなのを想像しながらもその本を視界に入れて、俺は驚く事となる。
「は、え? 嘘だろ!?」
俺は不調なのも忘れて跳ね起きて、その本を見る。少しばかりクラリとしたが、それでも驚きの方が勝って何度もページを捲ったりもした。アメコミとジャパニーズ漫画とジャパンパンチを全部足して割ったような、理解不能な作品がそこにあった。アメコミ調でポンチ絵が描かれ、けれども日本の漫画の如くコマ割りがされているという物で、味はあるのだが──受け入れるにはまず胃の中を空になるまで吐き出してから、これが漫画なのだと理解する必要があった。
だが、漫画だった。紛う事無く、これは漫画なのだと言えた。この世界にもワーグマンに準じる人物が居ると言う事なのだろうか? 何にしても……うん、つまらなくは無かった。ただ絵柄が独特で、ご飯にマヨネーズをかけた位に受け付けるのが難しいだけだ、個人的な好みの範疇でしかないのだろう。
「これは……?」
「漫画、って言うらしいわ。と言っても、絵柄とかはご主人様の知ってるようなものじゃないけど。
けど──なんか、色々とおかしくない? 冷蔵庫、だったかしら。なんで見知った物がこの世界にも有るのかしら」
「確かに……」
公爵がお偲びで住んでいたと言う戸建ての家が有って、襲撃の際に一泊した事があった。あそこには冷蔵庫に準じる物があったが、その中身はストレージと全く一緒だ。原理は分からないが、中に入れたものは時間と言う概念から切り離されて保存されていて、野菜やら牛乳やらと大分溜め込まれていた。
冷蔵庫だけならまだ理解できる、そういう発想をした人が作ったのかも知れないなと考えた。しかし、ニコルが言っていた「複製」と言うのも怪しく聞こえるし、何で漫画が現代に近い状態の物で存在しているのかが分からない。
――ツアル皇国で自動管理された田畑みたいな事も、何処かで聞いた。それって、もしかして機械制御とか、自動化された農業と言う事だろうか? だとしたら、この世界の事が根底から認識がひっくり返りそうだ。
つまり、ここはゼロから始まった世界じゃなくて、一度は高度文明が築かれた上で全てが滅んで、その上にもう一度今のような文明が出来てきたと言う可能性も有るのだ。そのことをアーニャに聞くべきだろうかと考えたが、前任者が夜逃げした上に情報が無いとか言っていたので判明しないだろう。
「カティア、公爵に一つ頼んできて貰っても良いか? 体調不良で、直接じゃない事を申し訳ないとも付け加えて」
「良いけど……如何したの?」
「地図だ……、この国周辺でも、世界地図でも良い。それが見たいって──以前約束した物を見たいと伝えて欲しい。
直ぐじゃ無くても良いから、俺の願いを伝えてきて欲しいんだ」
完全な異世界だと思っていたが、そうじゃない可能性に思考が行き着いてしまった。科学的な技術の遅れや、一度は全ての文献などを含めた歴史が滅却された事を踏まえると正確な地図なんて無いと思う。けれども、周辺地図だのなんだのは存在するはずだと思った。
ただ、マリーが「山を吹き飛ばすほどの魔法使いであった」という事も聞いているので、流石にまるっきり同じ地形図が出てくるとも思えなかったが、それでも分かる所は有る筈だった。
カティアが了承し、部屋を出て行ったところで俺はフラリとベッドに倒れた。少ない血を興奮で一気に頭に上らせた分負担がかかり、ベッドに再び倒れこんだ。そして思考が再び低速になったところで、色々と考えてみた。
……まあ、文明が一度滅んでからここまで再興したという世界でも良いと思う、そもそも地続きで繋がっているわけじゃないので俺にはどうでも良かった。逆に、色々な事が気になる。十二……いや、十四英雄の授かった魔法と言うのがそもそも疑わしくなってくる。もしかすると何らかの遺物に触れて覚醒したとかそういう展開も有り得そうだし、もしかしたらそういった”歴史物”を見つけられる可能性だってある。
それに、歴史の見方も変わってくる。魔族がどういった出で立ちかは分からないが、これで人間と何ら変わらないとなったら、下手すると”旧人類と新人類の戦い”と言う構想も出て来る訳だ。そうなると有り難がられている英雄達や宗教ですら疑わしくなってくる。勝てば官軍、負ければ全ての汚泥を被せられるのは二次大戦と大東亜戦争──いや、それよりも前から繰り返されてきている事だ。ただ勝って生き延びれば正しいとされる、負けて淘汰されれば間違っていると言う事にもなるのだから。
暫くして部屋の戸がノックされ、公爵が入ってきた。どうやらカティアの話を聞いたらしく、体調が悪いと知りながらもそれよりも重要な事を優先させたようであった。
「体調の方はどうかな。もし必要なら薬を用意させる、今はかかり付け医が居るから直ぐに済む」
「御見苦しい所を見せてます、公爵。ただ、出血が激しくて貧血を起しているだけなので、時間が解決してくれる問題なので──この休暇が終わる頃には何事も無かったかのように回復していると思われます」
「”ひんけつ”?」
「体内の血が、少ない状態の事です例えばコップにワインを注いだとして……これくらいの血が体内にあるのを健康な状態だとします。けれども、負傷等によって血を流してしまった場合に体内に存在する血液が少なくなると身体を巡る血液の総量が減るので、必要な……そうですね、魔力に近い物が供給されづらくなるのと、同じです」
等と、コップに水を注いで説明する。実際にコップに水を注いでくれたのはカティアで、俺はそれを飲んだだけに過ぎないのだが、俺の言葉が普段以上に出づらくなっている事から喉が渇いているのではないかと察したのだろう。事実、喉が渇いて張り付く感覚があったので助かったが。
「君は、医学を嗜んでいたりするのかな?」
「いえ、自分の居た場所ではこれくらいの知識が当たり前のように学べました。なので、そう特別な事でもないんです」
「ふむ、そうか。それで、彼女から話を聞いたのだが、地図を見たいのだとか。その理由を聞いてもいいかな?」
「──以前お話した、世界を知りたいと言うのも有りますが、もしかしたら自分の国……いえ、自分の知っている場所が有るのではないかと気になったんです。
ただ、地図がどれほど重要な物かを知って、無理を承知でお願いします」
「確かに、安くは無い願いだね。精密な地図と言うのは、誰もが欲しがる物だ。けれども、それが他国に渡るのは何処の国でも避けたがる物。私が狂っていないのなら、地形や町の所在等を描かれた物を見せるのを拒むのは当然じゃないかな?」
「俺は──それを言うのなら、承諾も許可もしていない召喚で人生を支配された上に、三人……いや、もっと多くの、貴方に決して無関係ではない命を救った事を引き合いに出させてもらいます」
強引だろうと思うが、俺にはそれくらいの恩を支払って無効にしても構わないと思った。実際、前にクラインが変なことを言っていたし、これで爵位向上とか領地を任されるとかになったら溜まった物じゃない。出来るのであればもっと有効で有用な時に使いたかったが、これも同じくらい大事な事だった。
「君は、自分の居た場所が何処にあるのかが気になると言うことかな」
「気にならないと言えば嘘になります、そして公爵にとっても自分に変な恩を──借りを作ったままと言うのは頭の痛いことになるでしょう。なので、恩を全部これで帳消しと言う事にしてしまえば良いのでは?」
「それは有り難い申し出だけれども、それは個人的な恩であって、君が求めているのは国や家に関わる話だ。それを許容すると思うかな」
駄目かな? 嫌な汗が滲んでくる。下手すると変な嫌疑をかけられたり、疑われたのではないかと思った。しかし、俺は一応確認したかった。地図を見て、その結果俺の見知った世界が展開されていたとして──何を思うのかも分からないのだが。
暫くにらみ合うような時間が続いたが、公爵が重圧を消した。それに若干の息苦しさが解消されたように感じられて、少しばかりホッとした。おかしな話だが、マリーを助ける為にかつての英雄と敵対した時よりも、此方の方が俺にとっては苦しい時間だった。
「──そう構えなくても良い。今のは確認だよ。ただし、先ほども言ったとおり、重要な物だ。
見るだけなら良いけれども、持ち出しと複製は禁止させて貰うが、それでも良いかな?」
「有難う御座います」
「では、今回は私が持ってきたので見ると良い。ただし、次からは私がいる時に限り、執務室に限定させてもらう」
「──恐縮です」
そう言われて、俺は二つの紙を受け取る。二つとも羊皮紙のようだが、地図のように折りたたまれた物と、巻物のように丸められた物であり、それぞれ扱いが違うようであった。数秒考え込み、折り畳まれた方は世界地図の類かなと考えて、巻物の方から目にする。紐解き開いたそしてヴィスコンティという国が、概ねどのような形であるかが分かる物であった。山、川、都市、街と町、村……そういったものまで書き込まれた、それこそ”宝”であった。
ただ、その形状に俺は笑うしかなかった。いや、こんな物……誰も笑うだろう。ヴィスコンティとか言ってるが、俺達の居る場所を南下していった所に首都があるらしい。学園も大分国の北部よりだったが、首都周辺の地形を見て理解する。ここ、イタリアじゃねえかと。
勢力図は大分違うようであったが、イタリアの……何半島だったっけな、イタリア半島だったか?……と、初期東ローマくらいの勢力は有るようだ。何だこれ、ヴィスコンティでかすぎだろ……。そう思っていたが、トルコまでは進出できていないようであった。俺の脳味噌が何処まで正しく知識を記憶しているかは分からないが、イタリアからオーストリアとハンガリーを含まずに東へと伸びていって、ルーマニアまでが支配権として入っているらしい。南はギリシャまで入っている、大国だろう。そりゃ貴族至上主義が芽生えても国王や公爵の支配が及ばないわけだ、でかすぎる。
ただ、俺の知っている世界とは色々と形状が違う所がある。イギリス海峡の辺りで一部陸続きになっているのだ、そしてオランダ、ベルギー、フランス北部辺りが魔族に取られているらしく、フランスの場所がツアル皇国らしい。そしてドイツにはヘルマン国……離反した、或いは人類を滅ぼすべきではないとする魔族で構成された地域があるわけだ。ただし、チェコ、スロバキア、ポーランドも一応領地にはしているらしい。世界が世界なら大ドイツの完成である。
ただ、ユニオン共和国がどんな物かと想像していたのだが、此方も面積で言えば負けてない。オーストリア、ハンガリー、ウクライナ、モルドバと東にのびていっている。そのままバルト三国とベラルーシが勢力圏だそうだ。スイスにミラノや俺達が居た学園があるのだが、これで四国と接している事が分かった。それに加え、直線距離で言うならこの前の魔物による組織だった襲撃も不可能ではないと言う事も理解できる。
神聖フランツ帝国はスペインとポルトガルを含めた場所を支配しているが、英雄を寄越せと言えるくらいには平穏な地域に居るのだなと思う。ツアル皇国が完全に防波堤となっていて、海を渡って来なければ侵略は不可能だ。こんな状況で英雄寄越せとか言われたら、ツアル皇国は切れても良いと思う、わりとマジで。
……イギリスが魔界扱いされてるけど、何故そんな海に囲まれた場所に居るのかが逆に気になる。元々は人が住んでいて奪われたのか、それとも魔族扱いされているのかで話は変わるが、それでも勢力図を見ると人類優勢なんだよなあ……。
ただ、気になる点がある。それはこの地図だとヨーロッパ地方以外の事が全く描かれていない事だ。しかも笑える事にユニオン共和国に関しても何処までその勢力が伸びているのか分からない、見たいに描かれている。完全に十四世紀ごろの世界地図と変わらない。気になったのでもう一枚の方を見るが、やはりなとため息が出た。誰も、ヘルマン国とは接している場所以外は調べなかったわけだ、デンマークが有るであろう方角は完全に情報が無い。スウェーデンやノルウェー、フィンランドあたりも見つけてないのか全く描かれていない。
南へと伸びていくアフリカ大陸の外観は多少出ているが、喜望峰を境に一気に曖昧になった。この世界でも植民地争いでも起きるのかもしれない、香辛料の取引でもしているのだろう。日本らしい列島は見当たらなかったのが残念だ。
俺は数秒の間、両方を出来る限り目にし、その図形がシステムに叩き込まれるのを確認してから返却した。もう二度と見ることは無いかも知れないが、重要な物が見られて良かった。そして、幾らか脱力する。
「もう良いのかい?」
「はい、参考になりました。ヴィスコンティの広さや、前の襲撃が不可能じゃなかった事、それと──なんと言うか、ツアル皇国とヘルマン国って頑張ってるんだなあって思いました。あと、世界と言うか、どのように国があるのかが分かったので、旅や遠出をする時には役立ちそうです」
「はは、役に立ったようなら何よりだけど、地図に関してはあまり出し入れをしたくないから頻度は少なくして欲しい」
「──今度は、商人等に聞いてみて、地図等を取り扱ってないか聞いてみます」
そう言ってから、一つ息を吐いた。頭を使いすぎると糖分が足りなくなると言うが、むしろ頭を使ってエネルギーを消費した上に少ない血液で賄おうとして不足してしまい、ガス欠を起したような状態だ。疲労感って、こんなに頻繁に来る物だったかなと自分の今の脆さを呪った。
「ふむ、しかし……君は、なんと言うか、調子が本当に悪そうだ。本当に大丈夫かい?」
「態々来ていただいて、茶も出せずに申し訳ありません……」
「いや、構わないよ。それに、君には借りがある。──それで、このような場で言うのも何だけど、君にどのように酬いれば良いか悩んだが、一つ思いついてね。
もし問題が無ければ、今から言う話の流れで考えようと思うんだけど聞いてくれるかな」
「はい」
俺がそう返事をしたが、公爵は少しばかり考えるように目線を彷徨わせていた。それから、椅子を見てそちらへと近づくと腰掛けるが、それでもまだ……何と言うか、踏ん切りがつかないように考え込んでいた。
何だろう、そんなにも口にするのが難しい、或いは憚られる事なのだろうか? 俺はカティアにお茶を頼むと、直ぐに準備にかかってくれた。公爵はカティアを見て「あぁ、いや……」と、止め様としたが、声と共に少しばかり動かした手が止まり、すぐに「──頼む」と言った。
そのまま言葉が無いままに時間だけが進んで、カティアが公爵にお茶を出してからようやく話が進んだ。
「君は……この国をどう思う? いや、変な意味じゃないんだ。娘に召喚されたという事実、地図を見ておきたいという考え、それと旅をして見たいと言う話。いつかこの国を出て行こうとしているような、そんな気がしてね」
「ん~、そこは……興味とか、趣味? ですかね。魔法もそうですけど、自分の好きな事って、やっぱり追いかけてみたくなるじゃないですか。流石に未知の開拓者は好きじゃないですけど、遺跡とか、旧時代の建築物とか好きで、子供の頃はそういった物を伝聞で聞いて、発見に到るまでと解明されるまでと言うのが好きだったんです」
「そうか。それで、だな。もし良ければなんだが、君の身許を保証すると言う意味も踏まえて──息子にならないかね?」
「そりゃ、また……」
だいぶ、躊躇と言うか、迷うのが理解できる提案だった。まず躊躇う理由などを俺なりに考えてみるが、俺が何処に所属するどんな人物か分からない──いわば、獅子身中の虫じゃないという断言は出来ないわけだ。そしてクラインが「爵位でもあげたら良いんじゃないかな」とか言っていたし、それくらい純粋な男の後継者と言う事も踏まえて公私で重要な事をしたに違いない。
しかし、俺個人としては口にしているが出世欲は殆ど無いし、恩を着せるだけ着せて返礼を求めていないという事もある。ミラノ、アリア、クラインと子を全員救った事になる。それどころか夫人まで徐々に元気になりつつある、一家の悩みの多くを解決したような物だろう。
何もしないとなると今度は沽券に関わるというのもあるが、貴族至上主義が蔓延しだしている事を考えると足を引っ張られる材料は少しでも解消しておきたいに違いない、じゃ無ければ何が原因で流布した噂で状況をひっくり返されるのか分からないのだから。
公爵は恩返しが出来るが、それに対して俺のメリットデメリットを考えてみる。メリットは当然、バックに公爵家がついていると言う事で地盤や取っ掛かりが出来ると言うこと、それは他国でも多少通じる物だろう。俺個人の身分は低いままだが、公爵との繋がりを示唆する事で多少の融通が利くという事だ。決して安くないメリットがある、そこは認める。
ただしデメリットだ、息子と言う事は──ゆくゆくはデルブルグ家に連なる物として見做される事になる。それはお抱えの騎士だとか、仕えているとかそういう意味ではなくなる。まずお家騒動に巻き込まれる可能性が将来的に生じるだけじゃなく、家を背負った言動をしなければならないということになる。それと……養子に組み込まれる以上は、外も何かを疑って俺を狙う可能性まで出てくるというわけだ。
俺個人ならどうでも良い話だが、カティアのことを考えると──受ける事に意味がある気がした。今の彼女はあまりにも宙ぶらりんすぎて、俺を経由してデルブルグ家やヴァレリオ家等と接点を細々と持っているような物だ。出来るのなら、最悪の事態を考えるのなら”次の主人になる人物”を探すのも無意味では無さそうだ。俺が死ねば彼女も死ぬ、一蓮托生の呪縛から解放するという意味や、彼女だけでも生き延びて欲しいという願いもある。
「君は、娘の事は大事に思っているかね?」
唐突に、そんな事を言われた。俺は反射的に「ええ、まあ」と差し障りのない返事をしてしまう。思考に沈みきっていて、判断した上での返事をする事を失念していた。しかし、まあ、ミラノとアリアは──大事かと問われると考えてしまうが”嫌いではない”と言うと言う事を根拠にして”一応大事”と言う事にした。ただ、その”大事”という意味が保身的な意味なのか、それとも個人的な好意なのかをはっきりと言えないあたり、自分でも迷っている。大事って何だろう、他人に対する”好き”とかって何だろう。それが分からないままに、無駄に歳を重ねてきてしまった訳だ。
だが、俺が葛藤しているのとは裏腹に公爵は少しばかり笑みを浮かべた。それは表では見られない、少し疲れた表情だ。
「そうか。ありがとう。色々な事が有ってね、もう息子から話を聞いてるとは思うが誘拐事件がかつて有った。その影響からか、大分、その、難儀な事になっているのだ」
「はあ」
「ミラノに友人が居たように見えたかね? 彼女が自ら誰かと接している場所とか」
「そういや、無い……ですね」
「状況は以前よりも厳しくは無くなった。以前なら息子の事はもう目覚めぬものとして、婚姻で家を次の世代へと繋げなければならないのかと心配していた。だが、安心するのは早いかも知れないが、二人にはその事で話をしたよ。その代わり、息子にはこれからが辛いのだろうがね」
「五年は決して短くないですしね。けれども、あまり心配しなくてもいいと思いますよ。本人は家や家族を大事に想っているみたいですし、それくらいの困難苦難は乗り越えるでしょう」
「ああ、そう有ってくれると嬉しいが。……それで、どうかな」
「……自分が、公爵にとっての弱みや重荷にならないように努力します、と答えれば良いですかね」
事実上の受諾なのだが、公爵はそれでも数秒ばかり俺の返答を噛み砕くようにして受け入れてから、ようやく荷が下りたような反応を見せた。それほどまでに重荷だったのだろうか、あるいは──俺が爵位が嫌だ、領地も嫌だって駄々こねてるから返礼に困った結果、このような提案になったのかもしれない。少しばかり申し訳ないが、地盤の確りしていないうちに爵位だの領地だの貰っても困るのだ。
「それでは、これからも娘を頼むよ」
「ええ、はい」
そして公爵は去って行く、注いでもらったお茶を全て飲んでから「美味しかったよ」とカティアの頭を撫でながら去っていく。年齢的にも、外見的にも、言動的にもこなれた様子で嫌味や下心も感じさせないもので、なんと言うか……若い頃も今もこういう人がモテるんだろうなと思ってしまった。
公爵が去ってから俺は再び倒れ、少しだけ考え事をする。そして数秒の間、悩んでから”それ”を決めた。
「マルヒト、こちらマルマル」
無線機を持っている体を装い、カティアを見ながらそう言った。少しの間があって、スベったかなと思ったが、カティアも少しばかり笑みを浮かべると髪を書き上げてから同じように手を口の前へと持っていった、無線が繋がったようだ。
「こちらマルヒト」
「え~、明日は少し平原まで出て、カティアに俺の扱う武装の勉強をしてもらいたいと思う。
なので外出の調整を任せたいが頼めるか、どうぞ」
「マルマル、体調及び予定に関しても聞いても良いのかしら、どうぞ」
「午前は今日の復習をするので、本日は指揮を解く。体調に関しては”クスリ”が有るので、それを飲んで明日の午後には回復するように調整する。午後に徒歩移動、それと俺がまだ使ってない武装の使用もするから、これを渡しとくから自分の頭のサイズに調整するんだ」
そう言って俺は鉄ぱち、自衛隊装備のヘルメットを出す。当然覆いは付けられていないので、ただただ灰色で重いだけだ、そこには迷彩カラーなんて無い。俺は自分の分も出すと、一つをカティアに渡すと馴染みのある動作で準備をする。物の数分で迷彩で覆われたヘルメットの完成だ、その首が凝りそうな重みも今となっては懐かしい。
「明日はちと危険なものも取り扱うから、今俺がやったみたいに覆いを被せて、顎ヒモの長さも調整しておいて欲しい。忘れたとかは無しだ」
「ええ、分かった。それで、危ないって言うのは?」
「今までは射撃……銃を使った戦闘しかして来なかったけど、これからは手榴弾を使うことも有ると思う。その種類と概要も説明するから、学んで欲しい」
「分かった」
「それと……戦闘手袋も一応渡しとこうか、手の保護に使える。俺が使ってるのと違って補強されてないけど、コッチに関しては破損や紛失にはその場で対処するから覚えておいてくれ。
えっと、他には……いや、それくらいで良いか。それじゃ、下達した指示を実施、その結果報告をしたら解散、別れ」
「ええ、言われたとおりに」
若干返事は違うが、彼女は崩れた敬礼をして見せてくれた。それだけでもなんだかほっこり出来たので、俺は彼女の事を笑って送り出した。そして暫くしてから外出の旨を伝えた事と、ヘルメットの準備に関して質問攻めされながらも俺は笑いながら教えながらカティアと準備を進めた。二等陸士の相手をしているみたいな気がする、実際俺も中隊に入りたての時は何も分からなかった、彼女はかつての俺なのだ。
その後、カティアが出て行ってから俺は再びベッドに横になって読書の後眠りにつき、夕食を食べてからは酒を飲まずにその日を終えた。
――☆──
その日の夜、夢の中……と言って良いのか分からないが、アーニャとの世界に居た。そして今日の彼女は頗る不機嫌であり、三十分は色々言ったりしていたが、それも俺が意識を飛ばして上の空になっている事も理解してか、上の空であった事に対しての不満も含めると一時間で収まった。
「まったく、何時になったら貴方様はご自分を大事にしてくれるのでしょうか」
「そりゃあ……まあ」
「愛が足りないのです、愛が! 貴方様の環境は、そこまで恵まれてないのでしょうか?
安易に危険へと身を投げ出すのが難しくなるような人間関係とか、普通はそういうのを気にするのですけどねえ」
そう言ってアーニャは悩んでいるようであった。ただ、俺にも非が有るので多くは語れない。自殺志願者だとか、正気の沙汰じゃ無いとか色々言われても仕方が無い。今回は甘んじて受け入れる。
時間が経過してようやく落ち着き、アーニャがお茶の準備をしだす。お菓子も出てきて、いつもの時間に戻ったのだなと認識できて、俺は幾分ホッとした。今日はマカロンケーキだそうで、甘いのが好きな俺は思わず唾を飲んだ。
「このケーキ、作ったのか?」
「え? いえいえ、日本に行く時の為に下調べでちょっと行って来たんですよ。その時にスーパーを見かけてですね? ついつい買ってしまって」
「俺は有り難いけど、それだと支出とか手間とかでアーニャに負担がかかるんじゃ……」
「そこらへんは心配ご無用です! 私も少しでは有りますがお仕事でお金を貰ってますし、知り合いの方にお願いするとお金を増やしてくれるんです!」
「……うん、そっか」
増やすって、どういう意味? それを聞きたかったけれども、聞いてしまったら都合の良い真実か、認識しちゃいけない事実のどちらかが転げ出てくるだろう。これで俺が聞いたとして「何も無い空間から作り出すんですよ~」とか言われた日には、貨幣という物の概念が俺の中で壊れかねない。
貨幣とは昔からそれだけで国がひっくり返りかけるような騒動が度々起こるような存在だった。日本で言うなら金銀比価による小判──金の流出でインフレが発生した事とか、ドイツの一時大戦後の「珈琲を飲むのにトランク一杯の金が必要だったが、飲んでいる間にトランク二つ分に値上がりした」と言う事もある。リーマン・ショックも記憶に新しい事だろうが、金とはそもそも”信用”によって使われる物だと言う事を忘れてはならない。
まあ、冷静に考えればお札には通し番号だの偽造防止の為に色々と仕込がしてあるのでマジカルに作り出していると言う可能性は無いだろう。健全な手段に違いない、下手すると株に詳しい奴だったりするのだろう、恐ろしい。
マカロンケーキを食べて、今居る世界では味わえない美味しさに幸福をかみ締めながら、やはりあの世界で何が作れるのか模索した方が多少幸せになれそうな気がした。
「そういやさ、日常会話でなんだけど」
「はい、何でしょう?」
「基本的に共通言語──と言うか、俺からしてみると”平仮名、片仮名、漢字”で構成された物でされてるんだけどさ。ナイフとかフォークとか、そういったものはそのままなんだよ。何かおかしいなと思って」
「それは……もしかすると、翻訳がおかしいのかもしれませんね。すみません、その──私の言語能力を基準にして翻訳をするようになっているので、その影響かもしれません」
「……え、なに。ハンガーの事を衣紋掛けって翻訳するの?」
「вешалка《ヴィエシャルカ》と言った方が宜しいでしょうか?」
それだと余計分からない。イントネーションや聞き覚えのある発音の仕方にロシア語っぽいなと思ったが、とにかく理解できないのは分かった。これぞ無知の知とも言える、分からないと言う事が分かっただけでも大きな前進である。俺は今のままで良いとした。
「翻訳に問題があったら、是非言ってください。出来る限り対処しますので!」
「あ、うん。あと、ナイフとフォークは共通で認識できるってのは分かったんだけどさ、”フランク”とか、そういった言葉は相手に伝わらないのは?」
「相手の言語にその概念に該当する言葉が無いから、翻訳されないでそのまま音として聞こえるだけなんだと思います。
銃の無い世界で”ライフリング”と言った所で相手にはそれが何なのか理解できないのと同じです、多分”静電気”といっても分からない可能性も有ります」
「あぁ、なるほどね……。けど、何でベッドは寝床って言うんだろう、カーテンは窓掛けとか言ってる気がする」
「それは翻訳の問題です」
「バトラーは執事で、メイドが使用人と言われるのは?」
「それも翻訳の問題です」
「そんな状態で”何言ってんのコイツ”って何度も言われながらも健気に頑張った俺の努力が虚しいのは?」
「それも翻訳のせいです」
「そんな不具合に詫び石は?」
「……出ません!」
そっか~、詫び石。別名、ユーザーへの「メンテとか、不具合とかで迷惑かけて御免ね。本当なら有料だけど、これあげるから今後ともよろしくね?」という配慮とも言う。なお、詫び石乞食と言うのも居るので、無償で有料の者が手に入るという事は垣根が低くなる上に”餌”によって来たハイエナが増える事になるので宜しくない。
「そんな意地悪を言う人は嫌いです!」
「いや、御免御免。けど、日本語が得意じゃないってのは本当なんだな。俺も人の事は言えないけど、それでも……」
衣紋掛けとか、外套とか。日常会話で聞いている人なんてそうそう居ないんじゃないだろうか? ハンガーとコートって言えや、何処の意識高い系だよ。長々と「このアイディアに関してはプライオリティをあげて、ブレストを引き続き行い、ベースをロジカルで固める方面で行きたいけれども、フレッシュなアイディアをユーザーにコミットする事で、ウィン─ウィンな関係を構築して上司のコンセンサスを得る方向で行こう」とか言ってるのと同じだぞ。どっちもまどろっこしい、簡潔に結論を頭に持ってきて手短に話せや。
「それでも、なんでしょうか?」
「いや、そういや……俺も日本語の使い方が真っ直ぐすぎるって笑われたっけなって。人の事を言えるほど、俺も日本語得意じゃ無かったよ」
学生時代の仲間達、よくつるんでいた友人達は良くも悪くもハッキリした奴らだった。政治、軍事、二次元、ゲーム、電車──殆ど被る事の無かったそれぞれの趣味嗜好をしていたが、それでも不思議と一緒にいる事が多かった。
俺を除いてその友人達は純粋な日本人で、親の仕事の都合で他国に居たという意味で帰国子女だった。俺みたいに半端──いや、ハーフではない。高校二年生になって、バレンタインデーの後で、皆と変わらぬ(義理)チョコを貰った帰り道で言われた。
――お前は、良くも悪くもストレートだからなあ──
俺は、当時皮肉とか嫌味とかが言えなかった。今でも言った所で鼻でまず笑ってしまうとか、声色が洋画の吹き替えの如く「嫌味や皮肉を言っている」と分かるらしく、どうにも分かりやすいようだ。今ではその影響で”言う・言わない”で嘘をついたりする事へと伸びていった。あるいは、フィルムの切り貼りのように自分の行動と、その意味をまったく違う物にしてしまう。これに関しては、今の所上手く行っていると思う。相手には差し障りのない優しい嘘を提供して、態々此方が思い悩んでいるとか、考え込んでいると言う事実を知って揺らぐ必要は無いのだから。
「──貴方様の学生時代を、聞いても宜しいですか?」
「何処にでも居る、思い上がった学生だったよ。アニメが好き、ゲームが好き、漫画、ラノベ、スポーツ……何でもやったなあ。サッカーは苦手だったけど、バスケや野球、バレーボールとかは好きだったかな。海外に居た時はアーチェリーに乗馬とか……まあ、色々な国を渡ってきただけあって、体験と経験だけは多少恵まれたと思うよ」
「スポーツに良く誘われていませんでしたか?」
「放課後、試合がある時はいつも部活の連中に誘われてたんだ。良くも悪くも、気の良い連中だった……。野球、バスケ、柔道、弓道──そんな頻繁じゃないけど、ちょくちょく誘ってもらってたよ」
「──貴方には、友人が居たとか」
「オタク仲間、と言えばいいのかな。いや、それすら何か認識としては曖昧かも知れない。
最初の友人がその五人で、卒業後も縁が続いた奴らなんだ。それ以外にも、話をして、一緒に遊んで、たまにある同窓会では互いの変化に驚きながらも笑ってたなあ……」
まあ、その全てが今は昔。|long long ago《昔々、あるところに》と言う話なので、思い出語りでしかないのだが。
「アーニャは、友達とかは?」
「その、すみません。私は、日本に着てから友人が出来なくて……。日本語、今ほど流暢じゃなかったんです。今もまだ、それほど上手じゃないのですが」
「──そっか」
友人が出来ない、と言うのは別に異常ではない。事実、色々な国を渡っていると、同じように色々な学校や人種、国籍の人と関わる事が出来ると言うことでもある。日本人学校と言うものが有るが、そういった学校は近隣の他学校と交流や教育の一環として関わる事もある、相互交流と言う奴だ。
弟は海外では苛められていた、妹は日本で苛められた。俺は──まあ、虐めと言うには孤立はしなかったから虐めじゃないのだろう。兄妹の中で、長男である事と両親の「一番上なんだから~」という言葉を真に受けて育った影響も強かったと思う。ただ……護る者では有りながら、救われはしなかったが。
「貴方様は、入学して直ぐにご友人が出来たそうですね」
「色々な物に興味が有ってさ、それ何? それどういう話? って、分からない事を全部聞いて回ったんだ。まあ、中にはそういうのを煙たがったのも居たけど、良い人達ばかりだった。
まあ、笑われたりもしたけどさ。それでも、人って言うのは興味を持ってもらえる事は嬉しい事だし、相槌の打ち方やタイミング、それと適度に相手の話に質問を投げかける事で刺激を与えながら長く話をさせてやると──気分が良くなるみたいだけどね」
こっちに関しては、狡賢く習得した物じゃない。むしろ知らない物に対する興味の強さと、自分が何も知らない無知な生き物であると言う哲学的な考えに触れた事も有って勝手に出来上がったものだ。因みに、学生時代は携帯電話を持っていなかったので「携帯で調べる」と言う事が出来なかったし、クラスメイトから連絡先を聞かれても「ごめん、携帯電話持ってないんだ」と言うしかなかった。
「そういや、携帯電話の連絡先……。誰とも交換してなかったんだよなあ。そのせいで携帯を持ってから家のFAXから登録してる友人の連絡先しか回収出来なかったんだ。
学生時代に携帯電話を持ってたら、もうちょっと楽しかったりするのかなあ……」
「さあ、どうなんですかね? けど、可能性が無で有る事よりも、僅かにでも存在する事は良い事だと思いますよ」
「その可能性は、プラスにもマイナスにも存在するけどな」
そう言ってから数秒考え込み、それからため息を一つ吐いた。全ての可能性を疑え、備えよ常に──色々な「考えろ」と言う教育が、疑り深さと言うかネガティブシンキングになっている気がする。本来は「任務達成の為に、或いは下達された命令の為に何が必要で、その為の手段や要する物は何かを考えろ」とか、そういったものの為に使われるべきものだ。それが後輩や先輩、同期や上官、そして任務が存在しなくなった事で「いかに自分が傷つかないで済むか、いかに自分の好む展開に持っていくか」と言う事に方向が定まってしまったのだ。
これからは、多分マイナスやネガティブも良くないのかも知れない。少なくともカティアに対して偉そうに講釈を垂れたのだ、その俺が二つの意味で”人として”立派な所を見せなければならないだろう。
「──今日はお暇するよ、後始末しないといけない事があるから」
「あ、そうでしたね。けど、二度と自分を大事にしないような真似はしないでください」
「約束は、しかねるかなあ……」
今日は俺の都合により短時間の滞在となった。俺は目覚めて現実に戻る為に、彼女が毎度作り上げる帰り道である扉へと向かう。
「あ、少々お待ちを」
「ん? なに?」
「一つだけお尋ねしたい事があるのですが」
「答えられるものなら、何でもどうぞ」
「自殺する人は、何を考えて自殺するのか……貴方様は、何か分かりますか?」
その質問に対して、俺は数秒だけ考え込む。けれども、俺は首を横へと振った。
「それには、多分単純な回答や一概に言い得るものは無いと思うよ」




