45話
報告、連絡、相談は早ければ早いほど良い。中隊に配属され、教育隊の頃は携帯電話なんて携行できずに、ただひたすら新兵教育に明け暮れていた頃とは、まったく違う状況に移行したのを認識出来た時でもあった。
二四時間勤務、特別職国家公務員である自分達には、どんな状況であっても連絡手段を確保し、何があっても集合――ひいては命令に従わなければならない。それが休日であれ、長期休暇であれ、法事であれ、駆けつける事が可能なものからすぐさま駐屯地に集い、指示を待つ。
事実、ソレが公に出来ない事であれ、或いは国に関わる大事であれ実際に機能した事はある。俺が現役だったときは、台風による土砂災害の時と、北朝鮮によるミサイル発射に備えた防衛配備の時だ。
それ以外でも報告、連絡、相談は常に行われる。それは一般でも同じだろう。けれども、階級に課せられた責任以上の事は下は負わなくて良い、外でよく言われてるという「ソレくらい自分で考えろ」からの「なぜ聞かなかった」に続き「自分でやった事は自分で責任を負え」と言う、クソみたいなコンボは発生しない。なぜなら、上は絶対に下を教育し、下は教育された範囲で様々な事をやらされるだけなのだから。
教わっていない事をやろうとすれば事故が発生するのは当たり前だ、そこで上の人に報告をする。ソレがどのようなものかによって、上の人はその場で対処してくれるかも知れないが、その人ですら対処が難しい場合は更に上へと連絡が行く。どうしたらよいかを相談して、対処できれば喜ばしいが、ソレが不可能な場合は網の目のように報告、連絡、相談が繋がっていって、適切に対処しようとする。それが正しいのだと、俺は思う。
ロビンによって自分の体験した事のない馬の速度を出され、しかも揺られてフラフラだった俺だが、そのまま公爵の居る執務室へと通された。ロビンが出入り口の扉付近で入出の警戒をし、俺は出されたお茶の匂いを嗅いで、舌で少しすくうように飲んでから落ち着くまで少しだけ待ってもらった。
そして、全てを話すが――マリーと言う英雄である彼女が語ったような危険性を感じなかったのか、公爵は幾らか首を傾げざるを得なかったようだ。俺も理解が出来なかったのでそれについては何とも言えなかったが、俺が拒否すれば次に目を付けられているのはミラノやアリアであり、場合によっては強硬手段にも出かねないということは伝えた。
会話の結果、とりあえず様子見と言う事にはなったが、酒の飲みすぎを理由に俺は夕食を自室で取る事にし、食事の場と言う体裁だの面目だのを時間と一緒に使っていくあの時間を避ける事にした。
あの食事の時間、どうにも肩肘を張るとともに緊張してしまうし、食事を食事と思って摂取する事ができないので息苦しいのだ。しかもミラノにはテーブルマナーや言動に関して後で掴まえてきて色々言われるし、話題を降られたら考えながら返答しなきゃいけないしで面倒くさい。
なので、今回の反省を生かし、部屋でアルコールの残りを分解させながら、魔導書を読んで魔法の勉強を進める。たぶん効果があるだろうと思われる対策手段を見つけ、自分に状態異常関係の魔法をかけ、そして解除に試みると言った練習をしていた。前にミラノと一緒に魔法の鍛錬をした事があるが、その大半が回避と防御の練習だった。魔法を避ける、或いは剣で防御するだけだったが、あの時は攻性魔法だった。今回は妨害とかそういった類の魔法の解除なので全てが適応できる訳ではないが、まるで役に立たない訳ではない。
ミラノが一度使い、俺もこの前一度ばかり使った『ディスペル』は”状態変化”を解除する力がある。だが、この魔法を使ってしまうと俺が他人を騙す為に見た目を偽っている魔法でさえも解除してしまう為、この前キリングとの授業で教わった”自身に影響を与えない”という設定を魔法に付加してやらなければならない。そうする事で”自身に付与されているプラス効果の有る魔法”や”自身で付加した魔法”を回避して、それ以外の魔法を解呪してくれる。
部屋に閉じこもって練習していて良かったと思う。そうでなければ、俺は自分が偽って演じている事がバレる所であった。けれども、対抗手段を得られたのは大きいので、今度のキリングとの勉強会の時に”魔法に対抗する魔法”と言うのを学びたいと思う。流石に自分で自分に攻撃魔法を放つのは難しく、だからと言って炸裂や爆裂魔法で自爆して、ソレを咄嗟に防ぐと言うのは余りにも難しい上に、屋敷にダメージを与え周囲の人を驚かしかねない。誰かが居ないと実の有る訓練にはならないのは、魔法であれ格闘であれ射撃であれ同じと言う事だろう。
皆が食事の席でゆったりと食事をし、飲食が済んでも席を立てないと言う時間を過ごしている傍らで、俺は運び込まれた食事を駐屯地食堂での食事のように平らげる。当然のようにメイドさんが給仕をしようとして来たが、自分で全てやると押し出すのはいつものように苦労が要った。と言うか、クラインと言う人物が次期当主と言う事もあるのだろうが、何かと世話を焼かれそうになるのが若干面倒くさい。だが、クラインもやはり自分で色々とやる人物だったようで、昔からメイドの手を借りずに押し出して居たそうな。お前は俺か。あるいは、俺があいつなのだが。
さて、食事を終えたら何をするかと言えば、そのまま続いて魔法の勉強である。先程は妨害魔法への対処法を見つけたので、今度は攻性魔法への対処を探し始めた。夢の中で見た聖職者のような英雄”ヘラ”、彼女の言っていた結界と言うものからアイディアを得た。他人が居ないとその精度を高められない手段を”いなし”とするなら、俺がこれから練習するのは”受け”の手段だ。
いなしは、相手の攻撃を逸らすものだ。本来であれば此方の身体を狙った攻撃であっても、その攻撃に対して手を加える事でまったく違う方向へと流してしまうものだ。格闘訓練や乱取りで何度もやってきたものであり、魔法を介在させないものであれば幾らか自信はあるが、魔法では勝手が違うだろう。
なので、時間を無駄にするくらいならと防性魔法を自身にめぐらせて、ダメージや効果を低減させる手段なら相手が居なくともある程度の効果は見込めるだろうと探しだし、練習してみた。”レジスト”、魔法への抵抗を高める事で効果を低減させる物。”マジックシールド”、此方は物理的な言い方をするならば盾等で相手の攻撃を受ける物に近い。防御とは本来であれば成功すればダメージがゼロ! ……という印象が有るだろうが、実際にはそんな事はない。どんなに上手く防御をしても、相手の勢いを受けてしまっている以上相手が優勢である事に変わりは無い。相手の突進力を相殺し、攻撃を受け止めるために此方も同量かそれ以上に力を使っているはずだ。それを魔法に置き換えると、また勝手が違うようだが。
魔力を自身にめぐらせ、相手の魔法が命中してその効果を発揮しようとするのを阻害し、勢いや力を散らす事でダメージを軽減出来る……というだけのものらしい。そのように書かれているのだから、力量差が圧倒的じゃなければどう足掻いてもダメージが通る事になる。
学園に居て、ミラノと同室だった頃は消灯時間まで俺はずっと部屋で魔力を消費することで、自分の魔力回路の開発をしていた。だが、最近ではご無沙汰だったなと思い出し、自分にマジックシールドを張り続ける事で、魔力を消費し続け、魔力を消費する事に慣れようとしていた。
マジックシールドは本来一回限りのもので、爆発反応装甲のようなものだ。一度張る事で一定時間身を守るが、魔法に反応してその魔力全てを飛んできた魔法に干渉、炸裂する事で消滅する。つまり、自分の張った魔法に影響しないように設定さえしないで、もう一度マジックシールドを発動させる事でマジックシールド同士で反応しあって相殺しあい、消滅するのである。
ソレを何度も何度も発動させる事で、魔力をただ徒に消費していく。腕立て伏せや腹筋、懸垂のように発動させた回数を数え続け、頭痛や吐き気が来るまでやり続ける。その回数を詠唱限界として”弾数”として認識し、一回の発動にかかる時間を前後と中間を含めて”予備動作及び、発動後のブランク”としてラグを計測する。
射撃や格闘と同じで、前、途中、命中、後のように受け入れていく。口は一つしかない、その上魔法の性質もあるので、詠唱がどうこうではなく、干渉が発生してしまうが故に発動し続けられないものも有るし、連続して発動させられない事も有る。射出系と放出系などが有るように、一つの魔法や属性をとっても色々有る。ということは、マリーに俺が加重の魔法をかけられたときに取れる対処は幾つかあったのだ。ソレこそデイスペルを”自分が付与したものに影響しない”と設定するとか、その加重に抵抗できるくらいの身体能力強化を発揮しても良かった訳だし、加重とは逆に軽減の魔法を使っても良かったりと、今なら幾つでも挙げられる。
後手後手過ぎると無意味だ、今回は俺だけだったから良かったものの、もしヤゴですら人質に取るような相手だったらどうなるかと考えると恐ろしくなる。
――世界も他人も、楽観視するには絶望的なほどまでに期待できないと言うのに――
そして、マジックシールドを何度も何度も発動させているうちに、魔法なんて使わないで魔力そのものを放出し続けた方が魔力の消費と回路の開発に役立つのではないかと気が付いてしまう。だから――少しばかり、好奇心で試してみる事にした。脳裏では「男は度胸、なんでも試してみるものさ」という声が聞こえてくるあたり、ネットに毒されすぎている。
確かカティアは魔力を放出し、ソレを固定化することで球体を作り上げて自在に操っていた。ソレと同じような、或いは似たような事をすればいいはずなのだが……。魔力の放出と言うものが俺にはやり方が分からず、結局おとなしくマジックシールドを幾重にも重ねまくる事しかできなかった。
マジックシールド、マジックシールド、マジックシールド、マジックシールド。床に胡坐をかいて座り込み、目蓋を閉ざして何度も何度も発動させる。一度の発動ごとに一秒の間を置いてはいるものの、早口言葉のように駆け足じみてしまう。そうやって集中し続けていると、アルコールが汗とともに流れていくような錯覚を覚える。まともな食事、温かい食べ物で体の芯から温まっている事も有るだろうが、呼気が苦しくなっているが為に身体に負担が増え、汗が滲み出していった。
頭痛がしてきた、吐き気がする。それまでの回数を思い返し、メモに書きとめる。戦いの最中、常に自分のステータスを見ておける訳じゃないし、体力だの魔力だのと表記されていてもゲージ表記なので正確な消費量は把握できない。もし正確な消費量を計算しようとするのなら、ソレこそ何日かかけて行わなければならないだろうが――そんな長期戦かつ激戦に身を置く事はないだろう。あるいは、おきたくないと言っても良いが。
……今回の件、俺がニコルと言う人物に一時的とは言え拘束された事は広まらずに済んでよかった。ヤゴがザカリアスにまず声をかけたおかげで公爵へと火急として目通りされ、そして事情を把握した上でロビンが派遣されただけにすんだ。
もしミラノやアリア、カティアが聞いていたなら、こうやって部屋に閉じこもっている事は難しかっただろう。すぐさま部屋に乗り込まれ、殴る蹴る魔法の三段暴力で痛めつけられた上で説教をかまされていただろう。んで、カティアもキレて、その後で泣く。アリアは心配してくれるけど、その後で落ち込んでしまう。
魔力回路の疲弊まで辿り着くと目を見開き、大きく息を吐き出し、そして荒くなっている呼気を整えるように深呼吸を繰り返した。頭――というよりも、脳の奥底から突き刺すような痛み、吐き気の方は頭痛よりも先にひっこんでいくが、それでも遅い。
運動後の心拍数を確認するように、頭痛や吐き気の回復速度もはかる。今は床に座っている訳だけれども、それでも常に満足のいく状況で落ち着ける訳じゃないから、最悪を考えて把握する事にも努める。一分でどれくらい楽になるか、二分でどれくらい楽になるか、三分でどれくらい楽になるか、四分、五分とそれぞれの回復量も把握する。
前に教わった気がするが、魔力の回復は状態に応じての物だそうな。立つより座った方が回復しやすく、座るよりは寝た方が回復しやすいとか。飲食や、休息時に快適であるかどうかで回復に違いがあるとか聞いた気もするが、ソレも調べた方が良いだろう。
魔法のみでの攻防戦、魔法を交えた遠近両攻、魔法を利用した近接戦闘……。学ぶべき事が多々ある、そう考えると頭が痛くなりそうだが――やるべき事が増えた、やりがいがあると言う考え方も有る。けれども、目に見えて成長が実感できるものは嫌いじゃない。ゲームでもそうだけれども、レベルアップした際に能力値がどれくらい成長し、敵に一回攻撃されたときのダメージがどれくらい軽減され、大体どれくらい成長すればダメージが皆無になるのかを計算するだけでもやる気が増える。逆に敵に与えるダメージが増えて行き、敵との交戦ターンが一つ減ったり、一回の攻撃で倒せるようになるまでという過程も楽しいのと同じだ。ただ違うものがあるとすれば、ゲームではなく現実であるという位なのだが。
吐き気が治まるまでは五分程度、頭痛が完全に無くなるまでは十五分近く必要だった。吐き気は突発的で大きな負担になるし、頭痛は長期的かつ持続した負担となるのでどちらも避けたいが、それも体験しておけば負担に耐え切れないと言う事は無いだろう。それでも、我慢できないし痛みに耐え切れないと言うのを避けられるだけであって、何の解決にもなっていないのだが。
「訓練?」
部屋で試行錯誤し、汗だくになっていた俺へと声をかけたのは食事の席を早めに切り上げたらしいカティアだった。公爵との対話を終えてからずっと部屋に篭り、食事が運ばれるまでは勉強と幾つかの魔法を練習し、食事を早急に終えてからずっと魔法の詠唱ばかりしていた。
限界到達一回、休憩三十分。再び魔力消費の為の詠唱をしていた所で、部屋の戸が開かれて彼女が姿を現したのだ。俺は流石に魔法に関しては不慣れだ、前も魔力を弾丸にして銃を主とした戦闘をしていただけなので、疲労が少なくない。
流石に喉も渇いたし、魔導書も読まずにちゃんとした休憩を取ろうと考えてゆっくりと立ち上がった。カティアはその間にも扉を閉ざし、部屋に入ってくる。
「ま、そんな所。この前カティアに睡眠の魔法で眠らされたのもあるし、目に見えない攻撃に対して防御や回避の手段を手に入れようと思ってね」
「そう言えば、そんな事も有ったかしらね――。で、本当はどんな理由?」
「本当? 本当って、いったい何の話かな」
椅子に座り込み、喉を潤せる程度の水を出す。コップなどに注がずとも、球体として制御する事でそのまま直接口に放り込む事ができる。態々入れ物を探す必要も手間も無くなると言う訳だ、見栄えは良くないけれども――少しの訓練や勉強の成果だ。
だが、座って休憩を始めた俺の傍にまでカティアはやって来て、綺麗な笑みを浮かべた。嫌な予感がしたが、ソレを察知した時には椅子を掴まれ傾けられた後だった。復帰する事も倒れる事もできないアンバランスな状態で怖気の走るような状態。例えるなら、空中に放り出されたような感じだ。絶望、思考の空白、先の分からない状況――声が出そうになったが、ソレすらも何とか飲み込んだ。
「ご主人様? 互いに相手の状況を把握できるのに、そんな嘘をついても仕方が無いと思うのだけど?
実際問題、ヤゴさんが一人で戻ってきた時に”緊張”とか”深慮”とか出てきたら、何と無く分かると思うけど」
「分かったから、降参! 早く戻してくれ、家具も安くなさそうだから怖いんですけど!」
常時カティアとは連携している、パーティーメンバーとして互いに状態が見られるようになっているのが今回は災いしたようだ。ゆっくりと傾きが無くなると、それでも尚疑っているような彼女の表情に両手を挙げた。というか、これで更に誤魔化し等したら酷い目にあうのは理解できる。
「まあ、町中でね。隣接する場所に領地を持つ、この前話をした相手と遭遇したんだ。
それで、少し脅されて、酒場で酒を飲みながら話をして、解放された」
「――それで、話の内容は?」
「ソレは……少し、よく判らない感じだった。悪意が見えないし、騙そうとしている感じは……しなかった。
ただ、無系統の魔法使いの力が借りたいけれども、公には出来ないような……そんな感じ」
「なにそれ?」
俺でも首を傾げてしまうような物言いだが、事実そんな感じなのだ。奇跡と呼ばれる代物がこの世界には有って、その一つがこの国にある。そして死んだ者であれ、生物であれ完全にクローニング出来るような代物が有って、それを使って奥さんを蘇らせたいのだという。
説明していると、聞こえは何と無く良いのだが、その為に死体を使う事を説明すると彼女は嫌な顔をした。全身を使うのか、それともDNA程度でいいから使えれば良いのか、それすら分からないけれども。少なくとも表立って出来る事じゃないからこそ、非公式に協力を要請したんじゃないかと考える。
そして今はクラインとして協力するか否かは保留しているが、それはクラインじゃなくて妹――ミラノやアリアでも構わない上に、強行する可能性があること等、公爵との会話でした事をそのまま繰り返した。
カティアは最後まで聞いていたが、数度頷くとため息を小さく吐く。
「それで、私は二人にくっついてれば良いのかしら?」
「ありがたい申し出だけど、物分りが良いね」
「少しだけ、ご主人様の事が分かってきただけ。けど、そう言えば不思議とご主人様の事を知る機会って余り無かったけど、昔話とかって嫌いかしら」
「なんで?」
「落ち着いて、そう言った話をした事がなかったから。――私は、貴方の僕だからある程度知っても良いんじゃない?」
そう言われ、俺は昔を思い出した。そして真っ先に思い返されるのは世界から隔離されたかのように存在する、無職でニートをやっていた俺の姿だった。五年――決して短くない期間だが、仕事もせずにパソコンを”作業のように”いじくり、一日を消費していただけの毎日。
もっとも惨めで、もっとも語りたくない事ではあったが――
――不思議と、以前ほど口にしたくないという気持ちは弱まっていた。
「カティアは、向うでの国とか――或いは常識とかって、分かる?」
「そこらへんはあの人に教えてもらったから大丈夫。なんだったら、世界地図と国くらいならある程度諳んじて見せますわ」
「それじゃあ、一般常識程度の知識があるのを前提にして話をするけど――」
自分の出自だの、家族構成だの、どういった生き方をしてきたのかを語るくらいしか出来ない。今でも思い出せない記憶は少なくないが……自分が何故自衛隊を目指したのか、その片鱗と思しき出来事を思い出す。
JICAに勤めていた父親の友人の死去、クラスメイトの自殺、交通事故の現場を目の当たりにする、等々等々……。世界は不条理で、社会に希望は無くて、人生は長くなくて、生きている事に意味があるのかを考えてしまうほどには死が間近過ぎた学生時代だった。
高校卒業後、そのまま自衛隊に志願する。入隊時点で十八歳になっていれば大丈夫だったので、頭を丸めて武山へとバスで同じ候補生達と運ばれる。そして――自衛官候補生として、前期三ヶ月、後期三ヶ月の六ヶ月の訓練機関を経て、第一普通科連隊の中隊へと所属する事になる。
「訓練って、いつもやってるようなの?」
カティアにそう訊ねられるけれども、あんなの”趣味”と言って片付けてしまえるほどに楽だと答えると、カティアは嫌そうな顔をした。事実、当時は滅茶苦茶きつかったし辛かった記憶がある。朝六字に喇叭で叩き起こされ、十一時の消灯時間で眠る。全ての時間がガチガチに管理され、一秒の遅刻ですら許されず、口答えも反抗も許されない。
八時の朝礼と訓練開始までに食事や準備、トイレ等を全て済ませる必要がある。しかし俺たちの時は0730――七時半に朝の準備運動が導入されていた。自衛隊体操を行い、腕立て腹筋懸垂を行い、その上で声を出しながら上半身裸で走る。そして基礎能力を少しでも向上させながら八時の朝礼後に服装点検が実施された。
プレス・半長靴と言えば通じる、戦闘服上下のアイロン掛けと半長靴を綺麗に磨き上げているかどうかの点検が班長によって行われる。当然その中には着こなしや髭を剃っているかどうか、顔付きが輝いているかどうかまで判断基準に追加される。やる気の無い表情や辛そうな顔をしていれば減点され、その点数の数を十倍して腕立て伏せをその場でやるのが当然だった。
尚、中には酷い奴がいる事もある。出来ない奴は最初こそ個人的に腕立て伏せをさせられるだけで大丈夫だが、今度は同じ班の同期がアドバイスや手助けをしなければ連帯責任で丸ごと腕立て伏せをさせられる。個人的な努力だけではなく、集団として互いに助け合えるかどうかまで求められるのだ。
ポケットに手を入れて歩けば反省、班長靴のヒモがブラブラしていれば反省、戦闘服の裾が班長靴に入っていなければ反省、入隊して支給された官品の整備や取り扱いが悪ければ反省、態度が悪かったり少しでも口答えをすれば反省、自分よりも上の人に欠礼――挨拶をしなければ反省、整理整頓が出来ていなければ反省、銃口管理が出来ていなければ反省、知らなかったとは言え左手で敬礼をして反省、座学でウトウトしただけでも反省、反省、反省、反省。
そうやってガチガチに固められながらも、必要とされる事柄全てを朝から夜の就寝までの時間で叩き込まれていく。命令の理解に始まり、命令を出されて即座に反応できるかも訓練し、同期を束ねて引率等を通じて指示出しができるかどうかもやらされる。当然、引率なんて不慣れであっても示された時間までに移動を完了しその報告をしなければならない事だって有った。
さて、規律の面はもう良いかなと話を区切ると、既にカティアは視線を彷徨わせていた。当たり前だ。放任や自由にさせていると言えば聞こえは良いかも知れないが、もし俺がカティアを本気で教育して並び立つ相棒にしようとしたら似たような事をするだろうしさせるのは想像に難くないだろう。
事実、陸曹教育が終わっていたらそれらに関して習熟した上でそう言った事も部隊にいる間にやっていただろう。けれども、俺はその途中でドロップアウトした負け犬でしかないのだが。
少しだけ間を置き、廊下に誰も居ないかどうかを確認してから再び話を続けた。その後に来るのは訓練内容だが、それに関しては余り詳しく語る事はない。格闘、小銃格闘、射撃、突撃等々。カティアが「突撃って何?」と聞いてきたので、それに関しては単純に「仲間や味方と連携しながら、敵に突っ込んでいく戦い方」と答えるしかなかった。ただ、その突撃は何百メートルもするし、四秒躍進と言われる”敵が再び頭を出し、こちらを認識し、狙いをつけて射撃をするまで”の分かりやすい例えだ。
相手も俺が使っていたような銃を使う、だからこそ常に走ってなんか居られない。俺が狙われたら味方が援護射撃で頭を抑えてくれる、その間に遮蔽物から飛び出してまた走る。俺が走ったなら狙われるのは俺で、味方が今度は前進してくるのでその間は相手を押さえる。交互に抑えながら緊迫し続ける――というのが、野戦の突撃だと説明した。
機関銃手になればまた幾らか違うし、場合によってはLAM《個人携帯対戦車弾》を持っての突撃もある。その場合は障害排除が役割になるが、だからと言って小銃を撃たないわけじゃない。他には市街地戦闘訓練――この前の町中での戦闘がそれに準じるかなと付け加えた。
野戦が常に走り続ける体力勝負だとすれば、市街地は気力勝負だ。数名で一つのグループとなり、建物の安全化をはかる事もある。その時に複数のグループで連携しあいながらヘビのようにうねるイメージが強い。建物周囲を警戒し続ける人も居れば、階段や脱出経路となる場所に張り付く場合もある。そして幾つかのグループによって部屋を一つずつ攻略して行き、制圧とする。
市街地の方は、音や動き、視界に移る景色の僅かな変化ですら察知していかなければならない集中力――気力が問われる。曲がり角、窓、隙間、部屋の隅等々に居た場合、野戦と比べて彼我の被弾率なんて洒落にならない。
今となっては思い出して語る事が出来ないだろう事柄は幾つでも有るだろうが、やはりと言うかなんと言うか――必要になれば芋蔓式に色々と思い出せるものなんだなと思った。少なくとも命のやり取りをする場面があった、その結果状況にあった行動をしようと考え、その結果自然と思い出せる事を実行していくだけだ。
とは言え、どれも実戦経験の無い、実戦を想定した訓練でしかない。曹階級になっていれば、日米共同訓練だのに参加することもあっただろうし、英語過程などと言った教育にも行けたのだろうが――それでも、楽しかった日々だと思えた。
「そういう場所、良く何年も続いたわね」
「同期が居たからね、弦巻陽って言うのが後期教育からのバディだったんだ。
二人でようやく一人前って言われたんだけど、事実二人で一緒に居れば何でも出来る気がしてたんだ――」
今更ながら、四年間一緒に中隊で頑張ってきた相棒を思い出す。実家が近い事や、週末外出で家に帰る方角も一緒、互いにどこか抜けていると言うところも一緒、訓練や支援、派遣でも一緒になる事が多かったし、互いに性質は違えども気質は似ていた。
ただ、任期満了であちらは先に自衛隊を去って行った。俺は曹候補生として残った――そして、自然とやり取りは失われた。今でも思い出して笑える話だが、アンドロイド携帯が普及している時代でも機械音痴で、折り畳み式携帯ことガラケーを使っていた。当然LINEなんて使えないので、俺が携帯電話をバックアップなしでダメにしたと同時に関係は途絶してしまったのだが。
「お互いに慌てたりしやすい人物だったんだけど、二人居る時はどちらかがそれを見て冷静にストップをかけるって言う連携ができてたんだ。
仕事関連で色々覚えてたりしてたのはこっちで、何かをする時にいつも『任しときな』っていいながら先陣を切るのはそいつの役割だった。
何かをする時に初動が遅い自分と、何かをする時に何かを忘れてたり抜けてるそいつ――。上手い具合に、互いに欠けた所を互いに補っていた感じだったんだ。けど、先にあいつは辞めていって、俺は一人で何でもやるようになって――気が付いたら、こんな感じになってた、かな」
一任期で辞める同期も居れば、二任期で辞める同期も居る。同じ中隊に居る同期が片手で数えられる人数になった。四年もすればある程度仕事が理解できてきて、一人でもある程度こなせるようになるし、先輩の数よりも後輩の方が多くなる。指導、教育などと面倒を見る事も有り、立ち止まって考える必要性は少なくなっていった。
演習や訓練で、何が必要かアドバイスすることができる。訓練中に困っている人に、少しだけ余分に持っているものを分け与えることも出来る。何か起きても自分が対処できるのならそこを受け持つ事も出来る。どんな評価をされていたのかは分からないけれども、少なくとも苦い顔や渋い顔をされるような関係を上下共に持たずに済んだ。
「まあ、そんな所だよ。ちょっとばかり通ってきた道が変わってるだけで、趣味は内向的、飲む寝る食べるが大好きだし、好きなことをしてノンビリするのが好きで好きでたまらない――どこにでも居る、ただの人」
「ふぅん……。まあ、特別変わった感じはしなさそうね。けど、趣味って――どういう作品とかが好きなの?」
「いや、まあ。生き様が格好良い主人公とか、最初は扱いが悪い主人公が徐々に認められていって立場が良くなって行くのとか、それこそ命のやり取りを何ら特別でもなんでもない人がしている戦記物とかも、好きかな」
挙げなかったが、ハーレムとかも一応好きだ。理由は単純、みんなが認めてくれたうえで好意を寄せてくれるからだ。ただ、盲信や頭を撫でたりするだけで相手が惚れたりするようなのは好きじゃない、なんというかリアルじゃない。一目惚れとかは有るだろうけれども、こう……イベントと言うか、時間を大切にして欲しいと言う気はする。まあ、やっかみというか、自分がそういった”誰かに好かれると言う、自身を受け入れてもらえる”と言う事を経験したことがないから言えることなのかもしれないが。無関心よりは意識されたい、意識されるにしても嫌われるよりは好かれたいと思うのが普通だと思う。
「あとは、有名な作家の書物とかも読むよ。夏目漱石、芥川龍之介、平塚らいてう――。
吾輩は猫である、坊ちゃんあたりが好きな作品。まあ、読めないだろうけど……」
「――やっぱり、色々経験してる方が良いのかもね。私もそうやって、色々楽しめれば良いけど。
私、生まれて一月とちょっと位しかたってないし。今は知識があっても経験がないもの」
「――……、」
カティアの出自は聞いていないが、根掘り葉掘り聞くのは宜しくないし、今の話が本当だとすると聞けるほどの年月を生きていた訳じゃないのだ。彼女は本棚に近寄り、適当に本を手に取り、開いた。ぱらぱらと流す程度だったが、それでも閉ざして笑みを浮かべる所は少しだけ同年代に見える。
「だからね、楽しいと一緒に怖いも有る。だって、私にとっては全てが始めてなんだもの。
誰かに飼われるのも、接してもらうのも、話しかけてもらうのも。お腹が空いても御飯の心配をしなくて良いのも、寒さに震えず眠れるのも、全部――初めて」
「――カティア」
まあ、下には舌が居るものだ。今でこそ人として存在している彼女だが、ただの猫であったなら「可哀相に」の一言で全てが終わっていただろう。けれども、もう既に彼女は”その他”では無い。知己の間柄であり、強制的とは言え主従関係である。大事にするのも使い捨てるのも、その扱い全てが俺にかかっている。
であればこそ、彼女は幸せになった方が良い。いや、幸せにならなきゃおかしい。それを成せるかどうかは分からないけれども、一つの基準に俺が存在するのは確かなのだから。
「本は好き?」
「ええ、そうね。それが事実であれば歴史が、創作話であれば考えや主張が、学術書なら知識が得られるもの。私はまだ空っぽの器と同じ、だからこれから何を体験できて、何を経験できて、何を知ることができて、何を見ることが出来るのか楽しみ。
――だからね、私はご主人様には感謝してるわ」
「だとしたら……、これまでして来た事とかが辛うじて間違った道筋じゃないって事になるし、これからもカティアが色々学んだり、知ったり出来るように頑張らないとね」
「本とか沢山読みたいけど、今の境遇じゃ置く場所が無くなるし。書斎とか図書館から借りるしかないのかしら」
「その事だけど、何時か家を――帰る場所を作ろうと思ってるんだ。今回の件で褒賞として貰えるかどうか交渉してみるし、場所を紹介してもらうだけでも構わないけど。
そうしたら、本を買って、置いておける場所にもなると思う。だから――その時は、好きに本を探して、買いなよ。お――いや、僕はそれで構わない」
「本当? ああ、うん。実現したら嬉しいけど、学園に居る限りは自由じゃないから、週に一度置きに帰れるくらいかしら――。まあ、期待しすぎないでおくわね」
「そうしてくれると有り難いよ」
「けど……そうね。私も自分の部屋が持てるかしら? 少し広くて、本が沢山置けて、窓から日差しが入ってきて、窓を開ければよく風が流れてくる場所で、ベッドはもちろん大きくてマットは柔らかくて、毛布はふかふかで……」
カティアが夢見がちな乙女のようになった。或いは、彼女もそうした『自分達の空間』と言うものに憧れているのかも知れない。なら、この判断は間違いじゃないはずだ……。
「けどご主人様? その為にも、仕事をするだけじゃなくて生き延びないと」
「生き延びるよ。魔法も、剣技も、乗馬も全部手札の一つにしてみせる。これから見ることが出来る軍事演習も、戦い方がどういったものかを知る数少ない機会だから、カティアもちゃんと見ておいて欲しい。
兵の種類とその運用方法、魔法使いが居たとしてその役割がどういうものかを考える事。それらを知ってるのと知らないのじゃ、生きていく上で大分色々変わってくる」
「それって、仕官も考えるって事?」
「考えると言うか、候補の一つとして取っておかないと。金は有限だし、国の情勢によっては戦いに巻き込まれる可能性もあるから。要所を突いて逃げるとか、相手の動きから計算して潜伏するとか――色々有ると思う。向うよりも、平和と言うのは程遠い可能性もあるし、今回はまだ温厚だけれども、僕だけじゃなくてカティアが狙われる可能性も有る。だから、頑張ろう?」
俺がそういうと、カティアは少しばかり楽しそうに「頑張る」と言ってくれた。剃れはそれで嬉しいが、喜びよりも先にくしゃみが出てしまった。そういえば汗だらけなのだ、少なくとも脱がなければ乾かす事も出来ないし汗を取り除く事もできない。
幸いと言って良いのかどうか、まだ稽古着のままなので普段着に着替えれば良いのだが……。正直な話、後は入浴して寝るだけなのに態々普段着に着替える必要性を感じられなかった。
「風邪引くから着替えちゃったら?」
「いいよ、お風呂の時間までそう長くないし。お風呂に入るついでに着替えるから」
「本音は?」
「面倒だから」
「それで良いと思う?」
「正直、最近じゃ彼と自分が似すぎてて演じるだけで後は余り言動には気を払わなくても良いんじゃないかなと思ってる」
多少の差異はあっても、クラインと俺はほぼ同一人物みたいなものだし、変に考えるだけ無駄なんじゃないかなと最近では考え始めていた。最初はボロが出ないかどうかを考えて慎重に言動を律していたが、一つ何かやらかすたびに「昔もそうでしたなあ」と言われてしまえば、そりゃ”あれ、考えすぎなんじゃないか?”となって、自然体になっていくのは当たり前だと思う。
本を読むときにベッドに寝転がっても大丈夫、メイドや執事の手を借りずになんでも自分でやりたがる、戦いではラフプレーも普通にする、ノンビリ穏やかで柔らかい雰囲気だけかなと思っていると結構過激な面も存在する、そして譲らないところは決して譲らない――
大体そんな感じで、貴族らしさは殆ど感じられなかった。自衛隊特有の「手を抜くところは手を抜く」というのが発動したとも言える。不慣れで出来ない事や知らない事が多い場合、集中や緊張、無駄な動作等々で疲弊していってしまうが、ある程度熟知し小慣れてくると集中すべき場所、維持すべき緊張の配分、余分な動作の排除による効率化等で疲弊はしなくなってくる。それと同じ事を適用しただけの話だ。
カティアは呆れるが、直ぐに納得した。
「ま、そこでヘマするようなご主人様じゃないと思うけどね。ただ、私は冷や冷やするの」
「そこは、ほら。信じてと言う事しかできないかなって」
「ふ~ん? 今日脅されて連行されてたのは誰かしら?」
「そ、れは。ヤゴが居たから、無理できないかなって。それに――相手を知る事が危機を詳細に理解できるかなって思ったんだよ。
事実、相手が何をしようとしてるか――鵜呑みにすればだけど、理解できた訳でしょ?」
「確かにそうかもしれないけど。それ、聞かされて信用できる話だと思う?」
「マリーが警告してきて、味方をする程の理由には思えないし、強行して争いになる危険性も逆に理解できなくなったけど……」
マリーが何故ニコルを止めたがるのか、そのニコル自身の目的は若干不穏当だけれども目的も手段も安全そうに思える。ただ、強硬手段を取ると言っていたから楽観視は出来ないにしても、クライン――或いは、無系統の魔法が使える人物が居ればとりあえず事足りるらしいので、クラインが戻り次第交渉し直しても良いかも知れない。
ただ、今の状況では不安なのでニコルにももっと情報を吐き出してもらう必要がある。となると、情報を吐かせるためには協力した方が一番なのだが、接触するには明日になるか――最悪、マリーが来てくれないと始まらない。帰られると居場所が分からない上に、どういった経路でなら接触できるのか分からないし、接触するにしてもクラインの肩書きを被ってなければ難しい上に、暗いんで単独行動するのは宜しくないと言う二律背反。
明日帰ってしまうという、けれどもどこに泊まっているかも分からない相手を探すのは――。
「……まあ、手段が無い訳じゃない。相手を騙す、その上で情報を吐かせて危険性を見極める。これしかないかな」
「何か思いついたの?」
「一応ね。それじゃあカティア、申し訳ないんだけど今からメモに文章を認めるから、それを文書として此方の文字に書き直して貰っても良いかな?」
「ご主人様、自分で字が書けるようになったんじゃなかったかしら?」
「――自慢じゃないけど、字が汚いんだ」
そういうと、カティアは沈黙してしまった。事実、俺の字は汚い。時間をかければ綺麗に書ける、けれども時間が勝負の場面で綺麗に丁寧に書いていたら指示も命令のいくつかを書き漏らしてしまう。急いで書くことが常になり、結果として日本語版筆記体のようなものが出来上がってしまった。
じゃあ、今時間かけて書けよと思うかも知れないが、それに時間を割くよりはカティアに任せられる事は任せてしまい、俺はその猶予時間で考えられる事や出来る事を煮詰めて言ったほうが良さそうだ。
文面を日本語で丁寧に書き、それをカティアに読めるかどうかも確認してから手渡した。それほど長くない文面だが、日本語で書くと短くなるのに此方の言語で文章にすると英語やスペイン語並みに長くなるので時間がかかることだろう。
「裏に書けば良い?」
「新しくもう一枚紙を渡すから、それに書いてくれれば良いよ。
出来たら置いといて、その間にお風呂と考え事しとくから」
「え~、私に作業させて自分はお風呂~? どうせなら一緒に入らない?」
「やめようね?」
女性免疫が無い俺が、喩え幼女様とは言えどもその裸体を想像させるような状況に陥ったらどうなるか? そんなもの言うまでもないし、そんな所を見られるのもごめんだ。知識と知っている事はあるが、下手に性的な事を考えると鼻血が出る。自衛隊でもエロトークしているのを聞いていただけで鼻血を出した逸話がある。そのせいでどれだけ苦労した事か……。
「後でアルバートが来たいって行ってたけど、返事はどうする?」
「ん? 良いよ、大丈夫」
グリムやロビンと関わった影響か、大丈夫と言う単語が癖になりかけてる。大丈夫って単語、そんなに頻度の高い言葉だったなとか考えながら、既に沸いているだろう風呂へと向かった。
残念ながら風呂は手間暇かかるので、限られた時間にしか入れない。入浴可能な時間帯になると必ず誰かしら待機していて、声をかければ――本来であれば――身の回りの世話をしてくれる事になっている。部屋まで着替えを取りに行く人、脱いだ服を片付ける人、風呂場にて貴族である俺達が手間をかける事無く身体を洗ってくれる人などが居る……そうなのだが、当然大半はお断りだ。
ただ、着替えだけは持って来て貰って、脱いだ服を片付けてもらうだけで十分である。タオルなんて持参しないが、身体を拭かせたりはしない。自分で何でもやる方が気楽で良い。
風呂場は屋敷内部であれば俺達が使うのは一箇所のみだ。自衛隊の浴場のように広いその風呂場に、”男女関係なしに入れる”というくらいか、大きな違いは。それでも男尊女卑ではないが、目上の人や立場が上の人物が居る場合は避けるという幹事らしく、公爵や俺等が入っている時はミラノ達は絶対に入ってこないし、アルバートたちが入ってる時はお付のヴォルフェンシュタイン家の人も入って行ったりはしない。
結果として男が先で、女が後みたいになっているようだ。ただ、前に公爵と酒を飲んでいた時に入浴時間を越えてしまいそうになり、二人で風呂に向かったらミラノたちが居たと言う事はあった。折悪く脱いだ服も着替えも置かれておらず、既に誰も居ないだろうと言う思い込みから遭遇してしまったのだが――俺は気まずく、腰にタオルを巻き、見る事がないようにしてやり過ごした。
偉大なる湯気さんは素晴らしいものだ、肌が露出していようが湯船の揺らぎの向こう側に隠す事のない裸体が存在していても隠してくれるし、見えなくしてくれる。あの時ほど理性総動員と意識を異世界に飛ばすと言う事が役に立った事はない。とりあえず今が辛くても思考停止すれば何時か終わる、たとえ欲を揺さぶる事があってもその先にあるデメリットや悪い事を考えれば萎える。
と言うか、クラインを演じてるのに”クラインの妹であるミラノ達に欲情”なんてしたら、殺されかねない。そもそも隣に公爵が居るのに、そんな事になったら、良くて宦官、悪くて斬首だ。いや、逆か。
脱衣室を確認し、誰も入っていないかをメイドさんに確認してから一人で風呂へと入っていく。今日は一番乗りだ、誰も居ないみたいでホッとする。女性が居れば一発アウト、男性なら幾らか動揺するけどまだ大丈夫。まずは身体を綺麗にし、それから湯船につかると言う順序も忘れない。
――この世界では、一度文明が滅んだとか、歴史が失われたと言う影響の関係か、様々な所で文化が入り混じっている感じだ。湯船につかる前に身体を洗うのが当たり前だとか、たとえ一人で入浴する場合でも男女問わずに恥部は隠しましょうとか。色々とある。聞けばツアル皇国方面の人たちの文化らしいけれども、根付いて居てよかったと思った。切に。
身体を洗い終え、湯船のお湯を身体にかけて汚れを洗い流す。それから湯船につかると、やはり息が漏れてしまう。冬が近づいてきているらしく、日が沈めばもう手足の末端は冷える時期だ。ベッドで温もりを感じる幸せが一番実感できる季節になりつつある、湯船も当然気持ち良いし、贅沢だなと思う。
湯船、そういえばこの世界に来るまではずっと入っていなかった。常にシャワーだったし、そこに娯楽性を求めた事なんて無かったな……。
「う、む……?」
「あぁ、いらっしゃいアルバート。もしかして早めに切り上げてきた?」
「あ、あぁ。そうだ。我など居ても居なくても変わらぬ。故に――理由を付けて、出てきたのだ」
浴室にアルバートが現れた。食事の席を立つにしてはいささか早いんじゃないかと思ったが、どうやら理由を付けて立ったらしい。カティアに続いて今日は席を立つ人が多い。滞在していて客人とその主人、しかも公爵家同士だから何かと体裁とかに気をつけないといけないから面倒だ。そして、その巻き添えを食っているアルバートと、演じているが故にそれを避けられない俺。
――クラインが戻ってきたら常に部屋食にしようかなと思ったけど、クラインとのやり取りであいつは俺を振り回す気満々だったので、たぶん食事にも引っ張り出されかねない。嫌だ、めんどい。三十分程度で席を立てるのなら良いけれども、明らかに一時間は拘束のしすぎだと思う。たとえ、料理が最初から全部出てくる訳じゃなく、前菜だの食前酒だのと順に出てくるにしてもだ。
「グリムを置いて来て良かったの?」
「む? ああ、まあ。どうせ直ぐに来るであろう。出ないと姉どもに怒られるだろうしな」
「姉ども、というよりも、姉の一人、だよね?」
「まあ、そうだな」
そしてアルバートが湯船に来るまで待ち、そして湯船につかる前に恥部を隠すためのタオルをしっかりと結びなおし手いる所を見て、思う。濡れているから艶やかに見えるだけかも知れないが、こいつもこいつでイケメンなんだよなぁ……。喋れば劣等感を隠そうとする自尊心の高そうな喋り、上には弱く下には強く出る、しかも勉強苦手で楽をしたがり変化を好まない。
こう書くとクソみたいに聞こえるが、良い所もある。グリムに対してもそうだったが、良いものは良いと認める事が出来るし臆面無く言い放てる率直さ。たとえ地位や身分が下であっても、学ぶべきものがあるのなら教えを請う事が出来る実直さ、間違っている事を間違っていると言われ理解できたならそれを正す事ができる素直さ、そして――良い意味で、馬鹿でもある。
むしろ、欠点と良い所がそれぞれ表に出てきてるとも言えるので、もし身分や地位とか爵位とかが無かったのなら、それなりに交友関係も広がったかも知れない。爵位と絶対的な上下がない、普通の――俺の知るような学園で一般生徒だったなら、きっとモテたりもしたんだろうなと思う。
「その、だな。後で部屋を訪ねようと思い、カティアに遣いを頼んだのだが。聞いたか?」
「それを聞くって事は、会えてないみたいだね。僕は構わないよ。
何か話がしたいのかな?」
「いや、我がというか……、なんと言うか――」
「オレが、そうするように言ったのさ」
聞いたことの無い声だなと振り返ると、先ほどまでアルバートが身体を洗っていた場所で一人の青年が頭を洗っていた。そして泡立つ頭をそのままに、左手が何かを捜し求めて周囲を探る。きっと頭を流したいのだろう、傍に置いてあったたらいにお湯をいれると「はい」と手渡した。
「ああ、すまないな坊。ふうっ、さっぱりだ。やはり湯ってのはいいな」
「アイアス。貴様は顔に泥を塗るつもりか? 初対面で自己紹介もせずに、勝手に湯浴みか」
「はっ、どうだって良いだろうがよ。苦楽全てを享受してるんだ、飯を食う、湯浴みをして湯船で温まる、寝床で温もりに包まれて、そして色恋沙汰にうつつをぬかせる。
だが、親父殿の顔に泥を塗る事ができないのは確かだ。少し待て、背中を向け、尻を向けたままに名乗りを上げるのは格好がつかないからな」
背中を見て居るだけなのに、その背中は筋肉が浮き出ている。そして湯を被り、湯船まで来るとアルバートと同じように腰に巻いているタオルを締めなおしてからゆっくりと湯船につかる。俺を挟んでアルバートとは反対側だ、俺は挟撃を受けている。少しだけ過去を思い出して胃が痙攣した。
「オレはアイアスってんだ。この――三男坊の一族、ヴァレリオ家の名を背負った英雄の一人よ。
槍と魔法で戦場を常に駆け巡り、多くの敵を屠ってきた。これからが有るかどうかはわからねえが、よろしくな」
「あぁ、えっと。よろしく――お願い、します?」
握手のつもりで手を出すと、彼はその目を見て笑った。何がおかしいのか分からないが、アイアスも手を握り返してくれた。
――というか、アイアス? たしか、今日……ロビンの膝で眠りこけている時にその姿を見て名も聞いた。その時槍を傍に置いていたし、裸とは言えその髪の色を見て別人とは微塵にも思わなかった。
「ああ、よろしくな坊。実はな、今日までずっと親父殿が纏め上げて連れてきた兵の傍に居たんだが、どうにも退屈で仕方が無え。飯は無い、風呂に入りたけりゃ近くの町まで行く他無い、酒も女も無えし、誰にも見えないから危険性は無いが野ざらしで眠るのも身体に良く無え。
だから、こっちに来たって訳よ」
「我は止めたのだ。帰るようには言ったのだ……」
「手前、オレくらいしか話が出来る相手が居ねえだろうが。エクスフレアやキリング、親父殿と一緒で緊張も居心地の悪さも無いってんなら、オレは帰るが」
「い、いや。せっかく来たのだ、ゆっくりして行くと良い」
……アルバート、屋敷に帰っても話し相手が先祖かつ英雄ってどうよ? 家族は寂しいんじゃないかって思ったけれども、実際にそう思ってるかどうかは俺には判らない。帰ろうかと脅しのように言ったアイアスを引き止めるアルバート、それを見ていて俺は不思議に思った。
「――けど、僕に用事があるという理由が分からないなあ。デルブルグ家の当主は父さんなんだから、挨拶は父さんにするべきじゃないかな?」
「なあに、長年居なかったと言われる時期当主予定の長男の話を聞いちまったもんでね。どんな野郎か見に来たのさ。
これからこの大きな家柄同士で付き合いは有るだろうが、よろしく頼むわ」
そう言ってアイアスは俺の背中をバシバシと叩いてくる。その痛みに噎せ、少しばかり目の端に涙が滲んだ。英雄と呼ばれる人物は誰も彼も俺たちよりも身体能力が高いようだ。ロビンは下から数えた方が早いほど非力だと言っていたが、それでも人を吹き飛ばす事が出来るほどに強い。
槍使い――前衛戦闘の色が強いだろう彼は更に強いのだろう、怒らせないようにしとこう……。
「アイアスはな、我に槍の稽古を付けてくれているのだ。時折、だがな」
「はっ、今回の帰省で少しばかりマシになったから相手してやってるだけだ。
六十刻みの時間を今まで越えられた事が無いだろうが。今日の昼前の修練を見ていたが、まだまだこの坊の方が楽しめそうだ」
「ぐ、ぬぬ……。と、まあ! こう、減らず口を叩くのでな!
だが、槍の腕前は当然の如く凄いぞ。槍を当てずとも突きや薙ぎだけで見えぬ刃に身を斬られ、その槍を受ければ鎧はひしゃげ、武器は折れ砕け、相手は手に力が入らなくなる。
魔法を加えれば更に凄い事に――」
アルバートがアイアスの凄いところを列挙しまくっているが、その顔にお湯をかけられ黙らせられた。やったのはアイアスで、俺を避けるようにそうした。
「それくらいにしとけ、三男坊。手の内をひけらかす必要は無い。その時が来たら、嫌でも力というものを見せつけられるだろうさ。
人類が滅びる瀬戸際を戦い抜いたその力、想像の範疇に収まらない事を理解した時には対応は限定される。敗者として頭を垂れるか、命を失うか――或いは、負け恥を乗り越えるかだ。
坊、この三男坊に言ってやってくれ。こいつはな? デルブルグ家の姉の方に惚れてる癖に、何の進歩もありゃしねえ。戦いに関してはちったあマシになったかと思えば、強化魔法ぶっ壊すともう一方的よ。
それでも――なんか学園の方に新顔が来たみたいでな、コイツの鼻ッ柱をへし折ってくれたみたいで、その上鍛えてくれてるみたいでよ。魔法がなけりゃてんで話にならなかったのに比べれば、抵抗できるだけマシになったか――」
「やかましい、アイアス! 貴様、人の恥ずかしい事ばかり言いふらしおって!」
「恥ずかしいか? ま、お前さんがそう言うのなら恥ずかしいんだろうな。
だがな、オレに言わせりゃ恥ずかしいのは、手前は理想ばかりを語るが、その癖ちっとも成長しやがらねえ事だ。しかも、魔物騒ぎの時にグリムのお嬢ちゃんは冷静だったのに、手前は守られてばかりだったらしいじゃねえか。
武を語りたいなら、手段を選ぶんじゃねえ。手段を選んで強くなろうなんてのはな、都合が良すぎるってもんだ。魔法だけに頼って戦うのなら、最初から槍なんざ握るんじゃねえってんだ」
「あ、う……ぐ」
「それに比べて、この坊のやっていた鍛錬の方がまだ現実的だ。肉体が基礎ってのは兵士だろうが農家だろうが魔法使いだろうが変わらねえ。身体強化は、本来追い詰められたり勝負をかけるときに使うもんだ。
普段は鍛えた肉体と技で立ち回り、料理で言う味付けのように魔法を突っ込む。それで勝てるなら問題は無えな、相手が肉体的に強いなら魔法の使用率を上げりゃ良い、逆に相手が肉体的に弱いならねじ伏せるのが正しい。
この坊は今のところ魔法を交えた戦闘をしちゃいねえが、手前さんよりは強いぜ? 鍛錬や修練ってのは、苦しいもんさ。だがな、その苦しみから逃げるようじゃ、いざと言う時に逃げる可能性も有るから背中を預けられねえ。逆に、苦しかろうが辛かろうが、向き合って立ち向かえる奴は背中を預けるに足る相手だと考えても良い。
三男坊、手前が強くなりたい理由は聞かねえが、その強さは何に使われるかを、ちったあ考えた方が良いんじゃねえか?」
――アイアスの考えに、俺は同意できる。アルバートやミナセ等と、身体能力を強化することで優位に戦えるようにしている人物を見てきたから若干考えが変わりそうだったが、そもそも身体能力を強化するために使用しているのは魔力であり、魔法である以上詠唱だのなんだのと手間がかかることは理解できている。
だから、常に魔法を意識するのではなく、まずは資本である身体をどうにかしろと言っているのだろう。それであれば、前にミナセとアルバートを手合わせさせたときに俺も気づいたし、肉体を鍛えるように言ったが……。
「……魔法を唱える時間が与えられると思うな、敵が常に見通しの良い場所で遭遇できると思うな、敵の数が自分の魔力の尽きない程度に居ると思うな、味方が常に居ると思うな、味方の援護が満足に得られると思うな。
常に最低最悪を想定しねえと、お前はこれから先、戦いが起きた時に死ぬ羽目になるぞ?」
「――最低最悪を想定する、っていう言葉に僕も同意するよ。僕は優雅じゃないとか、貴族らしくないって言われたけど、見栄や体裁に拘って死んだら無意味だよ。それに、見栄や体裁を戦いに持ち込めるのは、互いに同じ意識を有する相手じゃないと難しいと思う」
「へっ、坊の方がよく判ってるじゃねえか。見栄や体裁は、余裕のある時や”お遊び”でやれ。
俺が教えたいのは、たとえどれだけ追い込まれても、最終的には拳や蹴りだけでも戦えるようにって奴だ」
「だ、が――。そんな追い込まれた状況など、そうそう起きぬだろう?」
「おいおい、忘れたのか三男坊。俺達が呼ばれたって事はだ、それが何時かは分からんでも、人類の危機って奴が迫ってるからだ。
既に判明しているだけでも半数の英雄がこの世界には居るじゃねえか。しかも二人は魔王の残党との戦闘に突っ込んでる。負けるとは思わねえが、この前壁を崩されたんだ、どこで何が起こるか分からない以上、手前も自衛位は出来た方がよっぱどマシなんじゃねえの?」
そう言うと、アルバートが先に風呂を上がる。そして何も言う事無く浴場を出て行くのを見て、アイアスもまた立ち上がった。
「――暫く見てきたが、アイツはちっと視野が狭い所が有る。坊さえ良けりゃ、これからもアイツの相手を頼むわ」
「僕で良ければ、幾らでも」
「そっか、なら心配はいらねえな。オレは――力の無さを悔やんで、その度に死にたくなるくらい悩んで、そうやってここまで来たんだ。それでも救えない奴は居た、救いたい奴を失った。好いた女にゃ振られるわ、ダメになるわで散々だったがな。
お前さんも、せいぜい頑張んな」
アイアスも風呂場を出ようとして、戸に手をかけた所で何かを思い出して被りを振った。どうしたのだろうかと思って見ていたが、その姿が溶けて消えたのを見るに、どうやら普通に出そうになったのだろう。
――さて、来るかどうかは分からないけれども部屋に戻ろう。そう思って俺も風呂をあがることにした。寝巻きに着替えて脱衣所を出た所で着替えを抱きしめて小走りして来たカティアと遭遇した。どうやら俺の頼み込んだ作業を追え、アルバートを探していたことで時間を浪費し、俺が入浴している所に乗り込もうと言う魂胆だったらしいが、残念ながら彼女の望みが叶う事は無かった。
その後部屋で一応待っていたが、アルバートがワインを持って部屋に現れ、先ほど言葉も無しに立ち去った事を詫びる為の品としてやるとの事だった。部屋に入れようとしたが、どうやら風呂場で俺がアイアスに賞賛され、逆に自分はしこたま貶されたのが利いたらしい。少し夜風に当たってくると言い、同行していたグリムから槍を受け取るとそのまま庭まで出て行った。
隠れて訓練しているつもりなのだろうが、素振りの音が窓を開ければ聞こえてくるので隠れられていない。けれども――やはり、自分の至らない所を指摘されてムキになれる様であった。風呂を出てから訓練とか、せっかく綺麗になったのになと思いながら、詫びとして渡されたワインを飲むことにした。姿は見えない、けれども素振りの音だけが規則正しく聞こえてくる。アルバートにつき合わされているのか、それともそれが自分の役目だと付き合っているのか分からないけれども、グリムが時折聞こえぬほどの大きさで何かを言っているのだけが理解できる。
その後、実に二時間ほどの時間、アルバートは庭に出たままだった。そして屋敷に入る時、汗だらけで疲れているだろうに、それを悔しさで隠している表情を見て取れた。言われるまでもなかったのかもしれない、或いは自分の欠点だと分かりきっているからこそ改めて言われるのは胸が痛んだか……。
とは言え、結局のところ本人がどうしたくて、どうなりたくて、どう変わるかでしかないのだ。たとえどれだけ働きかけたとしても、本人が変わらないのであれば手を引かれた赤子となんら変わらない。なら、少しだけ冷静に考えよう。アイアスがああいった人物なのであれば、俺はやり方や対応を少し考えた方がいいかも知れない。精神的に潰れてしまえば、どれだけ真面目で努力家で優れた人材でも消えていってしまうのだから。
その後、風呂上りのカティアに飲酒がバレて怒られた。そして監視と称して寝るまで一緒に居ると言われ、先に眠られてしまったので部屋にまで運ぶハメになった。
しかし、なんだか先行きが不安になる話だ。人類が危機になれば召喚される英雄。つまり、それが早いか遅いかは分からないけれども、必ずその破滅の危機が来るということだ。ベッドに潜り込みながら、その危機と言うのはどういうものなのだろうかと考えてしまった。そして、逃げれば良いのに、逃げられれば良いのにと考えながらも、既にいくらか愛着がわいてしまっている。もう逃げられない、見捨てただけでも――俺は辛い思いをする。
知り合ってしまった人に、少しでも繋がりができてしまった相手を忘れられない。かつて――かつてレムに言った言葉は、俺に向けられた言葉なのだろう。『視界に入る人ですら、救うことは難しい』と言うその重みが、徐々に身に染みて来た。事故じゃなくて、誰かや魔物などに殺されかねないんだ、この世界は――。
~ ☆ ~
そのアルバートが庭で素振りをし、ヤクモが部屋で渡されたワインを飲んでいる時間。それを屋敷の屋根の上から見下ろす影が二つ存在した。マリーとロビンだ。斜面に腰掛けたマリーが、今日の出来事に関して謝罪をしている。
「だから、あれは……予想外だったのよ……」
「――それでも、危険にさらした。それ、よくない」
「だからと言って、私がこっちに友好的なのを気取られるのも――はぁ――よくないでしょ……」
「――それに、お酒臭い」
マリーが辛そうに呼吸を毎度毎度深く吸って、深く吐いている。それは今日、酒屋でニコルがヤクモ――クラインとの会話中に、ただ同席していただけのマリーが酒をしこたま飲んでいたからだ。それでもやって来たのは、当事者であるヤクモに謝罪をするためだったが、その手前でロビンに発見されて屋根まで連行されたのである。
「だって、久しぶりだったから、つい……」
「――それは、ズルい。私、まだお酒も飲んでない」
「アナタはお酒飲めないでしょ……。前にお酒を飲んだときの事、忘れてないから」
「――じこー。無罪」
少しばかり険悪な雰囲気が醸し出される。ロビンからしてみれば、理由や事情があったとは言え、クラインを演じている大事な客分が危険に陥ったのであり、正当な怒りであった。それを理解しているものの、マリーは謝罪に不慣れであり、それを理解しているからこそ半ば八つ当たりのようにロビンへと返した。
――マリーとロビンは、昔から相反するところがあった。マリーは魔法使いとしてどこまでも正しく、生真面目とも言える位に魔法に向き合っていた。対するロビンはマイペースであり、どこかいい加減なところも感じられる。ロビンが形だけでも良いから謝罪をするか、マリーが割り切れれば良いのだが――そこでも上手くかみ合って居なかった。
「いよう、お二人さん。こんな所で逢引きか?」
「アイアス、久しぶりね……」
「おう、久しぶりだな」
そんな二人の傍に、新たにもう一人現れる。アイアスだ。同じ十二英雄の仲間であり、顔見知りであり、歴史や宗教のなかに必ず名を連ねている人物だ。挨拶を済ませるとさっさと屋根に寝転がり、湯船で温まった身体を風で涼んでいる所だった。なお片手にはワインのボトルが握られており、コルクを歯で引っ掛けて抜き、吐き出すとそのまま直に飲みだした。
「――アイアス、ぎょーぎ悪い」
そんなアイアスを見てロビンが指摘する。事実、そんな行いは誰が見ても行儀が良いものではなく、しかも吐き出したコルクはデルブルグ家の庭師が発見したならば脂汗を垂れ流し、青ざめることだろう。
だが、アイアスは快活に笑い伏した。
「良いじゃねえか。どうせお前らも似たようなもんだろ? 飯無し、寝床無し、自由無し。風呂無し、誰かと接触することも会話をする事も出来ない。しかもオレはあの不出来な三男坊の相手役と来たもんだ。そりゃ、酒の一本くらいは飲みたくもならぁな」
アイアスの言い分はもっともであり、英雄だ英霊だと言われながらも待遇や境遇にはそれぞれ肩身の狭い思いをしていた。マリーはニコルの下についてからは人前に姿を現せない、半隠遁状態で生活していた。ロビンやアイアスは、形式ばった感じを嫌い、部屋をあてがわれはしたがその部屋ですら満足に使えずに居た。
ベッドで寝るとメイドなどが起こしに来る、そして部屋の清掃が仕事のうちであるメイドは使用されたベッドをメイクし直さなければ落ち着かない。結果としてアイアスやロビンは自分が気に入った場所を見つけ、当時使用していた魔法で寒さや暑さとは無縁な空間を作り出して眠るのが常となっていた。ベッドに居なければ起こされる心配も無く、ベッドを使っていなければ幾ら寝ていてもメイドの負担にはならないという理由である。
「あの頃が懐かしくなるな。メイドなんて居なくて、起きるも寝るも自由だった。飯も時間が決まってるだけで、椅子を引かれて押されて顔色を伺ってなんて肩肘張ったのは無かったしな。
お早う御座いますアイアス様、お召し物を変えられますかアイアス様、そろそろ食事の時間ですアイアス様、何か用事があればお呼びくださいアイアス様、アイアス様アイアス様アイアス様。聞いていて疲れるわ!」
「ふぅん、意外ね……。自分の血筋とか、家柄とかに一番固執してたのに……」
「死ぬか生きるかの瀬戸際まで追い込まれて――血筋も家柄もまるっきり庶民の男に俺は命を預けたんだ。それに、何だかんだあの頃の方が楽しかったんだよ」
「――アイアス、素直」
「素直にもなるさ。今は自由ってもんが無え。かと言って、勝手をしたら”命令”されちまう。
そうなると互いに負担にしかならねえ。だから自粛だ、自粛」
「成長したのね……」
そうマリーに言われ、アイアスはつまらなさそうに鼻を鳴らし、更にボトルを傾けた。遥かに下ではアルバートが素振りを続けており、既に三十分以上が経過しようとしている。いかに学園で有名といわれても、それでも彼らからしてみれば井の中の蛙に近い。外に出れば傭兵や兵士や旅人等が居る、魔法と言う要素ですら知恵を巡らせ、或いは地形等を利用し、或いは道具や罠を使うことでそんな差を埋めてしまう。
故に、三十分程度で既に息を乱し、汗だらけで限界を見せつつあるというのは論外だとアイアスは考えていた。彼はもっと余裕の無い戦場を、戦闘を幾度と無く渡り歩いている。味方と分断され半包囲の状況から味方を逃しながら突破したこともあり、負傷した仲間と共に逃亡戦となった時に殿となって無数の魔物を足止めし撤退したことも有る。魔法の助けを得ていたとは言えども、数刻もの時間を戦闘に費やしたり、それこそ丸一日が戦場を駆け巡るような事態だってあった。
それと比べてしまうと、口だけに思えてアイアスはアルバートには厳しく当たっていた。
「――けどアイアス、じぶんに似てるからって酷くするの、よくない」
「なに、八つ当たりしてるの……?」
「ばっ……。ちげぇよ! いや、近からずとも遠からずって奴か。……少し、昔を思い出してるだけだ。もしあの時、オレがもっと強ければ良かったんじゃねえかって考えちまうことは、少なく無えし」
「――……、」
アイアスが、何の事を言っているのか理解し、二人とも何も言わなかった。そして無言だと分かるとアイアスは酒を呷り、その中身が空になると傍に置いた。そして腕を枕にしながら空を見上げ、片腕を伸ばす。
「変な話だ。オレたちはあんなに絶望に満ちた空を見てきて、太陽を見る事が叶わない時間を過ごして来て。何時かは取り返す、取り戻すと戦ってきたのにな。なのに――ああ、クソ――あいつが居ないなんて」
「アイアス……」
「おっと、変な慰めはいらねえ。振られた相手に慰めてもらう方がよっぽど笑い種になっちまう。
ただ、まあ。呼ばれたからには全力でこの空を守ろうぜ。その為にも、あの三男坊の面倒を見なきゃいけねえのが悲しい所だが」
そう言ってアイアスは快活に笑った。英雄と呼ばれた彼ら、彼女らだが、崇高すぎて神聖なイメージとはかけ離れている。美味しいものが食べたいとか、暖かい寝床で眠りたいとか、誰かが好きだとか――色々有る。アイアスはマリーの事を好いていた、けれども振られた。それでも気まずくならないのは戦いを通じて気難しい性格が砕け、それで居て恋愛感情とは別に仲間達のことを大事に思っているからだった。
マリーはアイアスの言葉に目を伏せたが、気分が沈むと同時に酒による気持ち悪さが嗚咽を催した。ムードや前後の状況を問わないものにアイアスは苦笑するが、ロビンは数度頷いて見せた。
「――私は、やるべき事をやる」
「ああ、成すべきを成せ。それと――まあ、他の奴らと会ったら教えてくれ。
フランツ帝国に居るのは、杖とか結界とか聖職者って聞いてるからヘラだろう? あとはツアル皇国に二人居ると聞いてるが、誰だか分かるか?」
「――ファムだと思う。大剣使いって言ったら、あの子しか居ない」
「そうか。ファムか……」
ファム。大剣使いの騎士として言い伝えられている人物で、ヴィスコンティの礎となった歴史を持つ。背丈以上の剣を振るい、その一振りは大地を砕き波打つ敵を粉砕し、数多くの敵を屠ったと言われている。ただ、言い伝えでは男性だったはずなのに召喚されたのは女性だったらしく、公爵を含めて言い伝えに疑問を抱く人物が少なくない。
「アレは手綱を握る奴が居ないと、一度放ったが最後、呼び戻されるか飽きるまで敵を食い散らかすだけだろ。どうなってる?」
「さあ。たぶん、手綱を握れる人が居るんでしょ……」
「なんにせよ、誰が呼ばれているのかを確認しないと始まらないな。
まあ、ノンビリやろうぜ。マリーも、今回の件を上手く片付けようとしてるんだよな?」
「ええ。争いになってもダメ、かと言って今の主人が死んだら私も次のアテがないから難しいから……。
一番は、今の主人が企んでいる事を諦めてくれれば良い。そうしたら、争わずに済むし、私も堂々とこっちに来られる……」
マリーの現在の主人はニコルであり、その彼がデルブルグ家の人物に目をつけている以上親し毛にする事が出来ない。争いになればニコルが死にかねず、かと言ってデルブルグ家の者が傷つくのも彼女は嫌った。
それに関してアイアスは特に何も言わず「まあ、マリーならうまくやるだろ」と言った。アイアスは戦闘面に関しては長けてはいるが、難しいことに関しては得意でない事を自覚している。故に下手な口出しをする事無く彼女を信じた、実際にそうやって今までやって来たのだからそれで上手くいくだろうと信じていた。
マリーは少しだけ言いよどんだが、直ぐに気を取り直して「ええ」と言った。
「大丈夫。上手くやるから……」
「なら、それが上手くいった時にちゃんと集まって酒でも飲みながら、美味しいものでも食おうや。
親父殿――いや、主人は物分りが良い。それに、英雄同士が顔を合わせて少しでも相互の理解を深めておきたいというのはまるきり損な話でも無えしな」
「――私、カルーアミルク」
「ロビンはあいも変わらず酒が飲めねえな。だが、考えておくさ。
それじゃ、俺は少し散歩でもしてくらあ。暫くは居るから、その時はよろしく頼むわ」
そう言ってアイアスは起き上がると、屋根から飛び降りた。本来であれば大怪我待った無しな高さだが、途中で一度だけ姿が掻き消え、そして次の瞬間には普通に地面を歩いて去っていくところが二人には見えていた。魔力で体が構成されているので、それを利用して実体から魔力体へと移行し、着地してから再び実体に戻っただけの話だ。
アイアスの背中を見送ってから暫くして、マリーとロビンは同時にため息を吐いた。本来であればロビンが今日のことを問い詰め、マリーは納得してもらうまで謝罪し、その上で可能であればヤクモのところにまで行って同じように謝罪をするつもりだった。けれどもマリーは久しぶりに見た顔や関係に気を使ってしまい、ロビンはその中間に立たされて消耗したのだ。
戦いや存亡をかけた状況等と、追い詰められた境遇は慣れてはいるものの、故に当時の緊迫感や緊張感が無くなった今では普通の対人関係で悩まされているとは、誰もが考えもしないだろう。マリーは自分の身体に刻み込まれた刻印などを含めて、誰かに好かれるとは思って居なかった。ロビンは自由奔放な狩人故に、そういった時にどう立ち振る舞えばよいか分かっていなかった。
「今度、彼にも謝りに行くから。今日は許して……」
「――ん。ゆるす」
マリーはアイアスのように屋根の上でごろりと倒れ、そして空を見上げるように転がった。それを見てロビンも真似て横たわる。今でもアルバートの素振りの音が聞こえ、彼女達の屋根のほぼ真下ではヤクモがワインを飲んでそんなアルバートを眺めていた。
「――元気に、なってね?」
「ん、なる……」
「――それで、喧嘩~、しよ?」
「また、魔法と弓? アレは勘弁して欲しいわ……」
そう言ってマリーは目を閉ざし、酔いを抑えるように深呼吸を繰り返した。しかし、その呼吸が徐々に寝息へと変わり、眠ってしまったのを見てロビンは彼女に近寄った。そして指を空中で滑らせて魔力陣を描き、魔法を発動させると彼女に寄り添って彼女も目蓋を閉じた。寒くないようにと、狭い範囲ではあるが寝冷えしないように、二人の居る範囲だけの空気を暖かなものにして。
マリーがビクリと震えるたびにロビンは彼女の頭を撫で、「だいじょーぶ」と、赤子をあやす様に繰り返した。そしてそのまま暫く素振りの音を聞き続けていたロビンだが、彼女もまた温もりと共に遠い昔に置いて来た人肌の柔らかさや温もりを感じて眠りに突く。
『大丈夫、だいじょ~ぶ。問題ない、心配要らない――』
彼女の口癖である言葉が、彼女の頭の中で聞こえた。それは遠い日の思い出、まだ英雄ですらなく、ただの狩人だった時に言われ続けてきた言葉だ。責任と緊張で神経をすり減らし、磨耗し、眠れなくなった彼女を労わり、労いながら寝かせてくれた人物の口癖。
或いは、誰もがその言葉に安らぎを覚えていたかも知れない。だが、その人物は――居ない。だからこそ、彼女は自分の為にも、皆の為にも、仲間の為にも言い続けた。
――だいじょ~ぶ、と。
まるで仲良き友人のように眠る二人の傍、寝静まったのを見計らってアイアスが戻ってきた。そして屋根へと降り立ち、二人が寝静まってるのを見てから一人つぶやく。「――気にいらねえな」、と。
手を伸ばし、空中でその手を握り締めた。すると握り締めた手の隙間から、光り輝く砂の様なものが毀れ、風に流され散っていった。それを見てからアイアスは砂の流れる先を見つめ、その方角を見据えるとロビンと同じように魔力陣を宙に描き、自身の為の暖かい空間を作り上げると屋根に寝転がった。
暫くは不愉快そうに空を眺めていたが、一つ欠伸を漏らすとそのまま目蓋を閉ざし、寝ているのか起きているのか分からないままに意識を閉ざした。




