密室で2人は
BLですので、「ふたりの夜」ver.を。
小林晴美は、盆にココアを載せ、すり足で歩いていた。
深夜である。
呼び鈴が鳴って、典子にたたき起こされた。
……ま、お嬢様は、ああいう方だから。
もはや、腹も立たない。
また、小説を読みふけっていて、お腹が空いてしまったのだろう。
本を読むのはいいことだ。本を好きな人が、晴海は好きだ。
湯気の立つカップを捧げ持ち、晴美は、しずしずと歩き続けた。
典子のお部屋に行くには、古海の部屋の前を通らなければならない。
ドアは黒々と闇に浮かんでいた。灯りは落とされているようだった。
時間も時間だから、もう寝ているのだろう。
密かに晴美はほっとした。起きていようが寝ていようが、彼は非番だったから、別にどうでもいいことではある。
だが、どうにも晴美は、あの黒服の家令が苦手だった。
でも、大丈夫。いいおまじないがあるから。
「かりんとう」と、言えばいいのだ。
細くて短くて折れやすい、このお菓子の名前には、悪魔を封じる、ものすごい魔力が秘められているのだ。
晴美は、ドアの前を過ぎ、階段を上り始めた。
忍びやかな笑い声が聞こえた。
古海さんが笑うわけがない。
だって、いつも口をへの字に結んだ皮肉屋なんだから!
でも、これは……。
確かに笑っている。
……やっぱり、古海さんの声じゃない。
なら、誰?
夜中に、
くすくすと、耐えきれない、という風に。
誰が笑うっていうの?
こんな古いお屋敷の中で。
答えはひとつしかなかった。
「おばけ!」
ココアがこぼれるのもかまわず、晴海は、典子の部屋めがけて、必死で駆けた。
悲鳴とともに、晴美は、典子の部屋に飛び込んだ。
そのまま突っ走り、ベッドの上の布団の山に飛びついた。
「ぎえーーーっ」
布団の内側にほのかに灯っていた灯りが、まぶしくこぼれた。
布団をはねのけ、髪がぼさぼさの女の子が弾かれるように飛び出してきた。
中学時代から愛用の緑色のジャージを着用し、赤メガネをかけている。
「な、な、何?」
右手に懐中電灯、左手に薄い本を持ったままだ。
息を大きく吸い、彼女は叫んだ。
「受けと攻めが入れ替わったくらいじゃ、わたし、驚かないわよ!」
「んなわけ、ないでしょ、おばけなんて」
布団にココアを浴びせられ、典子は露骨に不機嫌だった。
しきりと、手にした薄い本をめくっている。
「だって、確かに聞こえたんです! 笑い声がっ!」
「だから、気のせいだって。……ああよかった。本は無事だわ」
「あ、お嬢様。すみません。ココアぶちまけちゃって」
「いいのよ。本さえ無事なら。このご本はね。わたしの大好きな蒼空梅子先生が、無名時代に出された同人誌で……」
「あっ!」
晴美は気がついた。
典子お嬢様の部屋に入っては、いけなかったんだ。
だって……、
……腐ってしまうから!
「大変! お嬢様。私、匂いませんか?」
「匂い? 何の?」
「だから、腐った……」
「別に、何も匂わないけど」
「ああ、よかった」
自分の体からは、変な汁も垂れていないようだし。肌も全然、ぬめってない。
どうやら、少しくらいなら、お部屋に入っても、大丈夫らしい。
「もう、下がってもいいわよ」
薄い本をしきりと気にしながら、典子が言った。
「あ……」
でも、また、あそこを通らなければならない。
「一緒に来て下さい、お嬢様」
「え? なんで?」
「だってまた、おばけが出るかもしれないじゃないですか! 私一人だと、怖いじゃないですか!」
「……なんで、わたしが一緒に……」
典子がしきりとぶつぶつ言っている。
「気になるのよ! 淫乱だった受けが、ノンケの攻めに迫られたらどーなるかっ! あの本の続きがっ!」
「だから、わけのわからないこと、ぶつぶつつぶやくのは、やめて下さいます?」
小声で晴美は制した。
「ここなんですけど」
階段の踊り場は、しんと静まり返っていた。
足元の常夜灯だけが、ぼんやりと灯っている。
「……なにも聞こえないじゃない」
「そんなはずは……」
「聞こえないわよ?」
「……そうですね。きっと、お嬢様のほうが、ステージが上なんだと思います」
「ステージ? なんの?」
「だから、魔物としての……」
さっき、部屋で見た典子の姿を、晴美は思い出した。
暗い部屋の中で、布団に潜り、髪振り乱して本を読む女の子……懐中電灯の灯りで。
つか、それは、女子のすることか?
典子が鼻を鳴らした。
「気のせいだったのよ。さ、わたしはお部屋に戻って、続きを読ーもおっと!」
先に立って、どんどん部屋に戻ってしまう。
「ま、待ってください! お嬢様、お嬢様ったらっ!」
「で、なんで、ハルちゃんまで戻ってきちゃうの?」
典子に言われて、晴美はむくれた。
「だって、お盆とカップをお部屋に忘れてきましたから」
「今度は一人で戻ってよ。大丈夫、何も出やしないから」
そう言って典子は、さっさとココアくさい布団に潜り込む。
「お嬢様」
布団の中に、懐中電灯の明かりが、ぽっとついた。
「お嬢様!」
ページを繰る幽かな音が聞こえた。
「……」
仕方なく、晴美は盆を持ち、一人で、典子の部屋を後にした。
再び踊り場に差し掛かった時だ。
密やかな忍び泣きが聞こえてきた。
声を殺して泣く声……、
……誰かを恨むような、
……それでいて、どこか甘えるみたいに媚を含んだ、
……そうかと思うと、切羽詰まった悲鳴のような。
「ぎゃーーーっ!」
盆を投げ出し、晴美は転がるように階段を駆け下りた。
**
「……って、ハルちゃんは言うんですよ」
もなみはそういうと、典子の前に、搾りたてのグレープジュースのジュースのグラスを置いた。
「お嬢様!」
憤懣やるかたない、といった風に、古海が口を出す。
「また、そんな時間にココアなぞ……」
「そこ!?」
「そこです! 太ったらどうします! 歯は、ちゃんと磨いたでしょうね!?」
「ココアは、布団が飲んだわ……」
「は?」
「布団なら、丸洗いしました」
素早くもなみが口を出した。
さりげなく、話をそらす。
「そういえば、本谷さんは? ゆうべ、泊っていったんでしょ?」
「えっ! そーなの? だったら一緒に映画を観たかっ……」
「あ、直緒さんならまだ寝てます。……私の部屋で」
「起こしてよ。一緒に朝ご飯を食べましょうよ」
「今日は休日です。いいじゃないですか。寝かせておいてあげても」
後ろを向いて、古海は紅茶を淹れ始めた。
典子が口を尖らせた。
「えー、つまんない。それに、朝ご飯を食べなかったら、直緒さんだって、お腹が空くわよ?」
「大丈夫です。起きたら二人で、カフェにでも行きますから。なにしろ、ゆうべは最後まで、」
言いかけて、古海は言葉を濁した。
こほん、もなみは咳ばらいをした。
「あの踊り場ね。古海さんの部屋の音が漏れるらしいんですよ。配管の具合ですかね」
「えっ!」
古海が思わず声を出した。
「あ。ご存じなかったですか?」
典子が目を丸くする。
「じゃ、ハルちゃんが言ってた笑い声って……」
「かりんとう」
「え? なに、モナちゃん?」
「いえ、こっちの話です」
「ああそれ、ハルちゃんもよく、つぶやいてるけど。古海の前で。何なの、それ?」
「細くて短くて折れやすい、お菓子の名前です」
「?」
「かりんとうじゃありません!」
憤然と古海が叫んだ。
「くすぐったかったら笑っていいって、私が言ったんです! あの人、とっても感じやすいから」
「……くすぐりっこをしてたのね。なあんだ」
典子はつぶやき、ホットケーキにナイフを入れた。
「あ、これ、おいしい」
夢中になって食べ始める。
「くすぐったいって、それ、どうなんです?」
古海にすり寄り、小声でもなみは尋ねた。
「まずくないですか?」
「いいえ」
きっぱりと古海は答えた。
典子に目をやり、小声で続ける。
「くすぐったいのは、そこが性感帯だからです。続けていると、そのうち、よくなります。つまり、彼には、経験がないってことです。初めてなんです、全てが」
「……」
「まっさらなんです。まっさらのまま、私の手に落ちてきた。それって、素晴らしいことだと思いませんか?」
「……。じゃあ、泣いてたのは? ハルちゃん、泣き声も聞いた、って、言ってますけど」
「それは……」
「古海さん! まさか、無理やり……」
「違います!」
「やっぱり、あなた、S……?」
「違いますってば! 昂ってきたら、抑える必要はない、って、言ったんです! あの人は、それはそれは控えめで、声を押し殺してしまうから。私は聞きたいのに」
「……朝っぱらから、のろけるの、やめてもらえませんかね」
「のろけなんかじゃありません! 私は、あの人がどれだけ素晴らしいか、そんな人を射止めることができて、自分が、どれだけ幸運だったかを述べているだけで……」
「それを、のろけと言うんです」
「だから、ちが、」
「何をごちゃごちゃ言ってるのよ?」
古海ともなみが小声で言い争っていると、典子が顔をあげた。
「ホットケーキ、おかわり!」
「そうだ。ゆうべ、お嬢様は、何も聞かなかったんですよね?」
もなみが尋ねた。
「それは、」
落ち着き払って古海が答える。
口をもぐもぐさせている典子に向き直った。
「お嬢様。私はいつも言っていますよね? お口にものが入っている時は、おしゃべりしてはいけない、って」
古いジョークを下敷きにしています。
古海×直緒では、これが、せいいっぱい。