第73話 優しく柔らかい人
「古海さん、遅いですね」
「あら、まだ出かけたばかりよ」
「ああ、そうでしたね……」
直緒はゲラ読みに戻った。
「古海さん、もう戻るでしょうか?」
「無理でしょ。向こうに着いたかどうかという頃よ」
「そうですね……」
「古海さん……」
何度目かに、直緒が言いかけた時だった。
軽いノックの音がして、オフィスのドアが開けられた。
優しい顔をした人が、柔らかく微笑んだ。
「薫ちゃん!」
典子が叫んだ。
「別に、萌えなくてもいいじゃないですか。いつもそばにいる人でしょ? いちいち萌えてたら、大変」
「身近にいるからこそよ。わたしはね、薫ちゃん。いつもいつも萌えていたいの。それが、わたしの幸せなのよ」
「うん、それ、よくわかる。でも、部下には萌えるわけでしょ。本谷さんには」
自分の名前が出て、直緒はぴくんと肩を震わせた。
興奮した典子の声が言う。
「それは、わたしが見込んだ人だもん。直緒さんって、すごいのよ。直緒さんに落とせない男なんていないわ」
「だったら、じゅうぶんでしょ」
薫という人が答えた。
片桐薫……。
腐ってしまった前任者。
どう見ても女性に見えるが、片桐薫は、女性ではない。
薫は、同性婚が認められているフランスで暮らしている。今は、一時帰国をしていると語った。
二人に背を向け、直緒は、オフィスの簡易コンロで、お茶を淹れていた。
本当はこんなことをしている場合ではない。だが、客は、あの片桐薫だという。
薫と古海の間には、いろいろあったらしい。
古海が薫に手を出したとか、それが原因で薫はモーリスを辞めたとか。
興奮した典子の声が聞こえた。
「でも、おかしいでしょ! あいつの主人はわたしなのよ? よその皆さんが萌えてるのに、わたしだけが萌えられないなんて。なんか、間違ってると思わない?」
「そうかしら」
「悔しいわ。やっぱり、いやなやつよ」
直緒の手元で、茶葉ががさりと大量にティーポットに落ちた。
典子が続ける。
「篤久堂の香坂さんがね。わたしが古海のことを、ママみたいに思ってるから、萌えないんじゃないか、って。ママにやってもらうようなことを、あいつにやらせているから」
「ふふ、そんなことを?」
「だから、わたし、自分のことは自分でできるように頑張ってみたのよ。……本当よ? モナちゃんに丸投げなんかしてないわっ!」
「信じますよ……」
「でも、萌えないの」
「それはね。萌える必要がないからだと思いますよ?」
「えええーーーっ! 何にでも萌えることができなくちゃ、りっぱな貴腐人にはなれないのよ?」
「でも、身近な人で萌えちゃったら、新しく萌えを探しに行こうとは思わないでしょ? おうちの中に、完璧な萌えがあったら」
「えと……」
「そうなったら、モーリスの本だって、つまらないものになっちゃうかもしれない。だって、作家さんの萌えなんか、必要なくなっちゃうもの」
「う……」
「萌えなくていいんですよ。古海さんには」
「どうぞ」
二人の前にカップを置いて、直緒は言った。
「ありがと、直緒さん」
一口飲んで、典子は顔をしかめた。
「うへえ。苦い……」
「ほんと。もはや渋いレベル……」
薫がティッシュを取り出した。
「口が痛い……」
二人の反応を、直緒は無視した。
やはり自分は、呑気に茶など出している場合ではない。
「あの、さしつかえなければ僕は少し、外出をしたいのですが……」
言いかけた時、オフィスの入口にメイドのもなみが現れた。
「お嬢様! ミドリヤマ中学校PTAの役員さんが、お会いしたいんですって」
「い、いやっ!」
脊髄反射で典子が叫んだ。
「なにがいやですかっ!」
すり抜けて逃げようとする襟首を、もなみがむんずと掴んだ。
「残っているのはミドリヤマ中学だけだから、PTAさんがいらしたら、必ずお嬢様に対応させるようにって、古海さんが言い置いていかれました」
「あいつの言うことなんて、ほっとけばいいの!」
「だめです! もしかしたら、遺言になっちゃうかもしれないんですよっ!?」
「それはそうだけどっ!」
「だったらっ!」
「直緒さん、一緒に来てぇー」
「それもだめです。女性に甘い本谷さんを出してはいけないと古海さんが、ちょっと、お嬢様、足クセ悪っ!」
「いやっ! だからっ!」
「来るんですっ!」
「モナちゃんが責任者だと言って!」
「何言ってるんです! そもそもBL図書館は、お嬢様の管轄でしょ! さ、行きますよ。早くっ!」
言い争う二人の声が、遠ざかっていく。
「BL図書館。今回はまた、思い切ったことを、典子さんも」
薫がつぶやいた。思わず口に出てしまったようだった。
「それで今、大変なんです……」
と、直緒が応じた。
「典子さんがBLを好きなのはね」
やや改まった口調で薫が言った。
「亡くなったお母さまの影響なのよ」
「ええっ! 典子さんのお母さんも、腐女子だったんですか!?」
「というか、お母様がそもそもの始まり。遺された蔵書を読んで、典子さんも腐女子になったの。……それより、」
ほっそりとした眉を顰めて、薫が言った。
「古海さんの遺言? 穏やかじゃないわね」
「あの、BL弾圧があって、モーリス出版社として、ちょっと巻き込まれちゃったというか……」
どこまで話したらいいのかわからない。
だが薫は、訳知り顔で頷いた。
「ああ。聞いたわ、その話」
「え?」
「古海さんから聞いた」
「古海さんから?」
「ええ。それにしても、遺言なんて。ひどいメイドね」
「もなみさんは不安なんです。だからわざと遺言なんて言って、不安を紛らわそうとしているんです。一種のショック療法なんです」
思わず強い口調になっている自分に気づき、直緒は、はっとした。
「あの、僕、もう行かなくちゃ」
「私が今日、ここに来たのはね」
ゆっくりと薫が言った。
「あなたの足止めの為」
「えっ!」
「そんな風にムキになって」
「……」
「あなた、さっきから、そわそわしてるわね。やっぱり、古海さんを追っていくつもりなのね?」
「……」
「あなたをここに留めておくよう、彼に頼まれたのよ」
「そんなことまで、あなたに、」
「そうよ」
「連絡を取ってるんですね、今でも」
低い声で直緒はつぶやいた。
「ええ」
当然、というように薫は頷いた。
「……」
「……」
沈黙が落ちた。
ややあって、薫が言った。
「あの人は、私の、恩人なの」
「恩人?」
恩人、という言葉は使わなかったけど、もなみも同じようなことを言っていた。
古海がいなかったら、自分は死んでいただろう、と。
「モーリスを辞めることをためらっていたら、古海さんが背中を押してくれたの。だって、ほら、典子さんはああいう人でしょ? とてもじゃないけど、裏切るような真似はできなくて」
「背中を押した?」
……手を出したんじゃなくて?
「今の彼について行こうかどうしようか迷っていた時に」
「ああ」
「でもそれは、典子さんへの裏切りでしょ? 恋人について行きたいから、仕事辞めます、なんて。私はそう思ったの。典子さんだけは、裏切りたくなかった。でも、古海さんは言ったわ。貪欲に幸せを求めないのは、臆病だって」
「……」
「何か誤解があるようだから」
肩をすくめて、薫が言った。
「私と古海さんの間には、何もなかったよ?」
「そ、そんなこと、誰も疑ってなんか……」
「ふうん。私はてっきり、典子さんがまた、何か話したのかと思った。妄想全開で」
「……そりゃ、典子さんは、最初からそういう人だけど……」
……カヲルもとうとう最後には、リュウを諦めた。
……受け容れたように見えても、最後の最後に突き放す。
以前聞かされた神田の言葉を、直緒は忘れることができなかった。
言葉の途中で黙り込んだ直緒を、薫はじっと見つめた。
「そうね。何もかも、典子さんのせいにするのはいけないよね」
「……」
「でも、安心して。そのうちに今の彼が現れて、もう、どうでもよくなったのよね、古海さんのことは」
「……ふった? 古海さんのことを? あなたの方から?」
「そういうことは聞かないの」
薫は言った。
「彼のことは好きだったけどね……。あ。でも、なにもなかったから。そこは、本当。何しろ私は、品行方正だから」
相手が古海では信じられない、と直緒は思った。
薫は、くすりと笑った。
「止めた方がいいよ、古海さんなんて」
「え?」
「イジワルで皮肉屋で、その上、Sだし」
「Sは、違うと思う。みんなそう言うけど……」
「あらそう? それでもって、男好きで節操ないし」
「それは……そうかも」
「そうよ。彼ね、とりあえず落とすのよ。自分に惚れさせて、メロメロにしてから、つきあうかどうか決めるの。どうせ長続きしないくせに。タチが悪いわ」
しかし古海は、男は絶ったと言っていなかったか。
いつも一緒にいる直緒には、それが嘘ではないとわかる。
「でも、そんなことは、どうでもいいのよ」
「いっ、いいんですかっ!?」
「いいの、別に。私が堪えられなかったのは、常識が通用しないこと。悪いことを悪いと思わないのよ、あの人。社会の決まりごとなんて、平気で無視しちゃうでしょ? 遵法精神? そういうものが、皆無なの」
「あ……」
錠前をやぶる特技とか?
身分証を偽造して架空口座を作るとか?
不正送金も。
あと、人に自白剤を飲ませるとか。
「そういう意味じゃ、典子さんとはいいコンビね」
そういうあれこれについて、自分は殆ど気にしていなかったと、改めて直緒は気づいた。
そう。
直緒は許容していた。
「だって、典子さんの為にしたことでしょ? 本の為にしたことだ」
「あの男が本の為に何かするですって?」
薫が噴き出した。
「あり得ないでしょ、それは」
確かに、古海は小説を読まない男だ。たまに読むと、あり得ない解釈をしてしまうほどだ。
それはつまり……。
本の為じゃなくて……、
薫はじっと、直緒の顔を見つめた。
「あの人が本の為になにかしたとしたら、それは、あなたの為だわ」
「……」
「でも私には、なにもなかった。最後まで」
薫の声が、直緒との間にぽつんと落ちた。
「そもそも僕ら、男同士だしぃ」
がらりと口調を変え、薫が言った。
意地悪そうに、にやりと笑った。
「あなた、そう言うんでしょ。いつも」
「……」
ふふ、と言う声を、喉の奥から薫は出した。
「あなた、かわいい。ちょっとだけ、古海さんの気持ちがわかるわぁ」
「う、うう、」
直緒はうなった。
「いったいどういう話を、古海さんと?」
「さあねえ」
笑みを含みつつ、薫は肩を竦めた。
「情報の横流しかな。私はガールズトークができるから」
はっきりと話をそらせた。
「僕はできない。それは無理だ」
直緒は認めた。
耳に心地よいハスキーボイス、意識して選択される女性言葉。
ゆるいニットと幅広のスラックス、ユニセックスな優しいシルエット。
たとえ求められようと、自分には、絶対、できない。
「僕は、あなたとは違う」
「そう? 私もね、」
気を悪くした風でもなくさらりと受け流し、薫は続けた。
「あなたに会ってみたかった。だって、古海さんがひっかけてくるのって、極上の男か、サイアクなのか、どっちかだから」
「え?」
「彼、これが生涯最後の恋だなんて、ヌかしてるし」
「……別に僕は引っ掛けられたわけじゃ……で、どっちなんです、僕は」
小さい声で尋ねた。
「だって、彼にだって、幸せになってもらいたいじゃない?」
薫は、直緒の質問には答えなかった。
いたずらっぽい顔をして笑った。
げっそりとやつれきった顔で、典子が戻ってきた。
「……死ぬかと思った」
ふふ、と薫は笑った。
「これしきのことでは諦めないでしょ、BL図書館」
「もちろんよっ!」
典子は叫んだ。
「あのオニババ軍団め……あんなのに育てられる子ども達こそ、いい迷惑だわっ! 逆に闘志が湧いてきたわっ!」
「それでこそ、典子さん。今日は、来たかいがあった」
「え、薫ちゃん、もう帰っちゃうの?」
「ええ。目的は達成したし」
ちらりと流し目を送ってよこした。
直緒にだけ聞こえるように付け足した。
「ごめんね、足止めさせて。早く行ってあげて」
早口の低い声で、直緒は尋ねた。
「古海さんに会わないで帰るんですか?」
どちらかというと、会わないで欲しかった。
「今回はね。そうだ、典子さん。新しいメイドちゃんが入ったんですって?」
「薫ちゃん、よく知ってるわね。私が探して来たの。文学少女のハルちゃんよ」
「そのコ、借りていい?」
「だめ! わたしのメイドさんなんだから!」
「いいじゃない。ちょっと外に連れ出して、二人でおしゃべりするだけよ」
「だったら、わたしも行く!」
「二人きりでおしゃべりしたいの」
「ええーーー。わたしのハルちゃんとぉーー薫ちゃんがぁーーー? 二人きりでーーー?」
「いいじゃない。ケチケチしないで貸してよ」
「わたし、ケチじゃないもん!」
「じゃ、貸して。ちゃんと返すから」
典子は口を尖らせた。
追い打ちをかけるように、薫が言った。
「かりんとう以外にもおいしいスイーツがあるってことを、教えてあげるだけよ……」
「かりんとう?」
不思議そうに典子が尋ねた。
薫が頷いた。
「ええ、そう。何しろ私は、ガールズトークができるから」
**
「何見てるの、直緒さん」
典子が声を掛けてきた。
強引に晴美を連れていかれたせいか、やや不機嫌な声だ。
「……」
直緒は黙って、スマホを見ていた。
呼び出したデータは、誤っているとしか思えない結果を表示していた。
「直緒さん!」
「……」
これはありえない、と直緒は思った。
しかし、システムは正常に作動している……。
不意に、スマホと直緒の間に、にゅっと手が差し出された。
アートを施していない伸び気味の爪が、目の前で翻った。
「はい」
開かれた掌の上には、キーホルダーが握られていた。
ライセンスフリーのクロクマが、くちゃりと笑っている。
「古海が、直緒さんに返しとくようにって」
「これっ!」
「GPS発信機を仕込んだのね。こっそり古海のポケットに入れといたんでしょ?」
典子は物珍しげに、キーホルダーを目の高さに持ち上げた。
「稚拙な発信器だわ。古海じゃなくても、すぐバレるわよ。いくら人気のキャラクターを使ってもね! 誰に頼んで手に入れたか知らないけど、無能な友達とは縁を切った方がいいわよ」
「……遠藤さんに頼んだんですよ? あなたのお抱え探偵の」
典子がたじろいだ。
どもりながら言う。
「い、いいのよ。遠藤さんはっ! いろいろわたしのやり方をわかってるから! 話が早いしっ!」
さぞやいろんなあくどい仕事を頼んだのだろうと、直緒は思った。
今さら縁を切れないのだろう。
スマホの、役立たずのシステムに目を落とした。
だから発信源は、一乗寺家別邸から動かなかったのだ。
「典子さん」
静かに直緒は言った。
典子が2、3歩後ずさる。
「な、なに? 目がスワってるわよ、直緒さん……」
「典子さんは知ってますよね。古海さんがどこへ行ったか。詳しい場所と、そこへの潜入の仕方を」
なにせ日本の政治の中枢だ。
普通に行って、入れてくれるわけがない。
たとえ古海が望んでいなかろうと。
直緒を止める為に薫を寄越そうと。
諦めるつもりはなかった。
「典子さんは知っていますよね!」
「知ら……」
「知らないなんて言わせませんよ。あの、山田ハナコという司書と、彼女の友達を使って、ルートを開いたんだ」
山田はかつて、警察庁公安部に勤務していた。一乗寺家には、政府のスパイとしてやってきた。
そしてその友達は、今現在も、内閣官僚、藤堂参事官の秘書をしている。
「もちろん黒幕は、典子さんだ」
「な、直緒さん、目が怖いんですけど」
「行きますよ、典子さん! 僕たちも、古海さんのところへ!」




