表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒモノ女子は優雅に腐る  作者: せりもも
第8章 腐女子と官僚

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

73/88

第73話 優しく柔らかい人




 「古海さん、遅いですね」

「あら、まだ出かけたばかりよ」

「ああ、そうでしたね……」

直緒はゲラ読みに戻った。


 「古海さん、もう戻るでしょうか?」

「無理でしょ。向こうに着いたかどうかという頃よ」

「そうですね……」


 「古海さん……」

 何度目かに、直緒が言いかけた時だった。

 軽いノックの音がして、オフィスのドアが開けられた。

 優しい顔をした人が、柔らかく微笑んだ。


「薫ちゃん!」

典子が叫んだ。




 「別に、萌えなくてもいいじゃないですか。いつもそばにいる人でしょ? いちいち萌えてたら、大変」

「身近にいるからこそよ。わたしはね、薫ちゃん。いつもいつも萌えていたいの。それが、わたしの幸せなのよ」

「うん、それ、よくわかる。でも、部下には萌えるわけでしょ。本谷さんには」


 自分の名前が出て、直緒はぴくんと肩を震わせた。

 興奮した典子の声が言う。


「それは、わたしが見込んだ人だもん。直緒さんって、すごいのよ。直緒さんに落とせない男なんていないわ」

「だったら、じゅうぶんでしょ」

薫という人が答えた。


 片桐薫……。

 腐ってしまった前任者。


 どう見ても女性に見えるが、片桐薫は、女性ではない。

 薫は、同性婚が認められているフランスで暮らしている。今は、一時帰国をしていると語った。


 二人に背を向け、直緒は、オフィスの簡易コンロで、お茶を淹れていた。

 本当はこんなことをしている場合ではない。だが、客は、あの片桐薫だという。


 薫と古海の間には、いろいろあったらしい。

 古海が薫に手を出したとか、それが原因で薫はモーリスを辞めたとか。



 興奮した典子の声が聞こえた。

「でも、おかしいでしょ! あいつの主人はわたしなのよ? よその皆さんが萌えてるのに、わたしだけが萌えられないなんて。なんか、間違ってると思わない?」

「そうかしら」

「悔しいわ。やっぱり、いやなやつよ」


 直緒の手元で、茶葉ががさりと大量にティーポットに落ちた。

 典子が続ける。


「篤久堂の香坂さんがね。わたしが古海のことを、ママみたいに思ってるから、萌えないんじゃないか、って。ママにやってもらうようなことを、あいつにやらせているから」

「ふふ、そんなことを?」

「だから、わたし、自分のことは自分でできるように頑張ってみたのよ。……本当よ? モナちゃんに丸投げなんかしてないわっ!」

「信じますよ……」

「でも、萌えないの」


「それはね。萌える必要がないからだと思いますよ?」

「えええーーーっ! 何にでも萌えることができなくちゃ、りっぱな貴腐人にはなれないのよ?」

「でも、身近な人で萌えちゃったら、新しく萌えを探しに行こうとは思わないでしょ? おうちの中に、完璧な萌えがあったら」

「えと……」


「そうなったら、モーリスの本だって、つまらないものになっちゃうかもしれない。だって、作家さんの萌えなんか、必要なくなっちゃうもの」

「う……」

「萌えなくていいんですよ。古海さんには」



 「どうぞ」

二人の前にカップを置いて、直緒は言った。


「ありがと、直緒さん」

一口飲んで、典子は顔をしかめた。

「うへえ。苦い……」

「ほんと。もはや渋いレベル……」

薫がティッシュを取り出した。

「口が痛い……」


 二人の反応を、直緒は無視した。

 やはり自分は、呑気に茶など出している場合ではない。


 「あの、さしつかえなければ僕は少し、外出をしたいのですが……」

言いかけた時、オフィスの入口にメイドのもなみが現れた。

「お嬢様! ミドリヤマ中学校PTAの役員さんが、お会いしたいんですって」


「い、いやっ!」

脊髄反射で典子が叫んだ。


「なにがいやですかっ!」

 すり抜けて逃げようとする襟首を、もなみがむんずと掴んだ。

「残っているのはミドリヤマ中学だけだから、PTAさんがいらしたら、必ずお嬢様に対応させるようにって、古海さんが言い置いていかれました」

「あいつの言うことなんて、ほっとけばいいの!」

「だめです! もしかしたら、遺言になっちゃうかもしれないんですよっ!?」

「それはそうだけどっ!」

「だったらっ!」


「直緒さん、一緒に来てぇー」

「それもだめです。女性に甘い本谷さんを出してはいけないと古海さんが、ちょっと、お嬢様、足クセ悪っ!」

「いやっ! だからっ!」

「来るんですっ!」

「モナちゃんが責任者だと言って!」

「何言ってるんです! そもそもBL図書館は、お嬢様の管轄でしょ! さ、行きますよ。早くっ!」


言い争う二人の声が、遠ざかっていく。




 「BL図書館。今回はまた、思い切ったことを、典子さんも」

薫がつぶやいた。思わず口に出てしまったようだった。

「それで今、大変なんです……」

と、直緒が応じた。


 「典子さんがBLを好きなのはね」

やや改まった口調で薫が言った。

「亡くなったお母さまの影響なのよ」

「ええっ! 典子さんのお母さんも、腐女子だったんですか!?」

「というか、お母様がそもそもの始まり。遺された蔵書を読んで、典子さんも腐女子になったの。……それより、」


ほっそりとした眉を顰めて、薫が言った。

「古海さんの遺言? 穏やかじゃないわね」

「あの、BL弾圧があって、モーリス出版社として、ちょっと巻き込まれちゃったというか……」

どこまで話したらいいのかわからない。


 だが薫は、訳知り顔で頷いた。

「ああ。聞いたわ、その話」

「え?」

「古海さんから聞いた」

「古海さんから?」

「ええ。それにしても、遺言なんて。ひどいメイドね」

「もなみさんは不安なんです。だからわざと遺言なんて言って、不安を紛らわそうとしているんです。一種のショック療法なんです」

思わず強い口調になっている自分に気づき、直緒は、はっとした。

「あの、僕、もう行かなくちゃ」


 「私が今日、ここに来たのはね」

ゆっくりと薫が言った。

「あなたの足止めの為」

「えっ!」

「そんな風にムキになって」

「……」

「あなた、さっきから、そわそわしてるわね。やっぱり、古海さんを追っていくつもりなのね?」

「……」

「あなたをここに留めておくよう、彼に頼まれたのよ」

「そんなことまで、あなたに、」

「そうよ」

「連絡を取ってるんですね、今でも」

低い声で直緒はつぶやいた。

「ええ」

当然、というように薫は頷いた。


「……」

「……」


 沈黙が落ちた。

 ややあって、薫が言った。


「あの人は、私の、恩人なの」

「恩人?」


 恩人、という言葉は使わなかったけど、もなみも同じようなことを言っていた。

 古海がいなかったら、自分は死んでいただろう、と。


「モーリスを辞めることをためらっていたら、古海さんが背中を押してくれたの。だって、ほら、典子さんはああいう人でしょ? とてもじゃないけど、裏切るような真似はできなくて」


「背中を押した?」

 ……手を出したんじゃなくて?


「今の彼について行こうかどうしようか迷っていた時に」

「ああ」

「でもそれは、典子さんへの裏切りでしょ? 恋人について行きたいから、仕事辞めます、なんて。私はそう思ったの。典子さんだけは、裏切りたくなかった。でも、古海さんは言ったわ。貪欲に幸せを求めないのは、臆病だって」

「……」


 「何か誤解があるようだから」

肩をすくめて、薫が言った。

「私と古海さんの間には、何もなかったよ?」

「そ、そんなこと、誰も疑ってなんか……」

「ふうん。私はてっきり、典子さんがまた、何か話したのかと思った。妄想全開で」

「……そりゃ、典子さんは、最初からそういう人だけど……」


 ……カヲルもとうとう最後には、リュウを諦めた。

 ……受け容れたように見えても、最後の最後に突き放す。


 以前聞かされた神田の言葉を、直緒は忘れることができなかった。


 言葉の途中で黙り込んだ直緒を、薫はじっと見つめた。

「そうね。何もかも、典子さんのせいにするのはいけないよね」

「……」


「でも、安心して。そのうちに今の彼が現れて、もう、どうでもよくなったのよね、古海さんのことは」

「……ふった? 古海さんのことを? あなたの方から?」

「そういうことは聞かないの」

薫は言った。

「彼のことは好きだったけどね……。あ。でも、なにもなかったから。そこは、本当。何しろ私は、品行方正だから」


相手が古海では信じられない、と直緒は思った。


 薫は、くすりと笑った。

「止めた方がいいよ、古海さんなんて」

「え?」

「イジワルで皮肉屋で、その上、Sだし」

「Sは、違うと思う。みんなそう言うけど……」

「あらそう? それでもって、男好きで節操ないし」

「それは……そうかも」

「そうよ。彼ね、とりあえず落とすのよ。自分に惚れさせて、メロメロにしてから、つきあうかどうか決めるの。どうせ長続きしないくせに。タチが悪いわ」


 しかし古海は、男は絶ったと言っていなかったか。

 いつも一緒にいる直緒には、それが嘘ではないとわかる。


「でも、そんなことは、どうでもいいのよ」

「いっ、いいんですかっ!?」

「いいの、別に。私が堪えられなかったのは、常識が通用しないこと。悪いことを悪いと思わないのよ、あの人。社会の決まりごとなんて、平気で無視しちゃうでしょ? 遵法精神? そういうものが、皆無なの」


「あ……」


 錠前をやぶる特技とか?

 身分証を偽造して架空口座を作るとか?

 不正送金も。

 あと、人に自白剤を飲ませるとか。


「そういう意味じゃ、典子さんとはいいコンビね」


 そういうあれこれについて、自分は殆ど気にしていなかったと、改めて直緒は気づいた。

 そう。

 直緒は許容していた。


「だって、典子さんの為にしたことでしょ? 本の為にしたことだ」

「あの男が本の為に何かするですって?」

薫が噴き出した。

「あり得ないでしょ、それは」


 確かに、古海は小説を読まない男だ。たまに読むと、あり得ない解釈をしてしまうほどだ。

 それはつまり……。

 本の為じゃなくて……、


 薫はじっと、直緒の顔を見つめた。

「あの人が本の為になにかしたとしたら、それは、あなたの為だわ」

「……」

「でも私には、なにもなかった。最後まで」


薫の声が、直緒との間にぽつんと落ちた。


 「そもそも僕ら、男同士だしぃ」

がらりと口調を変え、薫が言った。

 意地悪そうに、にやりと笑った。

「あなた、そう言うんでしょ。いつも」

「……」


ふふ、と言う声を、喉の奥から薫は出した。

「あなた、かわいい。ちょっとだけ、古海さんの気持ちがわかるわぁ」

「う、うう、」

直緒はうなった。

「いったいどういう話を、古海さんと?」


「さあねえ」

笑みを含みつつ、薫は肩を竦めた。

「情報の横流しかな。私はガールズトークができるから」

はっきりと話をそらせた。


 「僕はできない。それは無理だ」

直緒は認めた。


 耳に心地よいハスキーボイス、意識して選択される女性言葉。

 ゆるいニットと幅広のスラックス、ユニセックスな優しいシルエット。

 たとえ求められようと、自分には、絶対、できない。


「僕は、あなたとは違う」

「そう? 私もね、」


気を悪くした風でもなくさらりと受け流し、薫は続けた。


「あなたに会ってみたかった。だって、古海さんがひっかけてくるのって、極上の男か、サイアクなのか、どっちかだから」

「え?」


「彼、これが生涯最後の恋だなんて、ヌかしてるし」

「……別に僕は引っ掛けられたわけじゃ……で、どっちなんです、僕は」

小さい声で尋ねた。


「だって、彼にだって、幸せになってもらいたいじゃない?」


 薫は、直緒の質問には答えなかった。

 いたずらっぽい顔をして笑った。




 げっそりとやつれきった顔で、典子が戻ってきた。

「……死ぬかと思った」


ふふ、と薫は笑った。

「これしきのことでは諦めないでしょ、BL図書館」

「もちろんよっ!」

典子は叫んだ。

「あのオニババ軍団め……あんなのに育てられる子ども達こそ、いい迷惑だわっ! 逆に闘志が湧いてきたわっ!」

「それでこそ、典子さん。今日は、来たかいがあった」

「え、薫ちゃん、もう帰っちゃうの?」

「ええ。目的は達成したし」


 ちらりと流し目を送ってよこした。

 直緒にだけ聞こえるように付け足した。

「ごめんね、足止めさせて。早く行ってあげて」


 早口の低い声で、直緒は尋ねた。

「古海さんに会わないで帰るんですか?」

どちらかというと、会わないで欲しかった。


「今回はね。そうだ、典子さん。新しいメイドちゃんが入ったんですって?」

「薫ちゃん、よく知ってるわね。私が探して来たの。文学少女のハルちゃんよ」

「そのコ、借りていい?」

「だめ! わたしのメイドさんなんだから!」

「いいじゃない。ちょっと外に連れ出して、二人でおしゃべりするだけよ」

「だったら、わたしも行く!」

「二人きりでおしゃべりしたいの」


「ええーーー。わたしのハルちゃんとぉーー薫ちゃんがぁーーー? 二人きりでーーー?」


「いいじゃない。ケチケチしないで貸してよ」

「わたし、ケチじゃないもん!」

「じゃ、貸して。ちゃんと返すから」


 典子は口を尖らせた。

 追い打ちをかけるように、薫が言った。


「かりんとう以外にもおいしいスイーツ(おかし)があるってことを、教えてあげるだけよ……」

「かりんとう?」

不思議そうに典子が尋ねた。


 薫が頷いた。

「ええ、そう。何しろ私は、ガールズトークができるから」



**



 「何見てるの、直緒さん」

典子が声を掛けてきた。

 強引に晴美を連れていかれたせいか、やや不機嫌な声だ。


「……」

 直緒は黙って、スマホを見ていた。

 呼び出したデータは、誤っているとしか思えない結果を表示していた。


「直緒さん!」

「……」


 これはありえない、と直緒は思った。

 しかし、システムは正常に作動している……。


 不意に、スマホと直緒の間に、にゅっと手が差し出された。

 アートを施していない伸び気味の爪が、目の前で翻った。

「はい」


 開かれた掌の上には、キーホルダーが握られていた。

 ライセンスフリーのクロクマが、くちゃりと笑っている。


「古海が、直緒さんに返しとくようにって」

「これっ!」

「GPS発信機を仕込んだのね。こっそり古海のポケットに入れといたんでしょ?」


典子は物珍しげに、キーホルダーを目の高さに持ち上げた。


「稚拙な発信器だわ。古海じゃなくても、すぐバレるわよ。いくら人気のキャラクターを使ってもね! 誰に頼んで手に入れたか知らないけど、無能な友達とは縁を切った方がいいわよ」

「……遠藤さんに頼んだんですよ? あなたのお抱え探偵の」


 典子がたじろいだ。

 どもりながら言う。


「い、いいのよ。遠藤さんはっ! いろいろわたしのやり方をわかってるから! 話が早いしっ!」


 さぞやいろんなあくどい仕事を頼んだのだろうと、直緒は思った。

 今さら縁を切れないのだろう。

 スマホの、役立たずのシステムに目を落とした。

 だから発信源は、一乗寺家別邸から動かなかったのだ。



 「典子さん」

静かに直緒は言った。

 典子が2、3歩後ずさる。

「な、なに? 目がスワってるわよ、直緒さん……」

「典子さんは知ってますよね。古海さんがどこへ行ったか。詳しい場所と、そこへの潜入の仕方を」


 なにせ日本の政治の中枢だ。

 普通に行って、入れてくれるわけがない。


 たとえ古海が望んでいなかろうと。

 直緒を止める為に薫を寄越そうと。

 諦めるつもりはなかった。


「典子さんは知っていますよね!」

「知ら……」

「知らないなんて言わせませんよ。あの、山田ハナコという司書と、彼女の友達を使って、ルートを開いたんだ」


 山田はかつて、警察庁公安部に勤務していた。一乗寺家には、政府のスパイとしてやってきた。

 そしてその友達は、今現在も、内閣官僚、藤堂参事官の秘書をしている。


「もちろん黒幕は、典子さんだ」

「な、直緒さん、目が怖いんですけど」

「行きますよ、典子さん! 僕たちも、古海さんのところへ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=309035498&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ