第71話 世界の果てで珍獣を見る
「ハナちゃんが、いいこと教えてくれたわ!」
直緒が原稿を読んでいると……このままでは、本屋に並ぶことのない原稿だ……、典子がやってきた。
昨日、典子は出社しなかった。この頃、時折、ふらっといなくなることがある。
昨日は一日、姿が見えなかったので、古海が慌てまくって探していた。
「司書さんと会っていたんですね」
「ええ、そうよ」
直緒が尋ねると、悪びれることなく典子は答えた。
「昨日、古海さんが探してましたよ」
「あいつなら、だしぬいてやったわ! ほんと、この頃古海は、番犬みたいにしつこくて。でも、わたしの方が上級者なのよ!」
「そうなんですか?」
「そうよ! ……古海のことはどうでもいいの。モーリスの本を書店から締め出し、BL図書館設立の邪魔をした黒幕なんだけど!」
直緒のデスクの傍らに立ち、目を輝かせる。
「彼は、攻めなのっ!」
「はい?」
「決して古海から聞いたわけじゃないのよ? ハナちゃんが教えてくれたの」
「なぜ、そこに古海さんの名が?」
「だから、古海じゃないって。ココ、大事なとこよ。ハナちゃんがおしえてくれたの、古海じゃなくて」
「……お嬢様」
冷たい声が典子を遮った。
「この件に、私は無関係かと存じますが」
「げ、古海。なにそのジゴクミミ……」
「ケモミミよりマシでございましょう。あれは直緒さんがつければかわいらしいのですが、」
「古海さん!」
直緒は叫んだ。
「話が分かりません。二人とも、もっとわかるように説明してください!」
BL本を出版することへの、業界の拒絶。
BL図書館設立阻止。
その陰には、政府の官僚がいることを、典子は話した。
傍らで古海が、苦い顔をして聞いている。
「だから、ターゲットは、藤堂雅彦参事官。そして彼は、攻めなの!」
「ターゲットって、典子さん、いったい何をするつもりなんですか?」
「決まってるじゃない」
典子の目が妖しく輝いた。
「藤堂参事官が、本当はBLが好きで好きでたまらないって、国民の前に暴露させるの!」
「その人、本当にBLが好きなんですか?」
思わず直緒が尋ねると、典子は即答した。
「もちろん!」
「じゃ、なんで、BL弾圧なんてするんです?」
「それはね、好きなコは、いじめたくなるものだから! 藤堂さんは、大好きなBLを、いじめて孤立させ、ヒトリジメしたいのよ!」
「違います!」
きっぱりと古海が否定した。
そして、少子化とBLの因果関係についての現政権の見解を説明した。
「おかしいでしょ、それ!」
思わず直緒は叫んだ。
「そんな、BLが少子化の原因だなんて!」
「ま、男同士ではナニをしても、子どもは生まれませんからね」
「いいじゃないですか。子どもを作る為に愛し合うんじゃない」
古海がはっとしたように直緒を見た。
直緒の頬に血が上った。
「しょ、小説の話です。BLの……」
「よく言ったわっ、直緒さんっ!」
嬉しげに叫んだのは、典子である。
直緒に駆け寄り、いつのものように抱きつこうとした。
「ダメです!」
寸前で、古海が押し留めた。
「お嬢様、あなた、また、直緒さんをけしかけるつもりですね?」
「けしかける? 僕を?」
……ええと。藤堂参事官は……攻め!
……だから、受けが必要、と。
直緒は頭の中で関係性を整理した。
典子が頷く。
「その通りよ、古海。モーリスの、いいえ、日本のBLの為よ。直緒さんには、黒幕の藤堂さんのところへ行って、BL弾圧の証拠を握ってきてほしいの」
「お嬢様、あなたまさか、それをネタに、国をゆするつもりじゃ……」
「ゆるす? 何言ってんの、古海。これは、立派な表現の自由の侵害よ! 憲法違反だわっ! 早急に日弁連を巻き込んで、抗議集会と、デモも企画しなくては!」
「だから、お祭りじゃないんですよ? とにかく、直緒さんを巻き込まないで下さい!」
「行ってくれるわね、直緒さん!」
「……モーリスの、日本のBLの為……」
熱に浮かされた人のように、直緒はつぶやいた。
「モーリスの紙の本を、出版流通させる為……」
その為なら……。
「もちろんです!」
「ダメです!」
再び古海が横槍を入れた。
「あなたは黙ってて、古海!」
「黙ってなんか……」
「典子さんの言うとおりです、古海さん。決めるのは僕です」
「そおよ、その通りよ!」
「BL弾圧の証拠を握ればいいんですよね? 表現の自由を弾圧したと認めさせれば!」
それだけならできると、直緒は思った。
なぜなら自分は男だから。
いやなものはいやだと言い切る自信があるから。
どのような状況に陥ったとしても。
直緒の言葉を遮るように、古海が叫んだ。
「行きます。私が代わって。直緒さんの代わりに!」
「血迷ったの、古海?」
世界の果てで珍獣を見るような目で、典子は古海を見た。
「藤堂参事官は攻めなのよ? 潜入すべきは、受け。あなたじゃ、用をなさないわ」
「いいえ、お嬢様。直緒さんは行かせません」
きっぱりと古海は言った。
「私が参ります」
典子の前を辞してからも、二人は言い争いを続けた。
潜入するという直緒を、古海はどうしても許さなかった。
自分が行くと、譲らない。
「危なくは……危険は、ないんですか?」
思わず直緒は尋ねた。
「なぜ? 私は話をつけにいくだけですよ。善意の国民に監視をつけるなんて、抗議に行って当然の行為ですから。それに」
古海は不敵に笑った。
「私も彼……藤堂参事官に、言いたいことがあります」
直緒は古海に近寄り、そっとその袖を引いた。ためらいながら、言う。
「でも、公安とか、内閣官房とか。普通の世界じゃないでしょ。警察官は、銃を持っています」
「日本は法治国家です。むやみに発砲したりしませんよ」
「もみ消してるだけなのかもしれない。権力の中枢だもの、なにがあっても、不思議じゃないです」
「そんな場所に、あなたは行こうとしたんですよ、直緒さん。私が代わりに行くのが、当然じゃないですか」
「当然じゃないです! なぜそうまでして、僕の身代わりになろうとするんです。僕を守ろうとするんです!」
「守ってなんかいません。守られているのは私の方です。だって、直緒さん、あなたがいないと、私は生きていけないから」
「僕だって! あなたがいないと……」
意気込んだあまり、言葉が詰まる。
「直緒さん」
厳しい目で古海は直緒を見た。
「私がそう思うのは私の勝手だけど、あなたがそう思うことを、私は許しません。飛び立てばいいのです。私以外に幸せをみつけたら。だって」
にっこりとほほ笑んだ。
「あなたが幸せでないと、私は、本当に本当に、つまらないですから」
「……そんなこと……僕だって……」
「あのね、直緒さん。私、嬉しかったですよ。あなたがお見合いを断ってくれたこと。好きな人がいるからって」
「……、当然でしょ」
「好きな人って、私ですよね?」
「それは……言わせるんですか?」
「言って下さい」
「でも、……だって……」
「今ここで、好きです、って、言ってください」
「いやです」
「……直緒さん」
古海はため息をついた。
すぐに、にっこりと笑ってみせた。
「私が帰ってきたら、二人でおじい様の所へ行きましょうね。前にいらした時は、慌ただしかったから」
直緒は、甘い雰囲気が苦手だ。
古海のように、上手に、好きだという気持ちを吐くことができない。
しかし、祖父の話が出て、混乱していた意識が正常に戻った。
「でも、これは、本の仕事です。あなたには、関係ない」
「それを言いますか」
古海が傷ついた表情を浮かべた。
「お嬢様とあなたと……二人ながらどっぷり浸かった世界から、私だけを締め出すことができるとお思いか?」
「本の為に命を賭けたのは、僕です。古海さんじゃない。それに僕は、自分の身くらい、自分で守れる」
古海の目が、猛獣のように光った。
次の瞬間、直緒は、彼の下に組み敷かれていた。
「戦闘のスキルなら、私のほうが上だと思いますが」
至近距離で見下ろす、余裕の笑みが憎らしかった。
思わず直緒はつぶやいた。
「……スキルが上なら、」
古海の体温を全身に感じた。直緒の口から言葉がこぼれた。
「……なぜ、やらないのですか?」
「だって、」
「好きにすればいいじゃないですか」
「あなたのいやがることは、したくない」
「いやだと言ってない」
「でも……」
見上げる古海の顎に、薄い痣が残っていた。
直緒の肘が当たった痕だ。
不意に抱きしめられて、体が勝手に逃げをうったのだ。
「自分じゃ超えられない壁だって、あるんです」
知らないうちに、直緒の左目から、涙が流れた。
「強引に超えさせてもらわなきゃ。誰かに。……あなたに」
涙がちくちくと、頬を刺す。
なぜか、左目だけから、涙はお湯のように、際限もなくあふれ出た。
全く思いがけないことで、直緒自身が慌てた。
古海が目を細めた。
直緒の涙を指の腹で掬う。
「大丈夫。必ず帰ってきますから。そしたら……」
火傷したように、その手を引っ込めた。
**
いつものお仕着せではなく、スーツ姿で、古海は階段を下りてきた。
シングルのボタンをきっちり留めているので、胸郭と腰骨の形が、はっきりと浮き出て見える。
凄絶なまでの色気がふりまかれていた。
階下にいた本谷が、ため息をついて、視線を逸らせた。
目元が赤い。
「いってきます、直緒さん」
とても優しい声で、古海は言った。
無言でいる本谷に近づき、人目もはばからず抱き締めた。
……なんてことだ。
居合わせた新人メイドの小林晴美は思った。
……古海さん、本当に、本谷さんが好きなんだ。
それなのに、自分は、本谷の祖父から、彼の恋人だと誤解され。
あまつさえ、そして不可抗力とはいえ、その胸に凭れかかってしまった……。
鼻の脇にできた吹き出物が、芯をもってじくりと痛む。
……やっぱり私、殺される!
……古海さんに。
「か、かりんとう……」
晴美はつぶやいた。
**
「ねえねえ古海。あなた、死亡フラグ立ってない?」
間延びした声が尋ねた。
典子だ。
髪に結んだリボンの、ショッキングピンクが禍々しい。
本谷が息を詰まらせた。
「立ってません」
憮然として古海が言い返す。
本谷の顔を胸に押し付けたまま、ちらりと典子に流し目をくれた。
いつもは古海を避けている本谷が、その手を振り払っている姿を目撃さえされている彼が、古海の腕の中で、じっとしている。
古海は、今日は眼鏡をかけていなかった。
普段は三白眼に見える瞳が、意外と大きく、澄んだ光を宿しているのがわかった。
はっとしたように典子があとじさった。
「古海はママじゃない、古海はママじゃない……」
憑かれたように、懸命に繰り返す。
様子がおかしかった。
「お嬢様?」
傍らに控えた、典子の専属メイド、篠原もなみが声をかけた。
返事はない。
「だめだわ。心を残しつつも、別れゆくカプ。永遠の別れよ! そうよ、そうに違いないわ。ココ、萌えどころじゃない! それなのに! ……やっぱり古海じゃだめ、全然萌えない……。わたし、まだ、腐女子として半人前なのかしら。いいえ、そんなことない! わたしのBLへの愛はホンモノ……」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「……古海はママじゃない、古海はママじゃない……」
典子自身も、相当大きなストレスを感じているのだろうと、もなみは推測した。
なんといっても、古海は、いつも典子のそばに侍り、その世話を焼いて来たのだ。
皮肉屋で口うるさい家令だった……ああ、過去形で考えてしまった! ……だがいつだって彼は、典子のことを第一に考えていた。
……本谷さんを除けば。
その古海が、今、死地に赴こうとしている、……と、もなみも思った。
典子が不安を感じて、当然ではないか。
このまま典子に古海を見送らせるのは、あまりに負担が大きかろうと、もなみは判断した。
傍らの後輩に声を掛けた。
「晴美ちゃん、お嬢様をお部屋に連れて行ってさしあげて。入り口までよ」
大事な後輩が腐ったら、大変だ。
晴美は俯いたままで小声で、なにやらぶつぶつとつぶやいていた。
「かりんとう、かりんとう……」
もなみに声を掛けられ、はっとしたように顔を上げた。
こちらも、明らかに不審だった。
典子と晴美の姿が見えなくなると、もなみは、手にしていたカバンを差し出した。
涙ぐみながら言う。
「こんなことになってしまって」
「なんですか、これは」
反射的に受け取りながら、古海が問う。
「私の心づくしです。古海さんは知らないでしょうから、いろんなやり方。だって……」
涙の堤防が決壊した。
もなみは、鼻を啜り上げた。
古海が慌てて、胸ポケットからチーフを抜こうとした。
もなみはそれを押し留めた。
「いいえ、けっこうです。この前お借りしたのも、まだお返ししてませんし」
代わりに、本谷がティッシュを出してくれた。
「ありがとう、本谷さん」
思いっきり鼻をかんでから、もなみは続けた。
「古海さん、あなたとの付き合いも、随分長くなりました。その間、あなたは常に、お嬢様の邪悪な企みを阻止してこられたじゃありませんか……」
鼻水でどろどろになったティッシュの塊で、目元を拭う。
鼻声で、もなみは続けた。
「そのあなたが、『受け』になるなんて……。『攻め』一筋だった古海さんが。私には、とてもじゃないけど、……耐えられません!」




