第70話 攻撃対象、把握!/今がチャンス!
羽鳥つかさは、視線を感じた。
いつものワインバー。
控えめな照明の下、刺すような視線を感じる。
冷たく冷徹な、それでいてどこか甘さをも含んだ……。
黒い服を着た、短髪の若い男が、こちらをじっと見ていた。
羽鳥は、警察庁の警視だ。
ここには、仕事の憂さを晴らしに来ている。
仕事が暇な時期、一日の終わりに、ワインをグラスに1杯か2杯。
ワインは、白かロゼ。
そう決めていた。
飲みすぎることは、決してない。
だが、もし……。
羽鳥はその青年に視線を投げた。
彼は唇の端を引き上げ、微笑みを表現した。
そして、血のように赤いグラスを掲げた。
**
「言質、取りましたよ、お嬢様」
古海が言った。
今日は眼鏡をしていない。
服装も、いつものお仕着せではなかった。黒いタートルネックに、脱いだばかりの上着を腕に掛けている。
「そう」
典子は悠然と、古海の差し出したICレコーダーを受け取った。
「公安の羽鳥警視が白状しました。お嬢様のお友達の、言ったとおりでしたね」
山田ハナコ……以前、典子が募集した司書……は、公安のスパイだった。
彼女の上司は、警察庁の羽鳥つかさ警視。
しかし、羽鳥は、このスパイ騒ぎの黒幕ではなかった。
まだ、上がいる。
それは誰かと典子に問われると、山田はにたあ、っと笑った。
「それでしたら、アレですよ。羽鳥警視は、藤堂参事官と仲がいいんです……」
「仲がいいって?」
重ねて典子が尋ねると、山田はうふふと笑った。
「それだけで、藤堂を陥れようなんて」
「だからあなたが内偵に行ったんでしょ? コイビトの羽鳥警視の所へ」
「コイビト? 恋人は、どうでしょうか……?」
「間違いないわ。ハナちゃんがそう言ったもの! ハナちゃんのお友達もそう思ってるって!」
「お嬢様……」
言いかけた言葉を、古海は呑みこんだ。
首を振って、彼は報告を始めた。
「少子化対策の一環として、BL自粛を勧告している……ま、そういう話でしたよ。男同士じゃ、子どもは生まれませんからね」
憮然として、古海は続けた。
「地元PTAがいくつも来たのは、教育委員会の入れ知恵です。取次ぎが、モーリスはじめ、BL本を仕入れなくなったのは、出版取次協会の指示があったから。いずれも、政府からの圧力がありました。大手出版社が大河内先生の本の重版を控えたのも、同じ構造です」
「どう? これであなたも納得した?」
「納得……納得はしましたが」
「何、古海。随分ヤサグれてるわね」
「当り前です! もしこんなことが、直緒さんに知れたら! 私がこんな、こんな方法で情報を手に入れたなんて!」
「大丈夫。わたし、口はカタイから」
「どの口がですか!」
「信じなさいよ。絶対、バラさないから。古海が色仕掛けで羽鳥警視をたらしこんだ、なんて……」
「たらしこんでなんかいません! わたしはもう、直緒さんだけと決めたんです!」
「わたしは、何も強制はしてないわよ?」
「部屋に上がり込んで自白剤を飲ませ、朦朧としたところで、話を聞く。これが私のしたことの全てです」
「それのどこが問題なの?」
「……無問題ですね。私は直緒さんを裏切ってはいない」
うっそりと、古海は笑った。
「法律的には突っ込みどころ満載で、完全にクロですけど。つまりそれは、法廷では使えないということです」
そう言って、さきほど典子に渡したレコーダーに目をやった。
「いいわよ、そんなこと」
典子は邪悪に笑った。
「法律なんて。そんなもの。わたしにはわたしのやり方があるしぃ」
「お嬢様、また何か企んでいらっしゃいますね? すごく嫌な予感がします」
「べ~つに~」
「やっぱり言っておきます。白鳥警視と藤堂参事官は、ただの仕事関係だと思います」
「あら、そうかしら」
「二人とも、本当のところはどうなんだか、わかりゃしませんよ?」
「だって白鳥警視は、古海、あなたを誘ってきたんでしょ?」
「ただ話し相手が欲しかっただけかもしれません。女を誘ってややこしくなるのを避けたかったのかも」
「そんなこと、あるわけないでしょ!」
きっぱりと典子は言い放った。
「白鳥警視と藤堂補佐官は深く愛し合っているの! 今回のアテ馬は、古海だったけど、それは一夜限りの過ちなの!」
「違いますっ! 私には直緒さんがっ!」
「いずれにせよ、攻撃対象は把握したわ。このままではおかないんだからね。BL弾圧なんて、そんなこと、このわたしが許さないんだから」
**
飯森英理が帰ってくると、自宅の前に、ピンクのワンピースを着た女の子が立っていた。
「森絵梨先生、お待ちしてました」
女の子はにっこりと笑った。
英理は、はっとして周囲を見回した。
彼女をその名で呼ぶのは……。
隣の家のカーテンは固く閉ざされている。
そよとも動く気配はない。
向かいの家は共働きで、今の時間は無人のはずだ。
誰も自分たちを見ていないことを、思わず英理は、確認した。
女の子は、大きく頷いた。
「ええ、わたし、お原稿の依頼で参りました」
そう。
飯森英理、即ち、森絵梨は、BL作家だった。
それも、出す本出す本、常にランキングのトップを飾る、超売れっ子のBL作家だった。
つい、最近までは。
ため息をつきながら、英理は言った。
「でも、BLは、今、出版しちゃ、いけないんでしょ?」
だから、こんなにも彼女は、こそこそしている。
英理はご近所の目に怯えていた。
BLに対して、公的な禁止令が出たわけではない。
BLとて、表現の一手段である。
表現の自由を弾圧することが、民主主義国家・日本にできるわけがない。
だが、出版社が自主的にBLの出版を止めるなら……。
取次ぎがBL配本をストップするのなら。
そして、自然に、店頭から、BLが消えるなら。
変化は、ひっそりとやってきた。
「でも先生! 読者は待っているのです! 首を長くして、今か今かと! 先生の小説を。甘く優しい、先生のお話を!」
女の子は熱い眼差しで英理を見た。
「現に、わたしはもう、長いこと待ち続けています! 特に先生の大河ロマン、主役はすでに孫の代ですけど……、もう、待ちきれないくらい!」
なんなのだろう、この子は。
英理は思った。
BLは、売ってはいけない。
だから出版社は、本にしない。
そんな単純な理屈を、いとも簡単に、飛び越えるなんて……。
「ですから、是非、モーリス出版社へ。どうか先生、モーリスでお書きになって下さい」
……モーリス出版社。
聞いたことのない出版社だった。
電子書籍が専門だと言う。
「もちろん、希望する読者の方には、紙の本をお届けすることができます。なにしろ、印刷所を持っていますから」
女の子は胸を張った。
「印刷所を持っている……」
それは強みだ、と、英理は思った。
心ある出版社が英理の本を出版しようとしても、引き受けてくれる印刷所がないのだ。
印刷所もまた、取次ぎと同じように、何かを恐れていた。
「欲しい読者さんには、直売でお届けします。もちろん、書店にも。注文を受けたら、印刷から配送まで、一手に。だから、モーリス出版社にお任せください、森絵梨先生」
インチキ通販のようなセリフだった。
でも。
……またBLが書ける!
絵梨の心に、あかりが灯った。
**
……疲れた。
高田孝樹は、ぐったりして、バイト先のコンビニを出た。
午後2時。客足も落ち着き、暇な時間帯だ。
ファミセブン・クラヨシ店では、午後2時から4時まではアイドルタイムと位置づけている。この時間帯は、店長の奥さんが店番に立つ。
孝樹は、早朝から昼までの勤務である。
深夜勤務の方が時給はよいのだが、この時間は、主に店長が担当している。時折、孝樹も入らないかと誘われるのだが、断っている。
だって、執筆の時間が取れなくなるから。
孝樹は、作家だ。
ペンネームを、「たかたかき」という。
……過去形にしなくていいのだろうか。
自分の職業を考える時、この頃常にこの疑問がつきまとう。
出版社からの注文が、皆無なのだ。
ついこの間まで、たかたかきは、超がつくほどの人気作家だった。
著書はどれも、よく売れていた。
この業界トップクラスの売れ筋だったといっていい。
それが今は、どれも「品切れ」。増刷はしてもらえない。
「たかたかき」は、BL作家だ。
BLは売れない。
編集者たちは、口をそろえてそう言う。
……本当にそうだろうか。
BL同人誌即売会は盛況なのに。
ネット作家の作品は、今まで通りよく読まれているのに。
わけがわからなかった。
……座して食らわば山をもむなし。
座って食べているだけでは、山のようにあった財産も食いつぶしてしまう。
よく母ちゃんが言っていた。
働き者の母ちゃんだった。
いや、母である。
人気作家だった孝樹には、まだ貯金がある。それに実家暮らしだ。
すぐに困ると言うほどではないのだが。
「家で遊んでいるんじゃないっ! この、ゴクツブシがっ!」
しばらく家に金を入れなかったら、母親に怒られた。
言うことが、いちいち、古臭い。
確かにこのまま本が一冊も出なかったら……と思うと、不安で押しつぶされそうになる。
家にいるのも気づまりになった。
孝樹は働きに出ることにした。
だが、地方の工業都市では、仕事はそうはない。
ましてや、在学中に作家デビューした孝樹である。職務経験はゼロに等しい。
ようやく、近所のコンビニで、バイト募集の張り紙を見つけた。
工場勤務よりは楽だろうと思って、応募したのだが……。
こんなに大変だとは思わなかった。
商品を陳列、販売するだけではないのだ。
コピー用紙の補充くらいならまだしも、海外へファックスを送ろうとする人の手助け、写真をプリントアウトする老人の補助、その他にも電子マネーの処理、公共料金の受け取りなど、さまざまな事務処理をしなけばならない。
また、フライを上げたりコーヒーを入れたり、調理器具の洗浄、店内清掃、その合間合間の接客、苦情処理……。
業務内容は多岐に渉る。
もう、くたくたである。
……仕事中にネタを練ろうなんて、甘い考えだった。
孝樹は痛感した。
昼で仕事を終えて帰宅しても、もはや何もする気がしない。小説を書こうとしても、目がちらちらして、集中してディスプレイを見続けることなどできやしない。
……ワークライフ・バランス?
冗談じゃない。
たとえ本にならなくても、書き続けて行こうと思っていた。
一生、書き続けられることが幸せだと思っていた。
BLを。
しかしこのままでは、一文字も書けなくなってしまいそうな危機感を覚える。
……自分は作家として終了するのだろうか。
ため息を一つついた。
店内から見えない位置にある看板を、つま先で蹴飛ばし、家路を辿り始めた。
大通りから角を曲がって路地に入った時、背中に視線を感じた。
振り返ってみると、ピンクのブラウスを着た女の子が立っていた。
「たかたかき先生、」
女の子は言った。
「先生に、原稿を依頼に参りました」




