第63話 ワケありの恋人
翌週金曜日。
「今日もハナちゃん、来なかった」
直緒が外出の支度をしていると、鼻をぐずぐずさせて、典子がやってきた。
萎れた緑のジャージ姿が、痛々しい。
「今週、一日も出て来ないのよ? 電話しても出ないの。ハナちゃん、どっかへ行っちゃったんだわ!」
「大丈夫ですよ」
なだめるように優しく、直緒は言った。
「きっと何か事情があるんですよ。少し待っていれば、きっと連絡がありますよ」
「今日は、ジャングルプライムで映画を見る約束だったのに! 今、話題の映画よ! 『シャーロック』に次ぐ萌えミステリだって!」
「へえ、なんてタイトルなんですか?」
仕事の参考になるかと、直緒は尋ねた。
「ちょっと長いタイトルなの。『バカップルの長い一日――密室で二人は何をしていたか』っていうのよ」
「だいたい、内容が想像できますね……」
「予想を裏切るどんでんがえしがあるかもよ、ミステリだもん。ハナちゃんの代わりに、直緒さん、一緒に見る?」
「残念ですが、今日は都合が悪くて」
「そうよね。だって、ハナちゃんの好みに合わせてセレクトした映画ですもの、直緒さんにはつまらないわよね」
「いいえ、本当に予定があるんです。これから、篤久堂さんにお邪魔する予定でして」
「篤久堂さん?」
篤久堂というのは、この夏、立てこもり事件のあった書店である。
典子と直緒が人質になったのだが、幸い、実害はなかった。
むしろ、そこの書店員の、香坂と松本という二人の女性と懇意になれたという、嬉しい余禄があった。
「ええ。香坂さんが担当されてるBLビブリオバトルに、僕も参加させてもらうんです。オブザーバーとして、松本さんもいらっしゃいますよ」
ビブリオバトルというのは、参加者全員が自分の好きな本を紹介しあう、書評合戦のことである。
それぞれの紹介の後、ディスカッションを行い、最終的にどの本を読みたくなったかを競い合う。
直緒が参加するのは、その、BL部門である。
目を輝かせて典子が聞いた。
「それで直緒さんは、どの本を持っていくの?」
「もちろん、モーリスの本です。もう、全部持っていきたいくらいなんですけど、紙の本って、制約があるんで」
ブックフェア以来、モーリス出版社の紙の本の出版点数は、随分増えた。
原則として、注文があったら印刷するオンデマンド方式を採用している。刷り上がるまで、お客さんをかなり待たせてしまうほど、人気の本もあった。
待ち時間を解消させる為に、この頃は、取次ぎを通して、書店に並んでいる本もある。
「奈良橋沙羅先生の『チョコパイケーキ』にしました」
同い年カップルの、甘い甘い恋愛譚である。
くっついたり、誤解から離れたり、でもまたくっついたり、もう、微笑ましいというより他はない。
安心して読める、王道BLだ。
「なるほどねえ。最近わたし、ちょっと先鋭的過ぎてた気がするわ。スイーツはBLの基本よねっ!」
「奈良橋先生の御本なら、男女問わず、安心して万人に勧められる気がします」
直緒は言った。
「18歳以上、ですけど」
カバンを手に、直緒が立ち上がった時だった。
ばたん、と乱暴に、オフィスのドアが開いた。
そこに立ち塞がった人物を見て、直緒の口から低いうめきが漏れた。
「直緒!」
その人物は叫んだ。
「見合いを断るとは、何事か!」
負けじと直緒も言い返す。
「だから、先週ちゃんと帰ったじゃないかっ! 直接先方まで出向いて断ってきたんだ。ジジイの顔は充分立ったろうが」
「いつまで経っても、お前がヨメを貰わんから、こっちは心配してだな、恥を忍んで紹介してもらったんだ。お前の為に」
「俺の為なら、ほっといてくれ! 好きな人がいるっていっただろ?」
「だから、会わせろと言ってるんだ。それを……」
「お見合い? お見合いですってぇ?」
わくわくと弾んだ声が聞こえた。
「直緒さん、お見合いするの? 誰と? もちろん、男性とよね?」
**
「??」
老人は、声の出所を見た。
緑のみすぼらしいジャージを着た、みるからに痛ましい姿の子どもがいた。
こちらを見て、にこにこ笑っている。
「そういえば……直緒の相手は、会社の人だって言ってたけど……ワケありだって言ってたけど……まさかこの……」
ぶるぶると頭を振った。
「直緒の見合いの相手が男だと? かわいそうに、この子は、頭もおかしいのか?」
哀れな子どもという現実から逃れようとするように、老人はドアへ目をやった。
そこには、メイドが震えながら立ち竦んでいた。
彼女は、老人をここまで案内してきた……というより、怒り狂う老人の後を、怯えながらついてきたのだ。
老人は、まっすぐメイドを指さした。
「あんたの方がいい。いや、あんたに違いない。あんただろ、直緒の恋人は」
メイドは卒倒しそうになった。
直緒が慌てて駆け寄る。
「馬鹿、なに言ってんだ、ジジイ! メイドさんに謝れ!」
倒れかけた彼女を抱きとめながら、直緒は叫んだ。
**
……この職場は好きだけど。
……素敵な先輩がいっぱいいるけど。
……自分はせいいっぱい頑張ったけど。
……もう限界。
新人メイドの小林晴美は、自室で荷物をまとめていた。
晴美は一乗寺家の住みこみメイドである。
失職したら、ここに住み続けることはできない。
いろいろとめんどうを見てくれている先輩は、外出中だった。
彼女が帰ってくるまでに、ここを出ようと思った。
……でも、どこへ行こうかなあ。
……実家はダメ。兄ちゃん、結婚するって言ってたしぃ。
自分が原因で、やっとまとまりかけている兄の結婚話が、また……これで4つめだ……、壊れるかもしれない。そう思うと、とてもじゃないけど、実家には帰れない。
……居場所がない。お金もない。
……逃げてく先が、どこにもない!
「何やってんの、晴美ちゃん」
涙ぐんでいると、ずけずけした声が割り込んできた。
「もなみ先輩……」
晴美は、わっと泣き出した。
「あたし、あたし……」
「どうしたの?」
「あたし、死ぬかも!」
「えっ、なぜ? 病気?」
「ちがう……」
「ねえ、泣いてちゃわかんないでしょ。何があったの?」
「あたし、本谷さんのおじいさんに……」
「ああ、ついに来たのね。随分頻繁に電話がかかってきてたから。モーリスの回線に」
「恋人だと間違われましたぁ~」
「恋人? 誰の?」
「……本谷さんの。おまけに、気がついたらあの人の胸に抱かれてたしぃ」
晴美は、さっきの出来事を語った。
目から涙が溢れそうになった。
「どうしよう。あたし、古海さんに、殺される……」
**
「お姉ちゃま。おじいちゃま。こっちこっち!」
繁華街の一本北側、公園の向かいのビルの、地下へ続く階段を、創は、軽やかに下りていく。
「な、なんだ? どこへ連れて行くのだ?」
急勾配の階段を見て怯む老人の背を、典子がそっと押した。
緑のジャージは、ピンクのハイウエスト・ワンピースに着替えている。動きにつれて、裾がふわふわと流れる。
「素敵な場所ですわ、おじい様」
「ワシはあんたの祖父じゃないんだぞ……」
「同じことですわ。直緒さんのおじい様なんですから」
「すると、やっぱりあんたが……」
「いいからいいから。さ、参りましょう、おじい様」
「そうしてると少しはマトモに見えるな。だが、直緒のやつが、どうしてもワシに会わせなかったんだ。あんた、いったいどんなワケアリの……」
「おかえりなさいませ、お嬢様、おじい様」
黒服の青年に出迎えられ、老人は言葉途中で絶句した。
「な、なんなんだ、ここは!」
「執事喫茶だよ!」
先に席に着いていた創が叫んだ。
**
「直緒さんのおじい様が!」
古海は叫んだ。
「なぜ、真っ先に私に連絡を寄越さないのです?」
新人メイド、小林晴美はさらに一層、縮こまった。
「だって、大事な会議だから邪魔をしないように、って聞いていましたから」
……もなみ先輩は、古海さんはそんな人じゃないと言ったけど。
……あのおじいさんに……本谷さんのおじい様に、あんな誤解をされたことを知られたら、
……その上、本谷さんに抱きとめられたなんてバレたら、
……あたしは殺される!
じろりと古海が睨んだ。
「そんな重大事は別です。真っ先に私に知らせなくはいけません」
「はい……すみません」
晴美はただひたすら頭を下げた。
とりあえず今は、おとなしくしているしかない。
命あってのことだ。
「……まあ、仕方ありません」
珍しく、古海はそれ以上、小言を言わなかった。
「それで、おじい様は今、どこに?」
「お嬢様が外へ連れて行きました。本家から創さまを呼んで」
「小林さん、言葉の使い方がおかしいですよ。そこは敬語を使わなくては。連れて行きました、ではなく……えっ? お嬢様が連れてった? 創さまと一緒に!?」
自分だって、全然敬語を使ってないじゃないかと、晴美は思った。
「ど、どこへですか?」
「知りません」
「直緒さんは?!」
「篤久堂書店へ」
「一緒じゃないんですね?」
古海は頭を抱えた。
「お嬢様、今度は一体、何を企んで……」
右手でもう下がれと合図する。
……とりあえず、命は繋がった。
気絶した自分を本谷が抱きとめたことは、古海の耳には入っていないようだった。
……よかった。
あれがバレたら、今ごろ命はなかったと、晴美は思う。
ほっとして、晴美は歩き出した。
「小林さん」
古海が呼び止めた。
晴美はぎくりとして立ち止まった。
「あなた、文学少女なんですって?」
「え?」
そういえば確かに、誰かにそんなことを言った気がする。
「久條泰成の大ファンとか」
「そうです!」
どちらかというと、作品よりも、イケメン作家の方に興味があった。
古海は言った
「わかってると思いますが、職場の人と本の話をしてはいけませんよ。職場の……お嬢様の職場の人とも、です」
「?」
わけがわからなかった。
「わかりましたかっ!」
「は、はいっ!」
「絶対に近づいてはいけません。モーリスのオフィスには。いつも言っていますね?」
「も、もちろんです。近づいてなんかいません!」
「あなたが、おじい様を案内したとか」
「ほ、他に誰もいなかったので」
「篠原さんはどうしたのですか?」
「先輩は、外出中でした……」
自分の不運を、晴美は呪った。
「……」
「か、かりんとう、ありがとうございました」
唐突に、晴美は差し入れの礼を述べた。
もなみ先輩が、困った時には礼を言え、と言っていたことを思い出したのだ。
なんでも、古海さんは先輩に恩があるから、かりんとうのお礼は、魔法の言葉と同じなんだそうだ。
「かりんとう?」
古海が顔をあげた。
「ああ。申し訳ない。今度はもっと、かわいらしいお菓子にしますから」
……あれ?
……ひょっとして、私、殺されずに済むかも。
妙に照れくさそうなその顔を見て、晴美はかすかな希望を覚えた。




