第60話 初めてのキスは、
「小林さん、スカートが曲がってます」
2階から、古海が新人メイドを叱責する声が聞こえてきた。
「それから、出退勤システムの承認が遅れてます」
メイドが小声で何か言い返したようだ。
「いいえ。スマホからもログインできるようにしたはずです。自己管理ができないようでは、社会人として失格ですよ!」
足音荒く、二階から古海が下りてきた。
もなみは、階段を上りかけていた。
「篠原さん」
古海が呼び止めた。
「紅茶のストックが切れかけてます。シーツのアイロンが十分じゃありません。窓の桟に埃が溜まってました!」
矢継ぎ早に並べたてた。
「まったく、なってません! そんなことで、この一乗寺家のメイドが務まるとお思いですか!」
紅茶とシーツと窓の桟に関してはその通りなので、黙ってもなみは頭を下げた。
それにしても。
この頃、古海は随分、苛立っているようだ。
帰国してから、ずっと、この調子だ。
おかげで、別邸のメイド達は、日々、戦々恐々だ。
古海が大きく息を吸った。
「申し訳ない。言い過ぎた」
その日、ひとしきり典子とやり合った後、古海は、一乗寺建設本社へ呼ばれていった。
海外出張の残務処理ということだった。
典子と新しく来た司書は、ホールで本の整理をしている。
古海の皮肉など、典子にとっては、なにほどのこともないようだ。
けろっとして、オバさんの司書に、「人外受け」の萌えポイントについて、イラストを見せながら講義をしている。
もなみは、はたきを手に取った。
足音を忍ばせて、モーリス出版のオフィスへ入って行く。
遅い午後の陽射しを浴びて、本谷が本棚の前に佇んでいた。
相変わらず、美しい男だと、もなみは思った。
もともときれいだったが、ドイツから帰って来てからは、さらにすごくなった。
いやでも視線が引きつけられる。
タイプではないにも関わらず、時折、うっとりと見惚れてしまうくらいだった。
典子が手放さないのも、無理はない。
まさに逸材だ。
萌えの素材として。
「本谷さん」
もなみが呼びかけると、びっくりしたように振り返った。
「もなみさん!」
「やっと、女性を名前で呼べるようになったんですね? 偉いです、本谷さん」
「もなみさんのおかげです」
本谷は微笑んだ。
長い道のりだった、と、もなみは思った。
最初は、メイドたちの顔を、全然認識していなかった。
もなみが文句を言うと、やっと彼女の苗字を覚えてくれた。
だが、あやふやで、時々、忘れるらしかった。
名前で呼ばせるようになるまでが、また、ひと苦労だった。
自分を含め、一乗寺家のメイドは、その容姿においてかなりのハイレベルである。
それなのに、その中の唯の一人も、名前を覚えないなんて。
中でもトップクラスの容姿を誇り、その上、これだけ長い間、典子と一緒にいるもなみのことさえ認識できないのは問題である。
男として。
だから、全ては本谷の為である。
正常な男として、女性に興味を持つように、もなみは腐心してきたつもりだ。
しかし。
「まあ、古海さんだったら、仕方ないかな、と思います」
はたきであちこちぱたぱたとはたきながら、もなみは言った。
顔に張り付いたような微笑を、本谷は浮かべた。
励ますように、もなみは頷いた。
「あの人、そんなに悪い人じゃないですよ? 少なくとも私は、そう思います。というか、あの人がいなかったら、今ごろ私、母のようになっていたでしょう。産みの方ですけど」
「お母様? ……どうされてます?」
遠慮がちに本谷が尋ねた。
もなみは即答した。
「死んでます」
「それは……」
「もしあの晩、古海さんが私を引っ掛けようとしなかったら……」
「古海さんが? もなみさんを? 引っ掛ける?」
「ちょっとしたミエです。引っ掛けようとしたのは、私です。もちろん、ぜんぜん全く、ハナから相手にされませんでしたけど」
「そうでしょうとも」
「は? いえ、私のことはいいんです。私は嫌いじゃないです、あの人のこと。ちょっとばかしヘンタイさん入ってますけど」
「ヘンタイというのは、」
言いかけて、本谷はためらった。
「……ユルいとか、チャラいとか、Sだとかいうことですか?」
「本谷さん、」
もなみはじっくりと本谷の顔を見た。
「そんなこと、女の私には、わかりません」
ふと、思いついた。
「ああ、神田先生の言ったことを気にしてるんですね?」
以前、典子のダンス講師の神田がそんなことを言っていたのを聞いたような気がする。
「神田先生は、前に、古海さんにフられたから」
しかし、Sというのは……。
「まさか」
もなみはいきなり本谷の腕を取った。
強引に袖をまくりあげる。
「も、もな……、何するんですか!」
「良かった。なにもない」
「何がです?」
「傷ですよ。痣とか、タバコの痕とか。普通、洋服に隠れた所につけるもんなんです」
「それは、虐待でしょ?」
「ああ、そうか」
もなみは頷いた。
つい、幼い頃の、自分の経験でモノを言ってしまった。
「Sというのは、愛なんですね」
「どちらにしても、違いますから。古海さんは、Sなんかじゃありません。きっと、たぶん……」
声がだんだん小さくなっていく。
「僕にはわかりません」
「わからないって、」
もなみは言った。
「寝たんでしょ、古海さんと?」
その時の本谷の顔こそ、見物だった。
女の子にワイ談をする、スケベ親父の気持ちが、今、はっきりと、もなみにはわかった。
さらに追い打ちをかける。
「フランクフルトで。日本に帰ってきてからだって、時々、古海さんの部屋で、二人きりでいるじゃないですか。仕事が終わった後に」
「最後までしてません」
きっぱりと本谷は言った。
「……」
今度はもなみが絶句した。
「じゃあ、古海さんのあれは、欲求不満の表れだったわけですね!」
「よ、欲求不満?」
「そうです。古海さん、欲求不満でいらいらしてるんです。本谷さんが、ちゃんとしてあげないから」
全てが腑に落ちた気がした。
「ダメじゃないですか、本谷さん! 少しは、私達の迷惑も、考えて下さいよ。新人メイドの小林さんなんか、かわいそうに、鼻の脇に吹き出物ができちゃってるんですよ。古海さんががみがみ叱るから。そのストレスで」
「そんな……」
本谷はすとんと、椅子に腰を下ろした。
前かがみになり、両手で顔を覆う。
「だって、どうしたらいいか。このままじゃ、だめですか? 僕、そんなに性欲が強い方じゃ、ないんです」
性欲、と言った。
女子であるもなみの前で。
普段の本谷なら、絶対に言わない言葉だ。
つい、悩み事が口から出てしまったのだろう。
もなみは肩を竦めた。
「本谷さんが良くてもねえ」
「ちゃんと、されてます! でもこれ以上は……むり」
「だって、好きなんでしょ、古海さんのこと」
それは、本谷がドイツへ行く前から、もなみにはわかっていた。
古海がいなくなったと聞いた時の、本谷のあの、衝撃。
連絡先を聞こうとさえ、しなかった。
捨てられたショックと、自分を守ろうとする防衛反応と。そのふたつが入り混じって、連絡先を教えようというもなみの申し出を断ったのだと、彼女は推測した。
見ていて、痛々しかった。
思えば、本谷は、やたらと古海を避けていた。
それは、単に苦手だからというのではないことに、もなみは、かなり早い段階で気がついていた。
……だから、いろいろ忠告してあげたのに。
……そっちの道へ行かないように。
もなみは言った。
「いまさらですよ、本谷さん」
「好きです」
本谷は顔を上げた。
真摯な目でもなみを見つめて言う。
「古海さんが好きです」
……普通の男性だった本谷さんがなぜ、こんなことに。
今まで何度も、もなみは考えた。
(女性の)恋人にフられたことが原因か。
それとも、特殊な環境に就職してしまったこと? 典子や古海のような人が、常に身近にいたことか。
考えても、答えは出ない気がした。
ただ、
……本谷さんは、自分と違った価値観を受け容れたんだ。
挑発的にくっと顎を上げ、もなみは言った。
「なら、いいじゃないですか。ヤっちゃいなさい」
「へ?」
「ちゃっちゃと抱かれちゃって下さい。その方が、本谷さんの為でもあるんですよ? 本谷さん、やたら男を惹きつけるから、」
「そんなつもりはありません!」
「……、誰か一人のものになった方が、大勢を相手にするより、病気になる危険が減るんです」
「で、でも、僕は男です。そういうふうには、できてないんです!」
「だって、お嬢様の御本では……それに、本谷さんが作っている本でも……、ごく簡単に、恋愛してるじゃないですか。男同士で」
「フィクションだからです!」
強い語調で、本谷は言った。
「ファンタジーで……とても美しい夢だから……」
「あのね、本谷さん」
駄々っ子に言い聞かせるように、もなみは言った。
「有名なセリフがあるでしょ? あれは、読むものじゃない、やるものだって。……違いましたっけ? やってみなけりゃ、わからないことだって、あるんですよ?」
「できません!」
しかし、男性経験豊富なもなみは、納得できなかった。
「男って、我慢がきかない生き物でしょ。やりたいとなったら、力ずくでもやるものです。古海さん、剣道の有段者ですよ?」
「僕だって男です」
そう言って、本谷はうっすら笑った。
「二人とも本気を出していたら、今ごろ、どっちか死んでます。僕ら、男同士ですから」
……あれ、この人、こんなに色気のある人だったっけ?
もなみは思った。
なんだか、ぞくぞくするほどの凄味がある。
……これは、くらっとくるわ。
……男なら誰だって。
もなみははっとした。
……多くの目に触れさせ、これと思った相手にはけしかけ、
……全ては、萌えの拡散の為。
典子の見る目の確かさに、今さらながらに、もなみは思い至った。
ふっと、本谷の気が揺らいだ。
「本当は、古海さんが引いてくれてるんです。僕が……、僕がいやがるから」
「古海さん、よく我慢してますね」
溜息とともに、もなみは言った。
なんだか、古海が、かわいそうになってきた。
「あの七夕の晩から、ずっと、お預けなわけですね……」
「七夕の晩?」
きょとんとして、本谷は言った。
「七夕の晩って、なんです?」
「だから、酔っぱらった本谷さんを自宅まで送って行った晩のことですよ。車を運転してたのは私だけど、古海さんも同乗していて……というか、ぐだぐだの本谷さんの体を支えてたのは、古海さんだったんです。車から部屋まで運んで行ったのも古海さんだし、パジャマに着替えさせたのも、多分」
「だ、だって、もなみさんは?」
「ずっと車で待ってましたよ。一緒に行こうとしたら、古海さんに怒られましたし」
「……」
「つまり、二人だけでいた時間もあったわけです。こんなチャンス、見逃すわけないでしょ? あの人のことだから、何もしないわけないです。そうそう、本谷さん、エッチな夢を見たって言ってたじゃないですか、次の朝」
「……」
「結構時間がかかったんですよね、古海さんが車に戻ってくるまで。ほんと、不審な車が長時間止まってるって通報されるんじゃないかと心配で……あれ? もしかして古海さん、何も話してない?」
真っ赤な顔をして、本谷は頷いた。
「じゃ、これ以上は、私の口からは言えませんね……」
「キスは、してません!」
その晩、もなみが畳んだ洗濯物を持って歩いていると、切羽詰まった古海の声が聞こえてきた。
「あの日、フランクフルトであなたがしてくれたのが、初めての……」
……キスだけしてなくてもねえ。
首をふりふり、もなみは古海の部屋の前を通り過ぎた。
洗い上がったばかりの緑のジャージを、典子の部屋に届けなくてはならない。
もなみの言う「七夕の晩」とは、……著者の口からもとてもじゃないけど言えません。
5章30話「歴史は夜、作られる」を参照下さい。




