第58話 強引なキス/明け方の消灯
「うん、それ、いいかも……」
村岡がつぶやいた。
口々に礼を言い、女の子たちは去って行った。ほっとして直緒が、古海の膝から下りようとすると、村岡は押し留めた。
「もう、甘納豆がないんだ。ポスターは古海が剥がしてしまったし。日本語のわからないお客さんにサービスする為に、君たち、そのままでいてくれよ」
にわかに暗い目になった。
「スカイプに出るように言ったのは君だろ、古海。おかげでひどい目に遭ったぞ」
「なにがです?」
「私が、胸毛の受けを探すことになった。君の代わりに」
声を出さずに、古海は笑った。
憮然として、村岡は言う。
「お嬢様の身の回りには、そういう人はいないそうだ。ほんとかね」
「知りませんよ、そんなこと」
「とにかく、だ。君らが日本に帰っちまうせいで、私は大変な仕事をおっつけられたんだ……全くこんなことが妻に知れたら……、だから君らにも、人よせパンダ並みのことは、してもらわなくちゃな」
「そんな。僕を乗せてたら、古海さん、重いですよ」
傍らから直緒が口を出した。
「いいえ。少しも重くありません」
嬉しそうに古海が言った。
「でもあなたは、腰が弱いって……」
「ばっ、なっ、なにを、そんな!」
「だって、典子さんが言ってましたよ。薄い本さえ運べないほど、腰痛がひどいって」
「ゆ、許しませんっ! いくらお嬢様でも、そのような根も葉もない大嘘をお吐きになるとは!」
「……だから、BLの主役を張れないとか」
「くりいむメロン先生の大量の本を、私一人で運んだでしょうがっ! 薄い本だって、量があれば、重いんですっ! まったくあの、ヒモノ腐女子は、私が、度重なる腐本の運搬を拒否したことを根に持って、なんたる罵詈雑言! しかも、相手もあろうに、直緒さんにっ!」
「じゃ、腰は大丈夫なんですね?」
「私の腰は、人一倍、丈夫です!」
「よかったね、本谷君」
村岡が割って入った。
「古海の腰は丈夫だから。気兼ねはいらないぞ。あれ、顔が赤いな。風邪でも引いたのか?」
「い、……いいえ」
「気をつけてくれよ。君にはまだ、仕事が残ってるんだ。……今日は、古海の上で、愛想を振りまいててくれ」
「古海さんの、上……」
「君、耳たぶまで赤いぞ。大丈夫か? だって、言葉が通じないんだから、体でおもてなしするしかなかろう」
「……」
「今日一日、古海の上で、頑張ってくれ。頼んだよ」
言い置いて、村岡は、さっさとブースに戻っていった。
「……」
「……」
「あの、古海さん?」
二人とも同じ方向を向いているので、古海の顔は見えない。
一人赤面し、直緒は声を掛けた。
「重くないですか?」
「幸せです」
後ろで古海が答えた。
「あなたの体温が感じられて、とても幸せです。もう、ずうーっと、こうしていたい」
一言言うたびに、古海の息が、直緒の首筋をくすぐった。
直緒は俯き、顔を上げられない。
向き合っていなくて、本当に良かったと思った。
向き合っていたら、お客さんが来ても見えないわけだが。
古海が言った。
「直緒さんの顔を見たい。こちらを向いてくれませんか?」
「い、いやです」
顔が熱い。
目も潤んでいる。
とてもじゃないけど、見せられたものではないと、直緒は自覚していた。
古海はしつこかった。
「ちょっとだけ。顔、見せて下さい」
「いやです」
強引なことはしない男だと思っていた。
だが古海は、左腕を回し、直緒の顎を掴んだ。
そのまま自分の方へ向けようとする。
「やですったら!」
「そんなに暴れたら、首を痛めますよ」
やや強い力で、斜め上を向かされた。
次の瞬間、ちゅっと、唇を吸われた。
「なっ……」
「好きです、直緒さん」
古海が言った。
「ハーイ、ナオ!」
能天気な挨拶が聞こえた。
直緒はぎょっとして、声のする方を見た。
相変わらず嬉しそうなジェフが立っていた。
傍らにはクララもいる。
直緒は慌てて、古海の膝から滑り降りた。
「ジェフ、クララ、こちらは古海さん。古海さん、ジェフとクララです」
「あなたが、ジェフ……」
古海が目を細めた。
「胸毛の、ジェフ……」
「ムナゲ、アルヨ!」
ジェフが大喜びで、Tシャツをめくり上げようとした。
「ジェフ、もういいから!」
慌てて直緒が止める。
「Friend?」
クララが問う。
「Geliebte」
古海が答えた。
「Oh,****」
直緒の方を向き、クララが怒涛の如くしゃべり出した。
「ふ、古海さん、何て言ったの?」
「恋人だって言ったんです」
「こっ、恋人っ!」
「違うんですか?」
「……、……違いません」
「しっかり捕まえとけと言われました。無用の忠告というものです」
そう言って、古海は直緒の肩を抱いた。
……人前で?
直緒は困ってしまった。
思わず体を固くする。
「クララ、ゴメン、ダッテ。ナオ、ゴメン」
ジェフが言った。
その声はフラットで、いつもと同じだった。
それでも直緒は恥ずかしかった。
まっすぐにジェイの顔を見ることができない。
「どうやら、直緒さんは、この女性に、自分の彼氏を盗ろうとしていると思われてたみたいですね」
くすりと古海が笑った。
「直緒さん、あなたはそんなに、性悪なんですか?」
「違いますよっ! 古海さんこそ、ジェフのこと、疑ってたくせに」
「ちょっとだけ」
古海は言った。
「ちょっとだけです」
古海は、ブースの奥を指さした。
ジェフとクララは訳知り顔に微笑んで、村岡の方へ歩いて行った。
「邪魔者は消えた。さ、直緒さん。ここへ戻っていらっしゃい」
結果として、その日、モーリスのブースは、大層な盛況ぶりだった。
来客がある度に、直緒は古海の膝から下りて、ブースの中へ案内し、あるいは、古海が相手をした。
古海は、英語ドイツ語の他、フランス語やロシア語まで、わかるようだった。
直緒は、自分との能力の差を見せつけられる思いだった。
その日が終わる頃までは、日本から送られてきた本は完売していた。
日本に旅行した人や、留学していた人などが買っていった。
だが、全く日本語を解さない人も、買ってくれていた。
「ひょっとして、BL、けっこういけるのかも」
ぽつんと村岡がつぶやいた。
閉会の時間が来た。
みんなで片づけを始める。
「……あれ、売り忘れ?」
古海が怪訝そうな声をあげた。
「ここに段ボール箱が……」
「あっ、それ、開けちゃダメで……」
直緒は叫んだが、一足、遅かった。
古海は箱を開け、ネコミミとシッポを取り出した。
「……なんです、これ?」
「……」
全員無言で、顔を見合わせた。
「直緒さんの匂いがする」
くんくんとカチューシャを嗅いで、古海が言った。
「犬か……」
呆気にとられて村岡が呟いた。
きっ、と、古海が振り返る。
「なんですか、これは。さあ、きっちり説明してもらいましょう」
村岡、ジェス、直緒の三人で、目で送り合って、結局村岡が説明した。
直緒のコスチュームであること。
モーニングにネコミミ、シッポもつけて、バニーガールの男性版のようないでたちで、客寄せをしたこと。
もちろん、いたずらをした客がいたことは、話さなかった。
「典子お嬢様の御指示だから」
最後に村岡が、全てを典子のせいにした。
「ふうん」
古海が言った。
「ふうん」
あとは無言だった。不穏な雰囲気に、クララも加え、4人は身を固くした。
「気をつけろよ、本谷君」
小声で村岡が囁いた。
「あいつ、絶対、Sだぜ」
「……」
そういえば、久條がそんなことを言っていたと、直緒は思い出した。
……気をつけた方がいいんだろうか?
箱をさっさと閉じ、ガムテープで固く梱包すると、古海は立ち上がった。
じっと自分を見つめていた人たちを、驚いたように見た。
「何をしてるんです? 早く片付けてしまいましょう」
片付けが終わると、打ち上げをしようということになった。
「これだけの人がいるのですから、店はどこも混むでしょう?」
古海は乗り気でないようだった。
村岡が言った。
「ジェフとクララのアパルトマンに、簡単なパーティーの用意がしてあるんだ。君も一日一緒にいて、気心が知れたろ? 本谷君も、クララの誤解が解けたようだし」
「私と直緒さんは、明日朝早いですから」
明日は、日本に帰らなければならない。
「大丈夫だよ、空港は近い」
「でも……」
「なんだ、古海。来たくないのか?」
「行ける状態じゃないというか、行きたくないというのもありますけど」
「何が言いたい?」
「いえ」
古海は俯いた。
「なにせ一日、直緒さんを膝に乗せていたから、」
「ああ、腰に来たか」
「違いますっ!」
ジェフが古海を見て、にやりと笑った。
意味ありげに、目線を下にずらす。
ぷい、と古海は横を向いた。
「今回は、一日だけの参加ですし、私はご遠慮します。直緒さん……」
「僕は行きますよ」
直緒は言った。
5日間、世話になったのだ。
初めはギクシャクしたが、このまま別れるのは、名残惜しい。
「直緒さん……」
古海がうらめしそうな顔をした。
**
村岡の妻ののろけ話をあれこれ聞かされ、ジェフとクララの熱い抱擁を見せつけられ、それらをものともせず、好きな本について声が枯れるまで話し……。
直緒がホテルに帰ったのは、明け方近かった。
「古海さん、起きててくれたの?」
直緒はぐてんぐてんだった。
ドアを開けた古海の首に両腕を回し、にっこり笑った。
そのまま、ぐずぐずと崩れ落ちた。
古海はその体を抱きあげ、ベッドへ運んだ。
服を脱がせ、ホテルのローブを羽織らせる。
直緒が眼を開けた。
潤んだ瞳で、うっとり古海を見る。
「ふ……るみさん、……いた。よかった」
「いますよ。私はいつもここに。直緒さんのそばに」
「もう、どこへもいかない……で」
「行きません。安心してください」
「大好き」
「直緒さん……」
口づけようとした体が、くたりと落ちた。
すうすうと寝息を立てている。
ため息をついて、古海は直緒をベッドに寝かせつけた。
上掛けのカバーを顎の下できっちりと折り返す。
そして静かに、明かりを消した。




