第57話 白い装丁のきれいな本と『悲恋』
「直緒さん」
古海が直緒に目を向けた。
強い眼差しで、じっと見つめる。
「最初、あなたにとって私は、圏外でした。男である私は。だから、あなたのことは、諦めかけていた。典子お嬢様のことは、嫌いじゃありません。でも、なんというか……」
考え込んでいる。
言葉を誠実に選んでいるのだと、直緒にはわかった。
「あの方と、何かしたいとは、到底、思えません。つまりその、キスとかハグとか、もっと……」
「古海さん、」
「違うんです、直緒さん。確かに私は、男が好きです。でも、私がそうしたいのは、あなただけです、直緒さん、あなただけ」
ためらって付け加えた。
「今は。そしてこれからは。……ごめんなさい」
「なんで謝るんです?」
「……今までのことを考えると」
「今までのことはいいです。いえ、よくはないけど、今はいいです」
直緒は言った。
「それより、典子さんです」
「お嬢様」
はっとしたように古海は言った。
「私が本気であなたに魅かれていったのは、まさに、お嬢様のせいなんです。あなたは、お嬢様に敬意を払い、一生懸命尽くしていた。そんなあなたに、私の想いは、より一層、傾いていったのです」
目を上げた。
「ですから、お嬢様には幸せになって頂かないと」
「そうですよ。どのような形でも、典子さんには、幸せでいてほしい」
力強く直緒は頷いた。
古海は眼鏡の奥の目を、しばたたかせた。
「直緒さん。あなたの気持ちがわからず、私は不安でした。仕事もおざなりになっていき、心底、自分が情けなかった。あなたは、あんなに輝いているのに。あなたに私は、ふさわしくないと感じました。この恋は、もう、あきらめるつもりだった。だから、本社の仕事を受け、アメリカへ渡りました。もう帰らないつもりだった。おそらく」
直緒は息を呑んだ。
「でも、これを読んで……」
古海は、つと手を伸ばし、本を手に取った。
白い装丁の、きれいな本だ。
くりいむメロン著『ひとめぼれ』。
「小説はもう、読まないつもりでした。でも、村岡さんにシノプシスを書くようにと言われ、……お嬢様への最後の御奉公だからと……、できあがってすぐの原稿を、データでもらいました」
「僕も、原稿を頂いてすぐ、読みました」
「私たちは、同時に同じ本を読んでいたのですね……」
古海は、白い表紙を撫でた。
愛しげに、そっと。
「読み終わって、思ったんです。まだ、あきらめなくても、いいのかもしれない。せめてもう一回、確かめてみる価値はあるのではないか、と」
「僕の、一番好きな小説です」
直緒はつぶやいた。
「だって、教えてくれたから。自分が自分に隠していた、僕自身の……」
直緒が言いかけた時、ブースの外に、その日最初の客の姿が現れた。
「あっ! 『ひとめぼれ』の二人だ! 私、電子書籍で読んだもん! ねえ、見て。あの二人だよ! 本にあった、そのままの二人……」
日本語で叫ぶ声が聞こえた。
古海がそっと、直緒の肩を抱き寄せた。
「ねえ、こっち! 久條泰成の本のカバー写真が。……あれ、このひと……『ひとめぼれ』と同じ人?」
別の声が言う。
立ち上がり、古海がブースの外へ出ていく。
パーティーションに貼られた写真の前に立ち、薄くほほ笑んだ。
長い腕を伸ばし、いきなりそれに手を掛けた。
目を丸くして驚いている女の子たちの前で、一気にポスターを引き剥がす。
「ああ、あ。しょうがないなあ」
声を聞いて出てきた村岡が嘆いた。
古海はポスターをくるくると丸めた。
ぽん、村岡に手渡す。
「破きゃしません。直緒さんが映ってますから」
彼は言った。
「あの、」
女の子達が声を掛けた。
「このブックフェスで、紙の本が、日本の先行発売されるって、モーリス出版のホームページで見たんですけど」
「私達、電書で読んで、それでどうしても、紙版も欲しくて」
「だから、旅行のついでに寄ったんです」
「一刻も早く、誰よりも早く手に入れたくて!」
二人で口々に言う。
村岡が目を細めた。
「それで、わざわざフランクフルトへ? 光栄だなあ。あ、本ならこっちだよ。いらっしゃい」
言いながら、女性二人をブースの中へ誘った。
ブックフェスタ一般開放日には、一般客への書籍の販売もするのだ。
「古海さん。ポスターの彼は、久條先生じゃありませんよ?」
そっと古海に近づき、直緒は言った。
「写真の僕を抱いているのは、モデルさんです」
「わかってます」
古海は言った。
「わかってますとも」
「小説は、読みましたか? 久條先生の『悲恋』は?」
「お嬢様の奸計です」
古海はうっすらと笑った。
「あの方は、冒頭の原稿だけを机の上に出しっぱなしにしておられて……。あの、ハードな交情シーンだけを」
低い声で古海は続けた。
「残りを読むまでには、長いためらいがありました。でも、電子書籍で発売されて、あの表紙を見てしまった時、気がついたんです。これは、読まなくてはいけない、私には、読む義務がある、と……」
純文学作家、久條泰成の初のBL小説『悲恋』は、息が苦しくなるほどの失恋の物語だった。
作家と思しき男の、
夢のように儚く、美しい男への。
低い、聞き取りづらい声で、古海は言った。
「どうしても聞きたかった。直緒さん、あなた、久條先生と取引をしましたね?」
「……はい」
「やっぱり」
ネットで評判の「魔性の美女」は、一乗寺家令嬢ではない。彼女は、自分の恋人で、会社勤めの一般女性だ。
久條は、そう宣言してくれた。
……だから、そっとしておいてほしい。
そのおかげで、世間の注目は、一乗寺家から、その令嬢典子から、離れていった。
古海は、息をするのもつらそうに見えた。
それでも、彼は尋ねた。
「お嬢様を大衆の好奇心から守る為に、久條先生は、あんなことをおっしゃった。でも、先生はお嬢様に対して、何の気持ちも抱いてはおられない。それなら、なぜ?」
大きく息を吸って、直緒を見た。
「それは、あなたに頼まれたから」
「先生も典子さんのことは心配されて、」
「嘘でしょ。そんなことは、ありえない。あなたが頼んだからだ」
「それは、少しはお願いしました」
古海の顔に、ひどい衝撃を受けたような色が表われた。
血を吐くように、彼は、続く言葉を吐き出した。
「だから先生は、あなたに見返りを要求した」
「古海さん、久條先生は、そんな人じゃありませんよ」
「見返りが、あったのでしょう? 久條先生は、恋人のイニシャルは“N・M”だといった。それはつまり、あなたの頭文字じゃないですか!」
「……」
「……」
「……写真です」
「写真?」
「この本の装丁写真……『悲恋』の表紙に、僕の写真を使うことでした」
そう。
それが、久條への報酬だった。
久條泰成初のBL本に、直緒の写真を使うことが。
……お前の為に骨を折ったら、お前は俺に、なにを寄越す?
……高くつくぞ。
作家はそう言った。
「それだけ?」
鋭い声で短く、古海が尋ねた。
直緒は頬を赤らめた。
「僕は……、先生の助手を務めただけです。体位とか、その、特に男同士の……。臨場感のあるシーンを書きたいからって、先生がおっしゃって」
古海は、眼鏡の奥の目をすっと細めた。
「別によかったのですよ、直緒さん。最後に、私のところへ来てくれるのなら。ちょっとくらい、寄り道したって。なんといっても、久條先生は、長いこと、あなたの憧れの作家だったわけですからね」
「今でも憧れの作家さんですよ」
言ってから、しまったと思った。
だが、手遅れだった。
皮肉な口調で古海は言った。
「本当にあなたは、本が好きですね。本の為なら、何だってやるんですね」
直緒の頭に、かっと血が上った。
「だって、海外の危険地域へ派遣された社員もいるというじゃないですか! 一乗寺社長の不興を買って!」
「え?」
「そんなの、堪えられないと思ったんです! もしもあなたが……そんなところへ行ってしまったら!」
あのままいったら、無用の好奇心を一乗寺家に集めたことで、古海の立場は危うくなっていたはずだ。
また、令嬢典子への監督不行届を激しく糾弾されていたことも間違いあるまい。
古海がすぐ近くまで寄ってきた。
「そんな心配は無用だったのですよ。私は、一乗寺家の報復なんか、少しも怖くない。どうせ、仕事も国も、全て捨てるつもりでしたし」
「捨てる? 典子さんも?」
「もちろん。実際そうしかけたわけで。それを、直緒さんが引き留めた」
「僕も?」
「え?」
「何でもありません」
……捨てるとか。
嫌な言葉だと、直緒は思った。
「直緒さんから離れようとしたのは、不甲斐ない自分に、腹が立ったから。でも、もし、直緒さんのそばにいられなくなったら、」
静かに古海は言った。
「たぶん私は、駄目になっていたでしょう。時間をかけてゆっくりと、私は朽ちていったことでしょう」
不意に、その声が震えた。
「でも、それじゃ、直緒さんは、……私の為に? あの本のカバーは、私の為?」
直緒は、ふいと顔をそむけた。
「僕が勝手にやったことです」
あらぬ方を眺めたまま、直緒は尋ねた。
「古海さん、本当に久條先生の御本を読んだんですか?」
「読みましたよ」
「ちゃんと? 最後まで?」
「読みましたってば」
「本のタイトル……」
「『悲恋』でしょ。『悲恋』。……あ。『悲恋』……」
「悲しい恋です。悲しい、でもとても美しい、失恋の物語です」
……それは、王道じゃない!
企画会議で、典子はつぶやいた。
典子の言うBLの王道とは、ハッピーエンド。
そうでない小説はボツなのか。
それが、ジャンル小説の宿命?
直緒は身構えた。
だが、企画は続行された。
そして、
……素晴らしい! 素晴らしいわ、直緒さん。この、久條先生の作品!
それが、最終的な彼女の感想だった。
改めて直緒は、典子についていこうと思いを新たにした。
「失恋……。そう……か」
古海が正面から直緒を見つめた。
「今の今まで、私はてっきり、失恋したのは黒い服を着た執事だと、」
「どこをどう読めば、そうなるんですか!」
直緒は叫んだ。
そうだ、この人は理系だったっけ、と、熱い頭のどこかで考えた。
確かに執事は出てくるが、ほんの端役である。そもそも、主役の二人との接点は皆無だ。
「いや、だって、」
古海は頭を抱えている。
「あのバトラーは、本当にイヤなやつでしたから。狭量で、陰険な皮肉屋で……」
直緒はため息をついた。
「もちろん、あの小説の中の作家は、久條先生ではありません。相手の男も、僕ではない。でもきっと、あなたならわかってくれるって、思ってた……」
ゆるゆると、古海が顔を上げた。
「本当は、私は、嫉妬深いのです。直緒さん、あなたのことを考えると、自分でも呆れるくらい、制御が利かなくなるのです」
その顔は青ざめて見えた。
いったいどれだけの自律を、今まで古海は、自分に課してきたのだろう、と、不意に直緒は思った。
古海の想いは知っていた。
早くに親を亡くした直緒は、こんなにも深く誰かに愛されたことはない。
自分が知らなかった、強い愛だと思った。
でも、それを受け容れるには、勇気が要った。
直緒は、直緒の常識に縛られていた。
一瞬だけ、直緒は古海の手に触れた。
電流が流れこんだような気がした。
素早く手を引っ込め、直緒は言った。
「僕が、もっとはっきりしてたらよかったんです。もっと早く、典子さんとあなたのことを問い糾して。久條先生とのことをきちんと説明して。それなのに、なんで、あんな風に意地を張ってしまったんだろう……」
怖かったのだ、と直緒は思った。
古海の強い思いが、怖かった。
「直緒さんは、ちゃんと言ったじゃありませんか。久條先生とは何もない、って」
「ええ。でも……」
「信じられなかった私が、悪いのです」
古海は直緒の手を掴んだ。
「ちょ、古海さん、人が見てます」
「こうすることの、何が悪いのです?」
真摯な瞳で、直緒を見た。
「だって私はあなたが大好きだし、あなたも……」
「おい、君たち」
ブースから村岡が出てきた。
「お嬢さん方を待たせているぞ」
直緒は慌てて、古海の手を振り払った。
村岡は怪訝そうに二人を見た。
だが、すぐに上機嫌で続けた。
「一緒に写真を撮りたいそうだ。名誉なことじゃないか」
「私はいいです。直緒さんだけ」
古海が逃げ腰になった。
「何言ってるんですか、ここまで来て」
きつい目で、直緒は古海を見すえた。
「そうだ! 古海、上を脱ぎたまえ」
村岡がぽんと手を叩いた。
「あの写真を剥がしてしまった罰だ。あの写真と同じポーズで、後ろ向きになって、本谷君を抱くといい。そうしたら、君の顔は映らない……」
「いやです」
古海は即答した。
それから直緒に向き直って言った。
「久條先生の『悲恋』は純文学だから、私にはちょっと難しかったです。でも、くりいむメロン先生の小説なら……、だって、あの小説は……」
彼は、待機用のベンチチェストを引きずってきた。
その上に腰かける。
「初めての朝、主人公の二人は、森のベンチに座って愛を語らうんでしたね。さ、直緒さん」
自分の膝をぽんぽんと叩く。
「お坐りなさい。ここへ、私の膝へ」
「え……?」
スマホを持って出てきた女の子たちの口から、悲鳴のような声が上がった。
「きゃーーー、ステキ!」
「『ひとめぼれ』の、あのシーンねっ!」
「ナマで見られるなんて。来てよかったぁ」
口々に叫んでいる。
うっとりするほど魅力的な笑みを、古海は浮かべた。
「お嬢さん達は、両脇へ。村岡さんが、シャッターを切ってくれますよ」
※くりいむメロン先生、初出は3章「腐女子が嫁ぐとき」です。6章45話「さわらせないで」と併せてお読み頂くと、「白い装丁のきれいな本」の内容がだいたい、おわかりになるかと思います。
※久條先生は、4章19話が初出です。他、23話「実家は肛門科の専門病院です」以下5章に典子の悪だくみが、また、6章46話「高くつくぞ」に、直緒とのからみがございます。「ネットで評判の『魔性の美女』」についても、この辺りに。




