第54話 懐中電灯?
ジェイがシャツを脱ぐ前、ホテルに着くと真っ先に、クララは、直緒の胸に触った。
遠慮なく、撫で繰り回す。
背筋がぞっとしたのは、快感ではなく、恐怖からだった。
真っ赤な唇のクララに、食べられてしまいそうで、怖かった。
“Flat …….”(平らだわ)
彼女はつぶやいた。
“He is a male …….”(彼は男だったのね)
“Absolutely.”(当り前だ)
ジェイが言った。
直緒を慮ってか、ここまでは英語だったが、その後は、怒涛のドイツ語だった。
何を言ってるのかさっぱりだったが、どうやら、痴話ゲンカ的なものだったらしい。
激しい言葉の応酬が治まった時には、クララの直緒を見る表情は、よほど穏やかになっていた。
……また、女性と間違えられてた。
……だから、クララはあんなふうに、俺を見てた?
いろいろ腑に落ちた直緒であった。
腑に落ちたと同時に、落ち込んでもいた。
どうしてこう、自分は、女性に間違えられるのだろう……。
「準備できたぁ?」
デスクに立てかけたスマホから、典子の声が聞こえた。
典子の横には、作家の芹香ももな先生の姿が見える。
筆が早く、頼めば何でも書いてくれる先生だと、典子が言っていた。
「あ、はい」
直緒は答えた。
「よし」
典子は満足げだ。
先生がご一緒なので、典子は彼女なりの労働着、つまり、ピンクのブラウスを着ていた。だが、そのボタンが1つずつ掛け違っていることに、直緒は気づいてしまった。
「どんな感じですか?」
芹香先生が問う。
直緒は、スマホを、ジェイの胸に向けた。
ふざけて、ジェイが、両手で胸を隠して見せる。
「うーん、画面が小さすぎて、よくわかりませんね」
「もっと近づけますか?」
スマホを持って、直緒はジェイに近づいた。
クララが眉を顰めた。
「ストーーップ!」
手の中から、典子の声が聞こえた。
「気持ち悪くなっちゃった」
「自分で言っておいて、それはジェイに失礼でしょ」
「違うわよ。画面が揺れるからよ」
スマホを動かすと、酔うのだそうだ。
小さな画面では、何が何だかわからないと芹香先生も言うので、結局、スマホはデスクに固定になった。
「じゃ、直緒さん、リポートして」
何枚か写真を撮らせると、典子は言った。
「リポートって?」
「まず、触ってみて」
「……」
ちらと、クララを見た。
覚悟していたのか、クララはそっぽをむいている。
直緒は恐る恐る、ジェイの胸に触った。
「クスグッタイ」
ジェイがくすくす笑う。
「どう?」
「思ってたより、柔らかいです。和毛っての? そんな感じ」
作家が何かメモした。
「毛の流れる方向に撫でると、わあー、気持ちいい」
「気持ちいい?」
と、典子。
「違います。ペットの毛を撫でてるみたいで、なごむっつーか」
「直緒さん、ふざけないで。これは、BLなのよっ。なごんでて、どーするの!」
「ふざけてなんか……」
「セックスアピール!」
典子が喚いた。
クララの耳が、ぴくんと動いた。
「胸毛のセックスアピールは、どこ!?」
「ありません」
直緒は言った。
「そんなこと、男の僕に聞かれても……」
「男にしかわからないことでしょっ! もうっ、直緒さん、まじめにやってよ!」
……まじめにできることか!
直緒は心の中でぼやいた。
「これは、モーリスにとってチャンスだと、村岡さん、言ってたわよ」
ぬかりなく典子が付け足す。
……そうだった。
……BLを世界に。
モーリス発のBLを世界に広げる夢が、自分にはある。
「もっと撫でまわして。縦だけでなく、横にも斜めにも。ぐるぐる円を描いて!」
言われたように撫でると、ジェイが眉を寄せた。
「どう? 直緒さん」
「ジェイが困ってます。クララが怖いです」
「もおっ! 肌触りは! あなたはどう思った?」
「摩擦熱が出そうです。指の股が、ちくちくしてきました」
「……発熱しそうな愛撫、恋の恐怖」
芹香先生がつぶやいた。
「OK。じゃ、直緒さん、次は、ジェイの胸に顔を寄せて」
「ええーーーっ!」
「ええー、じゃないわよ。抱きしめられた時にナントカカントカって、言ったんでしょ、ハーレキング社の受け様が。そういう描写が必要なのよ。だから直緒さん、ジェイに抱きしめるように言って」
「僕の語学力では無理です」
「ジェイ、ハグ ナオ!」
直緒の頭越しに、典子が叫んだ。
完璧な日本語英語だった。
クララが噛みつきそうな目で、スマホを見た。
だが、ジェイには通じなかったようだ。
怪訝そうに、スマホと直緒を、代わる代わる見ている。
「ジェイ、ちょっとごめん」
……BL普及のためだ。素晴らしいものを世界に広げる為なんだ。
直緒は、ジェイに胸に顔を近づけた。
空調の風で、毛がそよそよたなびいている。
「……鼻に入りそうで、……くしゃみが」
続けて二回、くしゃみをした。
「もおっ! 色気のない人ね! で、匂いはどうなの? 汗のしずくとやらは?」
「匂いは体臭ですから、ノーコメント。こっちは結構、寒いんですよ? 汗なんて、かいてるわけないです」
「……無味無臭の体は、気持ちよく乾き、ただ体温のみが感じられた」
と、芹香先生。
「まだよ、直緒さん。乳首は?」
「はっ? ちくびぃ?」
「そう、乳首」
「……ふたつ、あります」
「数じゃないの! 色はっ! 形はっ!」
「ふ、ふつうです……」
「舌触り……」
「クララさんに聞いて下さい!」
自分の名前を聞いて、クララの体が、ぴくんとした。
「毛に隠れてて、よく見えませんしっ!」
「……一乗寺さん、攻めの乳首は、それほど重要ではありません」
「あっ、そうか。わかりました、芹香先生」
典子は言った。
「さ、直緒さん。ジェイの胸に顔を埋めて」
「む、むり……」
「無理じゃないでしょ。もう、直緒さんじゃ、だめだわ。ジェイ、むぎゅっ、よ! 直緒さんを、むぎゅっ!」
はっとしたように、ジェイが直緒を見た。
……なぜ、英語は通じなくて日本語なら通じるんだ?
それは気迫の問題に思われた。
とにかく、ジェイは、両腕を広げた。
ゆっくりと、機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく、直緒に近づいてくる。
「ちょ、ジェイ……」
直緒はあとじさった。
2~3歩後退して、ベッドに躓いた。
「落ち着いて。俺、そこまで社畜になるつもりは……」
「ナオ……」
逃げ切れない。
ジェイは、直緒の体を抱え込んだ。
「感想は! 直緒さん、感想はっ!」
遠くから典子の声が聞こえる。
声を出そうにも、顔はぴったり、ジェイの胸に押し当てられている。
鼻が潰れ、息が苦しい。
口を開けると、毛の波に溺れそうだ。
「!」
直緒の目が大きく見開かれた。
下腹の、臍の辺りに押し付けられているこれは……?
懐中電灯であるわけがない。
「*****!」
動物の咆哮のような雄叫びがした。
感想を求める典子の声が、ぷつんと途絶えた。
がちゃんと、何かが壊れるよう音がそれに続いた。
誰かが、力いっぱい、直緒とジェイを引き離した。
クララだ。
続いて彼女は、ジェイの胸をどんと叩いた。
窒息しそうな抱擁から解放された直緒は、自分のスマホが粉々に粉砕されたことを知った。
取っ組み合いを始めたジェイとクララを置いて、直緒は部屋を出た。
自分がそこにいてはいけないと、直感したからだ。
2時間ほど、ホテルの喫茶室で時間をつぶし……フリーで使えるパソコンがあった……、戻ってみると、二人の姿はなかった。
仲直りはできたようだ。
しかし、その晩は、ベッドで寝る気がせず、ソファで夜を明かした。




