第52話 腐女子に国境なし
2日目には、仕事も大分慣れてきた。
BL本ということもあってか、客は、女性が多い。
朝一番で、細身の体にスーツをさらりと着こなした、呆れるほど美しい女性が来た。
欧米系の彼女は、30分ほど、村岡と話していた。
版権が売れたのかと目で問うと、村岡は肩を竦めた。
後から聞いた話では、かなり安値だったので、交渉は決裂したという。
彼女は、去り際に、スマホを取り出した。
ジェイに何か頼んでいる。
直緒と並んで写真を撮りたかったようだ。
もちろん、直緒は快く応じた。
並んで立つと、直緒とほぼ同じくらいの背丈だった。
“Say cheese!”
おどけた調子でジェイが言って、シャッターを切った。
撮れた写真を見せてもらうと、女性は、向日葵のような笑みを浮かべていた。
有能なビジネスウーマンが、少女に帰ってしまっている。とても可愛らしいと、直緒は感じた。
その女性が立ち去ってすぐ、頭から黒い布を被った女性が、恐々と覗いた。
異様な姿だが、そこだけ見えている目は、驚くほど澄んでいて、邪気がない。
直緒が微笑みかけると、慌てたように逃げて行った。
「イスラムでは、同性愛は禁じられているからね。その上、未婚の女性が、男性に声を掛けるのも、御法度なんだ」
後ろから見ていた村岡が、顔を顰めた。
「名誉の殺人と言ってね。家族に殺されてしまうこともあるんだよ、今でも」
「え? 何もしてないのに、殺されてしまうんですか? しかも家族にって!」
「そうだ。淫乱な女だと糾弾されて、家族の名誉を汚したとされるんだ。だから、家族は、彼女を殺して、一族の名誉の回復を図るんだ」
「そんな馬鹿なこと……」
直緒が言いかけた時だった。
白いだぼっとした衣装の上に、グレーのスーツの上着を羽織った男が、足音荒く、モーリスのブースに入り込んできた。
頭にはターバンを巻いている。
腰のベルトに無造作に押し込んであるのは、
……まさか、剣じゃないよな。
男は、鋭い目を、直緒に向けた。
頭の先からつま先まで、じろじろと眺め渡す。
「***」
村岡が英語で何か言った。
何か用かと、問いかけたようだ。
「***」
男が答える。
しばらく、やりとりがあった。
その間ずっと、男は直緒から目を離さなかった。
「さっきの女性のお兄さんだ」
村岡が言った。
「君は男かと聞いている。さっきの彼女……この男の妹だそうだ……と、何を話したか、問うている」
「僕のこと……女だと答えて構いません。そんなことで、彼女の命が助かるのなら。てか、彼女、何も話してないでしょ!」
ひそひそ声で、直緒は答えた。
声を聞かれたら、男だとわかってしまう。
「***」
村岡が何か言った。
「男だ、と言った。騙して、後でバレた方がまずい」
「***」
村岡がさらに何か言った。
「***」
ジェイが、口を出す。
村岡の援護をしているようだ。
英語がろくにできない自分が、直緒はうらめしかった。
「****」
男が一言返した。
ジェイの顔色が変わった。
馬鹿にしたようにな一瞥を直緒にくれ、男は、立ち去って行った。
「……村岡さん?」
「すまない。君のこと……」
額の汗を拭った。
「あの女の子は、君を軽蔑したんだと言った。ただし、毅然として君を見ただけ。一言も口はきいていない、と」
直緒は全てを悟った。
前に、大河内に聞かされたことがある。
イスラム圏では、男同士の恋愛は、罰せられるそうだ。
それも、受け身の方が罪が重い。
なぜなら、強い男が賞賛され、弱い男は蔑視されているから。
直緒は言った。
「……いいですよ。そんなことで、彼女が死なずに済むのなら。家族に殺されずに済むのだったら」
「ナオ、オトコ、ダヨ」
しみじみとジェイが言った。
「オトコ、ダカラ、アノコ、キケンダッタ」
「申し訳ない」
もう一度、村岡が言った。
「そうです。僕は、男です。だから……村岡さん、ジェイも、ありがとう」
直緒は言った。
どんな外見であろうと、どれだけ誤解されようと……それは、どうしようもなく、真実なのだ。
**
翌日のお昼近くに、大柄な若い女性がやってきた。
大胆な花柄のワンピースを着ている。
「クラーラ!」
歌うように叫んで、ジェイが飛び出してきた。
二人は手を取り合い、激しく抱き合った。
「……欧米人というのは肉食人種だな、と感じる瞬間だよ」
直緒の耳に、村岡が囁いた。
「でも、微笑ましくもあるよね」
その時、クララは、直緒に気がついたようだった。
激しい口調で、ジェイに何かを問いただす。
ジェイが笑いながら答えると、少しだけ、表情を緩めた。
ちょうど、混んできた時間帯だった。
クララは大丈夫と言い、隅の椅子に腰を下ろした。
茶菓子の補充にジェイのそばへ行った時、クララの鋭い視線を感じた。
振り返って、直緒は微笑んだ。
クララは唇を引いて、にこりとしてみせた。
でも、なんとなく、目が笑ってない気がする。
なんとも落ち着かない気持ちだった。
それから、昼休みにクララとジェイがそろって食事に行くまで、直緒は、ずっとクララの視線に晒されていた。
「オランダの女性って、猫が好きなんですね。あるいは、コスプレが」
二人の姿が人混みに見えなくなると、直緒は言った。
「なぜ?」
ノートパソコンから目を上げて、村岡が尋ねる。
「だって、ずっと僕の方を見てたし。ジェイじゃなく」
「それは、彼女が嫉妬深いからなんじゃないか?」
「嫉妬? 誰に?」
「君に」
「僕? なぜ?」
「……いや、わからないならいい」
村岡はパソコンに目を落した。
「英語の版権は、アメリカのセルダムハウスがいいか、それとも、イギリスのホワイトベアー・グループがいいか」
ぶつぶつつぶやいている。
「英米で分けるより、どちらかひとつにした方が……」
その時、何かが、直緒の顔に当たった。
「あっ」
「どうした?」
痛くはない。
ただ、驚いた。
小さな紙つぶてが、デスクに転がった。
「……」
反射的に、ブースの入口を見た。
小柄な東洋人女性が、隣の中花国ブースに駆け込むのが見えた。
「……こんなところまで」
直緒は息を呑んだ。
日本と中花国の仲が悪いのは、知識として知っている。
しかしまさか自分が、その標的になるとは。
国際的な、出版ビジネスの場で。
「いや、本谷君、怒らないでやってくれ」
静かな声で、村岡が言った。
「怒ってなんかいません。ただ、幼稚だな、と思っただけで」
「それも思わないでくれ。そもそも、モーリスのブースが、中花国ブースの隣だったことが、まずかったんだ」
「え?」
「同性愛の小説を書いたからといって、ブログやウエブサイトがが閉鎖されたり、小説の書き手が逮捕される国だよ? かの国の、同性愛への弾圧は、大変なものなんだ」
その話なら、直緒も聞いたことがある。
しかし、なにも、日本ブースにいやがらせをしなくてもいいではないか。
外国のブックフェアに来てまで。
村岡は続けた。
「18世紀に書かれた、『桃楼夢』、あるだろう? 当時、若者が耽溺して、社会が堕落したと批判された小説だ。麻薬・麻雀と、あの小説がなかったら、中花国は忽ち、アメリカを追い越すだろうと言われたんだ。今の、同性愛の弾圧も、同じ論理を感じるね」
「へえ、そうなんですか。『桃楼夢』、僕、まだ、読んでないんです。年を取ってからゆっくり読もうと思って」
「それは楽しみだね。現政権が同性愛を弾圧するのは、夫婦と子どもという、社会主義的家族観に基づく差別だという見方もある。一人っ子政策と根は同じだ」
「誰とどう暮らそうが、国に、あーだこーだ、言われたくないですね」
村岡が、少し、言葉に詰まった。
「……君は、誰か、一緒に暮らしたい人がいるのか? つまり、その、子どもがいらないとか?」
「個人的なことですから」
少しの間があった。
村岡は言った。
「とにかく、逮捕されちゃかなわないからね。彼女が君にそれを投げつけたのは、多分、自分は同性愛的小説を支持していないという、仲間内へのアピールなんじゃないか? 昨日、あの女の子、君のこと、うっとり見てたから。それを、仲間の誰かに見られたんじゃないかな」
「少しも気がつきませんでした」
「かわいいお嬢さんだったよ。典子お嬢様に似た雰囲気の。もっとずっとしっかりしてたけど」
「僕に紙つぶてを当てることで、彼女は、国へ帰ってからの誹りを免れることができたわけですね。同胞からの」
ゆっくりと直緒は言った。
「それなら、とても嬉しい」
「……君は、優しいな」
「そんなこと。だって、紙つぶてでしょ。石とか卵とかじゃなく」
長机に転がった紙つぶてを、直緒は拾い上げた。
「なんだか、愛を感じますよ。BLへの、ね」
「そういう見方もできるのか」
「そもそも、その女の子に、他人から付け入られる隙を作らせてしまったのは、この僕なんですから。女性に辛い思いをさせるのは、本意じゃありません」
「君、女性にもてるだろ」
「それが、さっぱり」
村岡は、直緒の全身を、上から下まで眺め渡した。
「うん。それもなんとなくわかる」
「どっちですか」
「ま、もてなかろうね」
あっさり言われて、直緒は、言葉に詰まった。
「典子お嬢様が来られなくて、正解だったな」
しみじみと村岡が言う。
「あの方のことだ。なにがなんでも、中花国のごたごたに首を突っ込もうとなさるだろう。BLが絡んでるとなると、なおさらだ」
溜息をついた。
「ほんと、ここにお嬢様がいらっしゃらなくて、よかった」
それは、直緒も同意見だった。
典子の性格を思うと、どのようなトラブルを招くか、考えただけでもぞっとする。
「……!」
紙つぶてを広げて、直緒は、あれ、と思った。
そこには、エンピツで、英数字の列が書かれていた。
「メモ用紙の再利用だな」
のぞきこんで、村岡は言った。




