第46話 高くつくぞ
いつもの時間になっても、典子は現れなかった。
ここ数日、古海も見かけていない。
直緒がパソコンを立ち上げていると、メイドが現れた。
……典子さんと一番親しいメイドさん。
……篠原、もなみ、さん。
直緒は頭の中で反芻した。
「お嬢様から御伝言です。TAKI先生のご本の紹介文を考えておくようにって」
「典子さんはどこに?」
「お父様に呼ばれて、本宅へ」
「古海さんは?」
メイドは、くっと、眉を上げた。
「……気になります?」
「え? いや、ここ何日か、見かけてないから」
しどろもどろと、直緒は答えた。
メイドは肩をすくめた。
「古海さんも本宅です。お屋敷に、不審な者を入れてしまった件で、旦那様にお叱りを受けているのです。それだけじゃなくて、この頃、電話やメールも多くて。……とうとう、旦那様のお耳にも入ってしまい、ちょっとまずいことになってます」
「……それって」
「お嬢様へのインタビュー依頼ですよ。大事な愛娘を公の場に出すなど、とんでもないと、旦那様は、ひどくご立腹です」
「だって、古海さんのせいじゃないじゃないですか」
それは、直緒のせいである。
というか、女性の格好をした、直緒の写真のせい。
ソーシャルメディアを一人歩きしている、「魔性の女」のせい……。
「アレは、ウチのお嬢様ということになってますからね」
メイドはため息をついた。
「ま、お嬢様をご存じの方なら、誰も1ミリも、そうは思いませんけど。でも、旦那様だけは、違います。お宅のお嬢様を是非、読者にご紹介したい、などと猫なで声で言われると、もう、頭にかっと血が上ってしまって」
「……」
「深窓の令嬢として、今まで人前に出さなかったのが、裏目に出た感じですね。さっさとオープンにしときゃ、誰もこんな、ありえない誤解なんかしないのに」
典子を人目に晒したくないから、一乗寺パパは、ダンスの時も、仮面を寄越したほどだ。
「ほんと、親馬鹿って、バカなんですね」
「いや、篠原さん、典子さんは、素敵な女性ですよ……」
「でも、あの写真の女性ほど美しくない。というか、あれほど美しい女性は、この世にはいませんよ。それはよくわかっておいででしょ?」
「僕は……」
「腐部屋の公開は、私もまずいと思います。例の、お部屋拝見です。お嬢様はものすごく乗り気になってらっしゃいますが、」
溜息をついた。
「やはり、腐女子でヒモノがバレるのは、いろいろと問題がありそうな。……ここだけの話ですが、お嬢様、勝手に編集部と話を進めていらっしゃるようですよ」
「えっ! 古海さんがあれほど反対しているのに?」
「そこです。そもそも、書店の人質事件。あれのせいで、古海さんに対する、旦那様の心証は、かなり悪くなっています」
「そんな……」
「ま、アレは、お嬢様自らが飛び込んで行かれたわけですけど。御長男の創さまも、そう証言なさいましたし」
「だったら、」
「でも、古海さんの特殊な立場を考えると、」
「特殊な立場?」
「お嬢様の婚約者なのでしょ、古海さんは。それに見合った、会社での地位もおありでしょうに」
「……!」
「あの方の性癖がどうであれ、社長は、そのお心積もりだったはず」
「性癖?」
「いえ、こちらの話。要は、ですね。信じていた部下に裏切られたって感じ? ですかね。娘を託そうとまで思っていたのに」
「娘を……託そうと……」
「昔、社長自ら採用したのに、実は無能だったという社員がいて、海外の紛争地帯にトバされたというウワサです」
「それは、一乗寺社長に、人を見る目がなかったんじゃ……」
「あのお嬢様のお父様ですからね。ここのところ、減点続きの古海さん。どうなっちゃうんでしょう。私、心配です」
「でも、元はといえば典子さんが……」
「なにしろ、ワンマン経営の同族会社ですから。全ての元凶とはいえ、お嬢様は、大切な御令嬢」
「……」
「ねえ、本谷さん」
口調を改め、もなみは言った。
「言っちゃなんですが、腐女子でヒモノのお嬢様を、他の誰が貰ってくれると思います? 社長の息のかかった古海さん以外に」
「……」
「本谷さん、しっかりなさい。お嬢様の、腐女子でヒモノが、世間様にバレますよ? お部屋公開なんてしたら。そしたら、社長が何と言おうと、古海さんしか、お嬢様の収容先はなくなるんですよ?」
**
「それで?」
作家は言った。
マンション近くのカフェ。
込み入った話は、外でした方がいい。
押し倒された体勢では、話がしにくい。
カウンターに並んで座り、直緒はうつむいた。
「敷島出版は、先生のご本を出していましたね」
小さな声で、彼は言った。
敷島出版社。
雑誌「お嬢!」に「日本の令嬢、お部屋拝見」の企画を持っている会社だ。
作家は鼻を鳴らした。
「俺に、話をつけろと言うのか? 一乗寺典子の部屋の取材を取りやめるように?」
「……勝手なお願いだと、わかっています」
二人の前には、スタイロフォームのコーヒーが、湯気を立てている。
どんなに暑い日でも、久條は、必ず、ホットを注文する。
コーヒーが好きなのだ。
「で、」
久條は言った。
「報酬は?」
「報酬?」
「お前の為に骨を折ったら、お前は俺に、なにを寄越す?」
「……先生のお望みのものを」
「言ったな」
久條がつぶやいた。
直緒は俯いた。
そんな直緒を、久條は腕を組み、じっと見ている。
しばらく、沈黙が続いた。
「しかし、わからんな」
久條が言った。
「あの編集長の為に、どうしてそこまでする?」
「典子さんの為じゃ、ありません」
直緒は顔をあげた。
ためらった。
「というか、典子さんご自身は、お部屋紹介に、大変、乗り気です」
「だったら、好きにさせたらいいじゃないか」
「腐女子の暴走」
直緒はささやいた。
「なるほど」
なんらかの納得が、久條の表情を過った。
「しかし、あの編集長は、自分の評判など、気にしたりはしないだろ?」
「典子さんの尻拭いをさせられて、危険な目に遭わされる人がいるんです」
「危険な目?」
「海外の紛争地帯へ派遣されちゃうんです」
「つながりに飛躍があるな」
「一乗寺建設は、血族意識の強い、財閥企業ですから」
「だが、モーリス出版は違うんだろう? 編集長はそう言っていた。モーリスは、一乗寺典子の個人経営だから、一乗寺財閥といえど、手を出せないと。お前の身は、安全じゃないか」
「僕じゃありません」
「じゃ、誰だ。誰のために、お前は、対価を支払おうとしている」
「……」
「あの黒服か?」
「……」
「このクソ暑いのに、黒のスーツを着て、銀縁の眼鏡をかけた、短髪の。いかにもSっぽい、あいつだろ?」
「先生、古海さんを御存じなんですか?」
久條と古海が顔を合わせたことがあったとは、初耳だった。
「当り前だ。お前と初めて会った日に、割り込んできた奴じゃないか」
「ああ……」
一乗寺家のダンスパーティーの日。
久條に壁際まで追い詰められ、キスを迫られた直緒を救ってくれたのは、古海だった。
「でも、……」
あれは自分ではないと、古海は言った。
「それは嘘だ。間違いなく、あれは、黒服野郎だ」
久條は言い切った。
久條の観察眼は確かである。
彼だけが、ひと目で直緒を、男と見破った。
すると、古海は、いよいよ、典子への求婚者ということになる。
一乗寺家令嬢に……典子に代わってそこにいたのは直緒だったわけだが……、ダンスを申し込めるのは、社長に許された求婚者たちだけだったから。
あのメイドは、最初から、その点を強調していた。
黙ってしまった直緒を、久條が見下ろす。
「ふるみ。ああ、確かにそんな名前だった。つい最近、うちへ来たんだ。本谷に傷を負わせるなと、文句を言いに来た。Sのお前に言われたくないと言ったら、たとえSだとしても、自分は大切な人を傷つけたりしないと抜かしやがった」
「え?」
「肘の、擦り傷のことだ」
「ああ……」
……つか、古海さん、Sなのか?
「気をつけろよ、お前」
「……」
「自分はSだくせに、お前の肘に擦り傷をつけたからって、苦情を言いに来たわけだ」
「でも、あんなの、大したことない、ほんとに、ちょっとこすっただけで」
「あの黒服には、許せなかったようだ。お前が傷つけられるのが、あいつは、我慢がならなかったようだ」
この頃、古海は、本宅へ呼び出されてばかりいる。
顔色が悪く、元気もない。
一乗寺社長の古海への心証が、著しく低下していることを、直緒は話した。
「全て、僕のせいなんです」
直緒は言った。
「僕が、女性の格好なんかしたから」
「ふうん」
久條は言った。
「わかった。そういうことなら……だが、高くつくぞ」
直緒は顔を上げた。
久條は、目をそらさなかった。
**
「きゃーーー、なにこれーーー!」
新入りのメイド、小林晴美が、悲鳴に近い叫び声を上げた。
「見て見て、もなみさん、これ、ひどくないですかぁ?」
「いくらアフター5でも、大声を出し過ぎよ」
もなみは言った。
「嬉しいのはわかるけど」
「ほら、これ、見て下さい、これ!」
晴美は、ぐいとスマホを差し出した。
「久條泰成が! あたしの憧れの、久條センセイがっ!」
「く、久條先生って、ハルちゃん、あなた、そーゆーシュミが、」
……腐っているのか、この女。
もなみは、晴美の差し出すスマホを受け取った。
「え、あたしって、文学少女なんですぅ~。知りませんでしたぁ?」
「それは意外。つか、久條先生ってさ、」
……女に興味、ないんじゃね?
後半は言葉を呑みこんだ。
差し出されたスマホ、そこには、驚くべきことが書かれていたからだ。
「……ネットで、魔性の美女と話題騒然のN・Mさん、実は彼女は、塵山賞候補作家、久條泰成の恋人であることが判明した。……会社勤めの一般女性なので、そっとしておいてほしいと、作家は話している」
……N・M、って。
……Nao Motoya ?
……本谷さん、とうとう、コイビトになっちゃった?
……久條先生の?
……かわいそうに、古海さん。変態度でいったら、どっちもどっちでしょうに。
少しばかり、身びいきを感じたもなみだった。
**
久條が原稿を書き上げるのを待って、直緒は、夏休みを取った。
モーリス出版に入社してから、初めての夏休みだ。
こんなに長い休みが保証されていることに、感動した。
いままでの職場では、ありえなかったことだ。
1週間の休みを終えて帰ってくると……、
……古海の姿が消えていた。




