第44話 入り口がない
「直緒さん、進んでるぅー?」
真夏のピンクは、薄目のオーガンジー。
しなやかなレースが涼しげだ。
直緒のデスクに近づき、典子が尋ねた。
「久條先生よ。そろそろ企画書、出せるかしら」
「ええと……」
直緒は再び、久條の元へ通うようになっていた。
純文学作家に、BLを書いて頂く為に。
しかし、企画は、さっぱりまとまらない。
唯一、固い決意と共に決めたのは、実録モノはなし、ということだ。
久條はだいぶ不満げだったが、最終的には、純文作家として誇りに訴えて、納得してもらった。
「ラインナップはまだ先だけど、秋も深まると6月のお庭に行かなくちゃならないから、企画書は早めに出して欲しいの」
「6月のお庭? 秋なのに?」
「そおよ。わたしも忙しくなるの。好きな作家さんが、大勢出品されるから、下調べが」
「……同人誌即売会かなにかがあるんですね」
「とにかく、よ。傾向だけは、先生と打ち合わせておいて」
「傾向、ですか?」
「萌えどころがどこにあるか、攻めと受けの属性、R指定の有無、あ、王道を外れる場合は、事前に言ってね」
直緒は首を傾げた。
「攻めと受けの属性ってなんですか?」
「イヌ×ネコとか、ヘタレ×けなげとか、オラオラ系×誘い受け……」
「わ、わかりました!」
「俺様×魔性、まだいろいろあるけど?」
「も、いいです。わかりましたからっ。で、王道とは?」
「いろいろあって、ハッピーエンド」
きっぱりと典子は言った。
「試練があっても誤解があってもアテ馬がいても、ハッピーエンド!」
「そ、それは……、どうしてもそうじゃなくっちゃ、いけないんですか?」
純文学作家にそんなこと、強要できるものだろうか。
「ううん、強制はしないわ。でも、編集長のわたしにだって、心の準備が必要なの。いち読者としてね。キャラが不幸になって終わるのは、辛いのよ」
「えと、企画書といったら、」
直緒は言った。
「おおまかなページ数……あ、電子書籍か。なら文字数とか、ターゲット層とか、紙にした場合の判型とか。あと、他社類書の有無とかは?」
「それ、大事?」
無邪気に典子は尋ねた。
「文学って、そーゆーモノ?」
目を輝かせている。
「ああ、楽しみっ! どんなBLが読めるのかしらっ。久條先生のBL。久條先生と直緒さんの、愛の物語……」
「違いますから!」
直緒は叫んだ。
「それ、絶対、違いますから!」
カバンを手に、そそくさと立ち上がった。
「打ち合わせに行ってきます」
オフィスを出、玄関に向けての長い廊下を歩いていると、後ろから、ひたひたと足音が聞こえた。
……出ると思った。
久條の元へ行こうとすると、必ず、どこからか出てくる、この……。
「直緒さん」
古海が言った。
「お出かけですか、直緒さん」
「ええ、ちょっと、作家さんのところへ」
「久條先生ですか?」
前へ回り込んだ。
進路を遮るように、立ち塞がる。
「え、ちょっと」
直緒は言った。
「お嬢様のご指示で?」
「ええ」
「本のお仕事?」
「もちろんです」
「……そうですか」
ふっと、眼鏡の奥の目を伏せた。
廊下の壁に身を寄せるようにして、慇懃に頭を下げた。
「いってらっしゃいませ。外は暑うございますから、お気をつけて」
「……はい」
答えて直緒は歩き出した。
背中に視線を感じる。
古海は、その場に留まっているようだ。
……もっと、追ってきてくれてもいいのに。
直緒は思った。
そして、愕然とした。
……何考えてるんだ、俺は。
**
「やっと来たか」
久條は言った。
「わっ、先生、駄目です」
直緒は慌てて飛びのいた。
このマンションに通うようになってから、1ヶ月。
さすがに家主の行動パターンは読めるようになってきた。
「廊下で押し倒すのは、止めてください。他の住人の皆さんに、迷惑がかかります」
「なら、部屋の中ならいいんだな」
「そういう問題じゃ……」
「入れ」
中に入ると、久條は持っていたハンドグリップを、下駄箱の上に置いた。
直緒に向き直る。
「先生、もういい加減、やめましょう、この野獣ごっこ。僕、全身、擦り傷だらけです」
「ごっこ? 何を言ってる。俺は本気だ」
「先生が本気なら、今ごろ僕は、ヤられてます」
体は、久條の方がはるかに大きい。
大きいだけでなく、鍛えられている。
スポーツジムに通うのを欠かさないし、暇さえあれば、ハンドグリップなどの道具で、筋力を鍛えている。
久條は言った。
「お前がいやがるからだ」
「押し倒されるのも、いやなんですけど」
「意思表示は必要だ」
腕を広げて、抱きしめようとする。
「いや、ちょっと、あの……」
追い詰められ、ソファの上に、柔らかく倒された。
「これなら、どこも痛くない」
直緒の上に腕立て伏せのような格好で覆いかぶさった。
目を開けたまま、顔を急降下させる。
「きょ、今日はしつこいですね」
両手の親指と人差し指の間を広げ、久條の口にがっちりと噛ませながら、直緒は言った。
少し顔を上げ、久條は、その直緒の手を外した。そして、べろりとなめた。
「わっ。人の手をなめないで下さい!」
「心配してたんだ」
「心配?」
「立て籠り。お前、あの書店へ入っていったろ」
「どうしてそれを?」
立て籠もり犯の要望で、新たな人質として、直緒は召喚された。
しかし、身元は、明かされなかったはずだ。
典子が人質になっていたことも、一乗寺家が、全力でもみ消した。
「テレビで見た」
「あ……」
そういえば久條は、女装した直緒の姿を知っている。
「爆弾が仕掛けられていたと言ってた。門壇社の連中が、人質に取られていたそうだな」
「ええ……」
「人質は無事、解放された。爆弾も未発のまま、回収された。なのにお前は、なかなかうちへ来ない。心配にもなるだろう」
「……はあ。すみません。来るのが遅くなって」
全身を固定され、上からのしかかられての会話である。
「だから、言うことを聞け」
「いや、だって、僕には入口がありませんしっ!」
「ある!」
力が加えられ、直緒はじたばたともがいた。
「じっとしてろ」
久條の手が、直緒の両手を捕まえた。
そのまま床に縫い付ける。
「せ、先生、蹴り上げますよ?」
久條はにやりと笑った。
「やれるものなら、やってみろ」
片脚を上げ、直緒の両足の上に、斜めに押し付けた。
「毎度毎度同じ手にやられるか。これでどうだ?」
今度は、直緒が笑った。
久條のもう片方の足は、自らの体重を支えている。
両手両足、使えない。
「それで、どうやって、僕の服を脱がせます?」
「うーむ」
久條はうなった。
「次は、逆向きでやってみよう」
**
「しみますか?」
伏し目になって、直緒の肘をじっと見つめながら、古海が問う。
「いいえ、だいじょうぶです」
「でも、傷、」
「たいしたこと、ありません。なめときゃ、治ります」
「そこに舌は、届かないでしょう」
ぴりっと、消毒薬が沁みた。
「久條先生も、無理をなさる」
不満げに、古海がつぶやいた。
久條に押し倒された時、肘を、ソファの座面でこすったのだ。
半袖だったので、めざとく、古海に見つけられてしまった。
「これでは、直緒さんのお体が持たないでしょう」
はっとしたように、古海は言い添えた。
「生傷が絶えなくて」
「先生なりの、コミュニケーションの取り方なんです」
直緒は言った。
「特になにかなさるわけじゃ、ありませんから」
「なにか?」
「ですから、僕が困るようなことは」
「……」
「いえ、その、恥ずかしいこと?」
「……、……」
言えば言うほど、ドツボにはまる気がする。
「白くて、キメの細かい肌ですね」
しばらくして、古海が言った。
声がかすれている。
「それなのに、こんなに赤く、ほら、ここなんか、血が滲んでる」
「女の子みたいで、僕はいやです。もっと丈夫な肌ならよかった」
「そうですね。もっと浅黒くてごわごわしてて、いっそのこと、剛毛でも生えていればよかったです。お顔も……」
言いかけて、古海は頭を振った。
「どんな直緒さんでも、私は、直緒さんが……」
途中でやめた。
「言わなければ、ずっとこのままでいられますものね」
ひとり言のようにつぶやいた。
典子は、くりいむメロン先生のところへ出かけている。
古海と二人でいると、直緒は、息がつまりそうだった。
一緒にいたくないわけではない。
むしろ、この頃元気のない古海を、なんとか、力づけてやりたいと思う。
典子や創といる時の古海は、前と同じだ。
皮肉屋で現実家で、そして、生き生きとしている。
しかし、直緒と二人きりになると、途端に、精気が失われていく気がする。
それが、直緒は悲しい。
古海がこうなったのは、あの、立て籠もり事件以降である。
「直緒さんは、本が好きだから」
自分に言い聞かせるように、古海は言った。
「だから、久條先生を尊敬してらっしゃるんですよね」
「そうですよ」
「私は、ちょっと苦しいです」
「苦しい?」
「直緒さんが、久條先生のところへ行かれると。でも、これが、直緒さんのお仕事だから」
「古海さんも、本が好きでしょう?」
典子は、古海は小説など読まないと言い切っていた。
しかし、直緒は、古海が前に、これから読書をすると言っていたことを覚えている。
どんな本を読むのか、気になってならない。
あの時、BLではないと言っていたので、安心して話題に出せる。
古海は首を傾げた。
「私は、あまり、小説のたぐいは読みません。自然科学系の本が多いかな。鶴が片足で立ったり、象と鼠の時間の流れ方とか、そういうのに、興味があります」
「へえ……」
自分とは違うのだな、と、直緒は思った。直緒は、読書に感動や楽しみを求めるが、古海は、知識を探究するのだ。
その気持ちが、古海にも伝わったのだろうか。力なく、彼は項垂れた。
「小説が好きな直緒さんとは、わかりあえない運命かもしれませんね」
さだめ、とは、古臭い言葉を使う、と、直緒は思った。
古海らしくないことだ。
「そんなことないです」
強く、直緒は言った。
「そんなことはないです」
「そういう……そういう風に言ってはいけません、直緒さん。希望を抱いてしまうではないですか。私は、フィクションが嫌いです。小説や物語や、そういう絵空事は、受け容れられないのです。あなたとは、違うのです」
「物語が……嫌い?」
これは、直緒に衝撃を与えた。
「ほんとうに?」
「ええ」
古海は救急箱の蓋を閉めた。
「これは、いつもオフィスの棚の上にあります。傷ができたら、これからは、ご自分で、きちんと消毒なさって下さい」
決然とした足取りで、古海はオフィスを出て行った。
久條先生、初出は4章19話「野放しの腐女子」です。
純文学の作家さんで、娘のご機嫌をとりたい一乗寺社長に招かれて、舞踏会に出席しました。
その時のあれやこれやは、続く20話「美女と野獣」・21話「ラストダンス」に。
また、久條先生と直緒の絡み(?)は、5章23話「実家は肛門科の専門病院です」にも。




