第35話 腐女子狩り/見栄えのいい男と爽やかな営業スマイル
ぎらぎらと照りつける陽射しも、6時を回れば、さほど耐え難いものでもない。
緑濃い木陰の駅前コンコースを、もなみは、歩いていた。
耐え難いのは……。
「駅ビルの書店が、閉店するんですって。四階の右手奥壁際の、本棚ごと買い取れないかしら」
前を歩く、フリル過多のピンクのワンピース姿の女主と。
「帰りたくない~! せっかく街まで来たのに、執事喫茶に行ってない~!」
後ろからついてくる、キティ―ちゃん柄のキャリーバックを引きずった、その弟。
駅から続く地下道から、続々と人が、吐き出されてくる。
これから遊びに行く人たちだ。
……本当だったら、私だって、今ごろ、
……楽しい楽しい夜遊びへむけて、カウントダウン。
しかし、もなみは未だ、勤務中だった。
本来今日は、内勤定時上がりのはずだったのに。
もなみと、その女主人・典子、そして典子の弟の創の三人は、人波に逆らって、駅へ向かっていた。
BL作家、奈良橋沙羅先生のサイン会からの帰りだ。
これから電車に乗って、このやっかいな主人たちを、邸まで送り届けねばならない。
自家用車は使えない。繁華街に車で出向くのを、典子がいやがるからだ。
その典子は、作家先生と握手をしてもらい、この暑いのに、両手に手袋をはめている。
嬉しさのあまり舞い上がっている。歩くスピードも、いつになく速い。すでに、かなり前方を歩いている。一人でどこかへ行ってしまわないよう、目が離せない人なのに。
もう、くたくただった。
サイン本3冊は、店の緑のビニール袋に入れられたまま、もなみが持っている。
1人1冊しかサインしてもらえないので、もなみまで買わされたのだ。
「閉店する本屋の棚ごと買うですって?」
もなみは前を歩く女主人の背中に向けて大声で言った。
「持ってる本ばっかでしょ。これ以上増やして、どうするつもりですかっ! BL本をっ!」
「BL図書館」
典子がくるりと振り返った。
「わたしはまだ、諦めてないわよ。腐女子の殿堂、BL図書館を作るの!」
そう言うと、踊るような足取りで、歩いて行く。
もなみはぶつぶつとつぶやく。
「……BL図書館はダメだって、古海さんとバーター取引したんじゃなかったでしたっけ? たしかあの人も、盆栽カフェを諦めたはず。古海さんと言えば……」
一乗寺家家令・古海の、蒼に近い三白眼を思い出し、身震いした。
後ろを振り返った。
「創さま、執事喫茶はいけません。そんなとこに行ったら、私まで、古海さんにお説教くらいます」
創が口を尖らす。
「内緒にしてればいいじゃん」
「先日、コスプレ撮影会の写真を、屋敷中に自慢して歩いたのは、誰ですかっ! 光の速さで古海さんにバレて、お説教くらったたばかりでしょうがっ!」
説教くらったのは、創ばかりではない。
もなみもだ。
その時のことを思い出し、中学生相手に、本気で腹をたててしまった。
だが、創は、全然応えていないようだ。
妖しい目をして、ぼうーっとしている。
ラフライクのお姫ちゃんの衣装を思い出している模様だ。
あきらめて、もなみは前へ向き直った。
衝撃は、その時、襲ってきた。
鋭い痛みが、左の二の腕辺りを走った。
「あ……」
思わず、手で抑えた。
「どしたの?」
少し前を歩いていた典子が振り返った。
叫んだ。
「血っ! 血よっ!」
……お嬢様、あなたは簡単に、鼻血を出すじゃありませんか。
……人の血を見たからって、そんなに騒ぐなんて。
そう言い返そうとした。
できなかった。
喉が押しつぶされたようになって、声が出ない。
「あなたたち! なにしてるのっ! 救急車をお呼びなさい! はやくっ!」
集まりかけた野次馬に向かって、典子が叫んだ。
「わたしの命令を聞きなさいっ!」
腐っていても。
ヒモノであっても。
さすがは、天下の一乗寺家令嬢だった。
何人かが、大慌てでスマホを取り出した。
「おじょ……大丈夫ですから……」
掠れた声で、もなみは言った。
「どきなさい」
だれかが、典子を脇へ押しのけた。
「意識はありますね」
落ち着いた声が、モナミに語りかけてくる。
「私は、看護師です。安心して」
そう言って、熱い痛みが鼓動を持つようにうねっている腕をそっと上へあげた。
体のどこかからタオルを取り出して、モナミの腕の根元を、きつく縛った。
「モナちゃん、大丈夫?」
何度蹴られても近寄ってくる仔犬のように、典子が覗きこんでくる。
「ナイフか何かで、切り付けられたようですね」
その人は言った。
頭はスポーツ刈りで、たくましい体つきをしている。
涼しげな瞳が、もなみの顔を覗きこんできた。
「大丈夫ですか?」
……どストライク。
そんな場合ではないのだが、もなみは思った。
少しだけ、平常心が戻った。
「切られた、ですってぇ!?」
代わりに、我を忘れて叫んだのは典子だった。
「モナちゃんがっ! いったい誰にっ!」
「どうやら、対向してきた人波の中の誰かがやったようだね」
男が言った。
その目がもなみを離れ、道端に転がっていた緑色の袋に止まった。
薄いビニールから、男同士が上半身裸で抱き合う絵柄が透けて見える。
「あれ……」
「ちが、アレはお嬢様の……」
弁解したいのだが、喉に何か塊が詰まったようで、声がろくに出ない。
「あの袋、」
男は袋を指さした。
「そこの書店のものだね。やっぱり!」
……やっぱり?
……だから、違うってば!
あせればあせるほど、口が回らない。
「最近、緑のビニールの手提げ袋を持っている女の子が、狙われているという噂が。つまりその、そういう中身が透けて見える……。突き飛ばされたり、足を引っ掛けられたり」
「あ、ネットで読んだ、その噂」
「私も」
野次馬の中から、賛同の声が聞こえた。
「カバンに仕舞うようにって、お店に張り紙があったわ」
「ついに、ナイフで切りつけたか」
もなみの脇のイケメンが、暗い目をした。
「腐女子狩り……」
誰かが言った。
「そうだ。腐女子狩り!」
「腐女子……」
声はさざ波の如く、広がっていく。
「おねえちゃま、僕、見た!」
一際甲高い喚き声が、響き渡った。
創だ。
キャリーバックを横倒しにして、その場で飛び跳ねた。
「あのビル! あそこの本屋に入っていった!」
今、自分達が出てきた書店を指さす。
「あの人ね! わかった!」
典子の声がする。
「うちの大事なモナちゃんをっ! 許さないんだからっ!」
そう言うと、典子は、書店目指して一直線に駆け出していった。
ピンクのスカートが翻っている。
「お嬢様、だめ……っ!」
「おねえちゃま、僕も!」
走りかけたシャツの裾を、もなみは、やっとのことで掴んだ。
血だらけの手が、白いシャツを汚した。
声を絞って、もなみは叫んだ。
「だれか! おねがい! お嬢様を止めて!」
その声は、町の喧騒と、野次馬のざわめきにかき消された。
**
営業の佐々江幹久が到着すると、作家は、最後の一人にサインをしているところだった。
「遅かったな、佐々江さん」
担当編集の木島蒼がささやく。
眼鏡をかけた、線の細い、優しい面立ちをしている。
体育会系で、いまだに筋肉質の佐々江とは対照的だ。
「すまない。土曜の夕方じゃないと、どうしてもって、先方が。先生には、あとでお詫びを言っとくよ」
上着とカバンを足元に置いて、佐々江は言った。
急いで歩いてきたので、暑い。ネクタイで絞めたYシャツの襟の間に指を入れた。
仕方ない、という風に、木島が肩を竦める。
「クールビズじゃないのか?」
にこやかに作家とファンを見守りながら、口の端だけ言う。
編集の木島は、おしゃれな男だ。
ノーネクタイのストライプのシャツは、清涼感を醸し出している。
佐々江は肩を竦めた。
「俺ら、営業だからな。上着なしってわけにはいかない」
足元の、黒い上着を軽く蹴った。
サインを終えた作家が立ちあがった。
顔を輝かせたファンの手を、両手で握る。
思わず佐々江はつぶやいた。
「一人ひとり、こうやって握手を?」
「そう。200人近くいたんだ」
「時間がかかるわけだ……」
「すごいね、ML人気……」
木島は顔を輝かせている。
老舗総合出版社、門壇社。
文藝出版社から始まったので、比較的、硬派な書籍を出版している。
その門壇社主催の、初めてML本のサイン会だ。
BLが売れているのは、知っていた。
爆発的に売れるわけではない。細く長く売れている。
それを横目で見て、しかし、門壇社には、なかなか参入のチャンスがなかった。
今頃参入しても、他社の二番煎じは免れない。
あの門壇社が、とまで言われて出版する本が、よその三流出版社の後塵を拝する事態は、どうしても避けなければならなかった。
現実問題として、著者の確保が難しかった。
ノウハウもない。
そうした時に、この木島が企画を出したのだ。
……BLを卒業した女性達へ。
……大人の男同士の恋。
Men's Love, ML。
もちろん、木島が考えたジャンルではない。もともとあるジャンルだ。
ただ、BLに比べて、あまり知られていなかった。
木島はまた、著者をも引っ張ってきた。
そうして書かせたMLが、大変な売れ行きを見せている。
「奈良橋先生、ごくろうさまでした!」
部長の池谷が、大きな顔いっぱいに笑顔を浮かべて、作家に話しかけている。
営業の佐々江と、編集の木島、そして編集部長の池谷。門壇社からは3人、男でそろえた。
入力やら使いっぱしりやら、女子スタッフも、たくさんいるというのに。
奈良橋先生のサイン会なら、是非、自分も行きたいと申し出た、他部署の女子社員だっていた。
男だけで揃えたのは、門壇社としての戦略だった。
幸い、担当の木島は、見栄えのいい男だった。
営業の佐々江も、鍛えられた体とさわやかな営業スマイルで、そこそこ人気がある。
ただ、編集部長だけは、誰か別の人間にした方がよかったのでは、というのが、みなが思ったことだ。
誰も口に出しては言わなかったが。
対して書店側から参加した二人は、女子だった。
学校を卒業したてのような若手と、もう少しだけ落ち着いて見える子。
若い方が松本さんで、年上の方が香坂さんだ。
打ち合わせの時に、顔を合わせている。
「お疲れでしたでしょう、先生。別室にお茶の用意が……」
香坂さんが奈良橋先生に声を掛けた。
書棚の向こうから、男が、つかつかと歩み寄ってきた。
「申し訳ございません、サイン会は終了しました」
松本さんがそう言いながら、男に近づいていく。
「動くな!」
野太い声が響き渡った。
なにひとつ、考える暇もなかった。
佐々江がはっと思った時、松本さんは男に抱え込まれていた。
その首筋には、鈍く光る大ぶりのナイフが当てられていた。
「……」
松本さんは、声も出ない。
男が叫んだ。
「店内に高性能プラスチック爆弾を仕掛けた。爆発させたくなかったら、俺のいうことを聞け!」




