第33話 エロエロの絵をくれ
「お嬢様が? 束見本を?」
「ええ。カバーは自分が作るから、早急に出してくれって」
束見本とは、実際の本と同じ紙を使った、同じ大きさ・同じ厚さの冊子のことである。
まだ、本ではないから、中のページは白紙である。
実際の本の体裁を確かめるほか、カバーを作る時にも使用する。
大河内の『文治の風/武士の覚悟』の印刷は、一乗寺グループ傘下の印刷所でされることになった。
全部で千部ほどだが、きちんと版を造り、オフセットで印刷する。
オフセット印刷は、印字が緻密で美しい。版があれば、大量印刷にも対応できる。
本来なら、カバー・帯まで一式、同じ印刷所に頼むべきものだ。
しかし。
何かを悟ったのか、動物的勘が働いたのか、不意に典子は、カバーだけは、自分の知っている印刷所を使いたいと言ってきた。
「そこの印刷は、とにかく美しいのです」
典子は言った。
「本当は、そこにまるごと頼むつもりだったのです。それなのに、お父様が、横槍を入れてきて……グループ傘下の印刷所を使えって。でも、せめてカバーは、ハイクオリティーの印刷でないとダメなんです」
一乗寺社長に言って、グループ傘下の印刷所を使わせたのは、もちろん古海である。
グループ傘下の印刷所なら、こっそり、BL版を、剣豪小説バージョンに差し替えることが可能だからだ。
典子に内緒で。
しかしここで典子は、束見本を寄越せと、要求してきた。
典子には、『文治の風』のBL版、『/忍ぶ恋』の打出しデータを渡してある。
彼女はデータを絵師に預け、カバー絵を依頼していたという。
もちろん、BLのデータである。
……いつのまに。
古海だけではなく、直緒にさえ、内緒の行動だった。
BL版の方は、電子書籍で売る許可を、著者の大河内先生から得ている。
BL版にも、カバーアートは必要だ。
しかし、それはあくまでも電子書籍であって、紙版ではない。
紙版は、剣豪小説の方なのだ。
典子には内緒だが。
古海が眉間に皺を寄せた。
「束見本を寄越せとは。本気で紙のカバーを作るおつもりですね。無難に抽象画にするつもりでしたが、まずいですね。お嬢様に任せたら、絶対、男同士が抱き合った萌え絵にしますよ」
「刷り上がった本をなんとか手にとらせないようにしても……」
その件については、古海と打ち合わせ済みだ。
「本に、自分が担当したのと別のカバーがついていたら、典子さん、絶対、おかしいって思いますよね」
「一乗寺建設創業110周年記念の祝典には、お嬢様もご出席されます。というか、それは義務です。記念品は、そこで渡されますから、本のカバーが違えば、確実に、ひと悶着起きます」
直緒と古海は、顔を見合わせた。
こうして仕事の話だと、古海と普通に話すことができた。
典子のいないときに、まとめて進捗状況を報告し合わねばならない。
余計な感情を介在させている場合ではない。
古海が顔を曇らせた。
「とりあえず、祝典当日までバレなければいいと思っていましたが」
「でも、いつまでも隠してはおけません。いずれバレますよ?」
「あとはノとなれヤマとなれです。全ては、一乗寺社長に丸投げします」
「それは少し、気の毒ではありませんか?」
「いえ。全ての元凶は、親バカの社長なのですから。こともあろうに、腐女子に、創立110周年の記念品を作らせるとは! いくら娘の機嫌を取りたいとはいえ」
「違います。気の毒なのは、典子さんの方です」
「そんなことはありません」
冷たく古海は言い放った。
それから、にわかに眉を曇らせた。
「いくら中身が硬派な剣豪時代小説でも、カバーがアレじゃあ……」
「絵師の先生におすがりしてみますか? 幸い、僕も面識のある先生です」
「それは助かる。お願いできますか?」
「ええ。よりソフトな絵柄にしていただけるよう、お話してきます」
「ところで、」
古海は、こほんと咳払いをした。
「その先生は、お若い方?」
「僕よりは上ですけど。古海さんくらいかな」
「ちなみに、男性?」
「ええ」
「ふうん。私も一緒に行きましょうか?」
「けっこうです」
子どものお使いじゃあるまいし。
直緒はちょっと、不愉快になった。
「あ。古海さん、ご存知ですよ、きっと。吉田ヒロム先生。ほら、あの、しあわせ書房の桂城さんと一緒にいた。個展会場で!」
……懐かしい。
直緒は思った。
モーリスでの、実質的な初仕事だった。
あの時、典子を監視する為に、古海は、こっそり直緒に、盗聴器をつけていて……。
「一緒に行きます」
きっぱりと古海が言った。
「え、なんで……?」
「吉田先生も桂城さんも攻めだと、あの時、貴腐人の方が……。お嬢様の大先輩のおばあ様が」
「古海さん」
この上もなく冷たい目で、直緒は古海を見た。
「変な心配はしないで下さい。それからはっきり言っておきますが、僕は、受けではありません」
「えっ!? ……じゃあ、まさか……」
「攻めでもありませんっ! つか、僕は、同性を、攻めたり受けたりするつもりは、全くありません」
「いや、そこは、慣れの問題で……」
「それから、『攻め』の対義語は、やっぱり『守り』だと思います、『受け』ではなくて。『攻守』というでしょうが」
「直緒さん」
古海は一歩前へ進んだ。
「キスしていいですか?」
「だめです」
あわてて直緒は、一歩退いた。
**
「それは、おもしろいね」
吉田ヒロムは、くすりと笑った。
「BLっぽくないBL画だね」
「ええ。横槍を入れるようで、先生には本当に申し訳ないのですが」
「いいよ。僕も、困ってたんだ。一乗寺さんは、とにかく、過激な絵にしろって……」
「え? 編集長が? 萌える絵じゃなくて?」
「うん、僕も変だと思ったんだけどね。モーリスさんの電子書籍は、知ってるから」
直緒の読んだ限りでも、モーリス出版社から出版されている本には、過激な性描写はなかった。
文学を目指すだけあって、美しくはあっても、扇情的ではない。
「それが、今回に限って、18禁でもいいから、見るからにエロエロの絵にしてくれって……、失礼、言葉は違うけど、とにかく、そういう意味のことを、編集長は言っていた」
「……」
やっぱり、典子は、勘付いたのだ、と直緒は思った。
考えたくないけど、義元が、バラした?
直緒の「キス」では不満で?
実際、典子のメイドには、それはキスではないと、ばっさり切り捨てられたし。
ヒロムは続けた。
「でも、僕自身は、裸の人体を描くには、まだ、デッサン不足だと思うんだ。一度、どこかの医学部へでも潜って、筋肉の付き方を、きちんと学ばないと」
そこまでするんだ、と、直緒は感心した。
……プロは、すごいな。
「……なにか、あったの?」
ヒロムが、心配そうな眼差しを向けている。
「いえ、」
古海と相談してきた通りに、直緒は否定した。
ここで、絵師の先生まで巻き込むことはできない。
「著者の先生のご要望なんです。どうも、編集長が先走ってしまったようで」
「ああ、そうか。そうなの。あの、『忍ぶ恋』、おもしろいね」
「そう、思われます?」
直緒は嬉しかった。
「うん。若侍が、とても色っぽかった。時代考証もしっかりしてるし、失礼ながら、電子版のBLにしておくには、もったいない」
「いずれ、紙の本にします」
うっかり直緒は言ってしまった。
「電子版だけでなくて。そして全国の書店の文芸の棚に並べてみせます」
「いずれ?」
「あ……」
……そうだった。
……ヒロム先生には、「紙の本のカバー絵」をお願いしてるんだった。お渡ししてあるデータは、BL版「忍ぶ恋」。
でも実際、今回、紙の本になるのは、「武士の覚悟」の方だ。
だから、表紙絵も、無難なものを描いて頂きたい。
「忍ぶ恋」の方は、まずは、電子書籍として、モーリスで売り出す。モーリスとして紙の本の印刷をするだけの設備は、まだ、調っていない。
ヒロムが頷いた。
「いいよ。何か事情があるんだろ。ギャラは充分もらえるし、僕は構わない。そっちの方向で頑張ってみる」
「ありがとうございます」
「君が来たことは、もちろん、一乗寺さんには内緒なんだろ?」
「そう願えれば……」
「うまくやるさ」
ヒロムは右目をつぶった。
**
「バレてますね、それは」
暗い目をして、古海は言った。
「お侍が二人、ひっついているイラストくらいは覚悟していたのですが、エロ路線とは……」
首を横に振った。
「絶対、バレてます」
帰社すると、典子の姿はなかった。
夏を前に、また、美容院へ送り込まれたのだ。
古海は、モーリスのパソコンの前に座っていた。
典子のいない隙に、印刷所へ渡す「武士の覚悟」データの最終点検をしていた。
「……すみません。僕のせいです」
「え?」
本当はいやだった。
しかし、黙っているわけにはいかないと、直緒は思った。
黙っていたら、義元一人が、悪者になってしまうだろう。
直緒は、義元とのことを話した。
古海は、くすりと笑った。
「笑わないで下さい、古海さん」
直緒はむっとした。
「いや、だって、」
古海は、キーボードから手を離した。
ほんとうにおかしそうに、立ったままでいる直緒の顔を見上げた。
「ほっぺにチュッ、ですか。あのお子ちゃまの? いや、これは愉快」
「ちっとも愉快じゃありませんって。僕、いいようにもてあそばれた気がします」
「まあ、ちょっとくらい、遊んでおあげなさい。ただ……」
そう言って、じっと直緒を見た。
「本気はダメです」
「はあ? 本気? 何言ってるんですか、古海さん。大事な作家の息子さんに」
「そうです。彼は、大事な作家の息子さんです。それだけの関係です」
「そうですよ?」
「ただの甘ったれの、体だけおとなだくせに、3歳児とさほど変わらない精神構造……それが、ヒトの大事なものに手を出そうなんて、百年早い……」
わけのわからぬことを、暗い目で言い募る。
直緒はあとじさった。
「どうしたんですか、古海さん? 変なスイッチが、入っちゃったとか?」
「いいえ」
古海は咳払いした。
夢から覚めた人のように続ける。
「読者の目を最初に引くカバー絵を、好きな絵描きさんに描いて頂けたのです。お嬢様も、本望でしょう」
「ですが、カバー絵は、僕が口を出して変えてもらいました」
「お嬢様も了承したのでしょう?」
「ええ、それは、まあ、絵師の先生がうまく言ってくれたので」
「お嬢様は、ゲラで読んでるんだから……もちろんBL版のほうですが……、できあがった本なんて、お読みにならないでしょうし」
「いや、その計画はどうでしょう……」
「前にも言いましたが、お嬢様には、いずれはバレる、バレてもいい、くらいの気持ちでおりました。少なくとも、一乗寺社長は、『文治の風/武士の覚悟』に、大変満足なさっておられます。本ができてしまえば、こっちのもの。お嬢様がいくらお怒りになられても、手遅れというものです」
「しかし、やっぱり、典子さんがかわいそうで……僕、裏切ってるのかと思うと……」
「ですから、直緒さんが罪悪感を抱く必要は、毛頭、全く、全然、ありません。そもそも、大財閥の110周年記念にBLを配布しようなんて思う方が、邪悪なんです」
「……」
「いやがる作家を、恐喝してまで」
「……」
「ある意味、今の段階でお嬢様に知られてしまったのなら、ラッキーだったかもしれませんね。我々の気持ちも、軽くなるというものです」
古海も、多少なりとも、典子に対して罪悪感を抱いていたのだろうか。
直緒は少し、意外に思った。
「しかし、まだ、バレたと決まったわけではありません。ことを急がねば。隠密裏に、なおかつ、慎重に」
「……古海さん?」
「大丈夫、直緒さん。私にお任せください。なにしろ、あなたとの、初めての共同戦線です。必ずやこのミッションを成功させてみせますとも。ええ、ええ、お嬢様に勝利してみせます!」
吉田ヒロム先生は、絵本専門の挿絵画家でした。ほのぼのとした作風です。それを、典子が強引に口説いて、BLイラストを描かせているのです。次話で出てくる絵本編集者の桂城氏と併せて、この辺りの事情は、2章「攻め×攻め+当て馬」に出てきます




