第31話 人の告白を忘れるな
大河内先生は、BLを書くことを承諾して下さったが、直緒は、すっきりしなかった。
何より、あの説得の仕方では。
典子の説得は、半ば、恐喝ではないか。
私立探偵を雇って、息子の性癖を調べ、それをネタに脅すなんて。
しかも、直緒自身、エサとなって、息子義元の目の前に吊るされたのだ。
その上、その上だ。
自分は、エサとして機能してしまった……。
ショックだった。
だが、それ以上に、先生は、BLの素晴らしさを納得して、承諾して下さったのではない。
そこが、直緒には、引っかかっていた。
幸い、モーリス出版の仕事は、比較的落ち着いていた。
進行表を見ながら、典子がつぶやく。
「直緒さんはしばらく、大河内先生のフォローに専念ね。くりいむメロン先生の原稿がまだ上がっていないから、余裕、あるでしょ」
「メロン先生の担当、僕に任せて下さるんですよね!」
くりいむメロン先生は、初めて直緒が惚れた作家さんだ。
最初の原稿依頼には、直緒が行った。
その時には断られてしまったのだが、結局、先生は、依頼を受けて下さった。
「もちろんよ。でもまあ、先生もお忙しい折だから……」
典子の言い方は、妙に歯切れが悪い。
「僕に手伝えることがあったら、なんでもします!」
先生の作品に救われた直緒だ。
次の作品を、本当に心待ちにしているのだ。
しかし典子は言った。
「あら、だめよ。だって、メロン先生は新婚さんでしょ?」
「あ……」
「気長に待ちましょ」
そういうわけで、直緒は、大河内先生の元へ、足繁く通い続けた。
家政婦さんは、いつも歓迎してくれた。
行くたび、露骨に体……指先や肩の辺り、髪など……に触れてくるのには、閉口したけど。
大河内自身は、さすがに、玄関先で突き返すということはなくなった。
渋い顔をして、直緒は見る。
……疑われてるな。
直緒としても、そう思わざるを得ない。
しかし、自分から、僕は男に走ったりしてません、とは、言いにくいものがある。
女性が好きです、って言うのもまずい気がする。
「……君は、義元のこと、どう思うか」
ひとしきり、原稿の進み具合を確認した後、大河内が尋ねた。
さり気ない風を装ってはいたが、声が、微かにかすれていた。
「おうちに帰ればいいのに、って思います」
シノプシスのノンブルをそろえながら、直緒は答えた。
本心だった。
「なぜ?」
「だって、こんなに愛してもらってるのですから」
「愛して?」
「あ。変な意味に取らないで下さいよ。お父さんの先生が、息子の義元君を、です」
「変な意味になど、取るものか。君も、あんな編集長の下で働いていると大変だな。……私が、息子を愛している、と? そんな風に見えるのかね?」
「ものすごく腐っているけど、これ以上ないくらいピュアな人ですよ、うちの編集長は。……だって、先生は、義元君の為に、この企画を受けて下さったのでしょ? 彼のプライバシーを穿鑿されない為に」
「あのお嬢さんは、危険だ。君も、親からもらった体は、大事にしろよ。……私は、君が思うほど、いい親ではなかった。父親が剣豪小説を書いてるせいで、ひ弱なあいつは、よくいじめられていたらしい」
「典子さんは、仕事熱心なだけです。本当は、素敵な女性なんです。腐ったヒモノだけど。……義元君は、ひ弱なんかじゃ、ありません。優しいだけですよ」
「君は、しっかりしているな。一本、スジが通っている。時代小説を愛するおじいさんに育てられたせいだろうか。……そんなあいつに、私は、いじめられたら、やり返してこいって、言ってしまった。やり返してくるまで、家には入れない、と」
「そんなことが」
直緒は言った。
「でも、多分、彼はもう、気にしていませんよ」
「なぜ、そう思う?」
「彼、とてもおしゃれだったし。僕へ声をかけるのも、凄くスマートだった。まるで知らない人間なのに。彼は多分、自分を受け容れたんですよ」
「自分を? 受け入れた?」
「だから、親を受け容れるのも、もう、すぐです。そう、思いませんか?」
「私が、こんな小説なんか書いてなかったら、あるいは、義元の人生も違ったものに……今もこの家で、一緒に暮らしていたかもしれない」
「そんなこと……」
うな垂れる作家を前に、直緒は、何と言っていいか、わからなかった。
**
二度と来ることはないと思っていた店の、重いドアを、直緒は開ける。
止まり木に近づくと、バーテンダーが、笑顔を向けた。
すぐに、仏頂面になる。
「大丈夫。今日は一人だから」
直緒が言うと、安心したようにシェーカーを振り始めた。
義元は、前と同じスツールに座っていた。
直緒は、その隣の席に滑り込む。
ジントニックを注文した。
「口説いてるの?」
義元が言った。
「なぜそう思う?」
「前と同じ。もじもじ、もじもじ。あなたね。気をつけた方がいい。その態度、口説いているようにしか、見えないから」
「口説いているんだ」
「……え? まさかフられたの? あの女のコの話では、すごく素敵な恋人がいるってことだけど」
「典子さんの言うことは、真に受けない方がいい」
「じゃ、とうとう、下になる決心がついたとか?」
「違う! そういう話じゃない!」
直緒は思わず、大声を出してしまった。
バーテンダーに睨まれた。
「……じゃ、上? 僕、あなた相手に、下は、ちょっと……」
「違うったら」
直緒は言った。
「大河内先生が……君のお父さんが、今、困ってらっしゃる」
「あんなやつなんか……」
「うちの会社で、BL作品を頼んでね、」
「……ケッサク!」
「時代小説BLだ。うちとしても、新たな可能性への挑戦になる」
「マジか?」
「新しい読者を開拓するんだ。BLを文学に。それが、僕らの目標なんだ」
「……」
「先生、書けないで困ってる。知らないことが多すぎて」
「そりゃ、そうだろうよ……」
「でも、君には、知らない世界じゃないよね」
「……」
「君のよく知っている世界だ」
そこから先のことは、直緒は知らない。
ただ、何日か経って、再び大河内宅を訪れると、息子の義元がいた。
応接間いっぱいに、父親と二人で、本やら紙やらを広げていた。
直緒が声をかけると、そろって、こちらを向いた。
よく似た顔が二つ、笑みを浮かべていた。
**
「あら、いらっしゃい」
もう脱稿も近いという頃。
直緒が大河内邸を訪れると、転がるようにして、家政婦さんが出てきた。
「あのねあのね。すごいイケメンが来てるの!」
ひどく興奮している。
家政婦は、かなり高齢だ。
血圧が、直緒は、心配になった。
「イケメン? 義元君の友達ですか?」
「ちがうちがう。あの人、モッチーの知り合いでしょ?」
不本意だが、モッチーとは、直緒のことである。
「本谷」という姓が、どうすれば、モッチーになるのか謎だったが、とにかく、この家政婦の頭の中では、そうらしかった。
年寄りのことだから、多少のことは、大目に見てやってくれと、大河内先生に言われている。
「君が担当で、よかったよ」
しみじみと、大河内は言ったものだ。
「おかげで、彼女も、幸せな老後を送っている」
軽く、直緒は失望した。
どうせなら、編集者としての力量を褒めて欲しかった。
大河内は続けた。
「なにせ、妻が死んでから、ずっと、私を支え続けてくれた女性だからな。幸せでいてもらいたいんだ」
「そりゃ、なによりです。でもなんで、僕が担当だと、先生の家政婦さんが、幸せになれるんです?」
「彼女は、美男子が好きだからな。君は、ほら、他に類を見ない、二枚目じゃないか」
あるいは、義元が男に走ったのは、この家政婦に育てられたからかもしれないと、直緒は密かに思ったものだ。
家政婦の鼻息は荒い。
「あんなイケメンの知り合いがいるのに、モッチーったら、水臭い。もっと早く、連れてくればよかったのに」
「いったい誰が来てると言うんです?」
「印刷とかの話をしてたわよ。モッチーの仕事仲間でしょ?」
さては、時代小説の版元に嗅ぎつかれたか?
直緒はひやりとした。
BL出版社が原稿を依頼していることが知れたら、要らぬ横槍を入れてくるかもしれない。
「ヨシ君も来てるの。みんなで、座敷にいるわ」
お茶を淹れ直すという家政婦と別れ、直緒は、一人、応接室に向かった。
さわやかな季節のことで、障子は開け放されていた。
庭の緑が濃く映る和室にいたのは、大河内と、義元と、そして……。
そして……。
直緒は、心臓が止まる気がした。
黒いスーツに、短い黒髪、銀縁の眼鏡が薄く光を反射している。
端然と正座して、座卓に広げられた資料を見ていた。
直緒の呼吸が浅くなり、頬が紅潮した。
大河内が、ちらりとこちらを見た。
「わしはやっぱり、本谷君に内緒で、これ以上進行させることはできない」
そう黒服の青年に告げた。
「もし、どうしてもというのなら、私は降りる」
古海の目が、まっすぐに直緒を射すくめた。
それから先のことは、大河内が説明してくれた。
一乗寺建設創業110周年。
その記念品として、典子の父、一乗寺社長は、自分の好きな作家に、本を一冊、書いてもらうことにした。
白羽の矢が立ったのは、時代小説家の、大河内要だ。
しかし、なにをトチ狂ったか、この親馬鹿社長は、その本の編集を、娘の典子に一任したのだ。
もちろん、典子は、大河内に、BL小説を依頼した。しぶる大河内に、多少、手荒な手段を用いて、BLを書くことを承諾させた。
その間、古海が全く異議を申し立てなかったのは、おかしいと言えば、おかしかったのだ。
典子は、もっと疑ってかかるべきだった。
古海は、陰で暗躍していた。
すぐに大河内にコンタクトを取り、普通の剣豪小説を依頼した。
紙の本になり、一乗寺建設の創業記念として配られるのは、当然、剣豪小説の方だ。
BL本ではなく。
「そんなの、典子さんにバレないわけ、ないじゃないですか!」
思わず、直緒は叫んだ。
「バレてもいいんです。本さえできてしまえば、お嬢様が、後から、泣こうが喚こうが」
冷酷極まりない顔で、古海が答えた。
「由緒ある一乗寺グループの創業記念に、まさか、BL本を配布するわけには、いかんでしょうが」
「ですが!」
「一乗寺社長だって、BLが何かわかれば、きっと、お止めになったはずです」
「でも、……だからって。全て内緒で……」
「敵を騙すには、まず味方から。とは申せ、本谷さんには、本当に、申し訳ないことを致しました」
「……ひどい。古海さん、ひどいです……」
今も、大河内の原稿を楽しみに、会社で待っている典子のことを、直緒は思った。
時代小説BL。
新しいジャンルへの挑戦だと、目を輝かせていた典子。
時代小説ファンを根こそぎもってくるのだと、闘志を燃やしていた……。
「本谷君。君を騙していたのは、私も同じだ」
大河内が言った。
「古海君は書かなくていいと言ったが……。私からのお詫びだ。一乗寺家の原稿とは別に、お嬢さんへ渡すのは、ちゃんと書いた。ご注文通りのやつだ」
「先生、それって……」
「親父は、BLを書いたんだよ」
それまで黙っていた義元が口を挟んだ。
とても誇らしげだ。
大河内が頷いた。
「これを、モーリスから出して欲しい。もちろん、大河内要の名で。そして……」
ちょっとためらった。
「協力者に、息子の名を添えて欲しいんだ」
「親父……」
「うむ。お前もペンネームを考えるか?」
「そうだね。今河義元じゃ、かえって、嘘っぽいもんね……」
直緒は、胸がいっぱいになった。
「君は、フリーの編集者に外注すると言っていたけど」
大河内が、古海に言った。
「私は、本谷君に、原稿のチェックをお願いしたい。お嬢さんの分はもちろん、一乗寺家に渡す方も。両方とも最後まで」
古海が、ぱっと顔を輝かせた。
だが、一瞬だけだった。
直緒がはっとしたときは、もう表情を消していた。
無表情のまま、彼は頷いた。
大河内が直緒に向き直った。
「どうだ、本谷君。やってくれるか? それとも私は、君の信用を失ってしまったのだろうか」
「光栄です」
本音が、言葉になって零れた。
直緒の声は震えていた。
**
印刷所へ行くと言って、古海は、早々に退席していった。
大河内も書斎にこもり、義元だけが残った。
「でも彼は、野獣系じゃないよね」
二人きりになるのを待っていたように、義元がささやいた。
納得いかない、という表情だ。
「あの人は、襲いかかるタイプじゃない」
「当り前じゃないか」
びっくりして直緒は言った。
「古海さんは、そんなことはしないよ。てか、野獣系って、なんだよ」
「典子さんが、親父に言ってたそうだよ。本谷さんには、野獣系で頭の切れる恋人がいるって」
「だ、誰だ、それは?」
「とぼけなくてもいいじゃん。でも、僕、言ったよね。恋人が少しでも隙を見せたら、奪いに行くって」
「……覚えてない」
「言った。言ったから!」
そういえば、もうひとつ、懸案事項があった……。
直緒は思い出した。
だが、久條の所へ出向くのは、まだ先の話だ。
だいたい、企画自体が、まだ、まとまっていない。
実録物でないのだけは、確かだが。
大河内先生の、表と裏、二冊の本。
それから、くりいむメロン先生。
久條は、その後だ。
とりあえず、先送り。
その間は、忘れる。
それが、編集者としての、直緒の処世術だった。
「人の告白、忘れてんじゃねえよ」
傍らで、義元がすごんだ。




