第29話 僕が最初の男になってやる
ちら、と、カウンターの隣を見た。
ふんわりした髪が、下の方で癖を隠しきれないという風に跳ねている。
年齢は、直緒より少し下くらいだろうか。
伏せた瞼の、まつ毛が長い。
……でも、男。
典子は、この男の子を口説いて来いといった。
その間に、大河内先生と話をしておくからと。
直緒には、わけがわからない。
……わたしににまかせて、とか言っといて。
……結局また俺に、わけのわからない指令を……。
しかし。
直緒は、典子についていくことに決めた。
決めたのだ。
男に二言はない。
典子には典子の、何か深い考えがあるのだろう。
……ないかもしれない。
……ただ、腐っているだけなのかも。
いや、あるはずだ。
モーリス出版を立ち上げ、ここまで引っ張ってきたのは、典子なのだから。
……自分は、典子さんを信じる。
……|多くの人が楽しんでくれる本《BL》を作って、少しでも、本の世界に貢献するんだ。
カウンターの向こうから、バーテンダーが、丈の低いグラスを滑らせてくる。
手持無沙汰で頼んだジントニックだ。
……お酒の種類なんて、他に知らないよ。
直緒は、泣きたい。
割り付けやら校正やら進行管理やら。
愛しい実務の世界を離れると、実直な実務編集者には、全くのアウェーである。
その上。
その上、口説かなければならないなんて。
男を。
……いったいどうやって。
過去、自分から女性に声をかけたことさえ、直緒にはない。
交際経験がないわけではない。
奥手だったから、高校時代までは、そういう経験はなかった。
大学に入ってからは、女性の方から声をかけてきてくれた。
その一人が、小島みなみだ。
みなみのことは……もう、いい。
……思い出すんだ。
……女性達はなんといって、自分に声をかけてきたか。
数少ない恋愛の在庫から引っ張り出す。
……お茶しませんか。
すでにバーの止まり木に並んで座ってるし。
……メアド、教えてくださいっ!
って。いきなり?
……ねえ、ここ、ちょっと教えて。
だから、何を?
だめだ。
共通の話題がない!
「何か僕に用?」
「へ?」
「用があるんでしょ?」
「……」
「さっきから、もじもじ、もじもじ。あなたね、まるわかり」
くるんと、スツールごと、こちらを向いた。
「いいよ。僕は今河義元。本名だよ」
「あ……俺……、僕は、本谷直緒」
反射的に名乗ってから、直緒は、はっとした。
……いいよ?
……いいよ、って?
「で、どっち?」
「はい?」
「あなた、随分、華奢だね。それに、きれいな顔してる。僕はいつもは下だけど、あなたが相手なら、上がいい」
……華奢?
……きれいな顔って?
……上がいい、って!?
「さ、行こうか」
「ど、どこへ?」
「ホテル」
「いや、ちょっと、あの……」
「なんでよ。先に誘ってきたのは、あなたでしょ」
「あ、あ、あ、」
「行こうよ。早く!」
「い……」
救いを求める思いで、直緒は、典子のいるブースを見た。
ここからは、大河内先生の姿は見えない。
奥の座席に座った典子が、伸び上がってこちらを見ているのが見えた。
「だれ、あれ? 女?」
義元が、直緒の肩に顎をつけるようにした。
直緒と同じ方向を見ている。
直緒は慌てて体を引いた。
「あれはっ、僕の上司で。そうだ! 今日は、接待でここに来ているわけで……」
「上司の女。あれが。はっ! わかるよ。気晴らししたくなるのも、無理はない」
「……」
「だいたい、ああいう女が土足で踏み込んで来るから、僕らのリアルの出会いの場が減っちまうわけで」
「ああいう女、言うな」
低い声で直緒は言った。
「典子さんのこと、悪く言うな」
「……あんた、ノンケ?」
不思議な生き物でも見るような目で、義元は、直緒を見た。
「……」
「……」
暫く二人は、無言で見つめ合った。
「いいよ、ノンケでも」
先に口を開いたのは、義元の方だった。
「僕が最初の男になってやる。さあ、行こう」
「だから、何でそうなる!」
「あなたから誘ってきたんじゃないか」
再び義元は、直緒に顔を近づけてきた。
「さあ、行こうよ」
ふっと、耳元に息を吹きかける。
ぞくりとした。
「義元」
声が降ってきた。
聞いたことのある声だ。
「お前……そこまで腐っていたか」
……いや、腐ってるのは、うちの編集長で……。
「親父!」
直緒を覆っていた影が、ぱっと離れた。
隣のブースに座ったまま、立ちはだかる年輩の男と睨み合っている。
「大河内先生。なぜ?」
もはや直緒は、大混乱である。
「直緒さん、大丈夫?」
ひそやかな声がした。
典子だ。
典子までが、カウンター席に出張ってきている。
「いや、典子さん、何がどう……」
わけがわからない。
「落ち着いて。ほら、飲んで」
典子が差し出すグラスを一気に煽った。
むせた。
「典子……さん。これ……」
「あらあ。間違えたわ。水じゃなかったのね……」
「困りますねえ、お客さん」
カウンター越しに、バーテンダーが露骨なまなざしを送ってきた。
「ここは、みなさんが楽しむところですよ。派手な立ち回りはご遠慮下さい。せっかく、ガイドブックに載ったというのに」
「ごめんなさい」
典子が頭を下げた。
素早く、バーテンダーの耳に何事かささやく。
広告業界のコネが、とかなんとか、ちらりと聞こえた。
バーテンダーは渋い顔をした。
「せめて、ブースにお戻り下さい。他のお客さんのご迷惑になる」
「ふふ」
ブース席に座って、典子が笑っている。
両手をソファの柔らかな座面に突いて、本当に満足そうに、笑っている。
「義元さんが、うちの本谷を。そうですか。うふふ」
「先に誘ったのは、お宅だろ」
「誘ったわけじゃ……」
直緒は言葉を濁した。
……あれを、誘ったといえるのか?
……隣に座っただけじゃないか。
そもそも。
「そ、それは、の、の、典子さんが……」
「ああ、駄目じゃない、直緒さん。酔っぱらっちゃって」
典子が直緒の手を、ぐい、と引いた。
あっけなくバランスを崩し、直緒は、前へつんのめった。
そんな二人を、義元が険しい眼差しで見た。
「あんた、この人の上司だってな」
「ええ、そうよ。モーリス出版の編集長。うちの大事な社員に手を出さないでね。この人、ヴァージンなんだから」
「典子しゃん!」
思わず直緒は叫んだ。
回らぬ舌で、懸命に抗議する。
「その言葉の使い方、間違ってまふ。ヴァージンの日本語訳は、『処女』でふ。僕は男だから、ヴァージンじゃ、ありません!」
「えっ! 直緒さん、ヴァージンじゃないの!? さすが久條先生、なんて仕事が早いのかしら!」
「違いまふ! いえ、確かに久條先生のお仕事は早いでふが……でも、僕と先生とは、何にもありません!」
「ほらね。この人、手つかずよ」
「当たり前だろ」
憮然として義元が答える。
「たった今、僕が、最初の男になってやるって約束したばかりなんだから」
「ちょ、ちょ、ちょ、何言……」
もつれる舌を、なんとか動かそうとしていると、刺すような視線を感じた。
恐る恐る、斜め前の席を見る。
義元の父親である大河内の顔は、どす黒く染まっていた。
まさに憤怒の形相である。
……まずいな。
……まずいよ。
……これから原稿を依頼する先生を、怒らせてどうする。
ちなみに、大河内要というのは筆名で、本名は、今河という。一字違いの、駿河の武将、今川義元の名を、息子につけた。
作家の息子は家出中だと、大河内の家政婦は言っていた。
その原因は、どうやら息子の性的嗜好だったようだ。
例の私立探偵を使って、典子はそこまで調べ上げた。
それから、彼の行きつけの店を探し出した。
そこを、父親の接待に使うとは……。
黒い笑いを、典子は浮かべた。
「……で。お二人は随分お久しぶりなんでしょ? せっかくの父子の再会ですもの。ささ、どうぞどうぞ」
キープしたボトルから、両サイドに座った父と息子に酒を注ぐ。
「では、再会を祝して」
険悪な雰囲気だ。
「そう言われれば、目元の辺りが少し、似ていらっしゃいまふね」
雰囲気を何とか和らげようと、直緒は必死でとりなした。
大河内先生が、じろりと直緒を見た。
「少しはデキる奴かと思ったら、お前も、こいつの同類か」
「同類とは?」
「男同士で汚らわしいことをする奴だ」
「違いまふ」
「汚らわしいとはなんだ!」
直緒の声に被せるように、義元が叫んだ。
「親父がそんなんだから、俺は……」
父親は完璧に、息子を無視した。
「男色は、犯罪だ。日本には、そういう法律もあった」
「へえ、そうなんですか?」
典子が身を乗り出した。
「うそ」
「嘘なもんか。明治五年に発令された、『鶏姦条例』だ。実際に懲役刑が科されたんだぞ」
「でもそれは、同性愛そのものを禁止したわけじゃない。そもそもザル法で、7年後の旧刑法の施行をもって、完全消滅した」
しっかりとした声で反論したのは、義元だった。
「それ以前も以降も、日本では、同性愛は禁止されていない」
「イスラムでは、」
息子を睨みすえ、大河内が言葉を継ぐ。
「男の同性愛は、厳しく罰せられる。石打の刑は、特に過酷な死刑だ」
「……親父、何が言いたい?」
「同性愛は、自然の摂理に逆らった不自然な行為だということだ」
「あら、それ、違いましてよ」
気取った声を出したのは、典子だった。
「典子しゃん……だ、黙って。あなたが口を出ふと……」
直緒は言ったが、うまく口がまわらない。
全員から無視された。
何も聞かなかったように、典子が続ける。
「野生のゴリラで、オス同士の交尾が見られたそうですよ。ボノボは、同性の間で、挨拶代わりに、イチャコラしてますし」
「イ……イチャコ……」
大河内が呻く。
「ある種のお魚では、群れのオスが死んでしまうと、一番体の大きなメスが、オス化して、ハーレムを乗っ取り、やり放題なんですって。逆に、生まれた時は全員オスで、その後、メスになって、若い男のコを、よりどりみどりという幸せな……」
典子は絶好調だ。
野生のゴリラの話は、どこかで聞いたことがあると、直緒は思った。
……どこだっけ?
……いや。そんなことはどうでもいい。
ふわふわする頭で、直緒は考えた。
……黙らせなくては。
……典子さんを暴走させないと、約束した。
……あの人と。
「で?」
冷たい声で割って入ったのは、大河内だった。
典子は、にっこり笑った。
「性の違いに、大した意味はないということです」
「……は?」
「男も女もない。好きになったら、好きだってことなんです」
「男だから、父親だからって、威張ってんじゃねえ、ってことだよ」
乱暴な口調で、義元が言った。
立ち上がった。
典子を見下ろし、言った。
「あんた、見直したよ。いろいろ、知ってるんだな」
「全部、教えてもらったことですけど。ごく最近」
「ゴリラや魚の話?」
「ええ」
「好きになったらって、トコも?」
「ええ、そこも」
「誰に?」
典子は意味ありげな目線を、直緒に送った。
「ああ……」
何かを悟ったように、義元は頷いた。
「そんな人がついてるんじゃ……、仕方ない、僕、この人、諦めるよ。でも……。彼に言っといて。少しでも隙を見せたら、奪いに行くって」
「きゃーーー、そのセリフ、貰っていい?」
「……の、典子しゃん。鼻血……」
一乗寺家の令嬢に、人前で鼻血を出させたままにしておくわけには……。
慌てて直緒は、……しかし緩慢な仕草で……自分のハンカチを差し出した。
**
「だから、センセ。書いてくれますわね」
ぐらぐらと、直緒はもはや、上半身の直立を保っていることさえ難しい。
が、ここで意識を手放すわけにはいかない。
義元が立ち去った後、典子による、大河内先生説得が始まった。
「剣豪小説で名高い、天下の大河内先生のご子息が……」
「あいつは、他人だ」
「こともあろうに、うちの社員、カッコ・男性・カッコ閉じ、に手を出そうと……」
典子の声が聞こえる
耳が熱い。頬が熱い。
体全体から、熱を発している。
「二丁目のバーで立ち回り」
「わかった。書く! 書くから!」
眠い。目を開けていられない。
でも、眠ってはいけない。
……俺にはまだ、大事な使命が。
……あの人と約束した、大事な……。
「まあ! それでこそ、大河内先生。男前ですわ。それで、うちが、ナニを出版しているか、わかってらっしゃいますよね?」
「それも踏まえて書く。と言いたいところだが、書けるだろうか」
「大丈夫ですよ。さっき、本谷が話してたでしょ? なんだかムズカシイ話だったけど、人の名前とか、もうすこし、易しくして頂ければ」
「徳川綱吉と柳沢吉保か?」
「舌、噛みそうです。たとえば、ツナちゃん、ヨシ君とか。あっ、それだと、将軍の方が受けですねっ! 年下従者攻め、どうですか?」
「……そういう世界は、わからん」
「困りましたねえ。本谷をお貸ししたいところですけど、」
「資料集めにか? 神保町の古本屋を回ってほしいところだ。確かに彼は、仕事熱心だから、」
「……生憎、先約済みでして」
「それは、残念。……なあ、一乗寺さん。うちの義元と、この彼の間には、本当に、何もないんだろうな」
……ありません!
……つか、今日、会ったばかりです!
……それから典子さん、先約って、ナンですかっ!
抗議したいが、舌がもつれて声が出ない。
「ふふふ」
典子がまた、黒く笑っている。
「うちの本谷は、いささかカタすぎるくらいまじめな人材です。彼を落とすには、それはもう、筋力知力、野獣並みでないと無理と思われます」
「悪知恵はともかく、義元には、体力はないからな。あいつは、軟弱な男だ」
「あら、でも、光栄に思っておりますわ。義元君の審美眼に叶ったなんて」
誰が光栄に思ってるんだ!
直緒は叫びたいが、声が出ない。
「義元などという名前をつけたのが悪かったのか。うちの苗字は今河だし。今川義元。わが郷土のお館さまなのだよ」
「先生、ご出身はどちらなんです?」
……典子さん、それを知らないで時代小説なんて、モグリというものです……。
「……駿河だ」
「駿河県なんて、あったかしら」
「静岡県だよ!」
「もちろん知ってますぅー。お茶。みかん。サッカー……」
「蹴鞠、な。確かに今川義元……駿河の武将の方だ……は、蹴鞠が好きだったらしい。軟弱な貴族趣味だと揶揄されるが、それよりなにより、彼は、東海一の弓取りと異名をなすほど、勇猛果敢な武将だったのだ」
「えと……」
「だから、息子の名前に選んだ。それなのに、男になんぞ走りおって。軟弱者めが」
「いいじゃないですか。ね、先生。素敵なBL時代小説を、お願いしますよ」
「あんたらメディアがそうやって煽るから、義元は……」
「どのみち、今回のことが公になれば、義元君も無傷ではいられないわけですから」
「……」
「先生の読者さんは、どう思うでしょうねえ」
「……わかった。ちゃんと書く。だから、あいつにだけは、手を出すな」
「確約ですね。きゃっ。先生、大好き!」
……典子さん、駄目です。
……暴走しては、駄目……。
**
「お嬢様。お車が用意してございます。なにもハイヤーなど、お呼びにならなくても」
「げ、古海。なぜここに……」
「ああ、運転手さん。悪かったですね。これを……」
「古海、あなた、どこから湧いてきたの?」
「湧いてきたとは、お言葉ですね。この辺りを流しておりました。なにしろ、車を止める場所が皆無でしたので」
「2時間も? 2時間もずっと、この混んだ道路を、のたのた走っていたの?」
「御意」
「……あきれた」
「その言葉、そっくりお返ししますよ、お嬢様。御自分の部下を。酔い潰して。いったいどこへデリバリするおつもりだったのですか?」
「デリバリ? 変なこと、言わないでよ。わたしはただ、酔いつぶれた直緒さんを、おうちへ送り届けてあげようと……」
「久條先生のおうちでしょ。それに、酔いつぶれた、ではなくて、酔いつぶした、ですよね? いったいどういうおつもりですか?」
「わかってるでしょ」
「わかりません」
「はああぁぁぁ。古海。あなたにも、少しは、モーリスの仕事を手伝わせてあげてるわよね?」
「はい、私は、自分の業務に全く関係がないにも関わらず、お嬢様のお仕事のお手伝いをしております。有害指定寸前図書の制作の」
「……。そしたら、わかるでしょ? 久條先生のお仕事よ」
「わかりませんね、ちっとも」
「もうっ! 実録モノよ! それが、あの先生が、モーリスに書いて下さる作品なの! だから、わたしは、先生に完璧な取材をして頂く為に、」
「その計画は、お止めなさい。私が、許しません。ったく。一乗寺家の令嬢ともあろうお方が、やり手婆のような真似を……」
「わたし、ババアじゃないもん」
「そこですか。22歳といったら、立派なババアですよ。江戸時代だったら、ネコマタです」
「……?」
「この際だから申し上げておきますけどね、お嬢様。腐ったままお年を召されていくと、大変なことになりますよ」
「大変なことって、どんなことよ」
「男性の大半から、相手にされなくなります。女性だって、」
「構わないわ」
「はい?」
「萌えさえあれば」
「萌え、でございますか?」
「そう、萌えよ」
「……。だから、他人を巻き込むなということです。家令や仕事仲間、特に部下を」
「……」
「……」
「あのね、古海」
「なんです?」
「腐ったままお婆さんになったらね。わたし、すごく幸せだと思うの」
「(ため息)そうでしょうね。ええ、そうでしょうとも」




