第27話 アレはクセになるから
まさか。
まさか本谷さん……、
典子と古海の結婚を匂わせた時の本谷の顔を思い出して、もなみは眉を顰めた。
最初、もなみは、本谷は典子のことを好きなのだと思っていた。
ヒモノで腐女子であることを除けば、典子は、フツーにかわいい。
古海の努力の甲斐あって。
本谷は、ある程度、典子の正体を知っているはずだ。それでも、まだ、夢を捨てきれていない部分があるらしかった。
だって。
好きでもない人の為に、早朝出勤して、ダンスのレッスンに付き合うとか?
好きでもない人の為に、女装して、男とダンスを踊るとか?
しかし、後からよく考えてみると、それらは、自発的な行為ではない。
ことごとく、典子にはめられている。
ダンスは、敵前逃亡した典子の為に、講師の神田に無理やり仕込まれただけだ。
ドレスだって、典子が奸計を用いて、陰でこそこそ作らせた物だ。
本谷は、典子と話していると、時々、真っ赤になることがある。
それが、本谷の典子への気持ちの表れだと、最初、もなみは思っていた。しかしある日、近くでその会話を聞いて、誤解だと悟った。
……あれは、まごうことなき、セクハラ。
ベッドでの体位がどうのこうの。
カラダの相性がどうのこうの。
……お嬢様のメンタルは、スケベオヤジそのものだわ。
そうまでして、本谷をBLに開花させたいのかと、もなみは呆れた。
……開花、させたいんでしょうね。
……だって本谷さん、きれいだもの。
……きれいで、奥手で、意外と乙女。
もなみにしてみれば、もの足りない物件ではある。
それでも、世間一般の女子から見れば、まさに上玉、理想といっても過言ではなかろう。
あまりにももったいない話だった。
今ならまだ、間に合うと、もなみは思った。
しかし。
意外な伏兵が……。
古海だ。
一乗寺社長に気に入られている、ブラックホース。
古海が典子と結婚するとか、それだけは絶対にありえないと、もなみにはわかっている。
……だって、古海さん、女性には全く、全然、興味がないし。
古海が普通の男だったら、とっくに自分が喰っていた……じゃなくて、喰われていた。
だが古海は、出会った時に一度、冷たいまなざしでもなみを見ただけで、全てをわからせた。
……筋金入りだわ。
腐女子の典子と、普通じゃない古海。
このまま二人のそばにいたら、本谷が危ない、と、もなみは憂えた。
なんとか、こちら側に踏みとどまらせねば。
本谷に、古海と典子の結婚の可能性をほのめかせたのは、軽くからかってみただけだ。
……それなのに。
あの、驚愕の表情は。
それから、我を失って、ぼーっと、突っ立っていたっけ。
声を掛けたら微笑み返してきたが、痛々しいくらい、わざとらしい笑みだった。
……まさかね。
……まさか手遅れ?
……久條先生に迫られているうちに、その気になっちゃったとか?
……それじゃ、お嬢様の思うツボじゃないか……。
そこまで考えて、もなみは頭を振った。
混線している。
もはや、自分の手には負えない……。
**
「直緒さん、わたしのスマホ、知らない?」
七夕の日。朝、会社に着くなり、典子が尋ねてきた。
机に鞄を置き、直緒は答えた。
「知りませんよ」
「昨日から見当たらないのよねえ」
典子がぶつぶつ言っている。
「固定電話の調子も悪いのに、スマホまで、どっかいっちゃって」
「よかったら、僕のをお貸ししましょうか?」
「え? いいわよ、悪いもの。人さまのスマホなんて」
妙に遠慮深い。
「プライバシーがね」
「構いませんよ。隠さなくちゃならないような友達はいませんから」
「いえ、あのね……」
どうやら、自分の履歴を内緒にしたいらしい。これから連絡を取る人を、知られたくないのだ。
編集者にとって、著者の新規開拓は、デリケートな問題だ。企画会議に出すまでは、その存在を秘密にしておきたいことが多い。
たぶん、典子には、原稿を頼みたい、とっておきの著者がいるのだ。
そう、直緒は思った。
黙って、出しかけたスマホを引っ込めた。
典子のスマホがみつかったのは、全くの偶然だった。
終業時間も間近になった時のことだ。
直緒は、本棚の前にいた。
「何してるの、直緒さん」
パソコンとにらめっこしていた典子が声をかけてきた。口の中でキャンディーを転がしている。
「たしかここに、基本六法があったはずですよね」
その日、直緒が校正していたのは、もみぢ先生の新刊だ。
今回、小説の主人公は、弁護士だった。
非常に仕事熱心な男で、プライベートでも、やたらと法律の条文を引用する。
この条文が間違っていないか、原典と照合する必要があった。
「えらいっ!」
典子が叫んだ。
「法律なんて、ほんと、どーでもいいけど、でも、その姿勢は大事だわ。直緒さんって、まじめな人よね」
「よく言われます」
……まじめ。
たいていは、軽くからかうように言われるのだけれど。
でも、典子は、本気で褒めてくれているようだった。
それが、直緒には、嬉しかった。
背伸びして、一番上の棚にあったポケット版六法の箱に指をかける。
典子には、踏み台に乗らないと届かない棚だ。
「あれ……」
取り上げた六法のケースは、妙に軽かった。かさっと、中で何かが動く。
「……典子さん。ここにあなたのスマホが……」
「へ?」
典子が間の抜けた声をあげた。
「なんでそんなところに……」
「寝ぼけて仕舞ったんじゃないですか?」
「だって、わたし、その本に触ったこともないし」
「よく、ここで、踏み台に座って、薄い本を読んでるじゃないですか」
直緒はぶつぶつ言った。
「で、肝心の六法は、どこにいっちゃったんだろ」
「大丈夫よ。著者のもみぢ先生だって、調べてお書きになってるでしょうから」
口から甘ったるいキャンデーの香りをさせながら、典子が近づいてきた。
「あ。ディスプレイ、真っ暗。充電しなきゃ」
「急いでください。もう時間がありませんよ」
「すぐに使えないわ。会社を出る前に、どうしても、連絡を取りたかったのに」
ひとりでぶつぶつ言っている。
ポケット版六法は、一つ下の段に、裸で置かれていた。
それを手に取り、直緒は言った。
「きちんとチェックしなきゃ、だめですよ。著者の先生だって人間です。もみぢ先生も、条文の写し間違いをなさることだってあるだろうし。だから、編集サイドでしっかり正誤チェックをしなくちゃ」
「大事なのは、ラブとか萌えとかラブで、法律なんて、ソエモノでしょ?」
スマホが使えない典子は不機嫌だった。
真面目な顔で、直緒は糾した。
「モーリスにいい加減なクオリティーを許さないと言ったのは、典子さん、あなたでしょ。最高の作品には、最高の入れ物を。確か、そう言いませんでしたっけ?」
「……言ったけど」
「それに、著者を守ることも、僕ら編集の仕事なんですよ」
法律の条文が間違っていた、などというクレームが来たら、著者の傷になる。
そもそも、正誤チェックができる事柄に誤りがあった場合は、それは、編集の責任なのだ。
だから直緒は、一文一文、一語一語を、決して、ゆるがせにしない。
六法を手に、直緒は机に戻った。
「すぐにスマホを使いたいのに。仕方ない、あとでお店から……」
典子がつぶやいている。
焦ることはない、と直緒は思った。
典子が連絡を取ろうとしているのが、本当に魅力のある書き手なら、きっと大丈夫。
ご縁はきっと、繋がっているのだから。
時間が迫っていた。
六法とゲラと突き合わせ、直緒は、慎重にチェックを始めた。
ちなみに、この作品に出てくる弁護士は攻めだった。
受けは、もちろんヤクザである。
**
その日、業務が終了してから、典子と直緒は、とある繁華街へ向かった。
「だから電車で行くといったのよ」
ベンツの後ろ席にふんぞり返って、典子がのたまう。
「この時間に車で移動なんて、あなたは正気なの、古海?」
帰宅ラッシュに引っかかって、大通りの車はびくとも動かない。
待ち合わせまでにはまだ時間があるが、直緒も気が気ではない。
落ち着き払って、運転席の古海が言った。
「何をおっしゃいます、お嬢様。こんな時間にこのような怪しげな場所を歩かせるわけには、断じて参りません」
「大丈夫よ。誰も、わたしに手を出さないわ」
「そんなことを自信たっぷりに言って、どうします!」
古海は憤然と言った。
それから調子を和らげ、付け加えた。
「それに私が心配しているのは、お嬢様、あなたではありません。わたしが心配しているのは……」
ルームミラーに、ちらりと切れ長の目が向けられた。
直緒は慌てて俯いた。
したり顔で典子が頷く。
「あ。そうか。この辺は多いものね、その手のお店が」
「……。知ってて選んだくせに。あなたがこれから行く店も、そういう店でしょ」
「あら、古海、なぜ知ってるの? 『ロジエ・ルージュ』が、その手の店だって」
「それは……」
「その手の店って、どの手の店です?」
限りなく不安を覚え、直緒は尋ねた。
これから、大河内先生の接待に行くのだ。
時代小説の大家・大河内先生に、是非、BL小説をお書き頂く。
人気のある先生の作品なら、大勢の読者が、モーリス出版の本に注目するだろう。
BL本を一般文芸の仲間入りさせるために、大河内先生の助力は、是非、欲しい所だ。
先生はしぶっておられるのだが、ようやくのことで、典子が接待の約束を取り付けた。
その席で、先生を口説こうという腹積もりだ。
直緒が何度訪問しても、先生は会ってさえ下さらない。
そのことを思えば、今回の接待は、貴重なチャンスといえた。
典子の実力である。
……実際の所は、父親である一乗寺社長のコネを使っただけなのだが。
……その手の店。
だから、あまり変な店では困る。
「美人さんがたくさんいる店よ。大丈夫、先生もきっと、満足なさるわ」
典子の言う「美人」って……。
直緒の不安は募るばかりだ。
典子は平然と言った。
「大丈夫、直緒さんは、大船に乗った気でいて。ねえ、古海。遅刻はよくないって、あなた、いつも言ってるでしょ?」
「遅刻なんてさせません。でも、お時間が心配なら……」
古海がウインカーを出した。
車は大通りを右折し、暗い路地へ侵入した。




