第25話 普通の男と出会いたい
固定電話のベルが鳴った。
眉を顰め、典子が取る。
「パパからよ」
素早く直緒に囁く。
しばらく話してから、典子は受話器を置いた。
「残念だけど、直緒さん。久條先生は後回しです」
「後回しって、どういうことです?」
そう問いつつも、ほっとしている自分に気がついて、直緒はうろたえた。
……いかん。
……久條先生は、大好きな作家なのに。
典子は、きゅっと眉根を寄せた。
「緊急に、原稿を依頼しなければならない作家さんができたのです」
「緊急に? 原稿依頼? 誰です、それ」
「大河内要先生」
「大河内要先生? 時代小説家の?」
直緒でさえ知っている、時代小説の大御所だ。
「いったい、なんで、そんな偉い先生に……」
「高性能印刷機の為です」
「は? 高性能……印刷機?」
訳が分からず、唖然とする直緒の手を、典子は、きゅっと握った。
「直緒さん。わたしたち、」
どきんと、直緒の心臓が鳴った。
「そろそろ、紙の本を出版したいと思いませんか?」
「え? ……ええ、そりゃあ、もう」
現在、モーリス出版は、電子書籍しか出版していない。
紙の本は、経費が掛かるからだ。
それだけの金を稼ぐには、本業のBL出版だけでは到底足りない。
典子は、一日中、パソコンとにらめっこして、デイトレードに励む必要がある。
「オンデマンドで、紙の本を出すのです。欲しい人に欲しいだけ。その為の、印刷機です」
「あの。もう少し、わかりやすく」
典子が握っている手が、燃えるように熱い。
直緒は落ち着かない。
「パパがね。印刷機を買ってくれるって。少部数でもきれいに印刷できるやつ。それと、製本機も」
「はい?」
「その為の条件が、大河内先生のご本を、モーリスで出版するということ。なんでも、一乗寺建設、創業110周年の記念に、お得意様に配るそうよ。昔からパパは、大河内先生の大ファンだから」
「あの、その本って……」
恐る恐る直緒は尋ねた。
「まさか、BLじゃないでしょうね?」
返事を聞くのが怖い。
「もちろんBLに決まってるでしょ!」
元気よく、典子は答えた。
**
「おねえちゃま!」
オフィスのドアがばんと開いて、白の半袖開襟シャツの少年が飛び込んできた。
黒の学生ズボンを穿いている。
後ろ手にキティ―ちゃんのイラストがプリントされたキャリーバックを引いていた。
「創!」
典子が嬉しそうに叫んだ。
「学校はどうしたの? お母様がよく、ここへ来るのを許したわね!」
「運動会の代休だよ。ママは大丈夫だよ、絵画教室へ行ったと思ってるから。それよりおねえちゃま、約束! 乙女ロードへ連れてってくれる約束でしょ!」
「そうだった!」
典子の顔が、ぱっと輝いた。
「あ。でも……」
直緒の顔を窺うように見た。
「なに?」
つられて創も、直緒を見る。
「あれ?」
その表情が微妙に変わった。
「この人……」
「直緒さんよ。ほら、パーティーの時もいたじゃない」
言葉を交わさなかったが、たしかにあの日、直緒は創に会っていた。
典子の部屋で。
そして、ダンスホールで……。
ことさらにさわやかな声で、直緒は言った。
「こんにちは、創君」
「こんにちは」
礼儀正しく創は言った。
直緒を見つめたまま、言葉を濁している。
「ねえ、直緒さん、」
何かをねだる子どものような表情で、典子が直緒を見上げた。
直緒は頷いた。
典子は随分、弟をかわいがっているようだし。
普段、家族と離れて住んでいて、きっとさびしいだろう。
「いいですよ。今はそんなに差し迫った仕事はないですし」
「ありがと! ね、創。直緒さんって、ステキでしょ?」
「……」
創は直緒を見上げた。
微妙に敵意を含んだまなざしだった。
「あのね、おねえちゃま」
しばらく無言で直緒を睨んだ後、創は言った。
「おねえちゃまには、もっとステキなお友達がいるでしょ?」
「え?」
「隠したってだめだよ。ダンスの時、身代わりを頼んだ人だよ。ほら、」
ポケットをごそごそやって、スマホを取り出した。
器用に操作し、典子の鼻先に突き出す。
「……この人」
覗き見るまでもなかった。
5インチのスマホの中には、緑のドレスを着た、直緒自身の姿が映っていた。
ダンスの途中、大きく後ろに反り返っている。
目を潤ませ、赤い唇を半開けにし、ひどく官能的だ。
とてもじゃないけど、まともに見ることはできない。
そして、写真には写っていないけど、……、
この時、のけぞる体を支えていたのは……。
「……っ」
直緒は頬を赤らめ、俯いた。
無邪気な声で、創が問う声が聞こえた。
「ね、おねえちゃま。この方、どなた?」
「どなたって……」
典子はちらっと直緒を見た。
「知らない人よ」
「知らないわけないでしょ」
「お父様が頼んだ、劇団の人だわ」
「お父様は、劇団なんか頼んでない」
「じゃ、誰かしら」
「トボけても無駄だよ。おねえちゃまは、ダンスがいやで、お友達に身代わりを頼んだんだ」
しっかりと、弟に図星をさされた。
……典子さん、後でシメとくと言っていたくせに。
恥ずかしさで、直緒は顔が上げられない。
「ああそうだ!」
わざとらしい声で言って、典子がぽんと手を叩いた。
「その方はね。お姫様なのよ。たった一日だけ、わたしと身分を交換した、お姫さまなの」
「……」
「ほら、わたしって自由がないでしょ。だから、この方に身代わりをお願いして、その日は一日、町歩きを楽しんでいたのよ……」
……どこが、自由がないんだ?
……てか、自由がないのは、お姫様のほうだろ、フツー。
直緒は思った。
いくら中学生でも、こんな嘘で騙されるわけ……。
創が叫んだ。
「ずるい! 一人で乙女ロードへ行ってたんだねっ!」
「そうそう。アキバにも行ったわ」
「……そういえば、古海もいなかった。二人で一緒に抜け出したんだね。おねえちゃま、古海がいなければ、なんにもできないから」
「……そうでもないけどね」
「そうか。おねえちゃまも知らない人だったのか……」
溜息をついて、創はスマホをポケットに戻した。
「すごいきれいな人だった……。もう一度、会えないかな」
「会えるわよ、きっと」
なぜか典子は目を輝かせている。
「ねえ、創。彼女と一緒に写真を撮りたいわよね。あなたもきれいな服を着て……」
「お出かけになるなら、典子さん、早くした方がいいですよ」
たまらず、直緒が口を出した。
はっとしたように、典子は直緒を見た。
「そうね。ラッシュにひっかかると、キャリーバックが邪魔になるものね……」
ドアの辺りから、こほんこほんと、咳ばらいが聞こえた。
「御姉弟でお出かけになるのなら、私も、お供致します」
「うわっ、古海!」
姉と弟は、同時に叫んだ。
**
メイドのもなみは、畳んだリネンを持って歩いていた。
廊下の端に、古海が見えた。
盆栽の手入れをしている。
……やっぱりあれは、古海さんだったんだよな。
……パーティーの時、本谷さんと踊っていた、あの人は。
もう何回も、頭に浮かんだ問いを、もなみはまた繰り返した。
だって、あのステップは。
くるりとパートナーを回した、あのターンは。
神田先生相手に踊っていた、古海さんのダンスそのものだ。
……古海さんは違うと言っているけど。
……萌えたから古海さんじゃないと、お嬢様も言ってたけど。……確かに、お嬢様の鼻血はひどかった……。
でも、もなみは確信していた。
……だって、壊れ物のように大切そうに、でも、乱暴なくらいに激しく振り回して。
……本谷さんを。
……あれは絶対、古海さん。
胸がどきどきした。
もなみは立ち止まった。
「なんです、篠原さん」
背中を向けたまま、古海が言った。
小さな鉢を、熱心に弄り回している。
「いえ」
ただでさえ、もなみは、古海が苦手だ。
こんな複雑な問題に、深入りする気はない。
それに今はそんなことよりもっと大変なことが……。
「いいんですか、古海さん」
「なにがです?」
「お嬢様です。さきほど、本谷さんを連れてお出かけになられましたけど」
「お仕事でしょ?」
「……大河内先生のところへ行かれました」
「知っています」
大河内先生というのは、時代小説の大家だ。
時代小説というのは、江戸時代のお話だ。でも、平安時代や縄文時代の話は、時代小説とはいわない。
というくらいのことしか、もなみは知らない。
あと、一乗寺社長が、この先生の大ファンだということ。
「お嬢様は大河内先生に、BLの原稿を依頼に行ったんですよ? しかもそのご本は、一乗寺建設創業百何年だかの、記念品になるんです!」
「創業110年です。あなたも一乗寺ファミリーの一員なら……」
「私は、数字が苦手なんです。つーか、いいんですか? そんな大事な時に、お得意様や株主の皆さんに、よりによってBL本をですね、お嬢様は、配布なさろうとしてるんですよ?」
「あの方なら、やりかねませんね」
「って、何を落ち着いてらっしゃるんですか。会社の評判をいつも第一に考える古海さんがっ!」
小さな盆栽の鉢を持ち上げ、古海は、薄く笑った。
眼鏡の奥の目が、妙な光を宿している。
いつのも古海らしくない。なんだかとてもワルそうに見えて……。
不覚にも、もなみは、また、どきっとした。
手のひらに載せた盆栽に目を据えたまま、古海が答える。
「いいじゃないですか。大河内先生のところでしょ? 先生は、紳士ですから」
「はあ?」
「それに、ここが大事なところですが、お年を召していらっしゃいます。たぶん、使い物にならないから」
「……使い物?」
後半は、殆ど聞き取れなかった。
「……もしかして、」
もなみははっとした。
「本谷さんを久條先生のところに行かせたくないから? だから社長を焚きつけて……」
……典子に、創立記念の本を作らせることにした?
……社長が好きな時代小説家に原稿を書かせ、
……モーリス出版は、二人きりの小さな会社だから。
……とりあえず、久條の元から、本谷を遠ざけられる。
すぐに襲い掛かる久條と違い、時代作家は紳士だという。しかも。
……使い物にならない(年寄りで、恐らく……勃たない)。
「古海さん、あなた。本谷さんを守る為に、一乗寺建設を売る気ですか!」
「おや、これはこれは。さっきから何を言ってるんです? 社長を焚きつけるなんて、そんなこと、私にはできませんよ」
でも、もなみは知っている。
この男は、典子にダンスを申し込むことができるほど、一乗寺社長の信頼が篤いのだ。
あるいは、典子にプロポーズを許されるほどほど、その能力を信頼されている……。
「会社を犠牲にしてまで、本谷さんを久條先生から遠ざけたいんですかっ!」
「久條……先生?」
古海の肩が、ぴくりと動いた。
盆栽を棚に置く。
ハサミを取り上げ、彼は言った。
「ええ、私も久條先生のファンですよ。直緒さんと同じく、ね」
手のひらサイズのヒノキは、円すい形に、美しく仕上がっていた。
無表情のまま、古海は、そのてっぺんを、ぱちんと切り落とした。
……うわあ。
心の中で、もなみは力いっぱい叫んだ。
……そこは、典子お嬢様を心配するところだろ。てか、心配してやれよ。
……いくらヒモノで腐女子でも。
……久條先生も、典子お嬢様に襲い掛かるべきなのでは。
……本谷さんじゃなくて!
……古海さんも久條先生も、……
……イケメンなんて、大嫌いだ!
この際、顔はどうでもいいから、……
……普通の男と出会いたい、と、もなみは、心の底から願った。




