第23話 実家は肛門科の専門病院です
「よく来たな」
小説家は言った。
「入れ」
「いえ、ここで」
カバンをしっかりと前で抱え、直緒は言った。
玄関から、一歩でも中へ入る気はない。
「あまり長いことドアを開けておくと、アラームが鳴るぞ。警備会社の人間がすっ飛んでくる」
「でも」
「いいから入れ」
仕方がなかった。
直緒は靴を脱ぎ、踵を返す小説家の後について、家の中へ入った。
簡素な応接間だった。
ソファとローテーブルのセットが一組あるだけだ。
部屋の隅に花瓶が置かれていたが、花は挿されていなかった。
小説家はどっかとソファに腰を下ろすと、両手の先を突き合わせて直緒を見た。
「で?」
「はい?」
「ここへ来たということは、決心がついたということだな」
「決心?」
「だから、俺に抱かれる」
「違います! っつか、何を言ってるんですか! 僕がここに来たのは、原稿依頼の為です。久條先生には、是非、弊社モーリス出版に新作をお書き頂きたく……」
「ああ? 俺はお宅の編集長に言ったが。書いて欲しければ、本谷を差し出せと」
「は? いや、先生は僕を、担当編集としてご指名下さったと聞いておりますが? 僕、先生の大ファンなんです。ずっと前から」
「ふうん」
久條の口元が、微かにほころんだ。
「その話は、前に聞いた」
その時の状況を思い出して、直緒は思わず頬を赤らめた。
「なにをエロい顔、してる」
「エ、エロい? 違いますっ!」
危険な方向へ行きそうで、直緒は必死で話を逸らした。
「あ、あの、先生はあの時、僕が男だと一発で見抜かれましたね。化粧はプロも保証するほど完璧だったのに、どうしてわかったんですか?」
「手」
「え?」
「手だよ。それは、女の手じゃない」
言われて直緒は、自分の手を見た。
細いが、筋張っていて、確かに、女性の手ではない。
それにしても。
あの状況で、手に目がいくとは。
ドレスを着て、完璧なメイクを施した「女性」の手に……。
作家と言うのは、侮れない感性をしていると、直緒は感心した。
……いや。
……感心している場合じゃない。
あわてて営業トークを再開する。
「えと。僕……いえ私、作家の先生についたことはないんです。校正やら割り付けやらの、実務担当なもので。それが、いきなり、久條先生のような方に抜擢して頂いて、なんというか……感激です!」
これは本当のことだった。
小説家の久條泰成は、直緒にとって、神様みたいな人だった。
久條泰成は、有名な純文学作家だ。
まだ若いのに、文学賞を総なめにし、今最も売れている小説家である。
彼の作品は、出版されるそばから映画やゲームにタイアップされている。
そう。
久條泰成は、純文学作家なのだ。
それなのに、モーリス出版で書いて下さるという。
典子の言う、次の企画とは、このことだった。
「誠心誠意、頑張ります! 一緒に売れる本を作りましょう! 読者の心に届く本を!」
「BLだろ、モーリスで出版してるのは」
「はい」
作家にとって、ジャンルを変えるのは、おおごとだ。
そのことは、直緒とて、重々承知している。
「先生のご意志を尊重し、必ずやよいものを読者の手に……」
「交換条件で、本谷を差し出すと、お前んとこの編集長は言ってたぞ。実録物でも構わないそうだ」
……差し出す?
……てか、実録物?
……BLの実録物って。
悪い予感しかしない。
久條が頷いた。
「つまり、そういうことだ」
「どういうことですっ! 僕はそんな話、聞いてな……」
「早く脱げ」
「ぬっ……」
目の前に、にゅっと腕が伸びてきた。
危うく押し倒されるところだった。
必死で逃れながら、直緒は言った。
「だめです。ありえません」
「なぜ」
「なぜって。僕ら、ほら、男同士だし」
「だから?」
「不自然でしょ」
「そんなことはない。野生動物でも、よくある話だ」
「僕は、野生じゃありませんしっ!」
「お前は、編集者だくせに、偏見があるのか?」
「いや、だって、うちの実家は、肛門の専門病院で……」
「なんだ。知ってるじゃないか。編集長が心配してたぞ。本谷は、BLの実態を知らないって」
「それは、僕も勉強しましたからっ!」
「だったら」
「ほ、本を読んだだけですっ! 編集長の薄い本……」
「大丈夫。優しくしてやる」
「いやですっ! 僕はあきらめてません! かわいい彼女を探して、普通に結婚……」
「うるさい」
「わっ、先生、何をっ! わーーー!」
**
「それはそれは」
コーヒーカップを持ったままかたまっていた臼杵は、恐る恐る、本谷直緒の顔を見た。
「災難だったね」
「僕、もう、わからなくなりました。臼杵さん。男って、なんでしょう? 愛って、何なんでしょう?」
「仕事仲間にそんな深いこと、聞かれても。で、大丈夫だったのかね?」
「何がです?」
「何がって。君のおしり」
「……」
「いや、話したくないのなら……」
口ごもる臼杵を見て、直緒はため息をついた。
「今回は、僕は、普通にスーツにスラックスでした。タイトなドレスではなく。僕は男です。自分の身くらい、自分で守れます」
前に、久條に口説かれた時のことを思い出し、直緒は顔をしかめた。
体にぴったりのドレスは、直緒の反撃の機会を奪った。
あの時のことは、できたら、記憶から消去してしまいたい。
「いや、舞踏会の時の君は、実際、きれいだったよ。わしがもう、10歳、いや、5歳若かったら……」
「臼杵さん、あそこにいらっしゃったのですか?」
直緒は目を剥いた。
臼杵の顔に、ぱっと華やぎが差した。
「うん。招待されてたんだ。君をモーリス出版に紹介したのはわしだからね」
「ま、まさか、臼杵さん、仮面をつけて、ダンスホールにいたんじゃあ……」
そいつらは、かたっぱしから、直緒にダンスを申し込んできたのだ。
その中に、この腹の突き出た編プロのオヤジもいたとしたら……。
恐ろしすぎる。
だが、臼杵は、首を横に振った。
「そんなことあるわけないじゃないか。仮面は、一乗寺家令嬢に求婚する人がつけてたんだろ。それにしても、典子さんと君が入れ替わっていたなんて。いやあ。きれいなお嬢さんだと思ったよ。しかしまさか本谷君だったとは……」
「……臼杵さん。その話はもう、」
「そこで、久條先生に見初められたというわけか」
「見初められたというのも、違うと思います」
実際は、男であることを見破られた上、壁に押し付けられて、キスを迫られた。
体にぴったりしたドレスが邪魔をして、直緒は、反撃することができなかった。
その時、真っ先に助けに来てくれたのは……。
……だめだ。
直緒は首を横に振った。
……考えてはいけない。
臼杵氏が、じろりと直緒を見た。
「まさか君、モーリス出版を辞めたいなんて思ってるわけじゃ、なかろうね」
「え?」
「君は言ってたろ。小説の編集をしたいって。割り付けや校正だけでなく、実際に、小説の世界に関わっていきたいって。今まさに、その夢が叶おうとしているんじゃないか」
「……」
そうだ。
子どもの頃から、直緒は、本が好きだった。
本さえあれば、どんな辛いことがあっても、堪えることができた。
おとなになったら、本の仕事がしたかった。
しかし就職難と出版不況が重なって、100社近く受けた出版社の就職試験は、悉く撃沈した。
かろうじて、編集プロダクションで働くことができた。その時、世話になったのが、臼杵だ。
ありていに言えば、けっこうなブラック企業だったわけだが。
「臼杵さんはなぜ、僕をモーリス出版に紹介してくれたんですか? 僕より仕事のできる人は、たくさんいたでしょ?」
「それはね」
臼杵は、目を伏せた。
コーヒーカップの中を、スプーンでぐるぐる回しながら、何気ない風に言った。
「美形を紹介してくれと頼まれたんだよ、モーリスの社長さんから。そんな条件に合うのは、君しかいなかった」
「美形!?」
「うん。モーリスの社長さんの言うには、BLに理解のない人を納得させる為に、美形が必要なんだと」
「……仕事熱心だからというんじゃなくて? 小説への愛情でなく? 容姿。容姿だったんですか、採用の基準は!」
「そうだよ」
「僕は、女じゃない!」
「いや、女性もいろいろ」
コホン、と咳払いした。
「君、それは、女性に失礼なんじゃ……」
「容姿で人を判断するなんて、最低です!」
「まあ、いいじゃないか。今回だって、君のその美貌のおかげで、久條先生も喰いついてきたわけだろ? ありえないことだよ、あれだけの作家が、しかも純文の作家が、モーリスのようなBL出版社に書いてくれるなんて。電子書籍しか出版経験のない弱小出版社なのに」
「だって、」
「実際、わしはうらやましいよ。モーリスを辞めるなら、君、久條先生を連れて、うちに戻ってこないか? そしたら、うちも、立て直すことができる」
「お断りします!」
きっぱりと直緒は言った。
**
目下、直緒が最も会いたくない人物は、一乗寺家の門の前に佇んでいた。
黒いスーツに銀縁の眼鏡、短い髪が僅かに逆立っている。
避けて通りたかったが、モーリス出版は、一乗寺邸の中にある。
「……」
気まずい思いで直緒は目礼した。
あの時。
自分が踊ったあの人は、
緑色の体に密着したタイトドレスを着せられて、
全身を委ねて踊ったあの人は、
……。
「おかえりなさい」
緊張と不安、そして僅かな安堵の入り混じった表情で、古海が声をかけてきた。
「少し遅かったようですが」
「それは、臼杵さんと会ってきたからです」
「そうですか」
まだ何か言いたげに、古海は唇を歪めた。
素早く直緒は言った。
「早く典子さんのところに行かないと」
古海の脇を通り過ぎ、直緒は、ぴたりと立ち止まった。
「僕に触らないで下さい」
背後で、古海がびくりとする気配がした。
にべもない口調で直緒は続けた。
「僕は、自分のめんどうは、自分で見られます」
「それは……久條先生とは何もなかったということですね?」
「当たり前です」
「キスも?」
なぜか、頷くのがしゃくに触った。
直緒はそのまますたすたと歩きだした。
「直緒さん、」
切羽詰まった声が追いかけてくる。
「ありませんよ!」
言い捨てて、直緒は長い廊下を早足で歩き続けた。
自分の頬が赤らんでいるのを自覚していた。
再び立ち止まった。
大きく息を吸い込み、振り返った。
「古海さん。なぜ、僕と久條先生のことを、そんなに穿鑿するのですか?」
……あなたはあの場にいなかったはずじゃないか。
「僕も久條先生も、男同士だ。何かあるなんて、普通は考えないでしょう?」
……あなたがあの場にいなかったのなら。
「久條先生の悪いお噂は、聞いておりますから」
平然とした顔で、古海は言った。
……嘘だ。
直緒は思った。
女性との噂はいろいろあるが、久條に、同性とのスキャンダルはない。
……少なくとも、まだ。




