第16話 朝っぱらからセクハラ三昧
神田に教えられたステップを、終業後、直緒が典子に伝える。
運動をするということで、典子は、堂々のジャージ姿である。
本物の中学生を相手にしているようだ。
だが、直緒に、そういう趣味はない。
テンションが下がること、夥しい。
壁一面の鏡の前に、二人、並んで踊る。
典子のそれは、ダンスとは別の何かのようだ。
「だから、右手と右足が、同時に出てますっ!」
直緒は叫んだ。
「それじゃ、ゾンビダンスですっ!」
言い終わらないうちに、典子は、すてんと転んだ。
……ダンス以前の問題じゃないか?
この人には、運動神経というものがない、と、直緒は直感した。
典子が、哀れっぽい目で見上げている。
「あたた。直緒さん。起こして」
「だめです。自分でお起きなさい」
「モーリス出版の社是は、女性に優しくあること……」
「部下を生け贄に差し出す上司には、優しくする必要はありませんっ!」
「あ。もしかして、わたしが朝練すっぽかしたこと、根に持ってる?」
「あたりまえですっ」
「だってぇ~、朝は苦手だし~ぃ」
「どうせ、夜遅くまでBLを読んでるんでしょ? 布団に潜って、懐中電灯で照らしながら」
「資料の読み込みよ!」
「そ、そうですか……」
「わたしだって、朝練、出たいのよ? だって、直緒さんと神田先生のペア、素晴らしいもの。でも、朝っぱらからそんなモノ見たら、鼻血が……」
「そんなモノで悪うございましたね、そんなモノで」
「……直緒さん、馬鹿に絡むわね」
「だって……。朝っぱらからセクハラ三昧なんですよ?」
「? わたしは、何もしてないわよ? 第一、ほら、低血圧だから。朝、弱いし」
「典子さんじゃありません」
「じゃ、誰が?」
「……」
「え? もしかして、神田先生?」
直緒は頬を赤らめ、うつむいた。
……って。なんで、俺が……。
「神田先生が、直緒さんに?」
よく寝たのだろう、典子のつやつやした黒い瞳が、ぎらぎらと輝く。
「せくはら? セクハラ三昧ですってぇ~? 詳しく。そこのところ、詳しくっ!」
「あの先生、僕の体を、触りまくります」
思い切って、直緒は言った。
踊っている時の、神田の手が気になる。
それが必要なポーズなのか、そうでないのか、直緒にはわからない。
でも、直緒は、女性パートを踊っている筈だ。
さすがに、尻を撫でたり、胸に手を置いたりは、ないんじゃないか?
「……やっぱり」
話を聞き終えて、典子は大きく頷いた。
「やっぱりね」
「やっぱりってなんです、やっぱりって」
「だから、神田先生。やっぱり、そうだったんだ」
「そうってなんです? 触られるこっちの身にも、なって下さいよ」
直緒は男だ。
男に触られたからといって、騒ぐのは変だ。
それくらいのことは、わかっている。
触られて、減るようなものでもない。
でも、不愉快だ。
なんだか自分が、物として扱われるようで、不愉快なこと、この上ない。
鑑賞される「物」にされたような気がして。
再び典子は頷いた。
「だからわたし、朝のレッスンをお休みしたのよ。神田先生の正体を見極める為に!」
「ええーーーっ! わざとだったんですか!」
「そうよ。直緒さんと神田先生のペアが、もっともっと萌え萌えになるように、わたしの心遣いだったのよ!」
「その心遣い、間違ってます」
「それに、古海から、覗き見はだめだって言われてるし」
恨みがましい声だった。
そういえば、典子は以前、古海から立ち聞きをたしなめられたこともあった。
あの時も、古海と直緒のことを変に誤解してた……。
直緒はきつく言った。
「覗き見? 覗いてないで、あなたが踊らなくちゃダメじゃないですか!」
「わたしは、踊るのが、嫌いなの!」
とうとう本音が出た。
「盆踊りもラジオ体操も、体を動かすのなんて、大嫌い!」
**
神田の指導には、ひとつだけ、学ぶべき点があった。
それは、パートナーの体への、さり気ないタッチだ。
直緒が習っているのは、スロー・フォックス・トロットというダンスだ。
男性が女性の体を抱くようなポーズもある。相手に触るには、絶好のダンスだ。
神田が触れてきても、わざとなのかどうか、直緒にはわからない。
そういうダンスなのかもしれない。
実に巧妙だ。
もちろん直緒は、典子の体に触りたいとは思わない。
上司だし。
正体、知ってるし。
それに、直緒が神田に教えられたのは、女性のポジションだけだ。だから、典子をリードして踊ることもできない。
触る触らないは別として、典子とパートナーを組むことができないのは、ちょっと残念だった。
もっとも、典子が転ばずに踊ることができるとは思えなかったけど。
典子のパートナー役は、古海がやった。
器用なこの男は、神田が帰ると、屋敷のどこからともなく現れる。
なんだか、神田を避けているようにも見える。
用もないのに、モーリス出版のオフィスを覗き、典子に追い払われたりしている。
仕事が終わると、直緒と典子は、地下のスタジオへ移動する。
直緒が、朝のレッスンを典子に伝授し終えたころ、古海が姿を現す。そして、典子の習熟度合いを見ながら、パートナー役を務めた。
いつも、当然のように典子と踊るので、直緒はしゃくにさわった。
典子と踊る古海に腹が立つのか、古海と踊る典子に腹が立つのか。
どちらかはわからなかった。
もしかしたら、ただ、仲間外れにされたようで、悔しかったのかもしれない。
最初に見た、古海と神田のダンスは素晴らしかった。
だが、典子と古海のダンスは……。
フォックス・トロット。
確かに、キツネ踊りだ。
キツネとゾンビがひっついて踊っている、というのが、一番ぴったりな表現だ。
**
「どうですか、直緒さん?」
なんとか一曲踊り通して典子がへばると、古海が直緒へ手を伸ばした。
「えと。僕と古海さんは、男同士だから」
……ユルそうだけど、チャラくない?
……ちょっと遊ぶには最高の相手?
神田の声がリフレインして、頭が弾けそうだった。
「そうですよ。私と直緒さんは、男同士です」
顔色も変えずに、古海が言った。
「でも、将伍があなたに教えたのは、女性のステップでしょ?」
「将伍って呼ぶんですね、神田先生のこと」
「ああ、古い友人ですから」
「友人、ですよね」
「そうですよ」
古海は頷いた。
「その伝手で、お嬢様のダンスの講師を頼んだんです。それをお嬢様ったら……」
ちらりと、典子の方へ視線を送った。
緑色のジャージは、メイドから受け取ったスポーツドリンクを飲んでいた。
古海は続けた。
「私は、男性のポジションを踊れます。あなたとだったら、もっと完璧に。ですから直緒さん、私と踊って下さい。お嬢さんに模範演技を見せてやって下さいませんか?」
「いやです」
直緒は顔が赤くなった。
そんな自分に狼狽した。
思わず、その時考えていたことを口にしてしまった。
「カヲルって誰ですか?」
「カヲル……」
古海の目が泳いだ。
「懐かしい名前!」
甲高い叫び声がした。
450ミリのペットボトル片手に、典子が駆け寄ってきた。
「モーリス出版で前に働いてた人よ。片桐薫ちゃん。ほら、直緒さんの前に」
「あっ!」
有能な社員だった(女性)。
典子のたったひとりの(女)友達。
古海が手を出して、それで、会社を辞めた。
今では、別の男性と結婚して、海外にいるのではなかったか。
……古海が手を出して。
「あの」
恐る恐る直緒は尋ねた。
「片桐薫という人は、女性ですよね」
「違うわ。男性よ」
「!」
直緒は言葉に詰まった。
「でも、しあわせ書房の桂城さんは、『女の子』って!」
典子と行った吉田ヒロム先生のイラスト展で、あの無礼な児童書編集者は、確かにそう言った。
前の女の子、と。
「ああ、薫ちゃんは、柔らかなファッションが好きだったから。ユニセックスな感じの。間違えたのね、桂城さん。ほんと、失礼な人だわ」
「だって、お、お、男の人と結婚して、今は、海外で暮らしてるって!」
「海外では同性婚が認められるところもあるのよ、直緒さん。日本だって、渋谷区では……」
「その話はもう止めましょう」
苦い顔で、古海が割り込んだ。
「あまり時間がありません。いいですか、お嬢様。私と直緒さんが、模範演技をお見せします。特に、お嬢様は、ナチュラルターンをよく研究なさって……」
「古海さんとは踊りません!」
きっぱりと直緒は言った。
**
屈辱のレッスンは、一週間、続いた。
神田に抱かれての女性ポジションが不快だったのは、いうまでもない。
機会さえあれば、微妙に触ってくるし。
しかし、早朝から体を動かすことは、爽快だった。
プロだけあって、神田のサポートは万全だ。
直緒は安心して、体を預けることができる。
「君、大したもんだな。呑み込みが早い。体がちゃんとついてくる。ティーンだったら、ひっさらって連れて行くところだった」
「み、未成年者略取……」
最後のポーズが決まって、息を切らせながら、直緒が言う。
悔しいことに、神田の呼吸は穏やかだ。
「何言ってるんだい。ティーンエイジャーはのびしろが多いからに決まってるだろ。稽古事を始めるのは、早ければ早い方がいいんだから。でも君なら……」
流し目で直緒を見た。
最後のレッスンの日だった。
売れっ子の神田は、その日のうちに、大阪へ移動するという。
「大阪の次は、ラスベガスだ。どう? 一緒に来ない?」
「何を言う。これでもう、あんたの顔を見ないで済むと思ってたのに」
ばっさりと直緒は言ってのけた。
「セクハラされることもなくなるわけだし」
「あはは、バレてたか」
からっと神田は言ってのけた。
「おまっ、やっぱ、わざと……」
「だって君、かわいいんだもの。困ったように、もじもじしてさ。肌の色が白いから、目元なんか、ほんのり桜色に染めちゃって」
「!」
「さんざんいじめたけど、君はけなげについてきたよね。かわいいね、君」
「か、かわいい? そ、それは、男への褒め言葉としてはどうかと……」
「そういう固いところも魅力だ。リュウが惚れるのも無理ないな。ま、いいよ。悔しいけど、リュウは、君にやる」
やるって。
モノじゃないんだから。
ってゆうか……。
「はああああ?」
「でも、気をつけるんだよ。優しいのは、最初だけ。あいつは、呆れるほど残酷になれる男だから」
そう言うと、神田は高笑いした。




