第15話 男同士で何をヤる
「スロー、クイッククイック、スロー、クイッククイック」
「だめ~、わたし、もう、だめ~」
典子がへたへたと座り込んだ。
緑ジャージ姿だ。
一乗寺家地下のスタジオ。
個人の邸宅にこんなに広いダンススタジオがあるとは。
一乗寺財閥の財力を、直緒は痛感した。
典子を振り回していた若い男性が、諦めたように手を離した。
「じゃ、10分間の休憩にしましょう」
男性は目を上げ、不思議そうに直緒を見た。
「……あなたは?」
「本谷直緒。典子さんの部下です」
直緒は答えた。
「典子お嬢様の? ほう。それはそれは」
妙に含みのある言い方だった。
「僕は神田将伍。典子お嬢さんのダンスの講師をやっている。ご覧のとおり、ね」
細身で引き締まった体をしている。典子を振り回していたことから、体力も充分にあるのだろう。
神田は続けた。
「でも、言ってみれば、君、部外者だろ? なんでここに?」
上から目線を感じた。
何か言い返そうとしていると、古海が割って入った。
「お嬢様、たってのご希望です。直緒さんと一緒でないとどうしてもいやだと申されまして」
「またはじまったのか。典子お嬢さんのわがまま」
神田はにやりと笑った。
「じゃ、本谷君。一曲、お相手願おうか」
「へ?」
「見てたろ? 基礎のダンスさ」
あざ笑うように神田は言った。
直緒は、むかっとした。
神田が合図をすると、軽快ではあるが、どこか哀調を帯びた曲が流れ始めた。
「4分の4拍子。ジャズだ。一乗寺さんのパーティーには、年配のお客が多いから」
そう言うなり、神田は、直緒の両手を、ぐいと掴んだ。
「ほら、いくよ」
右腕をいっぱいに伸ばされ、左腕を神田の肩にかけさせられる。
神田の顔が、目の前にあった。
自分のポジションは、女性のそれではないのか?
直緒は狼狽した。
「ちょっと、」
「フェザーステップ。スロー、クイック、クイック、スロー、クイック、クイック……」
いきなり後ろに押され、ステップを踏まされる。
あやうく仰向けに倒れるところだった。
「危ないじゃないですか。急に押すなん……」
「次は、リバースターン!」
左前方にぐいとひっぱられた。
「わっ」
不意のことで体が対応しきれない。
直緒は、つんのめって転んだ。
同時に、神田の手が、さっと離れる。
「失礼。初心者だったんだ」
上から、嘲るような笑いが降ってきた。
「あ、あたりまえだ……」
一介の、書籍編集者、しかも実務担当に、ダンスの心得など、あるわけないではないか……。
「直緒さん」
古海が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、直緒さん」
「大丈夫です」
古海の手を払いのけ、直緒は立ち上がった。
神田を、ぐっと睨む。
「言いたいことがあるなら……」
「別に。僕はただ、お手合わせ願っただけ。まさか初心者だったとは」
馬鹿にしきったようにふっと笑った。
直緒は心底、腹が立った。
だが、神田は、すでに直緒など眼中にないようだった。
古海の方に向き直った。
「口直しに、一曲どう?」
直緒に対するのとは、まるで違う口調だ。
つやっぽいというか、色気があるというか……。
そう考えて、直緒は頭を振った。
古海も神田も、男同士じゃないか。
自分は、どうかしている。
ぷつっと音がして、BGMが、物寂しい、哀調を帯びた曲に代わった。
操られるように古海が立ち上がる。
胸に手を当て、腰を折ると、両手を広げた。
神田がその胸に飛び込んだ。
広げた両手を、古海のそれと、素早く合わせた。
神田の頭が、後ろに大きくのけぞる。そのまま、軽快なステップを踏み始めた。
初めて生でダンスを見る直緒にもわかるほど、二人の呼吸は、ぴったりあっている。
さきほどの神田の無礼も忘れ、思わず直緒は、見惚れてしまった。
「でも、直緒さんと将伍先生のカプの方が萌えたから。それは絶対」
耳元で不気味な囁きが聞こえた。
「わっ」
「相手がどんな美形でも、古海は、ダメ。あいつ、頭の中で数学の公式を考えているのよ。そういうダンスだわ、あれ」
へたっていた筈の典子だった。
目が、異様にぎらついている。
「直緒さんと将伍先生のダンス……二人でぴったり抱き合って……とてもよかったわ。ごちそうさま」
「と言われても、」
「初め将伍先生《攻め》がぐいぐい押して、でも、直緒さんが踏みとどまって。と思ったら、意外や意外、直緒さんの方から積極的に押していくの」
「いや、僕は神田さんに引っ張られただけですから」
「あら、そうだったの? オレ様な攻めだったのね! ああっ! 人知れぬドラマがあったのねっ!」
「ドラマ? さあ、どうでしょう。僕、下手だったでしょ? すぐ、転びましたし」
「そこ、萌えポイントよ。攻めに屈する受け……うふふ」
「典子さん、涎が垂れてます」
「ああ、写真を撮れなかったのが残念だわ。でも、おいしくいただきましたから」
典子は、じゅるりと口元を拭った。
直緒には、わけがわからなかった。
**
結局、毎回のレッスンに、直緒は同行することになった。
直緒がいなければ絶対に行かないと、典子が言い張ったのだ。
「親孝行です。日頃好き勝手をしているのですから、お嬢様も、たまには親孝行せねばなりません。だから直緒さん、よろしくお願いします」
と、直緒は古海に言われた。
親孝行と言われれば、直緒としても、同意せざるを得ない。
直緒自身は、早くに両親を亡くし、祖父に育てられた。
大学進学を機に上京してから、あまり祖父の元へは帰っておらず、育ててくれた人に不義理を重ねている。
だから、人の親孝行の為と言われると、いやとは言えなかった。
それに基本、典子が踊る……転ぶ・へたる……のを、見ているだけだろうし。
そんな甘い考えは、翌日には吹っ飛んだ。
その日は、神田の時間がそこしか取れないということで、早朝レッスンだった。
早朝出勤ということで、手当てが出る。
それなら、直緒には、文句はない。
朝六時台の電車は、比較的空いていたし。
だが。
……典子は来なかった。
朝の仕事があるのか、盆栽の手入れか、古海の姿も見えなかった。
「やっぱりね」
約束の7時を5分過ぎた時、神田が言った。
「逃げたね」
「え?」
「典子お嬢さんは、平気で敵前逃亡をなさるから。仲間を置いて。毎度のことだけど。古海が来ないのは……」
目を伏せた。
「……じゃ、今日のレッスンはお休みということで」
すかさず直緒が提案する。
「そうはいかない」
世界的に有名なダンサーは、ぎろりと直緒を見た。
「僕の貴重な時間を割いているからね。お嬢様を、ステップも踏めないまま、一乗寺家のパーティに臨ませるわけにはいかない」
「そんなこと言ったって、肝心の典子さんが来ないんじゃ……」
「君に教える」
「へ?」
「昨日、最初に後ろへステップした時、君は転ばなかった。いきなりバックさせられれば、大抵は転ぶけどね。まあ、少しは運動神経があるわけだ」
「……」
「それに、どうせヒマなんだろ?」
「ヒマじゃない!」
「ああそう。僕が君に教える。君が、お嬢さんに教える」
「だから、ヒマじゃないから!」
デスクには、校正待ちの打出し原稿が、山と積まれているはずだ。
「よせよ。BL小説なんか。くだらない。お嬢さんの趣味に付き合う必要はない」
「BL小説を馬鹿にするな!」
仁王立ちにになって、直緒は、神田を睨みつけた。
「それによって救われる人も、いるんだぞ」
「!」
神田が一歩引いた。
「君は、そういう人種なのか?」
「僕は生粋の日本人だ。話をそらすな。BL小説は、趣味なんかじゃない。仕事なんだ」
「仕事ね」
神田は、へらりと笑った。
「ふうん。仕事なんだ」
「悪いか」
既に直緒の中で、BL出版への誇りは、確固たるものになっていた。
直緒には、ほんのわずかのためらいもなかった。
ぐっと、神田を睨みつけた。
「そうか。それで、リュウは……。駄目だぞ、リュウは。ユルそうに見えるけど、決してチャラくないから」
「リュウ……?」
「カヲルもとうとう最後には、リュウを諦めた。どんなに愛しても、リュウは、心を見せてくれない。受け容れたように見えても、最後の最後に突き放す。そういうやつだ。止めた方がいいね、あいつとつきあうのは」
「は?」
「でも、ちょっと遊ぶには、最高の相手さ。あの、古海龍は」
「はいぃ?」
50級、ポイントにすると34ポイントほどの声で、直緒は聞き返した。
ユルい? チャラい?
あの古海が、遊ぶには最高の相手?
ってか、誰と?
「あ? あいつ、まだ、手ぇ、出してないの?」
「だ、誰が、誰にですかっ!?」
「そんなこと、決まってるじゃん。な、優しいだろ、あいつ。初めは」
「あ、ありえませんっ!」
「なんで? BL編集者ということは、典子お嬢さん公認の仲なんだろ、あんたたち」
……どうしてそうなるんだ。
「ちがっ、ちがっ」
違うと言いたかったのだが、変な鳥の囀りのような声が出るばかりだった。
不審そうな顔で、神田がつぶやく。
「違うの? やつの目つきから、もうとっくにできてると思ったんだけど」
「できてなんかいませんからっ!」
やっとのことで、直緒は叫んだ。
「できてなんかいません!」
「なんだい、赤くなって。意外と君、奥手なんだね」
「赤くなってなんかっ! だいたい、何をヤルというんですか!? 男同士でっ!」
そうだ。
そこのところの懸案事項が、未だ、解決されていない。
「それは、リュウが教えてくれるよ」
神田はそう言って、にたりと笑った。
眩暈がした。
「さ、レッスン始めるよ」
音楽が流れだし、神田が腕を広げた。
「ほら、僕の胸に寄り添うように」
「……それは、女のポジションだろ?」
ダメージは大きかった。
やっとのことで、直緒は抗議した。
神田は鼻で笑った。
「あたりまえだ。君は、典子お嬢さんの代わりなんだから。僕と踊った通りに、お嬢さんに教えるんだ」




