第13話 力を抜いた男の手
どういうわけか、どうした行き掛かりか。
くりいむメロン先生が、モーリス出版に、小説を書いて下さることになった。
「なんで? 古海さん、あなたが一緒だったのに、なんだってまた、そんな強引な真似を?」
直緒は納得できない。
ご結婚を控え、くりいむ先生は、BL本の執筆を断念された。
その決意を尊重しようではないか。
古海は、そう言った筈だ。
……あなたは、BL本の編集の仕事についただけで失恋したのでしょう? それを忘れたのですか?
つまり、そういうことだ。
だから、直緒は。
先生のご本に非常に感動したけど、残念だけど、原稿依頼を断念した。
先生を、自分と同じ目に遭わせるわけにはいかない。
こんなに素敵な恋物語を書く人を。
語気荒く、直緒は糾した。
「モーリス出版の社是は、女性の幸せなんでしょ? BLか夫か、選択権は、くりいむ先生にある。古海さんはいったい、先生に何を言ったんですか!」
「私は何も言ってませんよ。お嬢様と私が伺ったら、先生がご自分から言い出されたのです、モーリスさんで書きます、って」
古海は、しきりと腰を伸ばし、腕をぐるぐる回している。
「なんで? だって、先生は、結婚するからもう書かないし、資料も処分なさると……」
「知りませんよ、そんなこと。とにかく、そういうことになったのです」
古海は顔をしかめた。
「資料というのは、直緒さん、私が積み下ろしした、あの大量の腐本のことですか?」
「腐本?」
「BL本のことです」
「資料でしょ」
「腐本とおっしゃい。お嬢様の主食です。私は必死でお止めしたのですが、先生はなにか感じるものがあったらしく、快くお嬢様にご蔵書をお譲りになりました」
「それはよかった」
「よくありません!」
語気荒く古海が断じた。
「おかげで、アタタ、腰が、肩がっ!」
恨みがましい目で直緒を見た。
典子は、出社してこない。
運び込んだくりいむ先生所蔵のご本の分類に忙しいのだそうだ。
その典子に代わって、今日は古海が、パソコンに向かい、作業をしている。
直緒はかねがね、典子はパソコンに強いと感心していた。
テキスト原稿をいともたやすく電子書籍に変換したり、ネット書店と取引したりしていたから。
しかし、それらは、古海の指導によるものだった。
実際、モーリス出版で使う殆どのプログラムは、古海の手になるものだ。典子はただ、古海に言われるままに、キーボードを操作していたにすぎない。
らしい。
古海が、ディスプレイから目を上げた。
「お嬢様は、いずれ、BL図書館を開くのだそうです。この屋敷に。私は断じて、」
ばん、と机を叩いた。
「断じて、この一乗寺家の敷地にそのようなものを作らせるわけにはまいりませんっ」
「BL図書館。いいじゃありませんか」
原稿から目を上げずに、直緒は応えた。
「いずれはモーリス出版の本も所蔵できるよう、僕も精いっぱい頑張ります」
直緒としては、やっぱり、紙の本も出せるようにしたい。
電子書籍だけでなく。
「その為には、もっともっと、モーリス出版の知名度を上げなければ」
「直緒さん」
原稿に落ちる影に、直緒は目を上げた。
傍らに古海が佇んでいた。
近い。
近すぎないか?
明らかに彼は、直緒のパーソナルスペースを侵している。
古海は一度口を開き、無言で閉じてから、再び開いた。
「今、こんなことを言い出すのは、卑怯だってわかってます。だって、あなたは、心に傷を負ったばかりだから。でも、あなたが、私を……」
ためらっている。
言い間違えたのか、咳払いをして、古海は言い直した。
「あなたが、 男同士の恋愛を……その、BLを受け容れてくれたことは、非常に嬉しいです」
そして、なぜか疾しそうに付け足した。
「もちろん、お嬢様の話し相手になって下さることも」
「心の傷なんて、もうありませんよ」
てきぱきと手を動かしながら、直緒は答えた。
「典子さん……編集長のことは、尊敬しています。他はともかく、この仕事に関しては、たいした目利きでいらっしゃる。僕はついていきますよ、あの人に」
「それはお止めになった方が」
「は?」
「ですから、お嬢様のご趣味に付き合っていると、いまにとんでもないことになると、申し上げたのです」
「そんなことはありません!」
思わず強い口調で直緒は叫んだ。
「僕は、典子さんの勧めてくれたご本のお陰で、救われたのです」
「……」
古海は、目の前の椅子にどさっと腰を下ろした。
目の高さが、直緒と同じになる。
三白眼に近い、切れ長の目だ。
なんだか、蛇に睨まれたハムスターの気分になり、直緒は落ち着かない。
しばらくじっと直緒の目を見つめてから、古海は言った。
「肩、揉んでくれませんか?」
「え?」
「肩、揉んでください」
「いやです。仕事中ですし」
……なんで俺が、この人の肩を……。
直緒はちょっとむっとした。
しかし古海はしつこかった。
「私一人が何百冊もの本を積み下ろししたのは、ですね。いったい、誰の……」
「それはっ」
「あなたは、心の傷など、もうないとおっしゃる。それなら、」
くるりと背中を向けた。
「肩、揉んで下さい」
「わ、わかりました、わかりましたよっ」
話が微妙にズレたと直緒は思った。
だが、話し言葉を校正しても、言った言わないの、水掛け論になるばかりなのを、経験から、直緒は知っていた。
古海があの日、直緒を置いていったのは、あの町に、みなみがいたから。
直緒をふったみなみが、恋人と楽しそうに歩いていたから。
もちろん、直緒だってわかってる。
わかっていないのは、典子だけだ。
直緒は立ち上がって、古海の後ろに立った。
黒いスーツの肩は、幅広かった。
古海の髪は、短い。
優雅にカーブした耳たぶが見える。左の耳朶に小さなほくろがあった。
「まだですか?」
じれったそうに古海が言った。
おもわずどきりとして、直緒は答えた。
「いや、こんなに近くで、人の耳を見たのは初めてだ、と思って」
「何を言ってるのです。さんざん見たでしょ、女の恋人のを」
「古海さん、その言い方、止めてください。見たことありませんよ、みなみちゃんのみみたぶ。こんなに近くで」
「え? ほんとに?」
「しつこいなあ。ほんとですよ」
「お泊りデート?」
「あるわけないでしょ」
「ふたりきりで密室に籠ったりとかは?」
「そ、そんなこと……」
「まさか、結婚するまで大切に待とう、なんて古めかしいことを思ってたわけじゃ?」
「セ、セクハラですからっ、その質問!」
直緒は顔を赤らめた。
椅子ごとくるりと古海が振り返った。
「さすがにキスくらいはしたことあるでしょうね?」
「だ、だから、せくはらですっ!」
「ふ、」
と古海が笑った。
なんだか、満足そうな、幸せそうな笑みだった。
その顔のまま、さらっと毒を吐いた。
「それなのに、結婚を申し込んだ? 甘い。直緒さんは、大甘ですね」
「なんで?」
直緒はむっとした。
「僕は、彼女の年齢とか、将来のことを考えて、ですねっ」
「いくところまでいきついて、このままいたらお互いずるずるだ、と思ったら、プロポーズすればいいじゃないですか。もしくは、できちゃったら。制度があるから、一緒にいられますもん。飽きても、飽きられても。女との結婚なんて」
馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「それを、キスしただけでプロポーズするなんて。直緒さんは、なんて甘い人なんでしょうねえ」
そう言いながらも、古海は嬉しそうだった。
非常に、嬉しそうだった。
「肩を揉むのは、止めです」
むかっとしたので、直緒は言った。
古海もしぶとい。
「そうはいきいませんよ。ダメです。肩、揉んで下さい」
「なんで……」
「私の肩凝り腰痛は、直緒さんのせいですから」
「いや、むしろ、典子さんのせいでは……」
「お嬢様に私の肩を揉ませるのですか? 腰も?」
「いや……」
慌てて直緒は、古海の肩に手を置いた。
黒いスーツの肩は、ひやりと冷たかった。
目の詰まった上質の布の感触だ。
古海の肩は、固くて筋張っていた。
「これ、凝ってるんですか?」
「あなたのせいですよ、直緒さん。柔らかく揉みほぐして下さい」
言われて直緒は、力を込めた。
「それ、痛いです、痛い」
「口うるさいなあ」
ぼやきつつも、少し、力を抜いた。
「これでいいですか?」
「弱すぎます」
「……」
少しだけ、力を強めた。
「ああ、いい気持ちだ。力を抜いた男の手で揉まれるのが、一番気持ちがいいのですよ」
「そんなもんですかね」
直緒は、肩こりなどしたことがない。
電気店のマッサージチェアに横になっている人を見ると、そんなに気持ちがいいのかと、不思議に思う。
「直緒さん……」
向こうを向いたまま、古海の手が、直緒の手に伸びた。
指先をきゅっとつかむ。
「あ。痛かったですか?」
思わず直緒は尋ねた。
「違います」
「力の加減がわからなくて」
「……煽ってるんですか?」
「そんなに肩が凝ってるんですか?」
思わず、質問に質問で返してしまった。
再び、古海がうめく。
「直緒さん。あなたって人は……」
後ろ姿の肩がこわばった。
「わかってやってるんですよね? ね、わかってやってるんでしょ」
「はい? 僕にはなんのことやら。言いたいことが合ったら、はっきり言って下さいよ。言葉で」
今日の古海は、少し変だと、直緒は思った。
「……しっ」
不意に古海が直緒を制した。
もう一度、ぎゅっと直緒の指先を握ってから、立ち上がる。
抜き足差し足で、ドアに向かって歩く。
ドアは、少し、開いていた。
ノブをつかみ、ぱっと開け放った。
「だめ、直緒さん! 違う! 相手が違うから!」
転げ込んできたピンクの風が叫んだ。
「何が違うんですか、何が!」
珍しくキレ気味に、古海が詰問する。
「相手が違うって、なんですか?」
「だから、古海と直緒さんじゃ、絵にならないの」
「は?」
「わたしはね、古海を見ても、萌えないのよ。だから直緒さんには、是非とも別の人とのカプを……」
カプってなんだろう、と、直緒は思った。
カプチーノ?
カプセルホテル?
落ち着き払って古海が言った。
「お嬢様、腐った妄想はいつものことですが、立ち聞きはいけません」
「立ち聞き? 失礼な。ドアが少し開いていたから、聞こえちゃっただけよ」
「レディのすることではありませんね」
「よく言えるわね。わたしの会社で。あんなことやこんなことをしておきながら。直緒さんみたいにまじめで純情な人に。古海。あなたって人はっ!」
「あんなことやこんなこと?」
「えっちなことよ」
「えっちぃ?」
直緒は素っ頓狂な声をあげた。
「僕ら、二人とも、男ですよ?」
完璧にスルーされた。
「何を証拠に」
落ち着き払って古海が言う。
「二人とも、ほら、着衣のままです」
「着衣プレイは萌えます」
「お嬢様、顔が赤くなってます」
古海が指摘した。
確かに典子の顔は、うっすらと上気していた。
とてもかわいらしいと、直緒は思う。
子どもがするように、典子はだだをこねた。
「だって、聞こえたもん。力を抜く、とか、揉む、とか。そっとやさしく、とか。気持ちいい、とか!」
「いちいち、拾ってきますね。でも、私はただ、直緒さんに肩を揉んでもらっていただけですが」
「えっ? そう? そうなの?」
救いを求めるように、典子は直緒を見た。
「古海さんの言うとおりです」
直緒は答えた。
事実だから、仕方がない。
なんといっても、男同士だし。
古海はため息をついた。
「お嬢様。いいかげん、くりいむ先生からいただいたご本の読み過ぎです」
「あなたに言われたくないわ、古海。自分だって、盆栽コレクションで、はあはあ言ってるくせに」
「盆栽乱舞」
顔色も変えずに古海が言う。
典子がそっぽを向いた。
「いいのよ、別に。青臭い匂いがたまらなくても。まだ青い、小さなコたちを、囲って調教するのが好きでも」
……やっぱり古海はヘンなのか?
鼻息荒くまくしたてる典子を見ながら、直緒は思った。
いや、でも、古海は、あれで意外と優しいことがある。
みなみとの一件では、随分世話にもなったし……。
涼しい顔で古海が答えた。
「お許しが出たのなら、盆栽カフェを出したいのですか」
……確定。
一瞬でも、彼に包容力(抱擁力ではない)があると思った自分が馬鹿だったと、直緒は思った。
……ヘンな人なんだ、やっぱり。
典子が即座に却下する。
「駄目です」
「おいしいケーキも出しますよ?」
「ケーキ……」
典子の目が泳いだ。
その目が、みるみるうちに、きらきらと輝きだす。
「バーターでどう? わたしは図書館を作るわ。あなたはカフェを作ればいいじゃない」
「う……」
古海が言葉に詰まった。
続いたしばらくの間は、彼に相当な葛藤があったことを物語っていた。
とうとう、彼は言った。
「一乗寺財閥の令嬢に、BL図書館を作らせるわけにはまいりません。盆栽カフェは、諦めます」




