第11話 輝くイケメン
「あ、この部屋はいいの。この部屋には、入らないでくれる?」
雛子は言った。
結婚式を数日後に控え、引っ越しをしているところだった。
家具や電化製品は、二人で持ち寄ることになっている。
雛子の一人暮らしも、随分と長い。
電化製品の大半は、すぐにも寿命を迎えそうだった。
だが、夫となるタカアキは、呆れるほど物を持たない男だった。
もちろん、二人とも、貯金は殆どない。
タカアキは、多趣味だからと言っていた。雛子も似たようなものだ。
仕方がないから、稼働十数年の引退すれすれの大型家電も、捨てずに運び出さねばならない。
かなり大掛かりな引っ越しとなった。
問題は、この部屋の……。
部屋に入るなと言われ、運送屋のお兄さんは、入り口でたたらを踏んだ。
「でも、段ボール箱がたくさん積んでありますよ?」
「あれはいいの。あれは新居に持っていかないから。あれはつまり……」
そうだ。
例のブツ以外は、ゆうべひとりで、全部、廊下に運び出したのだ。
だから今この部屋には、例のブツしかない。
「ああ、ゴミですか」
いともあっさり、お兄さんは言った。
雛子はむっとした。
「違うから」
「不用品の処分も、お気軽にご相談ください」
「だから違うって言ってるでしょ!」
雛子のあまりの剣幕に、お兄さんは首を振り振り、キッチンの荷出しに取り掛かった。
……ふう。
雛子はため息をついた。
ちらりと部屋の中に目をやる。
積み重ねられた段ボール箱が、何箱あるのだろう。
30や40ではきかない数だ。
あの中には、紙の束が入っている。
綴じられた紙もあるが……それを人は、本という……、ばらばらに裁断された紙もある。
……ゴミじゃない。
強く、雛子は思う。
今日この日まで、雛子を見守り、辛い時には励まし、そして夢をみさせてくれた愛しい紙の……。
「ごめんください!」
いきなり訪う声が聞こえて、雛子は飛び上がった。
このマンションには、入り口オートロックなどというしゃれたものはついていない。
侵入者は、もれなく目的の部屋の前まで来られる。
引っ越し中だから、玄関ドアは開けっぱなしだ。
でも、ごめんください、と言っているのだから、泥棒ではないだろう。
まだ昼間だし。
慌てて走っていくと、そこには、背後から差し込む太陽の光を浴びて……、
きらきらと……、
……輝くようなイケメンが立っていた。
思わず、数日後に控えた結婚式が恨めしくなった。
だって、タカアキより数倍ステキ……。
いやいや。
男をカオで判断してはいけない。
雛子は、人生で何度目かの反省をした。
埃が目に沁みるのか、目をぱちぱちさせて、イケメンは言った。
「あのう……。お取込み中、申し訳ありません」
「いえいえいえいえ」
雛子は答え、ちら、と値踏みした。
若い。まだ20代だろう。柔らかそうな癖っ毛に白い肌。視力が悪いのか、若干目の焦点が合っていない。だが、驚くほど大きな、そしてきれいな瞳だった。
小柄で華奢な体格だ。スーツの上着を腕に掛けている。ストライプのワイシャツが、清潔感を醸し出している。
……受け。
即座に認定した。
……おっと。
……もう、やめたんだった。
「お引越しですか? 大変な時に訪問してしまってすみません」
イケメンは、再び謝った。
恐縮している。
許す、と雛子は思った。
輝くイケメンが相手なら、なんでも許す。
それが、腐女子というものではないか。
……いけない。腐女子はやめたんだった。
「ええ。まあ」
「お忙しい所、恐れ入ります。わたくし、モーリス出版の本谷と申します」
「モーリス……出版?」
聞いたことのない社名だった。
本の押し売りだろうか?
それにしては、押しの弱そうな男だった。
本谷と名乗ったイケメンは、上目づかいで雛子を見た。
思わず、どきっとした。
「あの、くりいむメロン先生でいらっしゃいますね?」
「なっ、なぜその名をっ!」
それは、32年の雛子の人生における、トップシークレットだった。
既に決別した、過去の名前の筈だった。
「あ……違っていたら、ごめんなさい」
本谷は慌てたように頭を下げた。
色の白い肌が、うっすらと紅潮している。
絶世のイケメンを前に、雛子は、嘘をつくことはできなかった。
「くりいむメロンは私です」
「ああ、くりいむ先生!」
イケメンは一歩前に進み出た。
ためらいもなく、その場に跪く。
「僕は、あなたの作品が、大好きです!」
イケメンが自分の前に跪いてる?
花、花はどこ?
二人を飾る薔薇の花は?
そんなもの、あるはずがなかった。
ここは雛子のアパートで、現在、引っ越しの途中。
段ボール箱を抱えた運送屋の兄ちゃんが、うさんくさそうな顔をして、横を通り抜けた。
……自分は、もう、腐女子を辞めたのだ。
書くことだって……。
「あ、ありがとう」
複雑な気持ちで雛子は礼を言った。
「でも、どうしてここを?」
「申し訳ございません。弊社の人間が……あの、彼女も、先生の大ファンなんです。ずっと好きで、あんまり好きで、つい、思い余って。だから……」
「だから?」
「ちょっとした手を使いまして。その……」
「?」
雛子は忙しく頭を働かせた。
彼女がくりいむメロンであることを知っているのは……。
ネットで知り合った同人誌の仲間たち。
印刷屋のおやじ。
コミケ主催者……。
でもなあ。
同人誌仲間は住所を知らないし、印刷屋やコミケ主催者側は、個人情報を漏らしたりしないはずだ。
つい3ヶ月前も、大規模なコミケがあった。
雛子は、知る人しか知らないが、結構な人気作家だった。
年に2回出品するが、毎回、30分で完売する。
ありがたいことである。
しかし彼女は同人誌作家であり、プロではない。
その上、完全な覆面作家である。個人情報は一切、さらしていない。
同人誌の仲間にさえ、職業年齢出身地、自宅の住所も教えていない。
「もしかして、コミケの後、私の後をつけてきたとか?」
雛子がつぶやくと、本谷は、かわいそうなくらい頬を赤らめた。
跪いたまま、真っ赤な顔で、見上げてくる。
「弊社の者が、その、あの……私立探偵を雇いまして」
「私立探偵!?」
「あ、でも、その者も、お父上に言いつけると言われて、深く反省し……」
なんのことか、さっぱりわからない。
しかし、今まで見たこともないような、どハンサムが、身も世もあらぬふうに恐縮しているのは、けっこう、クる。
もっともっといたぶってやりたいと雛子は思った。
それが、腐女子のサガというものだろう。
って。
だから、自分はもう、腐女子を辞めたんだって!
そんな時に降ってわいたように現れたイケメン。
……今になって、こんな、オイシイものを。神様のイジワル。
今のうちに、もっともっと鑑賞しておこうと、雛子は本谷にすり寄ろうとした。
するといきなり、本谷が深々と頭を下げた。
「お願いです、くりいむ先生! 弊社にお原稿をいただけませんでしょうかっ!」
……そういえば、さっき、ナントカ出版、って。
……出版社? するとこれは、
……夢にまでみた、原稿依頼!?
「お願いです! 是非、弊社に、私に、原稿をお預け下さいっ!」
「ええーーっ!」
雛子は思わず大きくのけ反った。
「わ、わ、私の作品を、本に? ナントカ出版社さんが出して下さるっていうの?」
「モーリス出版でございます」
慇懃に本谷は答えた。
「モーリス……」
「ええ。BL専門出版社です」
立ち上がり、胸を張って、本谷は答えた。
聞いたことのない名前である。
日本のBL出版社の名前は、大抵把握している雛子である。
……できたばかりの会社?
こんなイケメンを編集者に雇うとは、なかなかどうして、見どころがある。
読者として、支持してやってもいいくらいのものだった。
だが……。
「……だめ」
この一言を言った時、雛子は死にそうになった。
新興弱小出版社とはいえ。
やっと。
ようやく。
自分の作品を本にするチャンスが巡ってきたというのに。
本谷の顔が、みるみる曇った。
「では、すでに他社様の手に……?」
「いいえ、それはちが……」
「冷蔵庫の後ろ、ちょっと掃除したほうがいいんじゃないっすか?」
胴間声が聞こえ、雛子は飛び上がった。
本谷の後ろに、がっちりとした体型の、引越し屋のお兄さんが立ち塞がっていた。
冷蔵庫を運び出したせいか、流れる汗が滴っている。
むき出しの両腕の筋肉が、きらりと光る。
……本谷さん、バックを取られた!
雛子は、思わず目をむいた。
慌てて、湧きかけた妄想を封印する。
雛子の心中など知りもせず、お兄さんは言った。
「冷蔵庫をどけたらね、壁が、すごい埃ですよ。ここ、賃貸っしょ? 絶対、掃除しといた方がいいっす。大家さんの心証が違います。敷金の返金が多くなります」
「わかったわよ」
雛子はしぶしぶ、はたきを手に取った。
冷蔵庫の後ろなど、掃除したことはない。
というか、冷蔵庫の後ろの壁など、ここに越してきて以来、初めて見た。
確かにすさまじい埃だった。
雛子が気乗り薄で壁をこすっていると、引越し屋のお兄さんは、食器棚をひょいと担ぎ上げた。
僧帽筋が、ぐぐっ、と盛り上がる。
……これなら、本谷さんをお姫様だっこするくらい、たやすいこと……。
「まだ、お引越しの途中だったんですね」
体を引いてお兄さんをやりすごし、本谷がつぶやいた。
「ご迷惑を。でも、僕はあきらめませんよ」
絶世のイケメンにこう言われるのは嬉しい。
涎がでるほど嬉しい。
だが。
望みのない期待を抱かせるのはよくないと、雛子は思った。
思い切って言った。
「私、結婚するの」
「はい?」
「だからね、腐女子を卒業することにしたの。奥の部屋に積んである箱ね、あの箱の中は、今まで集めてきた本やCD、DVDなんかが詰まってる。全部、ネット書店に引き取ってもらうつもりよ」
「え? 全部?」
「そう。もうね。きっぱりすっぱり蔵書を処分して、清らかな体で嫁ぐのよ」
特に好きな作品は、裁断して電子書籍に自炊したことは、雛子は言わなかった。
引っ越しの今日まで、時間切れになるまで、必死で自炊を続けた。
電子に変えて、雲の上に上げてしまったものなら。
「家族」に見られる心配はない。
だが、大事な本を切り裂いたことは、今も、心の傷として、じくじく痛み続けている。
「わたし、BLは、卒業したの」
「なぜ?」
「なぜって」
憤然と雛子は言った。
「だって、家族ができるのよ? 見られたら恥ずかしいじゃない。だから、書くことももう、止めたの」
「くりいむ先生、それ、間違ってます」
はっきりとした口調で、本谷が言った。
「BLは、全然、恥ずかしいものではありません。むしろ登場人物たちの純粋な思いは、読者の心を慰め、明日への活力を与えてくれます」
「でも、やっぱり、あのペロペロは」
「ペロペロ?」
きょとんとして本谷は言った。
「ペロペロとはなんですか?」
「だから、ほら、あれよ、R18……」
「先生のお書きになる小説に、恥ずかしい描写など、ひとつもありません! 現にわが社の社長は、文学だと言っております」
「あなた……わたしのどの本を読んだの?」
本谷は書名を答えた。
「ああ、あれ……」
雛子の著書(同人誌だが)の中では珍しく、過激な描写のないものだった。なぜなら、某出版社の主催した恋愛小説新人賞へ応募した作品だからだ。
最終選考まで残ったが、落選した。審査員の講評によると、落選の理由は、NLではないから。
普通の恋愛小説を求めているのに、雛子は、BLを応募してしまった。
完全なカテゴリーエラーだった。
それでも、最終選考までいったのが嬉しくて、雛子はそれを手直しし、コミケで売ったのだ。
雛子の本には珍しく、売れ行きはあまり芳しくなかった。
それでも、こうしてファンになってくれた人がいる。
温かい思いが、雛子の胸に満ちた。
「失恋して、どん底まで落ち込んだとき」
ゆっくりと本谷は話し始めた。
「ある人に勧められて、僕は、くりいむ先生の作品と出会いました。そして僕は、先生の作品に救われました。だから先生。もっとたくさんの人を救いましょう。先生のお作には、その力があります」
「でも、婚活、大変だったし。せっかく実ったんだから、無駄にしたくないし」
それは雛子の本音だった。
合コンで知り合ったタカアキには、もちろん、自分が腐女子であることも、同人誌を作っていたことも、話していない。
話せるわけがない。
本谷が両手をこぶしに握りしめた。
目に異様な力を込め、言った。
「先生。もし、妻の趣味を許せないような男なら、……結婚すべきじゃありません!」
「直緒さん。それはあなたが言うべきことではありません」
柔らかく、それでいて芯の通った声が聞こえた。
本谷の横に、いつの間にか、黒ずくめの服装の若い男が立っていた。
本谷よりは年上のようである。そして、背も高い。
前髪を軽く逆立て、銀縁の眼鏡をかけていた。
「我々は、女性に安らぎを与える為に存在するのです。たとえ我々から離れて行こうとも……女性が幸せになるのを、邪魔してはいけないのです。それが、モーリス出版の社是です」
本谷とは違ったタイプのハンサムである。
イケメンが二人。
まるでこの世の奇跡のように、目の前に並んでいる。
雛子は息を呑んだ。
「古海さん……。しかし、くりいむ先生のご本によって、読者が幸せになれるのですよ! 人を幸せすることによって、不幸になるなんて、そんなこと、あるわけない!」
「忘れたのですか?」
古海と呼ばれたイケメンは、本谷の顔をじっと見た。
背が高いので、顔を覗きこむ格好になっている。
まことに結構な角度だ。
「優れた文学は、時に、作者をも呑みこんでしまうことがある。それは、編集者にとっても同じこと。あなた自身も、呑みこまれたのではないのですか、直緒さん?」
本谷の顔が、みるみるピンク色に染まっていった。
散りゆく桜の花びらのような、きれいな色だった。
潤んだ眼差しが、古海を睨む。
古海は、無表情のまま、じっと本谷を見下ろしていた。
本谷の顔が、赤くなったのと同じくらいの早さで青ざめていった。
「おわかりになったでしょ、本谷さん。くりいむ先生を、あなたと同じ目に遭わせるわけにはいかないのです。なぜなら、先生もまた、女性。幸せにならなければならない人種です」
古海は雛子に目線を寄越した。
眼鏡の奥のまなざしが、優しかった。
……女でよかった。
人生で初めて、雛子はそう思った。
古海は言った。
「くりいむ先生、本谷の無礼をお許しください。そしてどうか、お幸せに」
そして、本谷の腕を取った。
有無を言わさず、歩き始める。
きっと、上司なんだわ、と、雛子は思った。
モーリス出版の編集者と、ハンサムなその上司。
もしかして、ちょっと鬼畜系。
本谷は、一度だけ振り返って、頭を下げた。
なんだか泣きそうに見えた。




