二羽 「四辻」
そこにいたのは――美しい女性だった。
僕より少し年上といったところだろうか。
黒髪ロングで、通った鼻筋、整ったアーモンド型の目、血色の良い唇。顔は小さめで手足が長く、華奢ながら柔らかな印象を与える体つき。スタイル抜群と言って差し支えないだろう。何と言ってもきょぬーだし。
黒の半袖デニムシャツと黒のパンツと相反するかのように主張する、白磁のように白い肌。
何もかもが黒。黒、黒、黒。黒――……黒。
夜が人の形を得てそのまま姿を現したなら、きっとこうなるのではなかろうか。
【美】の、ある種の完成系だと思わされるほどに、立っていた女性は美しかった。
と、そこで一度冷静さをに取り戻した僕は、自分を戒める。
物質に触れられるほどの力を持っている霊など前例がない、だとすればこの女性は人間か、もしくは霊を喰い続けて霊を超えた存在なのか……どちらかに絞られる。相手にはしたくない。
「こんばんは、まずは家に入れさせてもらっていい?」
「失礼ですがお断りさせていただきます」
言いながらドアを閉めようとした僕の手に、女性の柔らかな手が添えられる。
「あら、つれないのね」
「こんな夜遅くに訪ねてきた見ず知らずの女性を家に入れるほうがどうかしてますよ」
「失礼な子ね」
失礼な子……やはり、年下を想定したニュアンスだと思われる。
それに、この女性――隙が一切ない。温厚な雰囲気を醸し出しているが、同時に鋭い刃物のような剣呑さを持ち合わせている。
「別に私は、あなたを喰いに来たわけではないの」
「信じられませんね」
それだけの霊力を持っておきながらよく言う。
「そうね……だったら」
言いながら、その女性は流れるような動作で我が家の玄関に侵入し、内側から鍵を閉めた。
マズいな。このまま家にはいられてしまってはどうしようもない。
懐に入れておいた包丁に手をかけようとした僕を嘲笑うかのように、その女性はにやりと笑った。
「は?」
とてつもない余裕。
気色悪い笑みを浮かべたまま僕ににじり寄ってくる謎の女性……いやいやいや。おかしいだろ。
「いっいやいやいやちょちょっと! なっ何してるんですかぁっ!?」
「ダメなのかしら?」
「ダメに決まってんだろぉがこのアバズレ女!」
そうだ、驚いたり怯えてたりしていては殺されてしまうばかりだ。
全力で走り前へ距離を詰めて、包丁で斬りかかる――が、その刃は、女性には届かなかった。
女性が、素手で刃を掴んでいたからだ。
ありえない。
これが普通の包丁だったならば、強い霊力を持つこの女性には無効化されても仕方ないと言える。しかし、これは浄めの水で浄化されている、正真正銘の武器になりうるもの。この包丁でそこら辺の霊を切ってみれば、無理矢理絶命させることが出来るほどに、本来は強力な武器なのに、だ。
「まずは落ち着いて、ね?」
「うるさいっ……!」
蹴りを叩き込もうとするが、その足ごと掴まれ、リビングのほうへ軽く投げ飛ばされる。膂力が人間の比ではない。
「ぐっ、がぁっ……」
「こんなもので私を殺せるだなんて、思わないことね」
包丁が、消え去る。
まるで、元よりこの空間に包丁が存在していなかったかのように、一瞬でいとも容易く包丁という物体が、跡形もなく消え去った。
くそっ、何か手立てはないのか……?
「だから、落ち着きなさい、って言ってるでしょう?」
僕が立ち上がろうとした瞬間――女性は、僕を抱きしめた。
柔らかく暖かい女性特有の感触が、僕の思考回路を甘く融かしていく。ぐちゃぐちゃに溶け切った頭では、もう何も考えられそうにもない。
この女性は僕を喰いに来ているのではないのか?
いや、もうそんなことも、もはやどうでもよくなってきていた。考えたくなかった。現実と向き合うことが怖かった。
僕が感じたかった、人のぬくもりを、今確かに僕は自分の肌で感じていた。
「ぅ……」
「いいのよ、私になら。頼っても。私はあなたを裏切ったりしないわ」
嘘だ、と体が叫んでいる。
違うぞ、と心が言っている。
ぬくもりは本物だ、と体が理解している。
僕が欲しかったものは、強い霊能力でも、何でもなかった。ただ、僕を受け入れてくれる人だったのだ――と今更ながらに再認識させられた。
「あんたは……」
「何かしら?」
「あんたは、僕を……どうしたいんだ? 喰いたいなら、喰えばいい。どうせ、僕はあんたには敵わない」
「違うわよ。あなたを喰ったりなんかしないわ。あなたにお願いがあって来ただけ」
だったらわざわざ投げなくても――と思うが、そりゃいきなり包丁を向けたのは僕だし、文句は言えないだろうな。
と、僕はまたしても気づく。
年上の豊満なボディを持つ女性に思いっ切り抱きしめられている、抵抗していない男子高校生。……そう、この犯罪的な構図に。
「はぅあっ!?」
いつの間にか、僕の顔は女性の豊満な谷間に埋まっていた。
「暴れないの。――別にいいのよ。一生に一度しかないかもしれないのだから、たっぷり味わっておいても」
そう言われると、ちょっとばかり顔をうずめてもいいんじゃないかと思ってしまう。いや、男の性ですから!
髪を手櫛でとかされながら、優しげな声音でそう言われると、抵抗する気すら失せてしまう。
「私のお願い……聞いてもらえるかしら?」
意識も溶けて消えてなくなってしまいそうではあるが、かろうじて捻くれたいつもの声を出す。
「僕に出来ることだったら、ね」
「嬉しいわ。大丈夫、簡単なことよ」
正直この女性のお願いなどロクなものではない気がするが、僕に出来ることだったら、と言ってしまった以上は聞かなければならないだろう。僕にもプライドはある。
「私のお願いはね……」
自然と体に緊張感が張り詰める。
「私をしばらく、この家に泊めて欲しいな、って」
「金がないから却下」
よーし、帰ってもらおう。
お金がかかることなら僕は断る自信がある。ましてや、知った顔の友達ではなく、先ほど僕をぶん投げたとても強い霊力を持つ女性など、泊めたところで僕に何の利益もない。
つーか家の中にいられると僕の霊力のセーブが効かなくなるし、僕には損のほうが大きいと言える。……まぁ、彼女の霊力に恐れをなした霊たちがこの家に寄り付かなくなるだろうから、それはそれでありがたいといえばありがたい、か。
「安心して、お金ならあるわ。私を泊めてくれるというのなら、このお金も好きに使ってくれて構わないし」
黒いパンツの尻ポケットから取り出されたのは、ごく普通の通帳。
差し出された怪しげなそれを一睨みしてから、僕は中身を見る。
そして、そこに書かれていた金額を見て、僕は怪しみ以上の驚きを隠せなくなった。
いくら通帳の中とは言っても、この金額は少し……いや結構おかしい。なぜこれほどの金額を持っているのに自分でホテルの部屋を借りて生活しないのか、など様々な疑問が湧き上がってくる。
だが、しかしお金があるというだけでは許可する理由にはならない。何せ初対面な上に僕は女性の名前も知らないのだ。
「まずは、聞きたいことがいくつかある」
「ええ、いいわよ」
随分と余裕があるといったふうの態度だ。
「あなたの名前だ。僕の名前は知っているだろう」
「私の名前? 四辻麗華よ。あなたのことは知ってるわ……朽葉真夜くん」
「話が早くて助かる。今更名乗る気はないからね」
四辻麗華、ね。
心の中で復唱してから、次の質問に移る。
「……あんたはなぜこれだけの金を持ってる」
「答えられないわ。でも安心して、汚いお金ではないとだけ言っておきます」
「それは何より。……次。どうして僕だ」
そこが一番気になっている点だった。
どうして、よりにもよって僕なのだろうか。霊能力者は、まぁ溢れているとは言わないまでも、街を探せば何人かすぐに見つかるはずだ。僕が通っている高校にも一人か二人くらい霊能力者がいたはず。
「あなたが優しそうだったから……じゃ、ダメかしら」
どうやら本当のことを言うつもりはないらしい。
まぁ、そうだろうな、とは薄々予想していたが。
「それでいいよ、もう……。次。本当に僕を喰うつもりじゃないんだな?」
「ないわよ。今のあなたはあまり美味しくないわ」
今は、という含んだ言い方が少し気にかかったが、それこそ今問い詰めるほどのことではないだろう。つーか美味しいか不味いかで喰うか喰わないか決めているのか、この女……。僕が今の時点で美味しいと思われていたらどうなっていたのかは想像に難くないが考えたくもないな。
他にも聞きたいことは山ほどある、が。
「……わかった。ひとまずあんたのことは信用する」
これ以上根掘り葉掘り聞いてもロクな答えは帰ってこないだろうと結論付けた僕は、ひとまず答えだけ述べておく。
「ありがとう、いい子ね」
「そりゃどーも。今からあんたの分の部屋を開けるから、手伝ってくれ。泊まるんだろう」
僕がそう言うと、少しだけ驚いたような表情を見せる四辻麗華。
お前が泊めろと言ってきたんだろうに。
「あら、部屋も用意してくれるの? 親切ね」
「父と母の分、どっちでも好きな方を選んでくれ。ちなみに僕のおすすめは母の部屋だ、僕の部屋からだと父の部屋を挟んでるから隣どうしにならなくて済む」
二人の部屋にはこれまで誰も入れたことがなかったが、まぁ、別に固執するべきものでもない。いい加減掃除しなければと思っていたし、良い機会だと自分に言い聞かせておく。
「じゃあそうさせてもらうわ」
「あぁ、助かる」
二階に上がり、母の部屋に掃除機と雑巾をかけたり、不要なものをまとめたりしているうちに、既に日付が変わるどころか深夜の一時を回っていた。
しかし、片付けが思ったようには進まず、結果寝床を確保するにも至らなかった。
部屋が予想以上に埃を被っていた、というのが大きな要因か。これはいろいろまとめて干さないと使えそうにないな。
「ごめん、さすがに僕も眠らせてもらいたい。今日も学校なんだ。シーツを取り替えるから今日は僕の部屋のベッドで寝てくれ」
「いえ、私はソファーか床でいいわよ。疲れてるでしょう? ゆっくり睡眠をとることも大切だと思うわ」
正直に言って、僕の寝ている無防備な姿を晒すのもどうかと思うのだが(喰われる可能性がないわけではない)、それ以上に睡魔が強い。
「すまない、そうさせてもらう。毛布を持ってくるから、少し待っていてくれ」
「ありがとう。何だかお世話になりっぱなしね」
「そう思うんだったら恩返しの一つでもしてくれ」
「あら、私が鶴になってもいいのかしら?」
「少なくとも殺されるかもしれないと怯えるよりはマシだ。つーかあんたが傍にいるとセーブがかけられない」
「それは申し訳ないわね」
軽口を叩き合いながら、四辻麗華に毛布を渡す。
こんな家族みたいなやり取りをする日が来るなんて、到底思いもしなかった。僕の求めているものを、こいつは知って近づいてきているのだろうか。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ。……僕を喰うなよ?」
本当に僕を喰うつもりだった場合、無駄だと思うが、最後の念押しをしておく。
一応、自室の入口にはセンサーを取り付けておいた。赤外線を遮る者がいた場合に警報を鳴り響かせるタイプのものだ。とはいえ、センサーが鳴って僕が起きることが出来たとしても、だからどうするのかと問われれば答えられない。
眠ったまま死ぬのが嫌なだけだ。
せめて夜の静寂に抱かれて死ぬなんてことは避けたい。彼女のぬくもりを感じながら、笑顔で逝きたいものだ。
「わかってるわ」
にっこりと微笑まれてしまっては追撃のしようがないので、おとなしく自室のベッドに退散することにする。
電気を消してからベッドに入り布団を被ると、いよいよ睡魔は強く大きくなり、僕はそれにためらうことなく身を預けた。
眠りの波に、僕の意識が押し流されていく。
僕は眠っているのだろうか?
深夜、唐突に何か物音が聞こえた気がして、僕の意識は現実に引き戻された。と感じたが、もしかしたら、今僕が見ているこの世界は現実などではなく夢なのかもしれない。
おとなしく眠らせてくれ。
「あなたを裏切るのは申し訳ないのだけれど……ごめんなさい、先に謝っておくわ」
女性はこれからの少年のことを想い、謝罪する。
「来るべき時に備えて、あなたにも準備が必要なのよ」
女性は悲痛な笑みを浮かべ、少年を眺める。
「だから……あなたにも、人間を超えてもらわなくちゃ」
女性は二枚一対の黒い翼を広げる。
「さぁ、始めましょう」
女性はおもむろに少年の――
【四辻麗華】
真夜より少し年上の女性。
霊や一般的な霊能力者を超越した霊力を持つ。