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ホラー短編集

消失

作者: 藍上央理

 やっと手に入れた!

 Sは両腕一杯の大きな水槽を抱き締めた。そのガラス槽の中には一瞬置物かと間違えてしまいそうな巨大な蛙がいた。部屋を見回せば、Sの異常な喜びようは、これだけとは限らないことが理解できる。熱帯魚の水、アホロートル、クラゲ、果ては小学校のころから飼育してきたと自慢するオオサンショウウオ。狭い1LDK全てに、Sの趣味と生きがいが詰まっている。

 無事に育てば40cmはゆうに越える世界最大の蛙、ゴライアスガエル。世界天然記念物に指定されている、通称オニアカガエルの為に作って置いた空間に、抱えていた水槽を押し込み、その重さから解放された安堵のため息を吐いた。




Sがインターネットで見つけた、アフリカのコンゴロイド雨林に生息する貴重な蛙を、馴染みの熱帯魚専門店店長に一財産握らせてやっとのことで手に入れたのだ。店長は多分どこかの生物学の学者を装って、税関をごまかしたのだろうか。しかし、今ではそんなことなどどうでもいい。

 雌だし、女房のつもりで、大事に大事に飼ってやるからな。Sは水槽の中で身じろぎもしない蛙を見て、ニンマリと笑った。心なしか、蛙も喜んでいるように見えた。

 しかし、その喜びを何日も黙っていることができなかった。インターネットのオフ会で、Sの話に興味を示した数人を、狭い自分のアパートに連れ込み、滔々と蛙について語り始めた。これこそが蛙を手に入れる以上の喜びをもたらすものだった。要するに見せびらかしたかったのだ。蛙を通じて人が人を呼び、ほとんど連夜、蛙通の人間がSの部屋を訪れた。その度にSはうんちくを垂れた。

「俺はこいつを女房にしてもいいくらいに思ってるんだぜ」と吹聴した。

「どうやって手に入れたんだ?」と、何度も尋ねられても、Sはこの手の質問に耳を貸さなかった。

この貴重な蛙の飼い主は俺だけだ、俺だけのものなんだから、誰が教えてやるものか。

 最初の数カ月間、Sは絶え間なく喜びを感じていたが、ある日ネオンテトラが数匹いなくなっていることに気づいた。共食いしたのかな、と骨を探したが何も見つからなかった。人が来る度に魚が一匹ずつ消えていく。Sは疑わしげに来客をねめ回した。

 きっと妬んだ心の狭いアホが俺のチョウチョウウオやクマノミやアロワナを盗んで行ったんだな。そう思い込んだ途端、部屋にいる客人達をとっとと追い出し、その後は居留守を使った。しかし、連日インターネットからメールが送られてくる。

 −−−蛙は元気スか? あれからオフ会にも来ないけど、どうしてますか?

 チャットでも同じことを聞かれる。

 −−−アレは元気してる? 行きたいんだけどいっつもルスだよね、どうして?

 盗っ人共め! Sのはらわたは煮えくり返った。

 当然Sはインターネットを止めた。情報交換の場を失ったけれど、これ以上の嫌がらせを受ける気はなかった。気づけば、この慌ただしい一年のうちに、蛙は大きくなっていた。20cm強から25cm。ただ当たり前に餌をやり手間暇掛けているだけなのに。やはり住みよい環境を俺が蛙に与えているからだ、と鼻を高くして思った。

 当初、蛙は1kgだった。一年経って改めて計量してみると2kgに増えていた。水槽が小さく見えるはずである。蛙の為に、Sは数少ない持ち物であるコタツを売った。さらに大きな半畳もある水槽を備え付けた。畳にビニールシートを敷き、水漏れ防止の為に木の枠で段差を付け、Sは万年床をキッチンの下に敷いて寝た。

 他人が来なくなると、ピタリと魚の忘失は止んだ。




 二年経ち、Sは結婚した。嫁も熱帯魚両生類の好きな質だった。蛙を初めて見せた時、Sに負けぬくらいのの喜びを表し、同じ輝きを放つ瞳でSを見たくらいだった。結婚を決めたのは、この嫁が出資すると張り切ったからだ。

 通勤には不便だが、趣味にはお誂え向きの一戸建を郊外に構え、Sの趣味は同志の嫁と共にさらにこだわりを見せた。1階全てに水槽を備え、2階も一室を残し、まるでミニチュアの水族館に仕立て上げた。

 嫁が言う。

 「あたし達幸せよねぇ、子供なんか作らなくったって、もうあたし達は100……えと何匹?」

 「151匹」

 「そう、151の子供達がいるんだもの」

 Sは嫁の言葉に深く頷いた。それでなくともこの趣味には金がかかる。子供など作って産んで育てる余裕などないのだ。嫁がそれを無言のうちに納得しているのを知って、Sはニンマリと笑った。

 Sと嫁は一番蛙を可愛がった。ただ一点のみ見つめ続けるそれに、人間じみた心が宿っているのだとでも言うように。テレビを見せたり、蛙の絵本を読んで聞かせたり、細々と気遣った。それはとうに単なるマニアの域を超えていた。

 Sは昔のことも忘れ、既に5歳になる我が子の蛙をお披露目しようと、再びインターネットの世界に立ち寄るようになった。

 蛙のことを知っている古参が新参に伝え広げ、近いうちにオフ会を行うことになった。Sは蛙の写真をオフ会で見せ、希望者を家に招いた。招きに応じたのは新参ばかりだった。古参はいまだにあのSの異常な剣幕を忘れていなかった。




 新参者は蛙を取り囲み、「デカイー」「スゴイー」「ハクリョクー」と口々に漏らした。

 「だけどね、君達には理解できないかも知れないけど、この子は俺や嫁さんの言うことが解るんだ。

勿論、俺も嫁さんも我が子の考えてることくらい解るさ。今、そのことを証明するから、順に自己紹介してやっててくれよ」Sはそう言って、証明アイテムを取りに1階へ降りて行った。

 Sが再び戻って来ると、部屋には誰もいなかった。蛙は傷だらけで、嫌がらせを受けた証拠だと思えた。Sは憤然として床を踏み鳴らし、見せかけに置いていかれた荷物などを全てビニール袋に詰めて捨ててやった。

 「酷いわ、嫌がらせなんて」

 「あいつらは俺たちのことがすごく妬ましいんだよ」

 再びインターネットを止め、これからは、喜びは自分と嫁の二人で分かち合おうと心に決めた。

 蛙は2kgからさらに4kgに増えた。水槽はますます小さくなり、今や世界最大を誇る蛙は30cmを遥かに越えた。蛙に掛ける金を稼ぐため、次第に家を空けがちになり、我が子らの世話を嫁に任せるようになった頃、嫁から電話を受けた。

 「あなた! オオサンショウウオが盗まれた!」

 それを聞き、Sは急いで家に帰った。あの自慢のオオサンショウウオは、家のどこを捜しても見つからず、Sは泣きに泣いた。

 「ごめんなさい、あたしが買い物に出掛けたばっかり……」

 そうだ、とも言えず、Sはむっつりと黙り込み、嫁と会話をしなくなった。Sと嫁の関係は冷えきった。しかし、200を越える我が子らとの関係はより増して強くなっていった。

 Sは嫁に携帯電話を渡し、嫁の一日の行動を束縛した。まず、200匹以上の生物を数え上げさせた。嫁は泣きながら、しつこい要求に従った。

 数ヶ月が経ち、嫁も少しは信用を取り戻したころ、Sは一ヶ月ほどの出張に出た。

 嫁には、「電話には出ろよ、外出するときは防犯ベルのスイッチを入れとけよ」と、しつこく言い聞かせた。

 仕事は順調に進み、何もかも上手く行っていた。二週間目の夜、いつものように嫁の携帯に電話を掛けた。いつまでたっても出ない。Sは不安になった。嫁の実家や友人宅にも掛けたが、一様に知らない、と言われた。残りの二週間、まんじりともせずに仕事を終えた。




 Sは家の鍵をチェックした。かかっている。電気は全てつけっ放しだった。玄関口の防犯ベルもONになっている。しかし、どの水槽にも、あの愛すべき子らはおらず、ポンプだけがゴボゴボと音を立てている。嫁もいない。Sは慌てて蛙の部屋に入った。

 蛙は一ヶ月の間にでっぷりと太り、水槽の中に窮屈そうに収まっていた。回りの水槽はみな空だった。亀もクラゲも何もかもいない。

 Sは傷だらけの蛙の元に駆け寄り、蛙の頭を撫でた。ゲボッと蛙が何かを吐き出した。安い銀の指輪。この指輪は嫁にくれてやったものだ。

 「やっぱり、俺の女房は、おまえだけだよなぁ」

 水槽の底で、蛙はどんよりとした目をしばたき、ゲボッとゲップを漏らした。


THE END. 1998.6/3

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