白銀の獅子〜小さな花〜
ユーカリア大陸の大地を丁度三等分にした1つの領土を、ガネット・ガイア皇国が治めていた。他2つの領土は北東部にアギダムス皇国、北西部にレイーシア皇国が治めている。
3つの皇国は互いに条約を結び、表向きには友好関係を保っている。──今のところは。
憎しみと共に懇親の力を込めて少年は城門の角を蹴り上げ、そしてその代償の痛みに悶えた。
此処、ガネット・ガイア皇国では、年に1回、弓術・剣術・武術・法術の4つの術の大会が行われる。主催は王国側で、優勝者は優秀な兵士として王国に使える事が出来る様になる。ただの兵士志願なら、大会に出る必要等はない。だが、より上を目指し、更には皇帝の護衛を任される様になる為には、この大会での優勝は欠かせなかった。
大会の出場条件は特に設けられていない。だから少年は自慢の剣を腰に下げ、自分も、と名乗りを上げた。だが、結果は門前払い。受付の兵士に『チビッ子はお家に帰ってネンネしてな』と。
確かに少年は背が高い方では無い。年齢も10歳と若い。だが、剣術に関しては誰にも負けないと自負していた。
「馬鹿にしやがって」
少年は吐き捨てる様に言うと、どうにか城内へと入る事が出来ないかと思考を巡らせる。警備が厳重な城内に侵入するのはそう容易い事ではない。
暫く思案した後、少年は観客として城内の大会会場まで入る事に決めた。これならば怪しまれる心配もないだろう。
城内へ侵入した後はどうするか。少年は黙って大会を見物する気は更々無かった。
木陰に腰掛け、少女は小さな花を眺めていた。緩やかな風がさわさわと小さな花を揺らす。
少女はそっとその小さな花に手を添えた。遠くからは人々のざわめきやら歓声やらが聞こえてくる。
そう言えば、と少女は思い出す。今日は大会の日だった事を。
だから、人々の声が聞こえるのね、と少女はゆるりとその声がする方へと視線を投げ掛けた。
少女が居る場所からでは会場を見る事は出来ない。それでも、久々に聞く人々の声に、少女はくすりと笑みを漏らした。
「皆元気そうね」
小さな花に話し掛ける様に優しく呟く。小さな花は返答の代わりに、その花弁をゆらゆらと揺らした。
突如がさりと音がして、少女はそちらに目を向ける。
「あら」
さして驚いた様子も見せずに少女は茂みの間から転がり出て来た少年を迎えた。
白髪に近い、銀色の髪の少年。泥塗れで所々に擦り傷が見受けられる。
「……ッつぁ〜」
後頭部を押さえながら、苦悶の表情を浮かべている。どうやらぶつけたらしい。
「……あ?」
少女と少年の視線が交差した。
透き通る様な白い肌に、金色の長い髪。ブルーの瞳は硝子玉みたいにキラキラと輝いていて、少年は一言も発せぬまま、少女をただ見つめていた。
自分よりも幼い少女。その少女の口元が、ふわりと緩んだ。
「こんにちは」
にっこりと、小首を傾げながら微笑むその姿に、少年は目が釘付けになった。緩やかな風が、金色の長い髪をさわさわと揺らす。
少女は視線を手元の小さな花に移した。愛しそうに眺めるその姿はまるで聖母の様で。
「君は、此処で、何を?」
少年は高鳴る胸の鼓動を抑えながら訊ねた。
「貴方は、何を?」
少女は静かに問いを返す。
「俺は……」
少年は鼻の頭をぽりぽりと掻いた。声を大にして言える行いでは無い。会場の観客席から選手の控え室まで行こうとして道に迷い、更に運悪く兵士に見付かり、逃げ回っているうちに此処へ出てしまったのだ。
少年はうーんと唸ってから、肩を竦めた。
「俺は、迷子」
少女はくすりと笑った。
「迷子の仔犬さんね」
その言葉に、少年も顔を綻ばせた。
「じゃぁ君は迷子の仔猫?」
少年の言葉に、少女はまたもくすりと笑う。その笑顔はあどけなくて、しかし何処か憂いを帯びていた。
「迷子の仔犬さんは剣術士さんね」
背中に背負った、己の身体よりも大きな剣。派手な装飾品の類いは施されていないシンプルな鞘に収められたその剣は、少年の父親の形見でもあり、少年自身のまた志そのものでもあった。
「ああ。剣術士さ」
少年はきっぱりと答えた。
「剣術士団に入団して、国を護る。皇帝も、国民も、俺が護るんだ」
白銀の髪を靡かせて、少年は空を見上げた。何処までも、何処までも、遠く広がる青い空。この青空の下には、多くの人々がそれぞれの人生を生きて居るのだ。それを護る、それこそが己の務めだと、少年は信じていた。
「それは良い心掛けだね」
不意に上から声が降ってきた。少女の声ではない、成人男性の声。
少年は咄嗟に背中に背負った剣の柄に手を掛けた。
「全く、此処に居られましたか、お姫さま」
山吹色の髪から長い耳が覗くその男は、そっと少女に語り掛けた。
「あら、ウェット。大会の方はよくて?」
「私はお姫様のお守りがあります故」
「まぁ、お守りだなんて。私はもう7つよ」
「それは失礼致しました、レディ」
ウェットと呼ばれた男は右手を前に差し出し、左手を後ろに回し、深々と礼をした。その様子を見て少女はくすくすと笑みを漏らす。
「此方の少年は?」
ウェットが白銀の髪の少年を見る。にこやかな顔ではあるが、何処か凄みを帯びている。少年の身体全体が危険信号を発していた。全身の毛穴が開き、鳥肌がざわざわと細波立つ。
「迷子の仔犬さんよ」
少女が答えた。ウェットはほう、と右手を顎に当て、まじまじと少年を観察する。
「名前は?」
「……リュッグス……リュッグス・レア・モルデット……」
少年は正直に自分の名前を名乗った。眼前のこの相手には、頭でも力でも逆らっても無駄だと言う事を全身で感じていたからだ。
「此処へは何をしに? この敷地内は城内の限られた者しか入れない場所なんだよ。先程兵が賊が紛れ込んだと騒いでいたが……さて、君の事かな?」
リュッグスはごくんと唾を飲み込んだ。無断で城内に侵入したのだ。それなりの罰は覚悟しなければならない。
「迷子の仔犬さんよ、ウェット」
少女が繰り返した。
「迷子なのだから仕方ないわ。リュッグス……リュースね。私はエリィ。宜しくね」
エリィはリュッグスをリュースと呼び、にっこりと微笑みかけた。その様子にリュッグス──リュースはぽかんと呆気に取られ、ウェットはやれやれといった感じで溜め息を吐いた。
「姫。さぁ、戻りますよ。君は……そうだな、後で私の団の兵士に外まで案内させよう」
ウェットがエリィを抱き上げ、その場を立ち去ろうとする。リュースはその前に立ちはだかった。
「ま、待って下さい! 俺、大会に出たいんです! でも、門前払い食らって……。……お願いです、俺を大会に出して下さい!」
リュースは必死だった。目の前の人物が何者であるかは知らない。だが、城内の者には変わりは無かった。何でもいい。どんな方法でもいい。リュースはとにかく大会に出る事だけを哀願した。
「ウェット。どうしてリュースは大会に出られないの?」
くりくりとした目を向け、小首を傾げながらエリィはウェットに訊ねる。
「……困りましたねぇ……。どうやら受付の兵士がこの少年を未熟と見て拒否したのでしょう。大会には年齢制限はありませんが、死人が出ては困りますからね」
「まぁ、何処の兵かしら」
エリィの頬が微かに膨らむ。その様子にウェットは眉をハの字に曲げ、苦笑した。
「何処の団にも所属していない下等兵ですよ」
「では、ウェット。今此処で入団テストをしてみてはどうかしら。大会に出られないのならせめてそれぐらいはいいでしょう?」
「しかし、私は……」
ウェットは困惑した顔でエリィの顔を見つめた。だがすぐ諦めた様子で、その場にエリィを降ろした。
「リュース、剣を構えなさい」
ウェットは腰から長剣を引き出すと、リュースに突きつけた。その顔には先程までの笑みは見られない。真剣な眼差しで見つめられ、リュースも背中から大剣を引き抜いた。
エリィも真剣な眼差しで、一歩、二歩とその場から下がり、木陰で見守る事に決めた。
風がさわさわと草花を揺らす。
不意にキィンと言う金属音が響き渡った。両者の剣が交差したのだ。その音は次々と発せられ、同時に風を切る音も響いた。
何度も重なり合う金属音。その不意に、リュースの軽い体が吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた。だが直ぐに体勢を建て直し、剣を構える。顔に泥が付こうが、服が破けようが関係なかった。その顔には笑みさえ浮かんでいた。
ウェットの方も剣をしっかりと構える。相手を子供と見るのはでなく、一人の男として彼は見ていた。
また、幾度となく剣が重なり合う。その瞬間瞬間を、一時も逃さずエリィは眺めていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。リュースの呼吸は乱れ、肩で息をするのもやっと、立っていられるのが不思議なくらいの状態だった。頬や身体のあちら此方に擦り傷や切り傷が見受けられる。一方ウェットの方が傷こそ無かったものの、呼吸は乱れ、額には汗が浮き出ていた。
そこで、パンッと乾いた音が鳴り響いた。一瞬にしてリュースもウェットも、エリィもそちらの方へ視線を向ける。そこには一人の男が立っていた。
「……アラカルト……師団長…」
ウェットが呟いた。
「師団長……?」
弾む息を抑え、リュースも呟く。
「ウェストリック師団長殿?」
「あ、いや……」
ウェットは申し訳なさそうに頭を掻いて苦笑した。
「私とした事が、つい夢中になってしまいました」
「アラカルト師団長、私が指示致しました。ウェストリック師団長とこの少年には罪はありません」
りんとした声でそう発言したのは木陰で静かに見守っていたエリィだった。
「エリス皇女様」
アラカルト師団長と呼ばれた男はエリィをそう呼んだ。
「……皇女……?」
またも呆然と反芻するように呟くリュース。その様子に、ウェットは笑い、アラカルトも笑みを見せた。そしてエリィも。
「今のをご覧になっていたでしょう?アラカルト師団長。どうです、この少年を貴方の士団に入団させては?」
その口調は7歳のそれではなかった。
「いくら剣術士ではないウェストリックとはいえ、ここまで彼と対等に戦えるのであれば十分です。あとは貴方が鍛えてあげて下さい。よろしいですね」
アラカルトは肩を竦め、ウェットはふっと笑みを漏らした。
「皇女様にそう仰られては私は何も申せませんよ。しかし、先程の戦い振りはしかと拝見させていただきました」
アラカルトはリュースに向き直り、
「この少年にはまだまだ荒削りな所があるが、鍛え甲斐がありそうだ」
そしてにやりと笑った。
訳も解らずボケッとするリュースの頭をウェットが小突いた。
「良かったね」
そしてにこりと笑った。
「改めて。私はウェストリック・ネモラス。弓術士団師団長だ」
「私は剣術士師団長のアラカルト・ディ・アルス」
またもや呆然とするリュース。声を出したくとも口がぱくぱくするだけで言葉が出ない。
「そして」
ウェットがエリィを見て微笑んだ。
「我等が皇女、エリス皇女だ」
その先の事はあまり覚えていない。あまりに衝撃が大き過ぎて、所々記憶が抜け落ちているようだ。だが、リュースは運良く実力が認められ、運良く念願だった剣術士団に入団する事が出来た。
しかしリュースはその日見た、彼女の笑顔だけは決して忘れない。小さな花のような可憐な笑顔のお姫様を。