透明人間
僕は透明人間になった。
男の名は伊達誠司。誠司は心優しい母のもとで生まれた。誠司の母である伊達結衣はとても美しく、誰に対しても柔和な表情をよく見せる、しかし一方で氷の如き儚さを持ちつつある、そんな女だった。
そのことが原因で結衣に言い寄る男は絶えなかった。時に、執拗かったり恐怖の対象となるような男も言い寄ってきた。それでも結衣は柔和な表情を崩さず静かに脅威から目を背けたこともあった。そんな結衣が大恋愛をしたのは高校三年生でのことだった。
相手は同級生。これまた柔和な表情の男で臭みがなく、周りからもお似合いと持て囃されるような、所謂お似合いだった。カップルとなり多くの友人から祝福される対象となった。ただ、その友人というのは女のみのこと。勿論、男どもは黙っていなかった。普通、何か害をなそうにも手間がかかるというもの。さらに、結衣は柔和な顔をしながらも男たちに対し若干の警戒心を持っていた。別に警戒心など無視して嬲ったって良かったのだが、そうして仕舞えばそれは獣だという自制心が働いた。その分、幾度も男たちは結衣を捕まえ、犯し、滅茶苦茶にした姿を想像して毒を抜いた。しかし、中々気持ちの整理というのはつかないもので、沸々と毒とは別のマグマの如き凶悪な熱を腹に溜めていた。その度、男は毒を抜く。その繰り返し。男たちは憤りを感じつつも何もできない状況だけが残っていた。一方で結衣と彼氏の渉との恋の進展は緩やかに進んでいた。手を繋ぎながら歩いたり、遊園地に遊びに行ったりと軽薄さのない恋だったと言えるだろう。この二人の恋愛に口出しできる人間などはいなかった。(男共の一部は抗おうとしたが自制した)尊く高嶺の花だからということもある。しかし、一番は女どもが男の僻みを食い止めていたのだ。僻みを止めるにあたり、よく男と女が個人で連絡を取り合い相談しているのが見てとれた。この光景に結衣は申し訳なさを覚えた。自分を守ってくれる女の労力に気が滅入りそうだった。
ある日、クラスの所謂、カースト上位の女に遊びに誘われ、断ることができなかった。一方、渉は頭がよく地元の旧帝国大学を目指していたため、その日は予備校だった。渉にことわりを入れることを憚ってそのまま女どもと遊びに行った。行った先はカラオケ店で薄暗い個室となっていた。女どもが頷くだけで話が終わりそうな会話を倩と何分か垂れ流し、歌い出した。お世辞にも上手いとは言えない歌声だったが、なんだかつまらないという雰囲気を出すのは申し訳ないと思い体を揺らしてみたりした。何曲か歌い終わり、とうとう結衣の番が回ってきたのだが、そのとき薄暗い部屋に光がポツポツと女どもの手元に光る。結衣はなんだか我に帰り渉に会いたくなった。帰りますと告げようとしたとき、女どもの一人が結衣の腕を緊つく掴んだ。それに結衣は潜在的だった不信感が浮き彫りになりこの女、いや人間に泣きたくなってしまった。結衣は泣く代わりにテーブルの上の飲み物を、腕を掴んできた女の顔にかけた。その攻撃は有効だったらしく、女は激昂し結衣に覚えのない罵詈雑言を浴びせた。人間の醜さを見てしまい戦慄しかけたのだが、結衣はこれが本能に刻まれた人間のあるべき姿だと思い、そっと心に仕舞い込んだ。常に柔和な表情をした人間など人間ではなく菩薩の模造品でしかない。女どもからの罵詈雑言に深い感銘を受けていると個室の中に男どもが続々と押し寄せてきた。それを見た途端、結衣は魂が抜けたように何かする気力を全て失い、柔和な表情を向けた。結衣がカラオケ店に居た時間はせいぜい四時間だったのだが、その間に彼女の美しい清純な体は何度も汚されてしまった。汚されるにあたり男どもと女どもはスマホを持ち出し結衣の失われていく様をまじまじと撮影した。さらには、その動画を校内に拡散された。次第に他校、結衣の見知らぬ人間に知れ渡ることとなった。その影響は凄まじいもので結衣の美しさと純粋の汚れる様に男は惚れ惚れしてしまった。襲ってしまっても大丈夫なもんだと思った男共はストッパーを外し結衣を捕まえた。結衣が汚される日が多くなった。しかし、結衣は男どもに何もしなかったし、何も思っていなかった。結衣はただあるだけ。その美しさがあるだけ。ただ一度、カラオケに居た女の一人に何故このようなことをしたのか後になって聞いた。まず、男共が毒を抜いているとき、手伝っていた。そして、女共は手伝った先の男に手伝い以上の関係性を夢見てしまった。つまり、女神への絶望を孕んでしまった、ということだった。結衣は聞き流し、その女の目前から去った。
こんな結衣の状況を変えたのは十二個上の教師だった。この時すでに渉に噂が伝わり関係は切れていたので渉は完全に受験にシフトしていた。植物のような結衣に対して教師はよく相談を受けていた。いや、受けていたというより受けさせていたというべきか。教師が近くにいることで変な気を起こす男共は激減した。尚、抑えられない男もいたのだが、そのとき、教師がその、使えてるか使えてないかよく分からないような人に教えを説く力を使い、伏せさせた。しかし、残念なことに結衣からしたらその男も教師も大して変わらなかった。そもそももう人間を一定の枠組みで捉えていて正体を確定していた。また、何度か教師は結衣を男から助けた後に、二人きりになり、結衣の顔に染められ行為に及んでいた。結衣自身はこの生活がいつの間にか日常になっていたし、これが私だと思っていた。次第に虚から柔和を取り戻し日常に溶け込んでいた。
一ヶ月後、妊娠が発覚した。教師との子供だった。結衣は両親に相談した後、絶縁を言い渡され、教師にも逃げられた。風の噂で、教師は自殺したとか。どうしようもなくなった。結衣は大学に行くことは当然諦め、今後の人生について考えた。ずっと脳裏に最終結論として死が浮かび上がってきたのだが、なんとか脳内でその枠をずらしていた。しかし、現実は、時間は止まってくれない。だんだんと妊娠が近づき金という問題が浮かび上がってきた。金と死が生きていく中で常に現れた。それを食い止めたのは一応、腹の中の子供なのだが今後を考えると、勝手に産むだけ産んだとして、養育費なんか払えないので、殺すことになると思った。そうなるくらいなら初めからなければいいのではないか。それが疑問で答えだった。我が子一人で天に旅立つのは心寂しいだろうと思い、私も長い旅に出かけよう、そう思った。死ぬことは怖かった。死んだらどうなってしまうのだろう。神様がなにか都合のいいことをしてくれるのだろうか。他にも色々なことを考え込んでしまう。その考えの先は闇だ。滅亡と絶望の道しかない。一度その闇に入ってしまったら最後、戻れない。結衣は痩せこけ死に面した顔になってきた。これから先の歴史を考えると毎夜、嘔吐し咽び、その度に結局は私も自分本位の人間の性を持っていると自覚する。腹を摩り悪夢に酔う。
結衣は朝起きると八木山橋にとぼとぼ歩いた。辿り着くと結衣は後悔した。自殺の名所とされているのに妨害するための柵が置いてあるではないか。一体どうすれば死ねる。悩んでいるうちに車が通る。結衣は柵から目を逸らす。結衣は風に揺られた。目は虚だった。結衣はスーッと息を吐き暗雲の下、鉄の塊に向かって踏み出した。その様は見えざる手に背を押されたようだった。結衣は何を考えただろうか。何もなかったかもしれない。運転手は落ちてくる何かを人と見做すことができなかった。次第にどうしようもない距離にまで迫ってしまっていた。しかし、神の悪戯か。死神の救済か。青年が歩いていた。青年は迫り来る鉄塊に身を捧げる女を見てしまった。青年が初めに思ったことは、なにか恐怖だとかそういうことではなく、夢だった。まるで人の形を成した夢がいると思った。奇跡的だった。青年はその夢に手を伸ばしただけ。それが功を成し、偶々、結衣を助けたのだ。運転手は怒鳴ってすぐさまその場を去った。青年と結衣、二人は腰を抜かしペタッと座っていた。青年は何が起きたか全くわからないといった表情で、結衣に何が起きたか聞きたくなったのだが、結衣の表情を見て話しかけてはいけないことがその瞬間、唯一分かった情報だった。 青年は結衣をファミレスに誘い今まで起きたことの話を聞いた。それは青年にとってはあまりに悍ましく不快なものだった。何より驚いたのが年齢だ。あんなドス黒い悪が蝕んでいる結衣の年齢はこの青年と一つしか変わらなかった。そして赤子のこと。先の事情からあまり驚きもしなかったがショックなものであったのに変わりはなかった。青年は一体自分に何ができるのだろう。今、彼女に何が必要なのだろう、と深く考えた。とはいえ何かして欲しいことは?などと青年には聞くことができなかった。固唾を飲む。青年は結衣に自分の家に泊まることを提案した。青年は大学に進学するため一人暮らしだった。その提案に対し結衣は軽く頷くだけだった。
青年の家に行き、軽く部屋を紹介してもらった。その後、青年は明日は大学で早いから風呂から上がったら眠るという旨を伝えた。その言葉に結衣は外の含みを見出した。髪を束ね風呂の方を見つめ、ちょこんと地に脚を畳んで座る。その際、肌の露出は敢えて過度にせず、醸すほどの遊を白湯の如き色した布を通して身に纏い、幽玄の美を作り出した。また、何かを強請むような顔をした。そうして、青年が風呂から上がるタイミングを見計らいのしのしと身体を這わし青年の足元に向かい性を乞うのだった。青年は後ろに飛び跳ね、タオルを緊つく纏う。この光景に結衣は目を丸くした。今までの男は例外なくこうなったら襲うか理性の歯止めが効かなくなる。なのに、なんと青年は泣いたのだ。そして、半透明に覆われたその女の肌を抱きしめた。その時間は結衣にとって消費するだけが目的の、永遠に続きそうないつもの闇とは違い、久々に毛布に包まって孕んだ熱が再生の炎となり、結衣を照らしたようだった。青年は次第に声を荒げ始める。それは結衣もだった。漸く、泣いた。今までの菩薩の如き彼女からは想像がつかない程に泣いたのだ。だというのに、今までで一番明るく、活気があり、照らされていた。一番、人間だった。菩薩だって泣いたっていい。涙の輝きは一時間ほど続いた。泣き止んだと思ったら青年は寝た。涙の衝撃は結衣にとって忘れることのできないものとなった。なんだか信頼を試したくなって青年が寝ている部屋の扉を開けた。青年の寝顔に付いた涙の跡を見て、やめた。結衣は一杯の水を飲み星を見て、眠りについた。
翌朝、結衣がなかなか起きなくて青年は困った。そして微笑んだ。
数ヶ月が経ち、結衣は誠司を産んだ。これは青年が提案した。青年は医学部医学科だったのでお金があるわけではなかったのだが、取り敢えず青年が全額負担して誠司が生まれたのだ。繋ぎたいからという理由だった。
青年が結衣と出会い誠司が生まれるまでの間、性の関係には一切ならなかった。実のところ、何度か、結衣の心から青年に対して仕掛けることをしたのだが青年はのらりくらり。時にはキッパリと。(誘惑も断られることも結衣にとって初めての連続だった)その度、結衣はより一層、情熱的になっていくのだが。何度か婚約の話を持ち出したことがある。それは、性とは関係なく前向きなことなのだが、それさえ青年は事実婚でいいと言う。青年も事実婚を認めるほどには好意があったし誠司と過ごす日々は親子そのものであった。しかし、青年は毎日、早く眠りにつき一日を終えてしまう。結衣の空は青年で満たされた。しかし、満たされれば満たされるほど結衣は不安になった。結衣はこの青年について何も知らないのでは、と。
誠司が一歳になった頃だ。この頃になっても性の関係には至っていなかった。しかし、結衣には変化があり、なんと働き出していた。結衣の職は夜勤だったため帰るのが遅かった。その日は特段遅かった。夜の暗さが薄れてきた頃にようやく家に着いた。家の中には昏々寝ている誠司が一人。青年は一体どこなのだろうか。電話をかけるも出ない。空気が仄暗くなってきた。その暗さを隠すべく結衣は働いた。家事、育児を一人でこなした。誠司と家を一日守った。(実際は一日にも満たない)
病院から電話がかかってきたのはそれからすぐだ。その電話で病名も告げられた。末期癌だそうだ。どうやらコンビニで倒れたと。仄暗さが漆黒へ。光を探すように入院室にたどり着いた。夜風が隙間から針を糸に通すようにひゅっと吹いて、横縞のカーテンが靡き、少し霞れた窓を通して月光が青年を照らしていた。このままだとどこか遠くに行ってしまいそうな気がした。
「心配かけたね」
「神様はつくづく悪戯好きだから。慣れてる。それより、早く戻ってきてよ。私も誠司も今が一番多感な時期だからあなたがいないと何しでかすかわからないわよ」
「それは困ったな。でも、もうおそらく、戻ることはないんじゃないかなぁ」
「なんでそんな鼻から諦めてるみたいなこと言うの?まだ死んでないじゃない」
「余命宣告されてもかい?」
「余命宣告されても生きてる人はたくさんいる」
「現実から目を背けちゃ駄目だ。僕は向き合った」
「無理、向き合うでもなんでもいいから必死に踠いて生きてみせてよ…」青年の返答は微笑みだった。
「…そうだ、僕の話をしようか。君には僕について何も言ってなかった」
「何も聞かなかった」
「そうか。でも話させて欲しい。僕が癌になったと判明したのは今から三年前。君、結衣と会った日だ。あの日、僕は絶望していた。明日の気力も湧かないほどに。だというのにトンネルを抜けたら車に飛び込む君がいたんだ。今思えば一目惚れだった」
「待って、なんでそんなに前から知ってて治療しなかったの?」
「なんでかなあ。これからの死にゆく時間よりも、今と、未来を駆ける希望を見たからとか。それじゃ駄目かい?」
「どういうことかわからないよ」
「君は美しかった。今も美しいんだろうか。もはやわからないんだが、未来を考えた。君もまだ若い。これからまた人生を歩む。だからこそ過去のは捨て君を見せるんだ。そのために僕の死を受け止めて欲しい。その上で僕という存在から僕と過ごした記憶全部を忘れてください」
「忘れないし受け止めない。だから生きてよ。私が心から愛した人は私の人生で最初で最後、あなただけなのよ。なんで、あなたがこんな目に、合わなきゃいけないのよ。まだ諦めないでよ。私も諦めないから。そんな悲しいこと言うのやめてよ」
「僕もだ。こんなに嬉しい日はないよ。僕も、初めてが君だった。覚えてるかな。いつの日か事実婚でいいって言ったの。本当はずっと一生、君と一緒にいたかった。誠司と一緒にいたかった。家族三人で過ごしたかった。今もだ。ずっとずっとずっと。永遠に。…あぁ、怖い。怖いんだよ。どうしようもなく」結衣が青年を強く抱きしめると青年は言葉にした重みに襲われ、月を忘れて泣くのだ。
「大丈夫。大丈夫だから」そうして数時間慰め青年が一通り泣き終わると、
「結婚しよう。必ず生きるから、その時は僕と結婚してくれませんか」
「喜んで」
二人は肩を寄せ合い、見つめて、笑う。
「僕の名前を教えるよ」
「え、言っていいやつなの。なんだか頑なに避けるから聞いていいのかどうかわかんなくて聞いてなかったんだけど」
「そうだね。それは、こう成ることがわかってたから、忘れやすいように。でも、嫌だなぁって。僕のことを死ぬまで覚えてて欲しい。僕のことを嫌いになってもずっと君の側にいたい。他の男と寝てても脳裏に僕がいて欲しい。僕以外の男と喋らないで欲しい。ずっと。いいかな」
「いいよ。傷だらけでは汚れた身体で良ければだけど」
「僕の名前は佐藤晴人。よくある苗字、よくある名前だろ。だからこの苗字と名前を見たら僕のことを思い出して欲しい。鮮明に。君の愛は僕を変えてしまったんだ。だから、今、君の唇をください」その時間は永遠に。佐藤は結衣に出会った奇跡に歓喜した。緩やかに死に向かう中、その命で結衣と祝杯をした。今までの人生の軌跡を、終えてしまう虚しさを、全てを抱きしめるような接吻だった。同時に悠久を駆ける夢のようだった。月光のみが照らす薄暗い部屋の中、結衣はたとえ死にゆく人だとしても一生分の愛をぼんやりと心臓の中に灯した。佐藤は雲に隠れていく遠い遠い月を見ていた。その日から結衣は仕事が終わっては病院に通い、愛を灯し続けた。どんどん痩せていく佐藤の姿に結衣は献身的な愛で埋めていた。しかし、雲は月を隠していく。次第に雲は晴れたのだがその日は新月で光は灯らなかった。
佐藤晴人が亡くなってから三日が経った。未だに心は空虚なまま。刻まれた傷の深さが深いほどいなくなったときポカンと足りなく感じる。それを埋めるが如く育児をした。働いた。けれどもどれも佐藤の代わりにはならなくて、よりポカンとした空の絶望だけが重なった。残ったのは一生分の愛の器と誠司だった。この先の未来を考える。これからの人生でできることはなんだ。佐藤が残した部屋の中で、ぶつぶつと唱える。一日中座って考えても何も思い浮かばなかったため無駄に広い部屋を歩いて回顧する。そういえば、佐藤君の部屋に入ったことがない。結衣は若干の覚悟を持って佐藤の個室に入る。そうするとハウスダストが光に照らされていて不快感を覚えた。しかし、光が照らしたのはそれだけではなかった。何か封筒が机の上に置いてあったのだ。結衣はベタだな、と思ったがなんだか胸が熱くなった。封筒を開き中の遺書を読む。
「拝啓、伊達結衣へ。
これを読んでるってことは僕はもう死んでいることでしょう。ベタとか言わないでね。こういうドラマで見る遺書を書くの密かな夢だったから。さて、結衣は今、僕がいなくなって放心状態となっていることでしょう。なってくれてると嬉しいな。結衣は僕のこと愛してたと思うけど僕も行為に移さないだけで世界で一番愛しています。書いてみて思ったけど世界で一番愛してるってなんだか安っぽい気がします。でも僕は小説家でも脚本家でもないから他の大それた言葉が思いつかない。大それたことは言えないから小っぽけなことだけ。僕には性欲がなかった。正確にはあったけど薬の影響でなくなっていってしまった。さらには視力まで悪くなってしまったし。だから、決して君に魅力がなかったとか嫌いだったとかじゃないから!でもね、初めて結衣が家に来た翌日。僕は君の寝顔を見た。まるで天使が降りてきたのかと思ったよ。だから僕はこの命に変えても守りたい、ってなるとまたベタだけど本当に君に会うためなら悪魔に魂を売る覚悟はあったんだ。マジで売ったっていうか勝手に買われちゃったんだけど。君と僕との出会いは偶然かもしれないけど必然だったらいいと思うよ。僕は人生の意味について考え得るんだけどその度に君の顔が浮かぶんだ。もし本当にこの命を代償に君に会えたんなら悪魔にあっちで感謝しないと。でも本当は君と一歳の頃から出会って、幼馴染で、小中高一緒に通って、帰って、その道で肉まんでも買って喋りたかった。そうして僕から告白して付き合って、お互い初めての恋人で、結婚して、子供も産んで、でも三十でも四十でも百歳になっても寝る時もどこか行く時もずっと手を繋いで、病める時も健やかなる時も一緒に愛だけを持ち寄ろうよ。たとえどこかで恋に寿命が来てその心が僕から離れても僕は一生愛してるよ。それは僕が死んでも変わらない。だから愛だけは君の心に渡しておくよ。その願いはもう叶わない。だけど、僕の愛は嘘ではないんだ。この愛だけは悪魔でも取れないんだ。だから僕は君の中で生き続けるよ。君に忘れられない傷をつけたのだとしたら僕にこの世に未練はない。今までありがとう」
字はぶれているし、ところどころ少し湿っていた。それに紙が絞られたような跡がある。
「あなたは最後まで一緒に死のうとは言ってくれなかったね」そうだ、ご飯の時間だ、と気づき誠司の方へ向かった。結衣は誠司になくなったはずの無性の愛を注いだ。その愛が伝わっているかどうかは結衣にとってはどうでもいいことだった。結衣は学がある方ではなかったので何か習い事をさせる欲がない。また、家に本があったりするわけではない。しかし、結衣には学がなくても愛する息子に伝えたいことがあった。繰り返し繰り返し、ご飯を食べている時も髪を切っている時も伝えていた。そのことだけはどうでもいいことではなかった。結衣はずっと死ぬ間際までその伝言のことを気にしていた。だが、死ぬその瞬間だけは違った。結衣は誠司に願った。佐藤に祈った。どうかこの愛だけは、あなたから貰った愛と私が注いだ愛だけはどうか誠司に灯されていて欲しいと。誠司はまだ四歳。私のことも今までの生活も直に忘れる。悲しんでくれるかな。もう少し生きたかったな。意外とあなたと過ごす時間は短かった。彼もこんな気持ちだったのだろうか。一緒に死んでなんて言えないな。誠司、あなたの愛はパパとママ二人からのもの。どうか健やかに、生きて。そのまま結衣は亡くなった。急性心筋炎だった。
後、誠司は児童所により里子となり第二の人生を勝手に歩まされた。里親になりたいと言い出した人が出てきた。老人だった。勝手に第二の人生が始まった。この老人との生活はごく普通の家庭そのものだった。ごく普通とは何なのかは読者の定義によるところだが、百人が見て半分以上は一般家庭と言えるくらいには、よくある家族の形をしていた。老人は里親になった時、動物園の飼育員で八木山という場所に家を置いていたのだが、誠司が小学五年に上がるタイミングで定年退職したので仙台の中心の方に家を置いた。それに伴い誠司も小学校を転校した。誠司は引っ込み思案で喋ることが得意な性格ではなかったので不安が過ぎる。一方で八木山の小学校生活もあまり友達がおらずお世辞にも充実したとは言えない状況だったので少しの期待もあった。様々な手続きは老人が丁寧に行なってくれた。そしてこれから担任となるであろう人間に来週、新しいクラスで軽い自己紹介をして欲しい、と伝えられた。誠司は引っ込み思案なだけで普通の小学生と何も変わらないので適当に了承した。ここでいう普通も先の通りだ。
翌週の月曜日、初めての登校日がやってきた。担任である大久保が、
「じゃあ、自己紹介お願いね」と肩を軽く叩きながら言う。適当に頷く。そんなことより、誠司の気持ちは未知の世界の期待でいっぱいだった。ドアを開け教室に入る。そして誠司は教室中に目を向けた。
「前言ってた転校生です。じゃあ自己紹介お願い」
「…」言葉が出なかった。コルク銃のように言葉が詰まったというよりかは首を絞められた感覚に近いものを感じた。次に思ったのは帰りたいだった。しかし、今、この場でそれは無理と悟る。その次に起こったのは疑問だった。先生はこの嫌な感じに何も気づいていないのだろうか。オークション開場さながらの教室。黙っていては売られることなく殺されてしまう。言語化はできなかった誠司だが、本能でそのようなことを思った。
「伊達誠司、です。八木山から来ました。えっと、好きな食べ物はピザで嫌いな食べ物はグリーンピースで、えっと、趣味は映画を見たり、動物園に行くことです。よろしくお願いします」
「なんか、声小さくね?」
「確かに」その確かにの声に伴ってなんか、に多くの賛同が寄せられる。そのせいでなんか、と言った男は調子に乗ってしまった。
「ねえ、何でそんな声が小さいんですかあ」
「なんでって、えっとごめんなさい」教室が一瞬で沈黙と化しその場は終わった。後の授業で誠司に話しかける人間はおらず誠司は黒板の上の秒針を見て時間を潰した。そうしてただ座っていると昼休みになったらしく急にクラスが慌ただしくなった。正確には給食の時間からうるさくはあったのだが、他クラスも混じりより活発的になった。次第にテンションのガタも外れる。男子が一人、その流れで誠司に話しかけてきた。
「ねえ、誠也くん。一緒にケイドロしようよ」
「えっと」
「よし決まりね。後、俺さ君と友達になりたいんだよねえ。だから、これから友達ね」誠司は眼球を右左とキョロキョロ動かして目を合わせない。幼さ故の行動だろう。また、誠司はその男のことを知らなかった。ケイドロには男も女も関係なく混ざっている。しかし、男はこのくらいの歳になると女を区別しだす。そして守りたいだとか気に入られたいと言う感情が渦巻くのだ。女も女で小学生という肩書きがと姿なければ大人とさほど変わらない考え方をもう内包している。実のところ、女は男のそう言う感情に気づいている。また、男よりも女の方がコミュニティのカーストや上手い生き方を心得ている。女の恐ろしさ、狡さを知った時、男は、初めて女を知るのだ。初めて世界を知るのだ。コミュニティの生き方と言ったが最も手っ取り早く潤滑していく方法は共通の敵を作ることである。特に元々の身内より外から来たやつの方が適任である。察しの通りその標的は誠司だった。このドッジボールで誠司はウイルスとして扱われた。触ったら感染とのことで鬼は誠司を相手にせず、味方含め全員が近づいた瞬間に拒否反応を起こす。もし触れでもしたら水で濯ぐと言った異常な事態。ウイルスは水をかけても取れることはないのだが。そのウイルスを利用してクラス全体が動いた。普段喋らない男女も一丸となった。その努力の成果は大成功と言えただろう。
ある日、クラスの冴という女が、
「私の体育着がない」と全体に響かすように騒ぎ出した。一体誰がやったのだと犯人探しまで始める始末。誠司は家に帰って今一度見るべきだと思った。僕には関係のないことだたと普段のように読書を再開する。読んでいる本は老人から借りたもので大人びた作品が多かった。手にした作品はヘミングウェイ。なんだか、その作品の登場人物が老人とどこか似ている気がして誠司はまんまとハマった。この時間が唯一の学校での楽しみだった。そんな幸せのひと時はすぐに遮られる。冴が急に誠司のロッカーに指を向けた。ここにある気がすると。ただそれだけで。しかし、何ということだろう。周りの奴らは全員が全員信じ、無断でロッカーを開けた。もちろん中には冴の体育着が入っていた。それ自体は誠司にとって分かりきったシナリオだったので大したことはなかったのだが、クラス全体から、いや、同学年すら超えた学校全体からひどいバッシングを受けたのだ。死ね、消えろ、ゴミ、虫ケラ、毛虫。こんな子供のような悪口が山のように降り注いだ。誠司は小学五年生だった。言葉はナイフ。それだけじゃない。言葉は現実に変わる。誠司に対する暴行が起き始めたのはほぼ同時期だった。子供とは残酷なもので、大人と同じほど分別がついてしまっている。誠司に対しての暴行は首を絞めるかボディへの打撃だった。これは直接的な暴行である。もっと陰湿なものだと無視を極めたり、虫を食べさせたりなど多種多様に攻めてくる。
一度誠司は勇気を出して担任に訴えたことがある。死んだ毛虫を食べさせられた時だった。担任は一言。
「そうか辛かったな」だった。日常は変わることがなく、いやむしろ先生にチクったことがばれエスカレートした。便器を舐めさせられたり金的を蹴られたりした。そのくせ無視はより一層強くなった。こういう時だけ子供なのが残酷なところで、まるで限度が分かってない。分別があり限度がわからないとはなんとも面白い話だが自分自身のみに起きないと子供とは限界のその先を想像することができない生き物なのだ。誠司は想像した。この先の未来を。地獄だった。中学も大体が同じ面子。何をすれば脱却できるだろうかと考えてみる。誠司は担任以外に虐めを打ち明けることはしなかった。やり返すこともなかった。怒ることもなかった。そのせいだろうか。塵も積もれば山となる。塵ではなくもはや山の連続なのだが。つまり限界だった。限界を迎えたタイミングで脱却法を思いつく。学校を休むことだった。これで朝、目が覚めた時に冷や汗を流さずに済むと思うと心地よかった。
翌日、朝起きて、腕を大に開いてエアコンの風に全身を当ててると老人が、
「おはよう。今日は冷えるのお。ほれ、朝ご飯できとるぞ。元気つけて学校行っておいで」その言葉を聞くと、誠司は冷や汗を垂らしながらヘミングウェイを握り締め学校に行くのだった。加えておくが、老人は悪くない。伊達誠司もまた賢い小学生の一人。心配は掛けれなかった。
付け加えると、誠司は幾度となく縄を首に掛けている。しかし、現状、誠司は生きている。これが良い面。老人に弱みを吐けず苦しみながらも決して死ねない。ただ平日に漠然と広がる地獄へ決死の覚悟で向かうだけ。
学校に着くと、何だか今日はいつもと違った。誠司はいつもなら飛んでくる筈の罵声の無さから若干の気持ち悪さを感じながら何が起きているのかを教室で静かに、目と耳から情報を取り入れようとしていた。担任が教室に入ってくる。すると、
「来月、また転校生がやってきます」なぜか安心する気持ちが溢れてきた。しかし、安心も束の間。新しいおもちゃが出ると一つ前のおもちゃを使い潰すようにより誠司に与えられる苦しみが拡大化してしまった。それはただの暴行の域すら超えていた。
新たな転校生が来ると告げられた二日後、誠司はクラス一の人気者兼、所謂マドンナの星空から愛の告白を受けた。このクラスで誠司のことを直接的に虐めていたのは加藤と森下と鮎川の三名だけ。(直接物理的に暴行を加えた三名である)もちろん見て見ぬふりをしたり、ゴキブリのような扱いをしたり、無視をしてくるような人間はいくらでもいたが。星空もその一人ではあった。だがやはり女は誠司の悪意の枠から外されていた。割合が多すぎると許さざるを得なくなってしまっていた。更に、今までの誠司の人生経験において、必要とされたことなど殆どなかったから尚更だ。誠司にとって初めての恋という体験。誠司はその告白を受け取った。この星空という女は小学生の中でもずば抜けて賢く自分の見せ方というものを分かりきっていた。男を魅了する方法さえもだ。
誠司はものの見事に家に星空を連れてきた。老人も星空を優しく出迎えた。誠司は幸せだった。何気ないことで笑い合い、気を使わずとも喋れる。何も怯えることはない。その間、誠司は気づいていなかったがいじめも消極的になっていた。星空と交際をして三週間。冷や汗なくして学校に着くと星空が鮎川、森下と喋っていた。満面の笑みで。すると急に鮎川が誠司の方へ近づいてきて、
「お前、母ちゃんと父ちゃんいねえんだって?キモすぎだろ。親なし野郎じゃん」すると森下が親なし野郎と連呼し騒ぎ立てた。それに笑うクラスのみんな。その中には星空の姿もあった。手で口元を押さえている。状況はすぐに理解できた。誠司は星空を見た。すると森下が、
「どうだった?星空と付き合ってみて。楽しかったか?可愛かったか?羨ましいぜぇ。でも残念。星空は雄也の彼女でしたあ」雄也とは加藤のことだ。ちょっとやめてよ、と星空は言う。その顔は誠司には見せたことがないものだった。その時、誠司は気づいた。これはよくアニメとか映画で見るスパイと一緒だ。はぁ、とため息一つ。
「ふーん。そうなんだ」と言った。これに星空は顔を赤らめて激昂した。森下と鮎川は星空の真っ赤な表情を見て、怒りが伝播したのか知らないが、誠司を睨みつけ、袋叩きにした。すると追加で他の男共も混じってきて、今までで一番の外的苦痛を誠司に与えた。中には、大丈夫?と星空に対して下から訊ねたり慰めたりするものもいた。それを理解したかのか、星空は一瞬で激昂を止め、声を上げて泣きじゃくり出した。そうすると、女も女で誠司が泣かせただあーだこうだで星空を守るように囲み、誠司を責めだしだ。その時、誠司は気づいた。人間とは集団でなくては生きてはいけない動物だ。そして集団を作るためには何か共通の敵、上下関係が必要なのだと。つまり、人間は何かを責めなきゃ立っていられない。上がいなければ纏まらない。頭が悪いのだろうか。この程度の低脳な人間は自我のあるロボットと一緒だ。誠司はため息を吐き、確かな安堵を狂った精神に置いた。そして誠司はもう一つ気づいたことがある。森下と鮎川は他の男より星空と接する機会が多い。まるで手の届くアイドル。それ故、他のモブの男どもとは違い、星空を諦めることができないのだ。この二人は間違いなく星空が好きだ。さっきからどこか焦りながら激昂しているし、何か疑似とは言え、カップルの実情について訊きたげだった。森下や鮎川が焦っている原因である言葉を的確に言ってやろうかと思った。口を開く。しかし、その時、おはよう、と加藤が教室に入ってきた。すると、森下と鮎川は誠司への暴行を止めた。星空はまだ泣いている。加藤はその泣き顔を見るや否や目を背け席に座った。そのまま近くのやつらと今日の昼休みに何を遊ぶか話し出した。そこに誠司は疑問が浮かんだ。その日は加藤から暴行が始まらない限り何もされることはなかった。しかし、誠司は警戒していた。このような時には、決まって悪いことが起きる。
その予想は当たり、家に帰ると老人が加藤、森下、鮎川を招いていた。茶菓子まで出していた。なんでここが分かって、いるのか大凡の検討はついた。スパイとはなんとも手強いものだな。
「なんでここにいるの?」
「何でって友達だろ」加藤が言う。
「なんか古臭くね」
「ケーキ食べたい。煎餅とかまずいよ」誠司は森下と鮎川に対して明確な憎悪を持った。もともと誠司は誰一人として憎悪の感情ではなく呆れていただけなのだが、今回でとうとう、にしてはすんなりとだが黒い泥を持った。それは母である結衣の願いとは相反するものだが、今、誠司は老人の顔を見るだけで二人を殺してしまいそうになった。こうも瞬時に殺意が湧くとは。しかし、こういう些細なことが人間を、心を壊すのかもしれない。老人が誠司の背に手でポンと叩いた。
「すまないねぇ。けどこれいかないんだ。今度来た時に用意しとくから今日は煎餅で我慢してくれるかい」老人は言った。すると誠司は結衣の置き土産を思い出し我に帰る。駄目だ。こうしていては、心はもっと窮屈になってしまう。このまま、落ち着いていよう。何が起きても逆らったりすればこいつらは逆に調子に乗ってしまう。何もしないように耐えるんだ。そうすると、森下も鮎川もずっと黙る誠司に面白さを覚えられず、次第に黙々と茶菓子を貪るばかりに。一時間もすれば二人は加藤に何時に帰るか訊き出した。痺れを切らしたのかなんなのか、加藤は低く小さな声で「分かったよ」と言い、さようならも言わず帰った。かと思えば加藤だけが老人に向かって何かを話した。
翌日から、加藤だけがなぜか入り浸るようになってしまった。誠司は難しい本を読み出した。また、誠司はよく月を見出した。月の輪の仄光によく目を奪われる。そして一人、よく泣いた。
そうして数週間が経った。転校生がやってきた。異例な時期なので何かあるのだろうと思った。同情心を持ちながらドアの方に目を向ける。すると、担任がドアを開き転校生が入ってきた。女だった。その姿はまさに天使だった。誠司を含むクラスの全男が初めて見る女の顔を見て固まった。星空を凌ぐほどの美貌だった。担任が、
「じゃあ、自己紹介お願い」と言った。
「はい。秋田県から来ました。一条瑠璃です。好きな食べ物はクレープ。嫌いな食べ物はありません。趣味は読書です」淡白。しかし的確。そのスマートさはより一層、男を魅了した。そのまま瑠璃は指定された席に座る。男は全員、目で追っている。誠司はこれを嵐の前の静けさと感じた。真に厄介なのは男ではなく女だ。誠司は一先ずの傍観を決めた。
朝の回が終わり、休み時間に入った。そうなるとクラスは祭り騒ぎ。瑠璃への質問責めが始まった。奇妙なのはその質問者の中に女が混じっていることだ。実際はそんなことないのだが、このクラスの実情というか、裏を見てしまうとどうも不審さを覚える。
「瑠璃ちゃん。好きなゲームとかってある?」森下が訊く。
「ない。やってない」
「じゃあ瑠璃はなんか漫画読んでる?」鮎川が訊く。
「ない。本は小説しか読んでない」
「ねぇ、秋田って田舎なんでしょ?」星空が訊く。
「うん。仙台はすごい都会だね」星空の顔が赤くなる。
「じゃあ、好きな小説は?」意外だった。訊いたのは加藤だった。
「ヘミングウェイ」その言い方は、どうせ分からないでしょ、といったものだった。誠司も加藤なんかには分からないだろうと思った。
「意外と男らしいんだね。いや、無骨だね」いや、加藤の方が意外だよ、と誠司は心の中でツッコむ。すると、瑠璃は加藤の方を見て目をキラキラと輝かせて、
「知ってるの?すごい。初めて同年代で知ってる人見た」どんどんと瑠璃の表情が輝きのほかにどこか寄り添うような顔になっていった。これが女か。それは加藤にも伝わっているはず。いや、周りの人間全てに伝わっているだろうか。加藤は知ったこっちゃなさそうにして、
「別に珍しくねえよ。俺よりたくさん本読んでるやついるし。ヘミングウェイもそいつのじいちゃんから借りたんだ」そう言って誠司に向かって指を向けた。誠司は周りの目が一気に向けられる緊張に風圧に似た何かを感じたが、そんなことより瑠璃が寄り添うような顔を向けてきて、
「俺も読書好き」と頬を赤く染めていったのだ。男どもから視線が集まる。加藤はどこか微笑んでいた。
「ねぇ、二人はヘミングウェイ以外も読んでるの?できたら好きな本、教えて欲しいな」さっきまでの淡白な語りとは裏腹に興味津々で、尻尾振って近づく犬のような愛らしさがあった。
「アルジャーノンに花束を」加藤が言った。驚きが後から襲いかかってきてなんだか、よくわらなくなって、加藤の最近の行動を思い出す。なんだか腑に落ちて笑みが溢れてきた。そこに奇跡を、光を見た。
「僕はやっぱり老人と海が好き」
「それ、どこにあんだよ。おじいちゃんもどこにあるかわかんないって。他のヘミングウェイの見てるけど俺も老人と海見たいよ」
「あぁ、老人と海は僕がずっと持ってたんだ。今日、本棚に仕舞っとくよ」
「いや、今日すぐ俺に貸してもらう」
「いいよ」
「ねぇ、二人は、えっと誠司くんの家で本読んでるの?」
「あぁ。こいつのじいちゃん凄いんだぜ。数千冊も小説あるよ。マジで」
「私も今日遊びに行っていい?」正直、星空の件からナーバスになっていた。だが、なんだか加藤がいるから大丈夫な気がしてきた。不思議なものだ。今、思えば加藤からの被害ってのは殆どなかったような気がする。
「うん。いいよ」完全に三人だけの世界だった。対して、周りはいつの間にか散っていた。これが正体。だがしかし、好都合。誠司は腹に力を込めて、
「なんで僕を殴ったりしたの」訊いた。
「…何度も謝ろうと思ってた。でも、俺が誠司の家行くと、逃げるように本の世界行っちゃうから言えなくて…ごめん。本当に。でも今、訊きたいのはこれじゃないか。…なんで、だろう。安心するんだ。人を殴ったりして倒すと、勝ったような気がして。でも、あんまり理由なんて、なかったかもしれない。そうあるべきだと、思っちゃったんだ。ごめん。本当に」
「僕は許せない。だから、これからを見せてよ」
「…甘えんだよ」
昼休み、森下、鮎川ら、男共が誠司を問い詰めた。
「おい、なんでお前、瑠璃と仲良いんだよ。てか、雄也もなんでこんなやつと…。お前、あんま調子乗んなよ。もう瑠璃と雄也と喋んな。星空ともな」
「なんで。そんなの個人の勝手じゃないか」
「勝手じゃない。お前のこと、奴隷って言うんだぜ。奴隷は勝手とかないんだ。分かったか」そう言って誠司の机の中身を漁り、教科書やノートを乱雑に出してゴミ箱の中へ入れた。残った筆箱などは小トイレの中に入れたり、抱えて走ってどこか遠くに隠したりした。無論、誠司は抵抗する。暴れたり、反論したり、泣いたりしてだ。勿論、その効果は皆無に等しい。寧ろ相手を調子に乗らせる。分かってたことだ。なのにこういう反応してしまう。僕が出来る最大の防衛本能だった。答えが出なかった。『僕はなぜ生きている』誠司が暴れているとその騒ぎからか、瑠璃が顔を覗かせた。
「…何、してるの」
「何って何?」星空が言う。
「普通じゃないでしょ。どう考えても」
「普通じゃないって言う方が普通じゃない。押し付けは駄目ってママ言ってたよ。そんなこともわかんないの?」
「あっそ」瑠璃は、趣向を変え、森下と鮎川に向かって、
「何やってるの。やめなよ」と言った。少し面食らったようで、森下が瑠璃に言い訳じみたことを言い始める。すると星空を筆頭に女共が男共にケツを叩くというか、鼓舞するようなことを言った。男共は精力剤を盛られた闘牛の如く、何もわからなくなってただ、昂った。混乱していた。誠司含めた男共全員だ。つまり、昂ったはいいものの機能は低下して、大したことをこなせなくなった。虐めが止んだ。若干、照れ臭くなんとも言えない感情は拭えなかった。そして、不甲斐なかった。俯いていると瑠璃が、
「ちょっと来て」と腕を掴んで階段下に連れ出した。
「ごめん。ありがとう」
「そうじゃない。なんで、あんなことされてるの」
「わかんない」
「わかんないじゃわかんない」
「でも、わかんないんだもん。僕、何もしてないのに」
「やり返したことは?」
「…ない。僕はあいつらより一人だから。だからやり返さない」
「…偉い。誠司は偉い。強い。これだけは忘れないで。誠司は一番、賢い」
「なんで瑠璃が泣いているの」瑠璃は腕で目を擦り、誠司の肩を掴んで、でもまだ涙が溢れ出てきて、また目を擦って、止まらなくて、上を向いて涙を溜めて、誠司を見た。その視線は熱く強かった。
放課後、加藤が誠司を図書館に誘った。無論、驚いた。しかし、裏はないとなんとなく、思った。
より驚いたことがあった。その日から暴行がパタリと終わった。無視すらなくなった。率直に誠司は嬉しかった。元々誰も恨んでなかったので誠司はみんなと打ち解けようと決心するにまで至った。そのことは明日の自分に託すとして、家に来る瑠璃と加藤をおもてなしせねばならなかった。ということで誠司は一人、先に走って帰りしてもしなくても変わらないような支度をした。それに合わせ老人に家に来るということを告げた。老人はそうか、と一言だけ呟いた。
「おじゃましまーす」加藤と瑠璃が家に来た。
「いらっしゃい」と老人。また、「今日はケーキがあるぞ」と付け加えた。
「じいちゃん、ありがとう。俺からもこれ」と言って加藤がかなりの量の茶菓子を老人に渡した。
「私からもどうぞ」瑠璃からもジュースを貰った。
「はい、これ。老人と海」
「ありがとよ。今日中に読んでみせるぜ」
「お爺さんはなんの小説が好きなんですか?私思うんです。好きな小説、まあアニメでもなんでも、それを選んだ人の性格がある程度分かるって」
「ほぉ。儂は羅生門かのぉ」
「何気に珍しくないですか?なぜ、その本を?」誠司も加藤も老人に目を向ける。
「そこには人というものがある。儂は人が嫌いだ。なのに君達のことは孫のように好きだ。これが人なんだよ。羅生門は人間なのだ」瑠璃が首を傾げる。誠司ですら訝しげ。しかし、加藤だけが真剣な輝く目で老人と文庫本の山に目を向けた。その後は空が暗くなるまでぶっ通しで小説を読んだ。誠司は『火花』、瑠璃は『ハリーポッター』、加藤は『羅生門』だった。無音だった。老人合わせ四人が同じ空間にいた。何も違和感はなかった。加藤を見たと言えばそうだったし、瑠璃に見惚れていたと言えばそうだった。老人の皺を数えていたかもしれないし、本に夢中になってたかも。誰にも邪魔できない読書の時間にある張り詰めた空気は、錆びれた関係を溶かし、自分自身を忘れさせた。本と埃の匂いと黄昏の差す光が僕らを眠りに誘い、自然な、既にそこにあったかのような親愛を生む雰囲気を作り出した。僕は空気に流された。流れた先に何があるかは分からない。ときに逆らってみたりしてみよう。この流れを作り出してるのは僕もだから。
翌日、誠司はクラスの男子に話しかけてみた。森下や鮎川は流石にハードルが高く話しかけられなかった。だが実のところ、他の人間に対しても仲良くなれる、してくれる自信はなかった。ただ、何か変わるかもしれない。今はそう思った。流れを変えた。なんと意外なことにみんなは誠司を受け入れた。誠司は喜び、分かりやすく燥いだ。人間を誤解してたのだと自分を戒める。その光景はつい一昨日までいじめられていたとは思えないほど清々しかった。それを見た加藤は瑠璃と二人、図書室に行く。そんなこと知らず誠司は周りと打ち解けた実績により森下、鮎川に対しその日に話しかけてみた。話の内容は、好きな漫画についてだった。誠司は家に置いてある小説も好んで読むが、同じくらいに漫画も読む。先日、森下、鮎川が瑠璃に好きな漫画について質問攻めしていたので二人は漫画が好きなんだと判断したからだ。
「あ、あの、好きな漫画何、かな」この吃りは意識的なものだった。
「あ?なんだよお前」舌打ちに合わせ沈黙が流れる。
「森下やめろって。もういいよ。なあ、誠司今まで悪かったよ。ほんとはお前と仲良くしたかったんだ。なぁ、森下」
「あ、あぁ。そうだ。そうなんだよ。なんだっけ。好きなゲームだっけ。俺の好きなゲームはドラクエ」いつの間にかゲームになっていた。誠司はゲームを殆どしないので緊張した。
「俺は、モンハンかなぁ」
「そうなんだ。え、えっと。それは、なんか門番みたいなゲームなの?」単純な疑問だった。しかし、二人が見つめ合い、それから誠司の顔を見てゲラゲラと笑った。誠司はその笑いっぷりに何か自分の中にあるであろう強さを覚えた。
「誠司おもしろ」その一言がどれだけの勇気を誠司に与えたろう。それからというもの誠司は昼休みに入れば突如、仲良くなった森下、鮎川に連れ出され外で遊ぶようになった。そこには星空の姿もあった。だが、興味はなく、森下や鮎川を応援した。ただ実力主義とは残酷なもので森下、鮎川はもう瑠璃に夢中になっていた。星空は瑠璃以外の女が担ぎ上げるアイコンとして君臨しているに過ぎず、男からの人気は失せていた。更に、星空が加藤と良い仲だったというのがただの星空の思い込み、謂わば一人芝居ということが露見した。それを境に森下や鮎川が星空を見つけては指を指していじり出した。星空は男共の嘲笑の的になった。扱い的には地味なやつや不細工なやつと同義だった。今まで女帝として君臨していた星空が堕ちた。このことに腹を立てたのは紛れもなく星空だ。星空は元女王。直接、森下や鮎川に訴えだした。つまり、会話する頻度が増えた。男は理解した。瑠璃をいじりだしたのはその日からだった。最初は軽かったのだが、時間が経つにつれ、どんどんとエスカレート。止まらなくなっていった。こういうとき、男というのは一人でできない。クラスの殆どの男が瑠璃を嘲笑った。瑠璃は、教室の中から、空を見ていた。筆箱やノートを隠されながら、瑠璃は雲を見ていた。何を考えているのか分からなかった。解明したかったが近づいてはいけないと思った。僕もこっち側にいる。誠司は直接、瑠璃に何かしたわけではない。良くも悪くも、何もしなかったのだ。誠司は、今までの自分と瑠璃を重ねた。一歩、あと一歩出て瑠璃を助けろ。憧れたヒーローみたく、瑠璃を守るんだ。行け。そう自分を鼓舞した。重ねれば重ねるほど心は重くなっていって、要約解放された今を離すことに恐怖を覚えた。何してるんだ。このままじゃ瑠璃が僕みたいになる。そうなった地獄はお前が一番知ってるだろ。知ってる。知ってしまっている。誠司は大きく息を吸って、勇気と恐怖と罪悪感と後悔を全部混ぜて半泣きになりながら一歩、踏み出そうとした。この一歩は大きな、人生を変える一歩だと、そう信じた。
そのとき、加藤が誠司を横切り瑠璃を助けた。加藤は簡単に助けた。一瞬のことだった。人生を道だとするなら僕と加藤との距離は大きく離れているのだろう。いじめるものは状況を変えるもの。そういう奴はどこにいたって変えていく。今、加藤はその過去を払拭した、善の人間。僕は何もできない、変えられない人間だ。僕は悪でも善でもない。一体、何者だ。歩きたいのに歩けない。
その日は動けなかった自分に不甲斐なさを覚え、苦しかった。ずっと苦しかった。ご飯が喉を通らなかった。水で流し込む。ベッドについても変わらなかった。なんで今日僕は動けなかった。ずっと見ていただろう。何故、守ってやらなかった。もう、僕も一緒じゃあないのか。森下や鮎川たちと一緒じゃないのか。瑠璃の苦しみは僕が一番分かっているはずなのに、どうして、どうして、どうして、ただ見てただけなんだ。いや、予めこうなることは予測できた。できていたし守る覚悟だってそれなりに持っていたはず。一緒にご飯も食べた仲だぞ。なんで、僕は、加藤が来て…。あ。誠司は起き上がり、走った。ただ、ただ走った。どこに辿り着くか分からない。何も起こらない。虚しい旅。それでも走らずに入れなかった。走るのは苦しかった。息がなくなって、肺が潰れていく感覚がした。でもまだ足が動いた。動かした。気持ち悪くなった。血の味がした。辛くて辛くて辛くて、嫌になって、泣いてしまって、膝をついた。それを皮切りに足が動かなくなった。空気は澄んでいた。膝をついたところはコンクリートで、真っ平で固かった。誠司は立ち上がってよろよろと歩きだした。顔を出す日差しが癪に障った。どこに向かっているか分からないその旅の行方は海だった。砂浜に降りた。水面に太陽が揺ら揺ら浮く。砂浜が波に食われる。その波は僕の足すら飲み込んだ。全部が海に帰った。声が出なかった。ただ、太陽の陽を見れなくて、悔しかった。立てなかった。その事実や悲しみすら時間は波のように哀しく洗い流す。それが人生だというならそれほど哀れなことはない。けど、なんだか凄く、『安心するなぁ』。あ。安心する。加藤…。なんだよ。くそ。なんでだよ、もう。洗い流すんじゃないのかよ。なんで流れてかない。こんな汚れ、落ちろよ。誠司は濡れた砂浜に握り拳を叩き続けた。どうしても、思い出してしまう。瑠璃がいじめられていたあの時、僕は加藤が来て、安心した。加藤が来たからもう大丈夫。僕は何もしなくていい。どうせ何かしたって足手纏いなんだから、何もしない方がいい。そう思った。思ってしまった。僕は、卑怯だ。気づきたくない真実はどうしようもなく真実だった。誠司はかなり達観しているが未だ小学生。いじめは人を大人にさせる。誠司は動くことができなかった。老人が迎えに来るまで誠司は一人だった。
それから、誠司は瑠璃と加藤と距離を空けた。意識的かどうかは誠司にも分からなかった。瑠璃たちも誠司と空けた。空けざるを得ない雰囲気を纏っていたから。分たれてからというもの、いじめの標的は瑠璃及び加藤に変わった。加藤と男共には確かな結束があった。その筈なのにこの様は、瑠璃と加藤が付き合っているという噂が流れ出してからのことだった。しかし、どうやらそれは事実とは異なるらしく、不審に思った誠司は心当たりある女の声に耳を立てた。相手は頭悪く、全てを自慢げに話した。やはりこの女だった。名声を一度手に入れてしまった人間はその渇きに耐えられず、どんなことをしても取り戻そうとする。誰だってそうする。
二人と疎遠になったまま、卒業の季節がやってきた。このままでいいのか、なんて考えたりして、また動けなくて、ただ本を読んでいた。冬風が肌を痛めつけた。肌は乾燥して皹が入るのではないかと思うほどだった。風は窓から流れ込んできて、読んでいた頁がパラパラと捲れた。ただ過ぎた。髪が靡いた。そういえば切っていなかった。随分と長くなったなあ。これからもただ伸びるだけなのかなぁ。誠司は冷たい風を遮るため、窓を閉めようと立ち上がった。
「…久しぶりだね。瑠璃」
「…誠司はさ、ずっと傍にいてくれる」
「加藤は?」
「勿論、一緒。ただ、誠司とも一緒がいい」
「…加藤がいるなら十分じゃないか。僕は二人と違う中学だけどさ、一緒に頑張っていこうな」瑠璃と、最後に交わした言葉だった。
中学へと進学。中学は二つの選択肢に分かれていた。東側にある学校と北側にある学校。距離も偏差値も大して変わらない。近所の小学校は基本、このどちらかの中学に上がる。誠司は北側の方を選んだ。北側には森下が進学した。一方、東側には瑠璃と加藤、鮎川が進学した。中学に上がるとすぐ誠司は人気が出た。結衣譲りの顔、小説によるワードセンスや知識の幅、決して強くない雰囲気は男女問わず魅せることができた。それはすぐ、信頼にも変わる。カースト制度というものだ。一度、上の階級に上がってしまえば大概、下に落ちず、いるだけでも人が寄りつくようになった。権力あるものにはより人が寄り、権力が強くなるもので誠司の影響力はすぐに学年を呑んだ。小学生でいじめられていたとは思えないかもしれない様子。しかし、小学生は元々の始まりがイレギュラーであったり、すでに権力者がいたという不幸があったからだ。リスタートした生活、白紙の階級といった状況下で不幸はなかなか起きず本領を発揮するに至った。また、誠司はたいそうモテた。必然である。しかし、誠司は全ての告白を断った。その様から一目置かれる存在となった。それは生徒だけではなかった。教師ですら誠司には特別な感情を抱いていた。男の教師、特にインテリジェンスに長けた者は誠司に多くの勉強を課した。中学は小学と違い、勉強の難易度がグンと上がる。そのため次第にやる気をなくしたり、おどけて勉強から逃げたりするものが続発するのだが、誠司はずっと耐え続け、学年の順位で一位になった。それからはずっと一位だった。英語や数学ですら容易く扱ってみせたのだ。また、女の教師は禁断の欲情を胸に潜めるものが出てきた。老若は関係がなかった。その禁断は叶うことなどないのだが、そう容易く諦めることではないものだ。特に四十代から五十代は諦めが悪かった。その女どもは総じて未婚かバツが付いている。年が重なってくると次第に給料も上がる。そのため、諦めない女は多くのブランド品を持っていたり、エステや化粧を使い自分を魅せている。だから誠司が欲しくてたまらなかった。つまりは勘違いが引き起こしているのだが。女が好きになる要素として誠司の偶の抜けがある。誠司は大まかに見れば完璧超人であり、失敗することはない。そんな誠司がネクタイを忘れてきたことがあった。それに気づいた誠司は顔を赤くし、慌てふためき、胸元を腕で隠していた。その行動は女たちが持つ母性を擽った。擽りは年が増せば増すほど効力を強めた。そこから女どもは教師という自覚はある程度持ちながらも、ネクタイの件を敢えて授業中にいじってみたり、隠し事のようにコショコショと囁いて揶揄ってみたりして、その可愛さに身と心を燃やした。誠司は教師たちの差別を知っていた。そして、この差別を裏切るとどうなるかもまた、知っていた。だからこそ、差別を差別のまま昇華させたならば上手い付き合いが生まれるのではないかという期待も孕んでいた。誠司は朝起きれば、髪を校則の範囲内で不器用ながら必死にセットし、口臭を完全に消す。学校に着けば、人気者のペルソナを出す。また教師の前ではインテリジェンスある可愛い子供を演じた。もう誠司に対し森下は媚び諂うしかなくなるほどだった。だが、実際には森下はなかなか誠司とは関係を築かなかった。もう一人、誠司と同じくして学年カーストが高い水尾暁という男がいた。その金魚の糞として誠司と対等を保とうとしていた。この水尾という男の人気は誠司と違うベクトルだった。誠司は基本、頭脳で人気を得てきた。対して水尾は圧倒的才能で上にいる。水尾は殆ど勉強ができないのだが、運動や芸術、誰もが惚れる雰囲気と人情があった。誠司にはないものだった。またこの男は誠司とは違い、自由奔放であり他人のことなど気にしない性格だった。良く言えば自由人。悪く言えば自分勝手。だが、女にも男にもたいそうモテた。その姿は尾崎豊を彷彿とさせる。この通り水尾は同級生には絶大な人気を誇っていたのだが、教師達には睨まれていた。インテリジェンスな教師は呆れ返っているし、女教師は運動なんかにはもう惚れなかった。それに水尾は教師に反抗しまくっていた。少しでも不当に縛られたりすると誰だろうが問い詰めた。基本、水尾は悪くないので教師の逆ギレで終わる。その態度に水尾も苛立ち、異議を唱えてしまう。そのまま早退する。その行動に教師はまたストレスを溜める。水尾は先生という絶対的秩序に対する革命家としてまた人気を得ていく。そうなれば教師は安寧の地を求めるように誠司の元へいく。そして、誠司に何かを課したり、熱い視線を送ったりする。誠司はこのサーキュレーションに無論、気付いていた。自分の役割の価値を知って辟易としていた。決まって誠司君は良い子だね、と言われることにも価値を見いだせなくなっていた。かといって裏切るのは怖かった。だから、最小の反抗として水尾の隠れファンになった。誠司は水尾の自分の思うがまま、自由に生きる姿に感銘を受けた。知能で語れない才能という能力に憧れを持った。
それからは水尾の行動をよく見ていた。この時代に地で十五の夜をする水尾には抗えない高揚感を焚くカリスマを覚えたし、運動ができないやつを庇い、教えながら球技大会で勝ったのもカッコよかった。僕もこうなりたいと素直に思えた。今までにないスリルだったので毎日が楽しかった。こんな気持ちは久しぶりだった。そして、薄々気づき出していた。不信感。自分が教師や同級生に尽くしてることは本当に正しいのか。良い子にした結果、何が起こるのか。裏切っても何も起こらないのではないのか。逆に仲良くなれるかも。自分という人間はどうなってしまうのだろうとも考えた。かといって何かしようとも考えられない。ぼーっと雲を眺めたくなった。こういうことは考えたくないものだ。何も考えてないやつの方が楽しく生きれるのかもなぁ。そう思った矢先、野球部の馬場という男がクラスに入ってきた。何か?と訊く。宿題、と答える。誠司は馬場に明日提出予定の宿題を渡す。馬場は、写して、と言う。誠司は一度は拒もうとするが、怖くて、言いなりに行動した。その間、殆ど会話はなかった。
宿題を終え、馬場に渡そうとした矢先、
「お前、今日、俺の家来いよ。な」
「え」
「決まりな。九時ごろ来い」そう言って馬場は直ぐに教室を出た。帰ったのだろうか。誠司は本を再び読み始める。ため息一つ吐いて、今夜のことを考えた。行かなきゃだよなぁ。
夜、馬場の家に来た。ピンポーンとインターホンを鳴らす。五分が経った。未だ寒空の中、一人だ。それから二分が経ったのでもう一度、インターホンを押す。それで漸く出てきた。無骨に入れと促すポーズをしてきた。それに合わせ誠司は、お邪魔しますと一言添えて、中に入った。部屋に居たのは馬場だけではなかった。森下とサッカー部の渡部もいた。渡部は元々同じ小学校だ。確か、渡部には彼女が居たはず。その彼女はとても美人で羨ましがられていたのが印象的だ。すると、馬場が冷蔵庫からビールを取り出し、プルタブを開けて、
「よく来たな。じゃ、適当にその辺座ってて。どこにも触んなよ。あ、誠司、ちょっと写真撮らせろ」そう言ってスマホを向ける。カシャっと音が鳴る。そして、そのままスマホをいじり出す。それから馬場は座り、森下、渡部と共に酒を飲み出した。三人は美味いと言っていた。缶には水の粒が滴っていた。十五分くらいの時間が経過した。すると、ピンポーンと音が鳴る。馬場が勢いよく立ち上がり玄関に出た。何やら女の声が複数重なり、家の中に入ってきた。
「ねぇ、馬場。親は」
「今、旅行中で居ねえの」女の声は三つだった。その女がリビングに顔をだす。
「うわ、マジで誠司君いるじゃん。馬場ナイス」その女、三人は見たこともなかった顔なので同学年ではないと察しがついた。
「みんな、この三人は野球部のマネージャーで三年の竹下と神木と金子だ」
「こら、先輩をつけなさい」馬場は悪びれる様子もなく酒を飲んだ。誠司は狼狽えるばかりでずっと立って動かない。帰ろう。そう思った。しかし、そうは問屋が下さない。竹下とかいう女と金子とかいう女が急に近づいてきた。すると誠司の方に腕を巻きつけ、冷たい缶チューハイをほっぺたにぷちんと当てた。誠司は突拍子のない冷えに肝までがヒュンとなった。酒が一本、誠司の前に出される。アルコール度数は九パーセント。プルタブに指を掛けてみる。しかし、恐れが上回り飲みたいとはどうしても思えなかった。その様子を見た森下が、
「何?お前飲まないの?ノリ悪。こんなつまんないやつだったっけ」と酒を飲むことを推進してきた。この期待に応えなければ、どうなるのだろう。考える余地はなかった。化けの皮に手をかけられている気分だ。誠司は二人の女に囲まれながら、ブルタブを引っ張り、プシューという音を立て、その音を体で聴くように、ごきゅごきゅと喉を溶かすように食らった。その飲みっぷりを見た女二人は目を見開き、見つめあった。
「ほら、誠司君。まだまだお酒はあるから。はい。飲んで」誠司は最初逆らってしまえばどうにかされるという思いで喉に詰め込んでいたのだが、次第に積極的になっていった。積極的なのは酒飲みにあらず。その積極性に女どもは逆らわなかった。静観していたのは唯一、神木だけ。森下は潰れ、馬場は拗ね、渡部はトイレに篭りっぱなしだ。女どもは年齢の経験からかまだまだいけると言った容貌。とは言っても、今はまだ二月なのでもう直ぐ高校生といったところなのだが。女どもは止まらなかった。それはメタコミュニケーションにも似た行動。しかし、本当に恐ろしいのは女二人ではなく、誠司だった。女二人は酒を食い、随分と欲を発散した後、眠りについた。誠司は野生に還っていた。退屈だった。そして一人、安全圏から見ている人間を見つけた。暴力にも似た感情を静観者にぶつける。神木も抵抗することはなかった。諦めた様子もなかった。ただ、誠司を強く抱きしめ、後頭部を撫でた。泣いていた。誠司は衝動がおさまった頃、自分のやった過ちを懺悔する前に神木が泣いたことを必死に思い出して、理由を探して、青い朝に答えを見つけた。神木もこの風景を見たのか。
時は過ぎ、誠司は三年生になった。この時期にもなればまあまあの人数が受験勉強を始める。そうすると拾えないものが増えてくる。誠司の場合、それは友情だった。一番繊細に扱っていたものが実は取捨選択で一番最初に捨てられるものだった。本人に自覚がないのが怖いところである。繊細に扱われた側も側で、徐々に移り変わり出てくる少しの雑さに憤りを覚えてしまう。ホストと太客のよう。友情なんてものは自分を曝け出さなくては意味がない。適当かつ礼儀ある雑さが仲というものを深めるのに。太客は接待を接待と気付いてないので、それ相応の報いを受けさせようとする。ホストと太客なら太客がホストを刺すなり殺すなりすれば済むのだが、対誠司にはもうそれが効かない。太客は見境がなくなってしまった。誠司はそんなこと露知らず、日々勉学に明け暮れていた。教師の束縛にも似た教育が功をなしたのか誠司には勉学の癖が付いていた。その域は全国で戦えるほどだ。またさらに教師の評価が上がっていく。この時期になれば運動より成績が重視されるようになっていく。つまり、同級生のヘイトも上がっていった。いや、男だけか。女は教師側の視点だ。それが浮き彫りになったのが、中学三年生二回目の模試が返却された日のこと。誠司は開成高校がB判定だった。もちろん校内一位だ。誠司は何も言わなかった。無論自慢もしていない。ただ接待を疎かに勉強に精を出しているだけ。それは陰口の対象となるには十分な理由だった。所謂、共通の敵だ。しかし、おかしな点があった。模試の結果など誰も知る由もない筈なのだ。唯一知れるのは、教師だけ。誠司はハッとした。そして空に耽った。太客は怖いなぁ。なんだかどっと疲れた。誠司は夜になるのを待った。それまで保健室で休もうと思った。こういう時は、文庫本を読むのが一番だ。誠司は仮病を使い、家から持ってきていたハリーポッターを読み始める。チャイムが何度も流れていく。放課後、誠司は荷物を持って校門を出た。すると、なんということだろう。太客が推しを変えていた。まさか水尾が同業だったとは。はぁ、とため息を一つ。それと同時、水尾もため息を吐いていた。もう一発、ため息を吐いといた。
帰路に向くと、女が一人、泣いていた。よく見ると彼女は有名人。渡部の彼女だった。いや、見るに今はもう元彼女というやつか。まぁ、一人になることの怖さを知っているので、
「大丈夫ですか?」と訊いた。三秒が経った。答えは沈黙か。それとも察してよ、というやつか。可哀想に。彼女はふと何か思い出したような顔になり、誠司を見つめる。
「あなたは何も思わないの?」
「うーん。今、受験で忙しいから」
「あなた、親が死んでも言いそうね」
「優しいってなんだと思う?」
「急に何?」今度は誠司が沈黙を生み出す。「優しさねぇ。うーん。浮気しない、とか」
「単純だね。今がそうだからってだけでしょう」
「なんなのよ一体。それの何が悪いのよ」
「悪くない。むしろそれが全てだ。答えなんて時と場合によって変わるものだ。けど、僕には指針が必要なんだ。いや、全員必要なのかな。まぁいいけど…。僕は優しさってのは怒らないことだと思ってた。けど、どうやら違うってことを小学生の時に知った。同時に、怒ることが優しさなんじゃないかとも思った。けど、なんだか違うんじゃあないかと最近、よく僕の中で思うんだ。じゃあなんなのよ、って怒んないでよ。僕にとっての優しさは好きなところを見つけることだと思うんだ」
「どういうことよ」
「僕は好きなものがたくさんあるってこと。できれば、みんなと永遠に仲良くしていたいんだ」
「つまり、相手と仲良くしていたいから、自己犠牲も厭わない。なんなら、悪事にも目を瞑るってことね。よーくわかったわ。なんだか、難しく話してたけどよーくわかった。あんたがどうしようもない腑抜けだってことがよーくわかったわよ」
「親が死んだら、僕は泣くよ。だって好きなんだから。ただもし、両親が自殺の道を選んで死んだとしたら、僕は嬉々として送り出せるよ。そこには一滴の涙もない。好きな人には優しくできるよ」
「じゃあ、もしあなたの好きな人が人を殺したら?」
「僕は泣きじゃくって、考えて、まだ好きだったら、釈放まで待ってるよ」
「じゃあ、殺した人も、殺された人も、好きな人同士だったら?」
「殺した人のことがまだ好きなら、さっきと同じ回答。もし違うのなら、僕は泣き叫ぶ」
「やっぱり。結局安全圏からしか見てないじゃん。まぁ、私も、大体の人もそうか。でも、なんか、あなたイカれてる」
「いや、そんなことないでしょ」
「…あっそ。まぁ、いいや。なんかあなたのおかげで悲しくなくなったわ。はい、これ」彼女がスマホに映るQRコードをこちらに向ける。誠司はそれを読み取る。「私の名前、知ってる?」
「麗花さんでしょ」
「苗字は知らないってことね。苗字は渋谷。よろしくね。なんか落ち込んだりするかもだからその時、連絡するわ。いい?」
「…うん」
「私のことも好きになってね。じゃあ、バイバイ」そう言って麗花は長く艶やかな髪を靡かせ去っていった。誠司はその姿を見届けると塾に向かった。
塾が終わり、夜の九時。辺りはもう真っ暗で自動販売機の光がぼんやりと輝いている。誠司は、自販機の前に立ち、顎を右手で摘んで、首を傾げながら、硬貨を投入し、ブラックの缶コーヒーが出てくるボタンを押した。温かいものが欲しかったのだが、うっかりとしたことにキンキンに冷えたものだった。諦めてプルタブを引っ張る。そして一口、含む。舌に触れた瞬間、冷たい苦みが全身に廻った。ぐっと堪え味わった。若干、酸っぱかった。
誠司がコーヒー片手に人気のない歩道橋に着いたときだった。突如、麗花から通話が来た。
「もしもし」
「あはは。通話でもしもしって言う人、叔父さん以外に初めて見た。もしもし。渋谷麗花です。なんか、寂しくなったので掛けました」
「それは大変だ。寂しいと全てが嫌になる」会話が始まった。家に着いた頃にはすでに缶コーヒーは飲み干していた。この通話は最終的に日を跨ぐまでに至った。
通話はほぼ毎日、掛かってきた。いつしか、誠司が勉強を教える仲にまで発展していた。しかも、家でだ。まぁ、誠司なので、保健の授業は始まらなかったのだが。無論、麗花が毎日、下着を上下合わせてるのは知る由もない。よく麗花も痺れを切らさなかったものだ。それでこその仲とも言える。しかし、時は無情なほど進み、予期しないことが続々と起こる。後回しほどの地獄はない。
ある日、誠司と麗花の前に神木が現れた。それは、黄昏が包む放課後、誠司と麗花の二人しかいない教室でのことだった。神木はもう高校二年生だった。
「久しぶりだね。誠司君」
「久しぶりですね。神木さん」
「すごい。私って分かるんだ。髪型も髪色も変えたし、メイクまでしてんのに」
「何しに来たんですか?というか、どうやって来れたんですか?」
「部活の道具置きっぱにしてて、取りに来たんだよ。私がここに来たのは、誠司君に会いたかったから。そして言わなきゃいけないことがあるの。私、底辺高校に通ってるんだけど、というかそこしか受からなかったんだけど…。妊娠しちゃった。無理矢理だったような、違かったような。ただそれだけ」
「そうですか。それは、お気の毒に」神木は麗花に一瞥し、その場を去った。
「誠司って怒れるんだね」誠司はレクチャーを再開した。
その勉強の成果は未だ止まることを知らず、中学三年生の最後の人もいるであろう模試で誠司は遂に全国で七位にまで上り詰めた。もちろん教師やら周りの大人たち、同級生からも神童扱いされる。気持ちのいいものではない。だが、絶対的王者としての位置に立ってしまう。するとある程度のプライドが芽生えてくる。もし、百獣の王なら下は見ずに上に君臨し続けるだろう。しかし、人間ないし頭脳のランクにおいてはしっかり下も確認する。誠司は噂を聞く為、耳を立てたり、それとなく麗花に聞いてみたりした。今回はとくに力を入れて探りを入れた。なぜなら、なんだか誠司にたいする教師の目がいつもより諄くない。情報収集の結果はやはりと言うべき内容と驚くべき内容の両方だった。やはりの内容は、二位のやつは全国で見て百位台を取っていたということ。驚いた内容は、肝心の二位は水尾暁だということだ。今まで、教師は水尾を目の敵にしていた。(最近は好意の裏返しとも取れる)しかし、この結果を機に水尾に表立って群がり出した。その群衆は誠司をも凌いでいた。水尾は勉強だけでなく運動もできてコミュ力も高い。人当たりもいい。一部の教師と同級生に厳しいだけで当然人気も高い。むしろ歯に衣着せぬ物言いができるので、誰からもナメられることはないし、信頼されている。顔も誠司に負けず劣らずなので女からも人気が出る。一方、誠司は眼鏡で髪も切らず、すっかり芋臭くなってしまった。詰まるところ、誠司の頂点は実質、水尾に奪われた。すると次第に、目の敵にしていた教師も認めざるを得なくなり上から目線で媚びり始めた。ずっと、誠司は教師の求める形に染まってきた。ボランティアだって頼まれればやったし、多く出された課題だって行った。なんの意味があるかわからないような私欲混じりのルールにも従ったし、揶揄いにも耐えた。その結果がこれか。今や、隣人は麗花だけ。残ったものはあったはずの青春を教師の言う通りに捧げ、手にした頭脳だけ。水尾は青春を謳歌してこの様だが。
誠司は麗花を呼ぼうとしてスマホを出して、閉まって、机に顔を伏した。気づけば外は暗くて教室には誰もいなかった。と思ったのも束の間、ガタンと後ろで音がした。水尾が寝ていた。何をしているんだろうかと気になり、ちょんと人差し指で触ってみた。すると、またガタンという音を立てて跳ねた。面白い体だな。ちょんちょんと何度か突っついてみる。ぴぃんぴょんと浮く浮く。流石に起きた。
「あぁ、えっと、おはよう」
「うぅ。おはよう。…あぁ誠司か。起きたの」
「何してるの?」
「何って、あぁ、えっと、勉強教えてほしくて。英語」
「先生に教えてもらえばいいじゃないか」
「いやぁ、俺はどうしても先生ってやつが嫌いでさあ。あんまり喋りたくないんだよ」
「なんで嫌いなの」
「え。てっきり誠司も先生が嫌いなんだと思ってた」
「いや別に。そんなことないよ」
「ふーん。じゃあ、俺色に染めてみようかなぁ。先生のここが嫌!まず一つ。あいつら、俺ら生徒を染めてんだよ。他の言い方だと整えてる。まぁ、これだけじゃ分からんよな。まず前提として、俺らってのは才能に溢れてると思うのよ。良くも悪くも現実を知らないって言うかさ、未知の世界に行ける可能性を秘めていると思うのよ。でも、世界を変える人間ってのはごく一部だろ。このクラスで五十年後、世界を変える存在になるやつはいないと思う。まぁ、俺か誠司ならワンチャンってとこだ。その理由がさっき言ったことなんだよ。先生はよ、俺らを既製品に変えてんだ。世界に一つだけの花だとか十人十色って言葉があるだろ。本当は全人類がそうなのに、みんな、同じ礼儀をして、同じ回数飯食って、同じ道徳心持って、同じように働く。そういう風にプログラミングしてんだよ。あいつらは。それが気に食わない。それを受け入れてるお前も気に食わない」
「なんで僕だけ」
「他の奴らは疑問すら持たないし、言ったとこでわかんないだろ。頭の良い誠司だから言ってんだよ」
「まるで自分は周りとは違って特別頭が良いと思ってる節があるようだけど、そんなに大したものなのかい?」
「まあな。大したものだろ。周りと比べれば一目瞭然だ」
「僕が話してるのは勉学のことじゃない」
「だから、一目瞭然だって言ってる」
「自信たっぷりだね。でも、気に食わないって理由だけで嫌うのかい?プログラミングしてたとして悪いばかりではないと思うんだけど」
「いいや、悪いね。なんで、元の性格を決められた形に規定されなきゃいけない。先生の役目は導くことだろ。作り変えることではないはずだ。そうだろ?」
「そんな難しいことを先生に求めるのは酷ってものじゃないのかい」
「度が過ぎてるだろ。先生が変われば性格が変わるやつなんてザラにいると思うぞ。俺らは何かを学びたくて学校に来てんのに先生個人の偏見の押し付けを被るなんてまっぴらだぞ。これは嫌なとこ二つ目にも通ずるんだが、偏見がありすぎると思うんだよ。生徒は全員フラットに見るべきだよ」
「いや、先生だって人間だ。それは無理だ。水尾君だって今、先生って存在に偏見を持っているじゃないか」
「つまり、偏見は帰納法によって生まれるってことかい?」
「そうかもね」
「本当に?偏見なんて外見からでも、雰囲気からでも持たれるぞ。帰納法なんて悠長なことする前に大体が第一印象で決まってんだよ。先生はフラットに見れないんだ。なんでだろ。学校から出たことがないからかな」
「そんなの皆んなそうだよ。第一印象は大事だ」
「それが先生なのがまずいんだって」
「先生なんて教えたがりの人間に過ぎないんだよ」
「いいや。先生はもっと崇高なものだ。薫陶によって差別なき自由を教える人を俺は先生と呼びたいね」
「それは、欲張りだよ」水尾はふーん、と言いながら徐に英語の参考書をリュックから取り出す。比較級についての質問だった。そのthanは接続詞だということを教えた。なんだか自分を題材に例文を作ってみたくなった。
最後の最後の模試で誠司は神童の座から降りることとなった。
卒業式を迎えた。誠司は一人だった。卒業式だと言うのに、真顔で無口だった。馬場なんかがいじりにやって来たりもした。誠司は笑顔で戯けて見せた。軽く頭や後頭部を叩くやつや、陰でこそこそ笑っているやつ。そんな姿が誠司を囲む。誠司は口角を釣り上げ、必死につっこむ。そして皆んな静かに消えてく。僕はピエロだ。もう帰ろう。そう思って階段に目を向ける。すると、後ろから声がかかってきた。
「誠司、もう帰るのか?」
「あぁ。うん。親も来てないしね」
「ふーん。まぁいいや。でさ、俺、誠司にありがとうって伝えたくて。なかなかタイミングなくて言えなかったんだけど、俺、開成受かったんだよね。でさ、英語の問題に比較級が結構多めに使われたんだよね。あのとき教えてもらったおかげだからさ。本当にありがとうな」水尾君は心底いい人なんだなぁ。誠司はおめでとうという気持ちと喜びで溢れた。そのとき、初めて誠司は笑った。
「ねぇ、一つ訊いてもいいかな。なんで急に勉強なんかし出したの?」
「あー。なんか暇で、勉強してみっかってなって、やったらめちゃくちゃ面白くて、ハマった。そんでさ、どこの高校が一番勉強できっかなって思ったら近くに開成あってラッキーって感じ。二高でも良かったんだけどねぇ」
「勉強が好きなんて凄いね」先生が見る人は僕じゃなくて水尾君だったんだ。僕はなんで今まで規定されていたんだろう。僕は自由を手にすべき人間だったんじゃないか。僕の中学三年間は一体誰のものだったんだろう。この三年間で得たものはなんだろう。なんだろうって思うってことは、報われてはないんだろうなぁ。もっと遊んでおけばよかった。誠司は目を離し、階段を降りながら、「水尾君。バイバイ」
「おう」
誠司は宮城県トップの高校に進学した。入学当初、誠司は燃え尽きていた。これからのことを考えていたからかもしれない。どうしたものか。思い描いていたキャリアがもう崩れた。それにこの学校に友達はいない。また白紙から。悩みと迷いと心配がぐちゃぐちゃに、脳内で入り混じって、真っ黒に染まった。しかし、誠司はその黒を周りに見せまいと努力した。それに伴い別人格とも言える明るいペルソナを学校で用い出した。この姿で入学した。それでか、周りには明るい人間が集まった。しかし、ピアスも開けていて金髪。軽薄なのでは、と疑ってしまう。びびってしまう。誠司からしたらもっと根暗で真面目そうなやつの方が安心できた。話しかけたかった。なのに、真面目たちは自分から動こうとせず、クラスの中で地蔵となり、スマホと勉強に洗脳されている。軽薄たちは全くスマホをいじらず、勉強の質問、疑問やチャレンジ問題の話を仕掛けて話に花を咲かすか、この野球選手が良かったとか、映画が良かったなどの他愛もない会話でクラスを巻き込んで盛り上げた。これじゃあ喋りかけれない。クラスの一人という意識はあるのか。特にクラスの隅で小説(ブックカバーが付いている)を読んでいる、上田麻くんが気になる。なんでこんなにも反応しないのかという点と、なんの本を読んでいるのか、聞きたい。
「おい。なんで上田のとこずっと見てんだよ。惚れてんのか」そう言ったのは金髪ピアスの久隅竜興。
「いや、何読んでるのかなって」
「さぁ。聞けばいいじゃん」
「え。いいの?」
「いいでしょ。知らんけど。聞かれて急に怒るやついないと思うぞ。いやでも今、クライマックスだったら怒るかも」
「小説はクライマックスとかじゃないと思うけど。いや、だからこそ厄介か」
「うーん。でもまぁ、怒られたら怒られたってだけじゃね。今ここで話しかけなかったらもう話す気、起きないかもよ。でも今、怒られてでも話しかけてみたら、案外、一生の友達を得られるのかも。俺とお前みたいに、な」なかなか軽薄そうな言葉だが、一理ある。そう思い、誠司は席を立った。
「ねぇ、何、読んでるの」腰を曲げ、目線を合わせてそう言った。
「…眉かくしの霊」どこか試すような顔でそう言った。無論、読んだことはあった。しかし、なかなか誠司はそれに入り込めなかった。
「それ漢字多くて難しいのに、凄いね」
「…何、知ってるの。へぇ。君、あれだ、難しくてリタイアしたタイプだ」
「あー。実はそうなんだ。お恥ずかしい」
「この本、読めればめちゃくちゃ面白いんだぜ。勿体ねえ」
「そうなんだ。今度、教えてくれたり…」
「あー。勉強忙しいからさ。自分で頑張ってやりなよ。うん」
「あ。うん。そうする。他になんかお勧めの本あったりする?」
「え。うーん。やっぱ金閣寺は外せないよね。それと、ドグラ・マグラとか」
「へぇ。なかなか難しいなあ。僕も読んだことあるけど、金閣寺なんかは父親が死ぬシーンで耐えられなくなっちゃったよ」
「あ、あぁ。あの最後の方のな」最後の方?何か勘違いしているのか。誠司は、素直に、マニアックではないものの、難しい本を読んでいる上田に凄いという気持ちと、もっと語りたいという気持ちが沸々と出てきた。
それからというもの、誠司は上田に何度も小説の話を仕掛けた。とうとう、誠司の今までの辛い日々を言うほどになった。久隅にも若干、言ったことはあったが、話が盛り上がらなくてやめた。
誠司の姿は、クラス内、いや、学年で一、二を争うほどに目立っていた。それもそうだ。カーストの上下両方と付き合いがあり、この県トップの高校で、一位をキープしていたからだ。運動はからっきしだったが、有り余る程の容姿もあった。このような人間は相当いない。中学の繰り返しのように、女どもの憧れの的となった。
一年が過ぎた。時に女、時に軽薄者、時に真面目者と、高校生活を過ごしていた。尚、誠司には女が勝手に寄ってきていた。それに上田はかなり疑問を覚えていた。何故、俺ではなく誠司だけなのか、と。だが、上田の醜い心とは裏腹に、誠司は全ての女の誘いを断っていた。ある女が、ずっと脳裏にいたからだ。驚いたことに、久隅は、誠司の女の誘いの断りっぷりに、
「お前、もしかして、彼女か、好きな女いる?」と訊いてきた。
「え、いや。いないと思う」
「いるなこれ」
「いないって」
「はぁ。じゃあ、今週土曜の予定は?」
「…言いたくない」
土曜、麗花と家で勉強会をしていた。麗花とは付き合っていなかった。しかし、毎週何度か、誠司の家で二人で過ごしたり、出掛けたりする仲だった。今日はその日で、麗花はどうやら気合を入れてるようだった。今日、何かあるかもと思っていた。もう気づいてる彼女の感情に、僕は情けなく答えを出せずにいた。いや、出てたくせに、答えていなかった。彼女はいつも健気だった。まるで、道に落ちてる蒲公英だった。あまりに僕は臆病で、彼女を尊敬してしまっていた。多くもの時間が流れていた。気づいたら大人になっていた。関係性はジェンガのようだった。積み上げてきたものを守りたかった。彼女はそれを壊そうとした。僕は崩れないものに変えようとした。破壊された関係が怖くなって、友達のままでいいやって思ってしまった。彼女は今日、ブラジャーを付けていた。おそらくパンツも同じ柄だろう。そういう雰囲気に何回かなったことがあった。そのときから健気さに気づいていた。今日は、真夏の猛暑日で、彼女は汗をかいていた。だから、透けて全てが見えてしまっていた。何を着ているかがよくわかった。光のように、明るく笑う君はいつも、健気と友情を無理して着ていたって気づいた。そしてお互いに気づいていた。抱き締めればジェンガは崩れてしまうってこと。彼女はとても強い人だと思っていた。なのに今日、彼女は吹いたら飛んでいきそうだった。僕は臆病で何も言えなかった。掛ける言葉が一つも見つからなかった。僕は、静かにエスプレッソを出した。そのとき、手がお互いに触れてしまった。彼女は凛とした姿を、僕に見せると、そう思っていた。だけど、僕が見た彼女の表情は、誰よりも、女の子に染まっていた。張り詰めた空気が浮いていた。蒲公英は吹かれて何処かへ行ってしまった。種がぷかぷかと浮いていた。それはまるでシャボン玉みたいだった。もう一度触ってみたくなって、撫でたら、ジェンガが割れて崩れ落ちた。
「ねぇ。誠司…」
その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。普段使われることはまず、ないので驚いた。さらに驚いたことに、インターホンを押したのは加藤だった。加藤とは中学が離れて以来、疎遠だったので突然の来訪に胸が鳴った。それに安心してしまった。
「突然悪いな」声も背丈も変わっているが加藤だ。
「いや。久しぶり」
「小学校ぶりか」
「そうだね」
「ん。彼女か。悪い邪魔したな」
「あぁ。いや、うん。まぁ、うん。大丈夫」
「そうか、ちょっと、お前に伝えとかなきゃいけないことがあって来た」
「どうしたの?」
「結構、覚悟して、聞いてくれ。…瑠璃が自殺した。何も言わなくていい。ただ、葬儀が明日ある。来てくれたら嬉しい。あと、これ、誠司宛に。瑠璃の遺書だ」
「待て。自殺って、なんで。なんでだよ。何がそんな、死ぬ原因になったんだよ。お前が付いていながら、なんで瑠璃は自殺なんかしたんだ。なんでだよ。言えよ。お前、お前、瑠璃のこと好きだったんだろ。なんでお前がいてこうなるんだ」
「…すまない」
「すまないじゃねぇよ。瑠璃はお前が好きだったから僕は…。いや、それはどうでもいい。なぁ、なんで瑠璃は死んだんだよ」
「…すまない。俺からは言えない。言いたくない。全て、それに書いてる。すまない。明日待ってる」知っていた。加藤は何も悪くないことなんて知っていた。なのに、すまないと謝らせている。それしかできない。そうしないと崩れそうだった。誠司は部屋に戻り麗花に告げる。
「ごめん。ちょっと、今日は帰ってくれないか。ごめん」
「え、大丈夫?」
「うん。ごめん」沈黙が続き、麗花は帰った。誠司は遺書を開いた。内容は嘔吐を誘うものだった。教師からレイプを加えられたと。何度も。何度も。助けを友達や先生、親に求めても真面目に聞いて対応してくれたのは加藤だけということ。それに気づいた時、死にたくなったということ。そして、僕に助けを求めようとしたこと。誠司は心底、腹が立った。なぜ、求めてくれなかった。空虚だった。気づいたら夜は明けていて、カーテンの隙間から出てくる陽射しが癪に障った。葬式が始まりそうで、無理やり体を起こした。加藤が家まで来てくれた。何か言っているが聞こえない。葬式場に向かうと死体はなかった。どうやら行方不明なんだと。だが、川の前に遺書が置いてあったことや、様々な要因が起因して自殺と判断された、らしい。葬儀が終わり、加藤といた。特に何も話さなかった。また、夏日が誠司を差した。瑠璃と加藤といた日々を繰り返し思い出した。蝉の音が邪魔してきて、苛立ちを覚えて、振り返ったら、静かになっていた。何があったのかと木陰の中に入った。見てみると、抜け殻は木に引っ付いて離れようとしないのに蝉は木陰に背を向けて、あるがままに寝ていた。その日の誠司と同じだった。
朝、目覚めると、鏡に僕は映っていなかった。僕は透明人間になった。特に何も思えなかった。元々、作り物の人格で生きてる空っぽで無いに等しい、それこそ透明人間だったから。でもまぁ、せっかく透明になれたんだ。瑠璃をレイプしたやつを殺す。そうと決まれば、誠司は服を脱ぎ、は完璧な透明に溶け、世間に出た。誠司は計画を立てた。それに従い、誠司は瑠璃が通っていた一高に向かった。そこには麗花や、鮎川も通っているらしい。加藤から聞いた。透明人間なので歩いていくしかないのが辛い。漂うように歩いていると、近所のおばさんたちが人がいないのを確認して、旦那の悪口を言い合っていた。かと思えば相手の旦那には自分の旦那が負けることが嫌そうだった。悪口には、死ね、などの強い言葉が出てきていた。話は変わり、近所の若い女性にフォーカスが当たった。旦那の時より強い口調で苛んでいた。
一高にたどり着いた。中に入る。もちろん透明なので誰にも気づかれていない。色々なところを奔放する。おそらく何かしらの噂が流れている。死んだのだから。案の定、そのことについて学校の先生が生徒たちに話していた。おそらくこの後は、何かしら知っている生徒たちが喋ってしまうだろうと考えた。しかし実際は、クラス中で噂や陰口の嵐だった。皆んなが皆んな何かしらを知っているというのか。そんな、つまり知ってて助けなかったということか。わからない。それに、なんだ。関係のない悪口まで言っているぞ。死んでる人間にこうも言うのか。いや、そもそも聞こえる内容に瑠璃の悪い点なんて見当たらない。ビッチだとか、ヤッただとか気持ちが悪い。頭が割れそうだ。目が回る。こいつらは人じゃない。誠司はトイレに向かった。するとそこでも噂。上の階のトイレに行っても噂。噂。噂。噂。誠司は遂に息を止めた。潜めるようにすーっと。そうして目を瞑る。聞こえてくる噂について、脳内で否定してみる。そして目的を再度確認し直す。目を開け、決意を固め、一歩踏み出した。するとそこには麗花の姿。こんな姿になってしまった自分を麗花はなんて言うだろう。そう思うと誠司は一歩、後ろに下がった。しかし、どうやら麗花は人気者だった。裏でファンクラブができているタイプだ。何か知っているかもしれない。誠司は窓を見て、麗花の後ろを影に溶け、辿った。麗花は凛としていた。その姿はまさに高嶺の花。周りには限られた同姓しかいない。しかもその限られた人間も麗花と同じで顔が整ったものばかりだ。綺麗好きだなと思った。一日を通して見た麗花の学校生活は、生徒の手本として見せられるほど校則に従順で上品だった。何も知っているはずないか。もしかしたら麗花の友人にとも思ったがそんな様子もない。人気だからって全て知ってるわけじゃないか。誠司はその場を後にし、校内を再び探索した。
とうとう放課後になった。夕焼けは綺麗だった。薄っすら見える月は濁っていた。校庭では多くの生徒が部活をしていて、活気があった。特に野球を観るのは面白かった。砂埃が宙に舞った。僕もいっそ舞おうかと思った。真下を見た。苔生したコンクリートが無機質に聳えていた。痛そうだった。痛いのは嫌なのでやめることとする。未だ下を見ている。壁に蝸牛が数匹、泡を出しながら、引っ付いている。サイゼリヤとは別物だなと思った。もし仮に、僕が苔や蝸牛なら人間を嘲笑してるだろうな。
下を見て、三十分が経った。部活終わりの麗花が見ていたコンクリートを通った。蝸牛も見ている気がした。苔は踏まれて喜んでいる気さえした。悪いね、君たち。彼女は僕の…。僕のなんだろうな。誠司はずっと麗花を眺めていた。すると、麗花の後ろから、爽やかな汗を纏った、ザ・好青年がやってきた。何か、話そうとしていた。誠司は耳を下に近づける。男の方の会話だけが聞こえた。
「麗花、今日さ、宜しく頼むよ」誠司は直ぐに階段を降りた。麗花の元へ急いだ。さっきの苔生すコンクリートに辿り着いた。その時、誠司の目に映ったのは、荒涼としたコンクリートでも、夕日に照らされた蝸牛と雨粒でもなく、唇を交わした軽薄と青春だった。
その後、男女は何度も唇を重ねた。数分もすれば男は甘えた口調で何かを強請り、ズボンを下ろした。麗花は照れたような顔で文句を言い、男のそれに触って、舐り、青春を売った。男は青春という名の興奮を買った。二人はコンクリートじゃあ流石に緊張するのか、男の家に向かった。その部屋は薄暗かった。家には二人だけだった。また一から青春を売っていた。紛れもなく麗花からだった。今回は麗花の見たことのない顔まで見れた。麗花の制服姿は可憐で清楚だった。誰にも触れられないと思っていた。しかし、一度脱いで仕舞えば、上下揃った、欲を掻き立てる商売道具が並んでいた。誠司は麗花に触れることはもうできないと確信した。蝸牛は汚いからだ。青春がぐるぐる渦巻いて、黒く染まっていた。蝸牛の交尾は長かった。それに退屈だった。絶望というのは意外と飽きるものだと知った。漸く終わったかと思えば、蝸牛は接吻を長々と始め出した。勘弁してほしかった。
誠司はずっと見ていた。麗花の、誰にも見せたことのない蕩けた顔も、女性の顔も、ほろ苦い恋の顔も全て、通して見た。見れば見るほど疑問だった。予想はつかなかった。決して冷静じゃなかったわけじゃない。ただ青春の最中にいる人間を知ったに過ぎない。僕も彼女も自分勝手だっただけだ。だがもし、彼女に罪があるとすれば、それは、男として僕と接してしまったことだけだろう。
行為後、麗花と男は会話していた。
「彼氏、大丈夫なん?連絡取れないんだろ?」誠司はスマホを家に置いてることを思い出す。
「まぁ、いいんじゃない。もう、私に興味無さそうだし。そろそろ私も欲の限界だったし、彼との恋愛に、スリルはなかったもの。それになんだか…、瑠璃のことが好きなんじゃない」
「なに、彼氏も他に女作ってたの?」
「そう」一応、疑問は解けたが、なに、どういうことだ。麗花は瑠璃を知っていて。僕が浮気してるだと。誠司は静かに家を後にした。一体なんで麗花が僕と瑠璃の関係を知っている。誰かが裏にいる?いや、噂が歩いてるのか?怖くなった。そうだ、こういう時こその友達だ。上田くん、誠実な上田くんに相談しよう。誠司は帰って翌日の登校の準備をした。鞄に教科書を入れて、制服を出して。制服のボタンに自分が反射した。誰もいなかった。そこで用意が無駄なことに気づいた。急激にばかばかしくなり全部捨てた。この際だから、麗花との写真やら思い出の品々も全て捨てた。泡はぷかぷかと漂い、夜闇の月に昇って消えた。
翌日、いつも通りに登校した。クラスには三人しかいなかった。その中には既に上田がいた。話したかった。自分が透明人間になってしまったということを。意を決して、上田のもとへ、いざ、参らん。というときに久隅がでかい声でおはようと言いながらクラスに入ってきた。間が悪い。それを境にどこどこと人が入ってきた。間が悪いのは寧ろ僕の方か。何となく、言えなくなった。そうしてる間にもう、出席確認が始まった。
「誠司は今日も休みか。誰か、誠司について何か知ってることあるか」
「先生。俺、今日、あいつの家、行って見ます」
「本当か。助かる」いや、助からない。誰も呼んでない。教師ちゃんと仕事しろ。くそ。夜に軽薄が家にやってくることが確定してしまった。この体だし、何をすればいいのだ。どうせなら上田くんに来てもらいたいものだ。
ホームルームが終わり、教室が賑わい出す。話題は、誠司のことだった。様々な陰謀論が出ていた。死んだんじゃないか、と言い出す始末。だが、誰にも見えてなければ死んだも一緒か。そうなると、実は前から死んでたような気もしてきた。怖くなって考えるのをやめた。陰謀論はその後も飛び交う。意外なことに久隅は乗っかっていなかった。こういう摩訶不思議な話題には、人一倍、好奇心旺盛な久隅なら食いついてくると思ったのだが。代わりに、なんと、上田くんが本を畳んで閉まって、話題に入ってきた。
「あいつは、駄目だ。もう終わり」
「どういうこと?」
「考えてみてくれ。誠司ってさ、陽キャ、陰キャ、女子、全員と遊牝んでるだろ。更には勉強も出来て、顔も良い。モテるしな。側から見れば完璧超人だよ。でもさぁ、不思議な点も多いよな。誠司って誰の告白も受け取ったことないじゃん。それに、頭良いって良さそうなだけだろ。模試の結果とか見たことないじゃん。陰キャたちと関係を持ってるのも甚だ疑問だね。もしかして好感度を上げる為に仕方なく陰キャと遊んでやってるのかも。つまりさ、あいつは完璧超人を演じてんだよ。それに馬鹿な女どもは食いついてくる。誠司はそれを振って、愉悦に浸ってんだ。まぁ、女も女だよ。なんで誠司なんかがいいか、てんでわからん。本質を分かってないよ。誠司の顔が良いのは認めるよ。でも、人は中身だよね。もっと知見を広げてほしいもんだね」誠司は、立っていた。
「で、何が終わりなんだよ」途中で久隅が遮り、そう言った。
「…終わりだね。あいつは完璧超人を演じ過ぎて病んだんだ。報いだよ。報い。もう終わったんだよ。だからさ、みんな、終わったやつのことは今は忘れよう。受験も近いんだしさ。ね。女子も、あいつよりもっと賢い人いるよ」
「なぁ、お前、誠司の模試の結果、知らねえの?」
「聞いたことあったよ。けど、教えてくれなかった。つまり、そういうことだ。みんなも教えてもらったことないんじゃないの?」
「俺はあるぞ」この馬鹿、執念く教えろって言うから仕方なく、と言うのを忘れてるぞ。「あいつ、学年一位だぞ」
「へ。いや、だからなんだよ。結局、もういないじゃないか。もういいだろ。あいつは人気の為に陰キャと遊牝んでたんだ。可哀想だろ。嘲笑ってだんだよ」
「それは確実なの?」
「そうに決まってるだろ」
「卑屈だねぇ。モテるモテないじゃなく、お前みたいなやつ、人間として付き合いたいと思わねえよ。友としてもだ。はぁ、こういうやつに限って自覚してねえんだよな。いちいち教えるのも面倒くさい。この後の人生で苦労するだろうが、まぁ、頑張れ。でもまぁ、一つだけ。陰キャ、陽キャって気にして区別してんのはお前だろ。好感度気にしてんのはお前だろ。お前に誠司は勿体ねえ」
夜、久隅が家に来た。
「こんばんは。って誰もいねえ。でも、今、ドア開いたよな。え?すみませーん。誰か、誰か居ませんかぁ」誠司は久隅の背を人差し指でなぞった。ヒュッと言う声を出して仰け反りながら、跳び上がったので面白かった。
「なんだか、久しぶりだな」
「え、なんか、誠司の声が、聞こえる」事情を全て、説明した。
「え、お前、今日、クラスにいたのかよ。じゃあお前、上田のあれ、聞いたのか?」
「うん」
「誠司、あんなやつ…」
「正直、僕は逆に思ってた」
「逆?」
「実はちょっと、見た目で判断してしまっていたんだけど、久隅の方が軽薄な人間だと思っていたんだ。逆に、上田くんは誠実で真面目な人だと…。久隅、悪かった」
「…いや、いいよ。そりゃそうだよ。金髪にピアスだぜ。怖がられたり、浮ついてそうって思われて当然だぜ。でも、でもお前が俺と嫌がりながらでも仲良くしてくれた過去は変わんねえ。俺はまだ友達だと思ってるぜ」
「…勝手だけど、まだ僕は友達でいられるのか」
「当たり前だろ」お互い、笑い合った。笑い合って、コーラを飲んで、ちょっと涙が出そうになった。炭酸がきつかったから。
「友達ってのは、わからないもんだな。親いのに、腹の底は見えない。見せないようにお互い隠してる。それを探りあったり分かってしまったら、友達じゃいられないのかもしれないけど。じゃあ、どうやったら本当に分かり合えるんだろう。そんなこと、出来ないのかなあ」
「腹の底を知らなきゃ、分かり合えないのか?隠し事の一つや二つ、あるだろ。ただ。ただ、お互いの幸せを願えたら、悲しみに寄り添えたら、それだけでこいつと友達で良かったって思えるんじゃないか」誠司はギョッとした顔で久隅を見た。透明だから久隅は何も分からない。
「人は見た目じゃないなあ」
「はは、違いねえ」
「いじめって、無くならないんだろうなぁ」
「なんだよ、急に」
「僕、いじめられたことあるんだけど、なんで、いじめはあるのかなって、ずっと脳裏にあったんだ。持論だけど、どっちも知ろうとしないんだ。いじめる側もいじめられる側も。ただ、そうなってる現状に甘んじてる。お互い、それが普通だと、いつの間にか思ってしまってる。知ることでいじめは喧嘩や争いに発展するんだ。人には合う合わないがあるからね。でもそれが正常で、そうやってお互い削れあっていくのが人間なんだ。でも、他人の腹の底は誰も知れない。いじめは無くならないよ。残念」
「…透明で見えねえけど、なんか、風景が歪んでるぞ。誠司の目の辺からだな」
「ははは。うるさいぞ。いや、嘘。ありがとう、久隅」深呼吸を一つ。「明日、人を殺そうと思ってた。…はぁ。出来なくなったなぁ」
「誠司よ。お前はなんで透明になったんだ?」
「神様の悪戯?」
「あーっと、まあそうだな。そうなんだが、いや、でも、期待させるだけだな。なんでもない。でも、復讐しないならこれからどうすんだ?」
「うーん。透明人間を治す。どうやるのか分からないけれど。でも、今日は色々ありすぎた。もう寝たい」
「あぁ、そうだな。寝取られて、友に裏切られて…。踏んだり蹴ったりだな。うーん。未来に期待ってそんな簡単に出来ないよなぁ。今はただ寝ろ。まだ、未来は続いてる。きっと良いこともある。そういう夢を見るんだ。俺は落ち込んだ時、そうしてる。んじゃ、俺はもう帰っから。じゃな」
「…おう。ありがとな」呟くように言い、死んだように寝た。だが、どこか安らかだった。
朝、目覚めた。動悸が激しかった。汗が出ていた。生きていることを確かめるように顔を触る。良かった。まだいる。鏡を見て、これからのことを考える。どうすれば戻るのか分からないのに無闇に行動するのは、時間と体力の無駄じゃあなかろうか。…そうだ。レイプした奴を知ろう。殺しはしない。しかし、許せない。何故、あのようなことをしたのか知りたい。そう思った。
誠司は服を着た。久しぶりだ。大きなハットを被り、顔を隠した。更に、夜闇に溶けた。これで僕も人間だ。誠司は誰がレイプしたかを訊くため、麗花の下へ向かった。おそらく、知っていると思った。
麗花の家に着いた。二階に灯りが点いていた。一階は真っ暗だったので、今がチャンスだと思った。服を全て脱いだ。誠司は音を気にせず、ドアを開けて中に入る。麗花は未だ気づかない。誠司は階段を登り、麗花がいるであろう扉を開ける。未だ麗花は気づかない。麗花は机に向かって勉強していた。受験生だったのを思い出した。隙だらけだった。背後から麗花の口を手で覆った。
「なぁ、瑠璃について知ってることを話せ。そうしたら助けてやる」
「だ、れ」
「いいから言え」口から手を若干、離す。
「あんた、誠司…。今までどこいたの。心配した、のよ」
「それは、悪かった。だが、今は瑠璃のことだ。言え」
「瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃って、…うるさい」
「悪い。だが、俺はずっと、脳裏に瑠璃がいた。それに今、知らなければいけないことなんだ。早く、言え」
「…最低。もう、知らない。瑠璃は襲われたの。年配の教師に。ははは。面白かった
「面白い?」
「みんなに動画が流出したのよ」眉間から後頭部まで黴が生えてく気分だった。
「名前は?…その、瑠璃を犯した教師の名前は。なんだ」
「鮎川麓。鮎川くんの叔父さんらしいよ。ふふ。ついでに撮影したのは鮎川くんだよ」
「…そうか」その声は枯れていた。そして麗花を解放した。麗花は急に解放され、驚いた。しかし、それより、背後を見た。するとドアがキイキイと音を立て、揺れているだけだった。誰もいなかった。
誠司は家を出た。麗花が言っていた言葉について考える。ダメだこれは。世界から殺人は無くならないな。鮎川麓、殺す。鮎川も駄目だ。撮影してる奴だって同罪なんだ。傍観者もゴミクズなんだ。僕もゴミだ。だからゴミを処理する。目には目をだ。知ったところで許せなかった。なんで、ゴミが蔓延って、瑠璃みたいな善人が死ぬんだ。鮎川、鮎川、鮎川。呪いのように彷徨った。
どれだけ歩いたろう。途方もない。一から虱潰しに鮎川を探していた。夜が深くなってきた。すると、暴走族か調子に乗った若者か、さっぱり分からないが、バイクが走ってきた。誠司は素っ裸だった。眩しいな。あ、これ死ぬ?でも、その方が楽か。神よ。僕を殺すのか。僕なんかよりよっぽどドス黒い悪を放っておいて、僕を殺すのか。いいぞ。殺すなら、内臓をぶち撒けろ。ただ、神よ。奴らには僕よりも、苦しい死に方を与えることを望みます。はは。ははは、ははは。先に逝く。地獄で待ってます。是非。
次の瞬間、誠司は体が横に捩れ、助かっていた。逃げたのか。僕は。ははは。弱虫が。臆病者が。なんだったんだ。さっきの決意は。瑠璃の方が潔いじゃないか。瑠璃の遺書を思い出す。瑠璃の遺書の最後には、一言、さよなら、と書かれていた。くそ、死に損なった。いや、待て。これは任務だ。天命だ。神よ。お任せを。くっはっは。それから次の月が昇るまで探し続けた。そして、見つけた。
そこには、奴らが二人揃って、いた。
「お前ら、瑠璃を犯したな」
「ん。誰だ。何処から喋ってる。陸か?(誠司の同級生の鮎川の名)」
「いや、俺じゃない」
「あ?どういうことだ。今、絶対に声が…」
「お前は、何故、瑠璃を犯した」麓は腰を抜かした。そして、叫んだ。誰だ、誰だと騒いでいた。誠司は壊れた機械のようにぶつぶつと先の文言を繰り返した。流石に鮎川陸も心配になり、スマホを見るのをやめて、麓を見にきた。
「大丈夫?」
「なんだ。何処から」
「おい、鮎川陸。お前、なんで、晒した」
「…え。声、聞こえる。誰だ」陸は麓より冷静だった。
「いいから答えろ。いつでもお前を殺せるぞ」
「…いや、その、麓さんの行為が気持ち悪くて、犯罪っぽかったから。その場で言えなかったのはごめんなさい。ただ、怖くて、言えなて…。必死の抵抗でした。だから、許して」
「なに、どういうことだ陸。俺を晒したのか…。は?どういうことだ。何が起きてる。お前、終わりだ。俺の人生、終わりじゃねえか」麓は激昂した。うるさかった。誠司はパンと手を叩き、部屋中に音を響き渡らせた。
「なぁ。一枚、舌を切れば正直に、静かに喋れるか?」
「…いや、その、すまない。えっと」
「なんで、瑠璃を犯した」
「その…、お、俺は…。分からないです。瑠璃はバレー部で、俺もバレー部の顧問で。着替えを見ちゃって、それでちょっと、触っちゃって。苦しそうだっから。す、すみません。教師としてあるまじき行為でした。だから、どうか命だけは」土下座し出した。誠司は大きく息を吸う。
「お前、瑠璃だけじゃないだろ」
「っ。…すみません。一回だけ、若気の至りで。でも、あの時代は、隠れて教師と付き合ってても普通だったんだ。本当だ。陸が生まれる一、二年前だから、もう、二十年になる」
「なぁ、傍観者ってどう思う。鮎川陸」
「悪いと思うよ。本当に。僕もその一人だ。止めたかった。本当だ」
「傍観者は、一番いいポジションなんだよ。楽で、言い逃れできて、人のせいにできてるしな。それにいじめを見てても、分からなかったで通せるんだよ。はぁ。そこで、いじめと、犯罪だと、判明した時、てめえが一番、罪の意識持てるやつだけが、唯一、救いようがあるんだ。お前は、ちゃんと悔いたか?…お前は、紛れもなく加害者だ」
「いや、話聞けよ。悔いたって。本当に辛かったんだって」
「いいよ。別に、本当に悔いてようが悔いてなかろうが、殺すことは決めている」
「は?言ってることと違くね。何言ってんだよ」
「助けるとは言ってない。加害者も傍観者も関係ない」誠司は陸の首に、手を掛けた。陸はカヒュカヒュと汚い音を出していた。麓は失禁していた。その流れる様をずっと見ていた。
突然、何も見えなくなった。さっきまでの面白い失禁が、勿体無い。しかし、まだ首があるので、力を入れて締める。すると、左側から何かがぶつかった。誠司は驚き、手を離してしまった。誠司は鮎川宅を去った。その後すぐ、電気が付いた。
誠司は走った。何度も走った。走った先に何があるのかは、やはり、わからなかった。ビルが顔を見合わせていた。コンクリートが痛かった。青い朝日が顔を覗かせた。走った。鼠色の雲が顔を閉ざした。走った。雨が降ってきた。走った。滑って転んだ。雨粒が顔の前に落ちた。そこには鼠色の景色だけがあった。思えば、私欲で動いた日々だった。この陳腐な復讐劇は誰に頼まれたわけでもない。それに、瑠璃が、こんなことで晴れるのかも分からない。結局、人間は自分の欲で動いてるのかもしれない。いや、それでいいんだ。それが、人間なんだ。人間として、生まれてきた以上、欲を持たないことなどできないんだ。欲にも色々ある。性欲、食欲、睡眠欲。もっと、一杯。さらに、その欲にも色や形が沢山ある。同じ欲なんてなかなかない。人間は、僕は、欲の塊だ。
どんだけ、イカれたピエロを演じても、人を殺すのに良い気はしなかった。自分が轢かれて死ぬってなっても、良い気はしなかった。瑠璃の死が僕の原動力だった。どうしたって、僕は臆病者だった。臆病者だと確信して、変えられないって分かった時、僕は心底、良い気がした。安心した。
雨が止んだ。鼠色の雲が散っていった。桃色の空が広がっていた。太陽はもう白くなっていた。新しい雲が集まってきた。まるで、自分の日常のような白さだった。コンクリートが優しくなっていた。ビルが互いを褒め合っていた。風は何の気なしに浮いていた。薄く張った透明な水たまりが僕らの正体を映し出した。ちょっと、日差しが眩しかった。だから、涙が数滴、溢れてしまった。なんとなく何もないところに話しかけてみた。
「…おかえり」
「…ただいま」
透明だったはずの僕らの心体が淡い七色に溶けていた。




