突然の婚約破棄
「すまない、アマリリス。婚約を破棄させてほしい」
新居に入って、まだ一時間ほどしか経っていない。
荷ほどきすら終わっていない居間で、婚約者は静かにそう告げた。
あまりにも唐突な言葉に、アマリリスは瞬きをひとつする。
――婚約破棄。
それは、乙女ゲームの中で王子が卒業式に悪役令嬢へ突きつける、あの決まり文句ではなかったか。
華やかな学園。大勢の観衆。そして隣には、守るべき「真実の愛」の相手。
だがここは、飾り気のない新居の居間だ。
観衆もいなければ、彼の隣に寄り添う令嬢の姿もない。
(……状況が、ちぐはぐすぎるわ)
現実感の薄い思考を無理やり押し戻し、アマリリスは口を開いた。
「理由を、教えていただけますか?」
努めて平静に問うと、アロイスは視線を伏せた。
見慣れたアーモンド色の瞳が、わずかに揺れている。
やがて彼は、絞り出すように言った。
「俺は……真実の愛を見つけたんだ」
その言葉に、喉の奥から何かが込み上げる。
笑ってしまいそうだった。
あまりにも陳腐で。あまりにも都合のいい理由で。
今この瞬間に、自分の人生が覆されようとしているのに。
――それでも。
アマリリスは、笑わなかった。
唇をきつく結び、その衝動を押し殺す。
(……よく耐えたわね、私)
誰に聞かせるでもなく、心の中でそう呟いた。
魔法が存在し、魔物が闊歩し、騎士と魔導師が国を支える世界。
それを「ファンタジーだ」と客観的に認識できるリビオラは、転生者である。
前世は日本の、ごくありふれた家庭に生まれた。
高校から大学へと進み、とあるデザイン会社へ就職。映像編集部門を希望していたものの、配属二年目にはクレーム対応部署へ異動となった。
連日の苦情、謝罪、理不尽な叱責。
神経をすり減らしながら働き続けた日々。
最後の記憶は、日付を越えた深夜の残業中だった。
胸を締め潰されるような、激しい痛み。
おそらく――心筋梗塞か、それに類するものだったのだろう。
そして次に目を覚ましたとき、彼女はこの世界で幼い子供として存在していた。
こちらでの名は、アマリリス・レ・カリア。
花の名を持つわりに、その容姿は華やかとは言い難い。
よく言えば落ち着いている。悪く言えば、地味。
前世で読んだ物語のように、高位貴族の令嬢として生まれたわけではない。
彼女は、職人の娘だった。
もっとも、その職はこの世界特有のもの――魔具創師である。
魔力を用い、生活を便利にし、時に戦いを支える道具を生み出す技術者。
父はその分野で高い評価を受け、その功績により一代限りの名誉貴族印を授かっていた。
幼い頃から工房に出入りしていたアマリリスもまた、自然と魔術に親しみ、やがて父と同じ道を志すようになる。
父には、長年付き合いのある商人の親友がいた。
そしてアマリリスが十九歳で正式に魔具創師となった年、婚約が決まる。
相手はその親友の次男――アロイス・ダーモンド。
彼もまた魔具創師であり、リビオラの父のもとで技術を学んだ兄弟子でもあった。
オルランド商会の次男でありながら、魔導装具の開発と販売を任される責任者という立場にある。
容姿も整い、教育も十分に受けている。
少なくとも庶民出身の名誉貴族にとっては、申し分のない婚約相手だった。
アマリリスが十九歳、アロイスが二十三歳になった年に婚姻する予定だった。
しかしその直前、アロイスの父が急逝する。
喪が明け、ようやく結婚の準備が再開された矢先――今度はリビオラの父がこの世を去った。
偶然にしては、あまりにも続いた不幸。
もっともアマリリスには、思い当たる節がないでもない。
――二人とも、あれほど止めたのに酒を控えなかったのだから。
深酒の習慣を改めなかった父親たちの姿を思い出し、アマリリスは胸の内で小さくため息をついた。
婚約してから三年が経つ。
仕事や各種手続きもようやく落ち着き、今日から新居での生活が始まるはずだった。
明日には婚姻届を提出し、正式に夫婦となる――その矢先の、婚約破棄である。
居間のテーブルを挟み、アマリリスとアロイスは向かい合って座っていた。
しかし、どちらも口を開こうとはしない。
やがてアマリリスは、うつむいたまま小さく一度だけ息を吐いた。
現実感がなかった。
婚約破棄なのだから、泣くなり怒るなりしてもおかしくないはずだ。
だが胸にあるのは、感情よりも先に、底の見えない疲労感だった。
――それでも、このまま黙っているわけにはいかない。
これからのことを確認しなければ。
「お相手は?」
静かに問うと、アロイスはわずかに間を置いて答えた。
「……マリアーノ。マリアーノ・シリルシェットだ」
隠す様子もなく、その名を口にする。
アマリリスは記憶を辿った。
オルランド商会に数ヶ月前から勤めている受付係。
淡い金色の髪と柔らかな瞳を持つ、整った容姿の青年だ。物腰も穏やかで、来客の評判も良い。
長身で地味な自分とは対照的な、洗練された存在。
――ああいう人が、好みだったのね。
今さら知る事実に、胸の奥がわずかに軋む。
「俺は彼と結婚するつもりだ」
「そう……」
頼んでもいないのに告げられた未来に、こめかみの奥が鈍く痛んだ。
「婚約破棄の手続きをしなくてはならないわね」
事務的に言うと、アロイスは戸惑ったように眉を寄せた。
「それは……俺と君の間だけで済む話だろう?」
――済むはずがないでしょう。
喉まで出かかった言葉を、アマリリスは飲み込む。
婚約後、二人は商業ギルドで共同登録を行い、共に仕事をしてきた。
新居の建設費も折半している。契約関係の整理は避けて通れない。
「婚約証明の届けを、あなたのお父様と私の父で商業ギルドに提出したでしょう。あの書類には、婚約破棄時の取り決めも記されているわ。共同登録の契約も解消しなければならないし……あなたが結婚するなら、なおさら円満に処理しておかないと」
「ああ……そうだったな」
「午後、商業ギルドで確認しましょう。二時からでいいかしら」
「ああ」
それで話は終わったはずなのに、アロイスは立ち上がらなかった。
額の右を指で掻く。言いづらいことがあるときの、彼の癖だ。
「他に何か?」
問いかけると、彼は一瞬ためらってから口を開いた。
「その……マリアーノが、この家に住みたいと言っている」
この新居は、主にアロイスの希望で決めたものだ。
アマリリスが関わったのは、二人で使う予定だった作業場の設計くらいだった。
思い入れは、少ないはずだった。
それでも――婚約を破棄されたその日に、次の相手がここで暮らしたいと聞かされるのは、胸に重く沈むものがある。
「……清算後に、共同名義をあなたのものへ変更しましょう。私の荷物は、早めに引き取るわ」
「すまない」
短い謝罪だけを残し、アロイスは立ち上がった。
それ以上の言葉はなく、振り返ることもなく――彼はそのまま、部屋を出て行った。
アマリリス・レ・カリアは、椅子に座ったまま、しばらくうつむいていた。
前世も、今世も――気づけば、こうして背を丸めていることが多い。
前世では結婚どころか、恋愛すら経験しなかった。
今世でも十九になるまで縁はなく、ようやく訪れた春だと思った矢先に、これである。
父は生前、「何かあったらアロイスに守ってもらえ」と言っていた。
まさか、そのアロイス自身が去っていくことになるとは、夢にも思わなかっただろう。
明日、役所へ婚姻届を提出する予定だった。
書類の上では、まだ夫婦ではない。
だが婚約期間は三年。周囲の誰もが、この縁を当然の未来として受け止めていた。
同情か、それとも好奇心か――噂が広がるのは避けられない。
それを思うだけで、胸の奥が重く沈んだ。
それに、これまで素材の仕入れは、すべてアロイスの実家であるダーモント商会を通していた。
縁が切れれば、取引を断られる可能性もある。
続けられたとしても、以前のようにはいかないだろう。
考えれば考えるほど、頭の奥がずきずきと痛んだ。
――ふと。
婚約が決まったあの日のことを思い出す。
挨拶を終えたあと、彼は少し驚いたように言ったのだ。
婚約が決まって間もない頃のことだった。
工房で試作を終えたあと、アマリリスはいつものように嬉しくなって説明を始めた。
改良した術式の効率がどれほど上がったのか、どこに工夫を凝らしたのか――話しているうちに、つい熱が入っていた。
そのとき、アロイスが困ったように笑って言った。
『……君は、ずいぶん饒舌なんだな』
責める口調ではなかった。
だが、その言葉のあとに続いた沈黙が、妙に長く感じられた。
彼は静かで落ち着いた女性を好むのだと、そのとき初めて知った。
それ以来、自分から意見を強く主張することは控えて、嬉しいときでも、声を抑えた。
興味を引いたことがあっても、すぐには口に出さず、一度飲み込むようになった。
――そうしているうちに。
自分が、本当はどんな声で話していたのかさえ、少しずつわからなくなっていった。
目立つと言われた艶やかな亜麻色の髪も、暗い赤へ染めた。
いつも後ろでまとめ、目立たぬように。
派手な装いを好まない彼に合わせ、眼鏡は銀縁から黒縁へ。
もともと地味だった服装は、さらに色を失い、紺や濃灰ばかりになった。
この三年。
彼が望む「良い妻」になろうと努めてきた。
仕事でも、私生活でも、彼の負担にならぬよう気を配ってきたつもりだった。
――けれど。
アロイスにとって、アマリリスという存在は、それほど重いものではなかったのだろう。
そして、もう一つの記憶が浮かび上がる。
前世。
クレーム対応で客に頭を下げ、
対応が遅いと上司に叱責されて頭を下げ、
忙しさに追われて友人と疎遠になり、うつむいたまま日々を過ごした。
最期の瞬間ですら――机に突っ伏し、視界にあったのは、無機質な木目だけだった。
「……やめよう」
小さく呟き、アマリリスは顔を上げた。
窓から、春の日差しが差し込んでいる。
前世では、人に合わせ続けて、自分を壊した。
今世でもまた、誰かの理想に合わせようとして――この結末だ。
二度目の人生だというのに。
自分は、何をしていたのだろう。
――もう、うつむくのはやめる。
嫌なことは、嫌だと言おう。
好きなことは、好きだと言おう。
幸い、自分には仕事がある。
一人でも生きていけるだけの技術がある。
無理に、誰かの隣に立つ必要はない。
働いて、稼いで。
行きたい場所へ行き、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲む。
自分の人生を、自分のために生きよう。
アマリリスは勢いよく立ち上がった。
窓の外に広がる春の空は――
目が痛くなるほど、澄みきった青だった。
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