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ざまぁをされた、その後で

作者: metta


「えっ」

 

 いや、ちょっと。

 

 私の目の前で、王子であるアロルド様と婚約者の公爵令嬢レティシア様が言い争いをしている。いや、争いと言うにはあまりにも片方が感情的で、片方が冷静すぎる。卒業式の夜会で一体何が起こっているというのか。

 アロルド様はレティシア様やその周囲の人達が私にしたことを悪し様に挙げ連ねている。

 

 確かに、色々言われたのは本当だ。

 

「あの方は王子殿下なのだ」と。「婚約者もいるのだから近づくんじゃない」「調子に乗るな」という風なことを言われたことは当然ある。レティシア様にも直接苦言を呈されたのも事実だ。

 でもそれは婚約者であり、未来の王妃様という立場なら、当然物申すべき内容の話なのだ。確かに噂を流されたり、いじめのようなことはされていたけれど、レティシア様自身に嫌がらせをされたとか、あまりにも酷くにいじめられていたとかではないし、そもそもこんな公衆の面前で言うようなことではない。しかも本来この夜会は、生徒の新たな門出となる場である。せめて裏に引っ込んでやるべきなのに、2人とも白熱してしまっている。

 

 いやいや、何を言っているの。

 婚約を解消して私を正妃にだなんて正気の沙汰ではない。

 

 大体、私はちょっと勉強ができるだけの平民なのだ。あわよくばお傍に……と考えていなかったと言ったら嘘になる。現陛下だってアロルド様の母である正妃のほかに妃がいて、その妃との間にそれぞれ子がいるから、アロルド様が複数の妃を持ってはいけないわけではない。だから傍に侍るのを狙っていたのは事実だし、多少大げさに言った自覚はある。でも、そこまでの告げ口をしたつもりはないし、元より正妃になれるなんて考えてもいなかった。なのにどうして。

 

 こうと決めたら自分を曲げないところは、アロルド様のいいところでもあり、悪いところでもある。

 アロルド様が何かを言う度に、レティシア様に返す剣で返され、その度に一応ギリギリのところで弁えていたつもりの私の分が、そうではなくなっていく空気をひしひしと感じる。それは元々眉を顰められていたのもあるだろうが、王子であるアロルド様と公爵令嬢であるレティシア様の形勢逆転がそのまま表れていた。

 私は話に割って入ることもできず、青い贈られたドレスを握ろうとして、手のひらの汗に気づいた。染みを作ってしまうかもしれないと思うと、握ることもできず、ただ立っていることしかできない。

 

「――ハンナ嬢、こちらに」

 

 そしてそのまま、宰相閣下に声を掛けられ、まるで紐で引かれる犬のように、ついていくことしかできなかった。

 

 +++

 

 奨学生(スカラー)として入った学び舎の一角は、想像の何倍も煌びやかな世界だった。

「ハンナは可愛いから、素敵な人が見つかるといいわね」なんて母に言われ、「いや、私は勉強しに行くんだから」と反発しつつ少しだけ、ほんの少しだけ、淡いを期待を抱いた初日でのこれ。すぐに世界が違うのだと理解した。

 街中ではそこそこの見た目のつもりだった私だが、全くお話にならない。上流階級の人は、生き物としての構造が違う。目の色も宝石みたいで、頭からつま先までぴかぴかで、姿勢も綺麗で隙がない。失礼なのは分かっているが、何を食べたらあんな睫毛になるのだろうかと、美しい顔をちらちらつい見てしまう。

 

 ただ見た目はさておき、平民には必要のない学習内容の都合上、授業の内容や級は一部異なるけれど、平民だから貴族だからお金持ちだから貧乏だからと差別されるようなことはない。でも、見えない別は確実にある。

 たとえば簡易の社交場である食堂。平民は安く食べられるとはいえ、奨学生の私は懐事情で滅多に利用できない。そうなれば結果、輪には入りづらくなるし交友関係にも差はできる。私は奨学金を貰って勉強しに来ているだけなので、それは仕方のない事ではあると早々に割り切った。あと単純に成績の維持のために色んなことを頭に詰め込むので、切り替える時間も欲しい。これは決して負け惜しみではない。誰それが素敵とか、格好いいとかもそれほど興味はないから、話題も少し合わない。美しい人達は遠くで見ている分にはいいけれど、近くだと色々疲れる。

 諸々現実を目の当たりにすると、母が言ったようなことへの期待は欠片もなくなり、私はいつも人があまりいない場所で昼食を食べていた。同じ場所でお昼を食べていると他の平民組に気を使われてしまうので、毎日色んな場所を転々としていた。

 

 今日はどこにしようかなぁ。

 木々の隙間にある場所で食べようかなぁ。学び舎はとても広いので、案外隠れられる場所が多い。安全とか防犯的にどうなのかなと思わなくもないが、私は助かっているのでよしとしている。

 しかしその日は残念ながら、向かった場所には既に人がいた。いい場所だったのに、とうとうここも見つかっちゃったかぁと引き返そうとしたのだけれど。

 

 先着の人は同じ年頃の青年で、鍛錬に精を出している。騎士候補生だろうか。技量がどうとかは一切分からないけれど、流れるような綺麗な動きを思わず目で追ってしまう。男性の身体をまじまじと見たことはなかったけれど、無駄な肉がなくて、彫刻のようだった。少しお腹の出始めた父とは雲泥の差である。

 適当に結んだ金の髪ですら、きらきらと光ってとても綺麗だ。

 

「誰だ」

「!」

 

 つい見蕩れて立ち止まってしまっていたら、見つかってしまった。青年は、とても綺麗な顔をしているが、ものすごく怖い顔をしてこちらを睨んでいる。うっかりそんな顔にも見惚れてしまいそうになったが、いけない。不躾に見られては気分はよくないだろう。

 

「し、失礼いたしました」

 

 金や銀の髪は平民にほとんどいないから、きっとこの人も貴族だ。しかも恐らく気難しい部類の。だからさっさと謝って別の場所に行こうとしたのだが、「待て」と呼び止められてしまった。

 

「何故こんな所に来た」

「あ、あの。昼食を食べようと」

「食堂があるだろうが」

「食堂は高くてあまり、行けないので……家から持ってきていて……」

「……家から?」

「はい。そういう生徒は少ないので、なるべく人のいないところで食べていて……」

 

 疑う青年の詰問に答えていると、段々声が小さくなってきた。分かってはいることだが、口にすると、何だかとても惨めな気持ちになってくる。そんな私を見て怒る気をなくしたのか、青年は息を吐いた。

 

「なら、私がお前の場所を取ったか。悪かった」

「あ、いえ。別に私の場所というわけでは……」

「私は稽古をしていただけだから、ここで食べればいい」

「え、あ……はい、ありがとうございます」

 

 話は若干聞いていない気もするけれど、納得したのか憐れんだのか、とりあえず青年は引き下がってくれた。だからどこかへ移動するのだろうと思い、お弁当を広げると……青年はそのまま何故かこちらをじっと見ている。

 

「あ、あの……まだ何か」

「それはお前が作っているのか」

「……? はい。一応は……」

 

 母が作った残り物も入っているので、全部が全部自作ではないけれど、そこまで説明するのは面倒くさい。少なくとも夕食の手伝いはしたし、詰めたのは私だから、四捨五入すれば一緒である。

 

「……あの、気になるようでしたら、食べてみられますか? 温かくはありませんが……」

 

 普段の私なら絶対にそんなことは言わない。だけど、つい。気難しそうで身分の高そうな人なのに、人の食べ物に興味津々な犬みたいな雰囲気を醸し出しすぎている。

 とはいえさすがに調子に乗りすぎたかもしれない。怒るか「いらない」と断るかと思ったのに、青年は「ではいただこう」と言って、ハンカチで手を拭いてからひとつ肉団子を摘んで食べた。手掴みなのに、所作がとても綺麗だった。

 

「……美味い」

「お口に合ったのなら、よかったです」

「馳走になった……だが、お前の分が」

「ひとつくらい、大丈夫ですよ」

「……名前は?」

「ハンナと言います」

「ハンナ……名乗らず失礼した。私はアロルドという。では、また」

「はい……また?」

 

 それが、アロルド様と私の出会いだった。

 それからというもの、昼食の際にアロルド様とは時々一緒になることが増えた。

 

「あいつらは、美しくあることも役目のうちだ。自力だけではなく、人の手も金も時間も掛かっている。身の丈にあう範囲で自分で小綺麗にしている方が偉いと思うが」

「はぁ……」


「貴族の人は綺麗な人ばかりですよね」という話題に対する答えとして、これはどうなんだろう。褒めているとしたものなのか。若干馬鹿にされているように聞こえなくもないが、きっと褒めてくれているのだ。言葉はあまりよろしくないが、一生懸命努力を認めようとしてくれているのは、雰囲気で何となく分かる。

 言葉を交わすようにはなったが、アロルドという名前、おそらく貴族、それ以上は分からない。身分を名乗らないのは敢えてかなと思ったので、私からは聞かない、というか聞けない。反対にアロルド様も聞いてこないが、私の身分なんて食堂が滅多に利用できない時点でお察しである。敢えて聞くまでもないのだろう。

 

「あの……それで……折り入って頼みがあるのだが」

「はい、私にですか……なんでしょう?」

「勉強を教えてもらえないだろうか」

「……はい?」

 

 ある日アロルド様は「勉強をこっそり教えてもらえないだろうか」と私に頼んできた。奨学生であることをどこかで知ったらしい。

 別に教えるのは構わないので、試しにどこが分からないのか等々話を聞いてみたけれど……なるほど。躓いた箇所が前すぎて、誰にも言い出せなかったようだ。

 一応私なりに説明してみたところ、最初はかなり苦戦していた。けれど素直に質問をぶつけてくれるので、割と教えやすい。根気よく回数を重ねて何とか理解できたというところで、アロルド様は大きなため息を吐いた。

 

「……ハンナのおかげで少しは理解できるようになったが、苦手は変わらん。後継には遊学中の優秀な兄がいるし、最低限は身に着けて、あとは剣で国に貢献できればと思っているのだが……」

 

 確かに本人の自己申告どおり、勉強ができるとは言い難い。騎士などには向いていると思うけれど、文官や政を担う側は本当に向いていないと、私も思う。

 うーん。兄が後継ということは、次男以下。こんな風に言うということは、やっぱり貴族の騎士候補生なのかなぁ。

 いけない。最終的に父を選んで苦労している母はしょっちゅうそんなことを言うので、つい値踏みするようなことをしてしまった。

 

「それもまた、選択肢のひとつだと思います。適材適所ですよ」

 

 頭の中の失礼を誤魔化そうとして、もっと失礼なことを普通に口にしてしまった。

 遠まわしに頭を使う職は向いていないと言ってしまったけれど、アロルド様が気づいた様子はない。これは、別の意味を含んだ言葉のやり取りなんかも明らかに苦手そうだ。

 何かあった時に真っ直ぐぶつかりすぎるというか、策を練ったり絡め手などできなさそうだし、むしろそれらにあっさり引っかかりそうである。身も蓋もない言い方をすれば、「騙されやすそう」に尽きる。逆に剣の方はかなり得意なようだし、聞けば力試しに魔物の討伐もしているらしい。

 なら得意分野に集中できるよう、手助けしてあげたいなとは、素直に思った。断じて貴族や将来の騎士様とお付き合いできるかもという下心ではない。さすがに分不相応だ。

 

「私にできることなら、お手伝いさせていただきます。でも、討伐などは危ないと思うので、気を付けてくださいね」

「ああ。ハンナ、ありがとう」

 

 そうして私は、間違いなくあるであろう、身分の差なども気にせず、呑気にアロルド様と交流し続けていった。

 

 +++

 

「討伐で稼いだお金が貯まったから、買い物に付き合ってくれないか」

「……はい?」

 

 またそんな藪から棒に。

 一緒に食事をしたり、勉強を教えたりが定例になってきたそんなある日。アロルド様が突然そんなことを言い出した。

 

「ええと。アロルド様が買い物されるようなところで、私は何の役にも立たないと思いますが……」

「いや……役に立つとか、立たないとかではなくてな……」

 

 いつも失礼なくらいはっきりものを言うアロルド様にしては珍しく、もごもごしている。

 

「とにかく、ひとりだと味気ないから」

 

 ……これはもしかして、そういうお誘いだろうか。

 そういった経験がない私でも、そうかもしれないと思うくらいの雰囲気はある。ただアロルド様の性格上、誘い慣れていないだけという可能性も否めないので、あまり穿っても浮かれてもいけない気がするが、お誘いは素直に嬉しい。

 

「そういうことでしたら、お付き合いさせていただきますけれども……」

「――! ありがとう」

 

 返事を聞いて、ぱっと嬉しそうに笑う顔が眩しい。

 着ていく服がない私に気を使ってくれたのか、午前で授業が終わる日の帰りに、昼食がてらそのまま制服で行こうとのことだった。偶然にも、その日は私の誕生日だ。期待するなというのが無理な話である。

 自力では絶対行くことのないお店で、習った作法(マナー)を必死に思い出しながら食事をし、普段の買い物では近づくことのない少し高めの店をあれこれ一緒に見ていると、楽しいけれどやっぱり気後れしてしまう。次はあそこだと言われて入った場所は宝飾品を扱うお店だ。より一層、今までで一番縁がない。

 

「せっかく宝石を身につけるなら、魔除の守り(アミュレット)が欲しくてな。自分の身を守るためのものだから、自分の稼いだ金で買いたかったんだ」

「なるほど」

 

 貴族かつ戦うことを生業とするなら、確かに宝石のついた御守りは一石二鳥だ。アロルド様はある程度自分で見繕い、どれがいいかと私に聞く。宝石の質や意味などは分からないので、私は単純に自分の好みのものと、アロルド様に似合いそうなものを選んだ。

 散々悩んだあと、アロルド様は私が選んだものを購入し、購入の手続きに入った。高価な宝石のつくものともなると、証明書やら身につけての調整やらと、すぐに持って帰れる訳ではないらしい。

 アロルド様が説明を聞いている間、きらきらした宝石や宝飾品を眺めていると、ひとつ、指輪に目が止まった。

 

「……きれい」

 

 繊細な金細工に深い青。

 アロルド様と同じ(いろ)

 思わず食い入るように見てしまう。

 

「どうした」

「あ、とても素敵な指輪だなぁって」

 

 さすがに「貴方みたいで」なんて言える筈もないので、そう言って誤魔化したのだが、アロルド様は指輪をじっと見つめ、私の方に向き直った。

 

「気に入ったのか?」

「え、いや」

「気に入ったのなら、着けてみたらどうだ。今日は礼をするつもりだったから、贈ろう」

「……へっ!? いや……いえ! こんな平民の学生に分不相応なものは流石に!」

 

 いやいや。確かに何か美味しいものを食べさせてもらえるかもしれないとか、多少の贈り物は期待したけれど、こんな高級なものをねだる形になるのはいただけない。


「別に構わんだろう」


 私はぶんぶん首を振ったが、アロルド様は引かない。なんでよ。

 

「いやいやいや……」

「さほど大きい宝石(いし)でもない。皆これくらいは学び舎でも身につけている」

「貴族の方はそうかもしれませんけれど」

「それに、今日は誕生日なのだろう」

「……何でご存知なんですか」

「ハンナの友人に聞いた」

 

 誰だ、人の個人情報をあっさり教えたのは。せめて教えたことは教えて欲しい。

 分からない誰かに私が心の中で怒っていると、「祝いなのだから、これくらい大したことではないだろう」とあっさり言われてしまう。押し問答の末、私は少しだけ、ほんの少しだけ悩んで、ぐっと我慢した。

 

「……お気持ちはとっても嬉しいのですが! できれば私が持っていても違和感のない、かつ自分では少し手が届かないくらいのものがいいです」

「別にいいのに。ハンナは欲がないな」

 

 そうだろうか。慌てて取り繕った発言もだいぶ欲が透けている気がするが。

 とりあえず、このままここにいるのは、指輪の話題が再燃しそうでよろしくない。だから「行きましょう!」とアロルド様の手を引けば、アロルド様も苦笑いして歩き出す。

 結局自分では手の出なかった万年筆を買ってもらい、お祝いの言葉をもらい、その日はお終いとなった。

 ただ、断りはしたものの、あんな指輪をポンと買ってくれようとするくらいには好かれているのだろうか。そう思うと、優越感に似た何とも言えない昏い喜びが込み上げてくる。

 だから罰が当たったのかもしれない。

 

 

「ハンナ、貴族組を怒らせるようなことしちゃった……?」

「ううん、思い当たるようなことは……」

 

 いや、本当はある。

 私がそんな風に言われるなんてアロルド様のこと以外有り得ない。

 どうやら街での買い物を一部の学生に目撃されていたらしく、学舎内を色々な噂が流れ始めた。いい意味でも悪い意味でも路傍の石だったのに、私は悪い意味で有名になってしまった。アロルド様は貴族であるのは間違いないけれど、そんなにも偉いのだろうか。

 全員ではないけれど、貴族の子女から眉を顰められ、時折「身の程知らず」や「はしたない」などの言葉の石を投げつけられる。原因は身分違いだとか色々あると思うけれど、それにしても、何故ここまで。

 

 ともあれ普段一緒に行動することの多い平民組のみんなにも迷惑がかかってしまうので、私はより一人で行動するようになっていた。日に日に身の置き場がなくなっていき、授業にだけ出て、できるだけ人目につかないよう逃げ隠れしていたのだが――

 

「――あの、ハンナさん」「ちょっといいかしら」

「……はい」

 

 名前を呼ばれてしまったら、無視はできない。キツめの美人と優しそうな美人は確か2人とも伯爵家のご令嬢だったはず。呼び止められて一体何を言われるのだろうかと警戒する私に対し、「そんなに警戒しないで」と優しそうなご令嬢はおっとりと微笑んだ。

 

「あの……差し出がましいかとも思ったのですが、そういえば、学び舎内では身分を隠すというご意向だったから……もしかして、ご存知ないのかもしれないと思って……」

「……なんのことでしょう?」

「貴女がよく一緒にいる方よ」

「アロルド様ですか?」

「ええ。貴女、あの方がどなたか知らないの?」

「ええと……貴族で、騎士候補生の方かな、と。私の方から聞くのは良くないかと思って……」

「本当に?」

「――ほら! やっぱりご存知なかったのよ……!」

 

 おっとりとしているご令嬢は、もう1人に対してぷんぷんと怒っている。ご令嬢方は私の目の前で軽く言い合いをして、キツめのご令嬢の方が折れた。どうやら力関係はおっとりの方が上のようだ。

 

「はいはい、分かった分かった。あのね、貴女がよく一緒にいるあの方、アロルド様はね、この国の第二王子なの」

「……えっ。王子様……?」

「そうなの。それでね、公爵家のご令嬢であるレティシア様と婚約されているのよ。だから……」

 

 レティシア様はさすがの私でも分かる。銀髪翠目でとても目立つし、貴族の生徒の中でも郡を抜いて美しく、非常に優秀。まさに完璧と言えるご令嬢だ。

 王子? しかも婚約者がいる? 私は一気に混乱してしまう。ここしばらくのいわれのない言葉の石はこれが原因だったのかと、ようやく理解した。平民のパッとしない女が、婚約者のいる王子と逢引なんてしてたらそんなの眉を顰められるに決まっている。

 

「ハンナさんは、アロルド様とお付き合いなさっている……わけではないんですよね?」

 

 私は思い切り首を横に振った。好意を抱かれている気はしていたし、好意を抱いていた。でも。

 

「……なら、アロルド様が正体を明かしていない以上、いきなり離れるのもよくないか……婚約者のいる方だということを忘れずに、少しずつ距離を取りなさい」

「……はい。ご忠告、ありがとうございます」

 

 令嬢達から忠告を受けた後、間を開けずに私は件のレティシア様から呼び出しを受けた。誤解とはいえ、彼女だけは私に石を投げ、棒で叩く正当な権利がある。 

 何を言われるのだろうとびくびくしながら指定の場所に出向けば、そこはとても学び舎の一角とは思えない豪華な部屋だった。待っていたレティシア様は遠目で見るよりずっとずっと美しく、とても同じ制服を着ているとは思えなかった。

 

「『彼女には勉強を教えてもらった礼をしただけだ』とアロルド様はおっしゃっておりました。嘘を吐くような方ではないので、軽率だとは思いますが、偽りないと思っています」

「はい……それに間違いはありません」

 

 それは本当だ。何かを言ったわけでも、何かを言われたわけでもない。

 問いかけは優しい。しかしアロルド様への好意がある以上、後ろめたくて婚約者だという美しい人を私は直視することができず、勧められた紅茶も、とても飲む気にはなれない。

 レティシア様も気付いているのだろう。少し困った顔をして、紅茶を置いて口を開いた。

 

「貴女はご存知なかったのだと、別の方から聞いております。だから悪いのはアロルド様ですよ。ただ、わたくし……少し前から婚約関係の見直しの申し入れをされておりまして……どうせあの方のことだから、身綺麗になってから貴女に色々と言うつもりだったのでしょうけれど」

「ええと……」

「あの、単刀直入に言いますね。わたくしとアロルド様の関係は、身も蓋もない言い方をすれば政治的なものです。現陛下も妃を二人置いていることですし……そこまで目くじらを立てるつもりはなかったのですが、さすがに少し、ね」

「……申し訳ありません……」

「ここまで噂になってしまうと……少なくともわたくし達の婚姻が、正式に成るまでは」

 

 みなまで言わずとも、分かりますよねと、物言わずにレティシア様は言っている。

 私は頷いて謝ることしか出来なかった。

 

 後日、親切に忠告をくれたご令嬢方に庇ってくれたお礼を言って、ついでにアロルド様の立ち位置も教えてもらった。

 身分の低い側妃を母に持つ優秀な第一王子である兄に、出来は劣るが正妃が母の第二王子なアロルド様。王位を確実なものにするために正妃が公爵令嬢であるレティシア様を婚約者に据えたのだという。

 

「なるほどなぁ……」


 レティシア様は自分達は政略結婚なのだと言った。それに「婚姻が成るまでは」と。逆に言えば、それさえ脅かさなければ、私のことは咎めないということだ。


「……」


 そうは言ってもあまりにも平民の感覚とは違いすぎる。少し落ち込みながらひとりで昼食をとっていると、アロルド様がやってきた。私の顔を見て、申し訳なさそうなほっとしたような。とても焦った表情をしていた。

 

「ハンナ、すまなかった」

「……大丈夫ですよ。でも……アロルド様、王子殿下だったんですね」

「黙っていて悪かった。だが、私は」

「アロルド様にそんなつもりはなかったとレティシア様は仰っていました。私もそうだと思っています」

「いや、私は……」

 

 この雰囲気。やはりアロルド様は私に好意を持ってくれているけれど、それを言うべきではないと迷っている。まあ、婚約者がいる立場ならそれは正しい。

 ただ、その姿とレティシア様の発言に、私も少し腹が立ったし、欲が出た。

 

「ですが……()()にしても、あまりにも。何もかもが釣り合わなさすぎる。私はアロルド様に相応しくありません」

「そんなことはない! むしろ、私が王子に相応しくない……いや、だからそれが理由でハンナがいいとか、そういうわけではなく……私は……私はハンナが好きなんだ」

「……私も、アロルド様のことをお慕いしています。でも、やっぱり、誰もそれは望んでいないと思います」

「他の者はどうでもいい。私は、ハンナがいいんだ」

「アロルド様……」

「だから、待っていて欲しい」

「……はい」

 

 そうは言っても、レティシア様が正妃となるのは揺るがない。なら、私ができることは勉強して文官なりそういった仕事について傍に侍るか、妾などを狙うかするしかない。

 ならやってやろうじゃないか――

 なんて分不相応なことを考え、そうなるべく立ち回って……とか、色々考えて文官にも一応内定していたのに、ばっさり、ごっそり。

 

 全部が無駄になってしまったのだった。

 

 +++

 

 卒業の季節を終えた初夏。

 売り言葉に買い言葉の応酬で負けた上に言質を取られ。王子の身分どころか、貴族籍まで取り上げられたアロルド様と文官の内定を取り消された私は、多少の金品だけを持たされて辺境の村に送られた。

 ある意味では、季節がまだよかったともいえる。辺境と呼ばれるだけあって、山と海がとても近い。よく言えば豊かな大自然広がる土地だけれど、運営らしい運営もされていない無法地帯。一応町や村は点在していて最低限の機能はあるが、官吏が微税だけを行い、ほったらかしにしている。しっかり買い物をしようと思えば行商を頼るか、隣の領まで行かなければならない。

 与えられた家は大きいけれど古く、補修や当座の食糧や生活に必要なものを購入すれば、あっという間にお金も心許なくなり、不安しかない新生活が始まった。

 

 助かったのはアロルド様が本当に強く、弓が得意だったことだ。おかげで肉には困らない。私も背に腹は変えられず、全くできなかった魚や動物を捌くこともできるようになったし、買ったにわとりが卵を産んでくれるので、なんとか食事はできていた。けれど狩りや身の回りのことは身分の割にこなせるアロルド様ではあるけれど、食事が少ないとか、パンや肉が硬いとか色々零したりする。平民出身の私ですら色々不満があるくらいだから当然だと思う。でも辛いのが自分だけだと思わないでほしい。

 小麦も野菜も高いし、アロルド様はよく食べる。学び舎で見ていた時は気持ちいい食べっぷりだと思ったそれが、今は少し恨めしい。

 平民とはいえ、私も王都の街の子なので、こういう風に本当になんでも一から食事を作ることはなかった。パン屋さんもお肉屋さんも本当に偉大だ。野菜も植えてみたけれど、まともに育ったのはわずかだった。気の毒に思ってくれたのか、村の人が分けてくれようとするが、あまり甘えるわけにもいかない。

 

 それでもなんだかんだと。不満を零したり不貞腐れたりなんだりしていたアロルド様は、案外すぐに生活に慣れた。

 

 そもそも剣や弓の腕は立つのだ。腕試しで身分を隠して魔物退治をやっていたくらいだし、粗っぽい田舎の男性陣にもそこは負けない。むしろ単純な仲間意識が芽生えやすく、それは上流階級の盤上遊戯より、アロルド様の気質にも合っていた。

 それに引き換え、私の方は足を引っ張ってはいけないと頑張っているつもりだが、あまり上手くはいっていなかった。アロルド様がこの地に溶け込めば溶け込むほど、その他の目は私に対して厳しくなっていって、「アロルド様は意外としっかりしていて、男前だし、いい人なのにね」という声も聞こえてくる。かつてアロルド様が、優秀なレティシア様の影でこういう風に言われていたのは辛かっただろうなと思う反面、何で私がこんな風に言われなくてはならないのだろうかとイライラしてしまう。そんな自分が嫌で、それでまたイライラしてしまって、心が疲れる。でも日々の生活のために休んでいる暇はない。

 ここに送られて、私は随分と甘やかされて育ったことに気づいた。もし就職が上手くいかなくて、どこかの誰かと結婚しなくてはいけないとしても、最低限のことはできるように、困らないように躾てくれていることも含めて。

 私は母の荒れた手があまり好きではなかった。それは「ああなりたくない」と私が勉強を頑張る原動力でもあった。しかし今は、生活のためにも母のように頑張らなくてはいけないと何とか自分を奮い立たせる。

 

「あの、少しでも美味しいものを食べてもらいたくて……助言をいただけませんでしょうか……」

 

 それでも女性陣も心根がいいのだろう。一生懸命やっているのを見せて頭を下げれば、海の水に肉を浸けておくと少し柔らかくなるよとか、血抜きも海でやったらいいよとか、あれやこれやと世話は焼いてくれた。香草を株分けしてもらって料理に使ってみたり。色々教えてもらって工夫をするようになって、少しは生活しやすくなった。私もお礼にお手伝いをしたり、子ども達に文字を教えたりすれば、とても喜ばれた。輪には入ってしまえば少し息がしやすくなった。

 それでも。

 

 

「甘いものが食べたいなぁ……」

 

 もうどれくらい甘いものを食べていないだろうか。焼き菓子やジャムくらいなら自分でも作れるが、それらを作るのには大量の砂糖がいる。砂糖は高い。実家でも甘いものはそんなに見なかったけれど、それでもある程度は買ったり作ったりして私に食べさせてくれていたんだと、父母に感謝が浮かぶ。  

 

 そう思えるくらいには、辺境での生活に慣れた秋のこと。

 

「街で資材を買いたいのだが」

「……はい?」

 

 あそこの橋の補修がしたいとか、柵を作りたいとか、道を綺麗にしたいとか、余裕が出るとアロルド様はそんなことを言い出し始めた。レティシア様が優秀過ぎるせいで駄目な王子の評価をされていたが、アロルド様だって、別にありえないほど駄目だったわけではない。

 だから上に立つ者の目線として、余裕が出ればこの辺境の地の諸々が気になってくるのは当然のことだ。行政が何もしないから、ちょっと直せばよくなるところがたくさんある。それは私だって頭では分かっている。けれど。

 

「――そんなお金や物がどこにあるんですか。私達にだって、冬の備蓄は必要なんですよ」

 

 硬い声が出てしまう。元々豊かではない心が、本当に貧しい。

 塩漬けや干物などの保存食はなんとか作っている。薪はアロルド様が集めて割ってくれている。でも甘味が足りない。私が甘いものが好きだからという理由だけで我儘を言っているわけではない。はちみつやジャムのようなものがあれば具合が悪くて食べられない時に食べられるかもしれないし、喉なんかが痛いときの痛みの緩和になる。そういう意味でも作っておきたい。けれどはちみつや大量の砂糖にまでお金を回す余裕がない。そんな状態なのに、一体どこにそんなお金が。

 これからどんどん寒くなってくると聞いているのに、冬の衣服の数だってギリギリだ。アロルド様は狩りをしたり魔物と戦うから、服も結構傷んだり血に染まってしまう。私が洗ったり繕える範囲ならいいけれど、そうはいかないことも多いし、そもそも冬だと洗った服も乾きづらい。

 

「アロルド様は――……」


 気付けば私は、これまでの色々や不満をあれこれと零してしまっていた。駄目だとは思ったが、一度零し始めたものは止められなかった。もう既にぶつけたことがあるものも、言ったことがなかったものも、全部。

 

「……ハンナ」

 

 しばらくして、戸惑うアロルド様の声でハッとして、何とか愚痴を止めた。


「……街へ行く前にすみません……帰って来られるまでには頭を冷やします」


 ちょうどと言ってはなんだが、今日からしばらく私も手伝いを頼まれている。私は呆気にとられているアロルド様にそう言い捨てて、逃げるように家を出てしまった。

 あんなこと言うつもりなかったのに。

 普通に窘めれば済んだ話だったのにと、自分で自分が嫌になる。

 

「ハンナ、大丈夫かい?」

 

 もう家を出ちゃったよなぁ、悪いことしたなぁと考えながら作業していると、一緒に作業をする人達に心配されてしまった。

 

「あ、はい。すみません。考え事していて……」

「いや、手は動かしてくれてるからいいんだけど。具合悪いんなら無理しなくていいよ」

「いえ。大丈夫です。あの、喧嘩というか……アロルド様が出かける前に、私が一方的に怒ってしまって」

「まあ、男なんていくつになっても子どもだよ。アロルドさんなんかまだ本当に子どもに毛が生えたくらいの年なんだしさ」

 

 私も同い年だけれど、女は男よりは大人だというのが通説らしい。他の女性陣や旦那さんも「そうだそうだ」と頷いている。

 

「まあ、折れる必要はないが、拗らせたくないならさっさと仲直りした方がいいさ。時間が経つほど謝れなくなるぞ」

「あんたそれ自分に言ってんの?」

「なんだと?」

 

 喧嘩するほど仲がいいを絵に描いたような夫婦は、そのまま本当に言い合いを始めてしまうが、それがこの夫婦の間合いだ。喧嘩なのに、明るい雰囲気のそれを見ながら、アロルド様が帰ってきたらきちんと謝ろうと、私は思った。


 数日間の通いの手伝いが終わり、家に帰れば鍵が空いている。どうやらアロルド様が戻っているようだ。

 

「ただいま……あの……」

 

 少し緊張しながら扉を押して入れば、奥の部屋にいるのか、アロルド様の姿は見えない。ただいまの勢いで謝ってしまおうという作戦は出鼻を挫かれてしまった。しかし何かを鼻がくすぐる。

 

「……いい匂い?」

 

 匂いにつられて見れば、食卓にはいつもに比べて豪華な食事が並んでいた。疲れているから、今から食事の支度をしなくていいのは嬉しい。ただ、少し豪勢過ぎる。肉はアロルド様が鳥を射ったのだろうが、それ以外も明らかに豪勢だ。

 

「おかえり」

「はい、ただいま戻りました。アロルド様もおかえりなさい。あの……この食事は……?」

「ああ、今日はハンナの誕生日だろう。だから」

「……あ、ありがとうございます……!」

 

 日々の生活に追われて、自分の誕生日なんかすっかり忘れていた。慌ててアロルド様の誕生日はいつだったかと考えて、まだだったことに、そっと胸を撫でおろす。とりあえず怒ってはなさそうでホッとした。

 

「あの、先日は申し訳ありませんでした」

「いや、私が悪かった。家のことはほとんどハンナに任せきりだったから……とりあえず、食事にしよう」

「はい」

 

 お祝いしてくれる気持ちは嬉しい。

 でも。

 

 祝ってくれる気持ちは嬉しいが、また無駄遣いしちゃったのかぁ、なんて思ってしまう。素直に喜べない自分が本当に嫌だ。とにかくせっかく作ってくれた食事なんだからと食べ始める。

 美味しい。けれど何か違和感があって、そちらに心が引っ張られている。なんだろうと思ったが、その違和感の正体は食後すぐに分かった。立ち上がり、食器を片付けに後ろを向いたアロルド様の束ねた金髪が綺麗さっぱりなくなっていたからだ。

 

「――! あ、あの……その髪は……!?」

「街に出た時に売れるものがないかと聞いてみたら、金髪は売れるというのでな。この辺りの男はみな短髪だから切っても問題ないし、いつもハンナに手入れしてもらうのも悪いから」

「………っ」

 

 あんなに見事な金髪だったのだから、当然売れるだろう。本人に気にした様子はない。むしろ短くなって楽、くらいに思っている。

 

 でも、私は。

 

 私は、きらきらとしたアロルド様の髪が好きだった。それを私のために切らせてしまって、驚くほど悲しい気持ちになる。

 

「いつも苦労をかけてすまない。砂糖とはちみつを買ってきたから。あと、これを――誕生日おめでとう」

「これは……」

「いつも苦労をかけてすまないが……どうかこれからも一緒にいてほしい」

 

 夜会のほんの少し前、一緒に街を歩いているときに見た指輪だった。繊細な金細工に、透き通るような蒼玉の――アロルド様の金の髪と、蒼い瞳によく似たそれ。

 

 私なんかでは一生手にすることのなかったであろう、美しい指輪。

 

 ……いや、髪を売るだけでこんな指輪を買えるはずがない。恐る恐るアロルド様を見れば、髪だけではなく、首元の御守りもない。

 あの御守りは、宝飾品としての価値も高かった。アロルド様が討伐などでお金を貯め、自分で買ったもので、肌身離さず身に着けて大切にしていたものなのに。

 

 それを、私なんかへの贈り物を買うために、手放したんだ。

 

 私にそんな価値なんてないのに。私のせいでアロルド様はこうなっているのに。情けなくて申し訳がなくて、涙が零れた。

 

「――は、ハンナ?」

「嬉しくて……」

 

 嬉しい。けれど悲しい。

 でも何とか「嬉しい」だけで言葉を止めた。こんな状況でこんな素敵なものを贈ってくれるほど、想ってくれているのは嬉しい反面、ただただ悲しい。

 

「似合ってる」

「……ありがとう、ございます……大事に、大事にします……」

 

 似合ってなんかいない。

 かさかさの荒れた手に、不釣り合いな、きらきらした指輪。

 これはまさに、私達そのものだ。

 魔法が解けた私達は、それぞれ在るべき場所へ帰らなくてはならない。

 指輪の煌めきを見て、はっきりと、理解した。

 

 

 誕生日の翌日。

 アロルド様は、魔物討伐への参加を頼まれたので、またしばらく留守にするそうだ。やはりこれは離れるべきだという啓示である気がした。

 せっかく買ってもらった砂糖や蜂蜜で甘味の保存食を作りつつアロルド様を見送り、色々と教えてもらって試行錯誤をした書付を眺めた。こんなに分厚くなったんだなと小さな感動を覚えつつ、それに保存食の食べ方を付け加えた。そのうち必要なくなるとはいえ、隙間の期間の食べるものに困ってはいけないし、少しでも美味しく食べてもらいたい。

 

 それが終われば、今度は自分の荷造りだけれど、元々物が少ないので、荷物にしても大きめの鞄ひとつで充分事足りた。

 指輪をどうしよう。いや、迷うまでもなく、置いていくべきだろう。受け取るべきじゃないと分かっている。でも、指から抜いて机に置こうとしても置くことができない。

 私はそれを何度も繰り返し、散々迷った挙句、持っていくことに決め、ふたり暮らした家を出た。

 

 駅馬車に揺られて久しぶりに戻った王都の街は、平民以下が住む場所であっても驚くほど洗練されているように感じた。景色は変わっていないはずなのに、見知らぬ街を見ているかのようだった。綺麗な石畳の道を歩きながら、どうやってお願いに行こうかと考える。

 とりあえず城に行くだけ行ってみよう。手紙だけでも渡してもらえないかと頼んでみよう。

 そう思って城に行った途端、騎士から留まるように指示され驚いてしまう。聞けばアロルド様か私が訪ねてきたらすぐに連絡が回るような体制になっていたそうだ。あるいは、いくら追放されたといっても見張りくらいはつけられていただろうから、そちらから連絡がいっているのかもしれない。

 そうこうしているうちに中に通され、豪奢な内装にびくびくしながら案内された部屋では、レティシア様が待っていた。

 

「ハンナさん」

「――ご無沙汰しております。面会をお許しいただき、ありがとうございます」

「いえ、いいのよ。どうぞ、レティシアと」

 

 手ずから紅茶を入れる姿も相変わらず一部の隙もなく美しい。それどころか、より美しくなった気がする。一方自分は、大したことない元からさらに、痩せてみすぼらしくなっていて、こんな人の前に姿を見せているということ自体が恥ずかしくなった。 畏れ多くも比べるということでは決してなく、よれた夜着で陽の下に出てしまったような、そんなみじめな気持ちだった。紅茶の味も分からないくらい緊張している。

 それでも自分の恥より、アロルド様だ。気分を悪くしてしまわないかと怯えながらではあるが、なんとか自分は罰を受けてもいいから、アロルド様を元の在るべき場所に戻してもらえないかと願い、頭を下げた。

 

「……わたくし、貴女には申し訳ないことをしたと思っていたから、ちょうどよかったの」

「わ、私にですか……?」

 

 逆では。

 言葉の意図が分からず混乱していると、レティシア様は困ったように微笑んだ。

 

「貴女は一応、弁えていたでしょう。なのに、わたくしも売り言葉に買い言葉で、あんな大勢の前で正面からアロルド様の喧嘩を買ってしまいましたから。アロルド様は自業自得だからどうでもいいのだけれど、貴女がどうなってしまうかまでは、考えられていなかった」

「い……いえいえいえ! レティシア様にそう思っていただく必要など!」

 

 本当にそう思ってもらう必要はない。私とアロルド様が悪いのに代わりはないのだ。

 

「だから、完全に貴女の望み通りとにはいきませんけれど、アロルド様については、わたくしの方から奏上いたします。貴女にも罰なんて必要ないわ」

「ありがとうございます……!」

 

 ただ、頼みをきいてもらえるのに越したことはない。心の底から感謝で何度も何度も頭を下げた。

 

「……あと図々しいついでに、もうひとつお願いがあるのですが……」

「なんでしょうか」

「私のせいで平民の奨学生が減らされたり、その予定があるようでしたら、あの……」

「ああ、そちらは今のところ大丈夫ですよ。でも、それも気を付けておきます」

「ありがとうございます……!」

 

 ついでだしと言った厚かましいお願いを快く聞いて貰えて、私はホッと胸を撫で下ろした。レティシア様に再度勧められて紅茶を飲めば、ようやく美味しく感じた。

 

「それで、貴女はどうなさるの?」

「私は……身の丈にあった場所に、戻ります」

「ご実家に?」

「いえ、両親とは縁を切っておりますので……どこか、王都以外に……」

「心配されていると思うわ。せめて一度ご両親にお顔は見せて差し上げた方が。他の方の目が気になるようでしたら、わたくしが命じたことにいたしますから」

 

 アロルド様を公衆の面前でこてんぱんに叩きのめした人だが、本来はこのようにとても寛大な人だ。私とはあまりにも器が違う。見た目だけでなく、人という大きな括りが同じなだけで、生き物としてあまりにも違いすぎる。そんなことは最初から分かっていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろうかと、他人事のように思った。

 頼みを聞いてもらえてもう用がないというわけではないが、いつまでもお邪魔するわけにもいかない。礼を言って去ろうとすれば、レティシア様は固辞したにも関わらず、かなりのお金をくれた。お断りで散々押し問答をした挙句に「端金を渡して野垂れ死にされたら困る」 と直接的に言われてしまえば、受け取らざるを得ない。ただお金は腐らないし、あって困るものでもないので、必要なければ寄付でもすればいいかと、頂戴した。

 城から出た足でそのまま実家に向かえば、ちょうど父が仕事から帰ってきたところだったようで、家の前で母と話している。

 

「お父さん、お母さん……」

「……!」

 

 どういう風に帰ろうかと考えていたのに、ふたりの姿を見た瞬間、そう、ぽろりと零していた。蚊の鳴くような声だったのに、両親はすぐに気づいて駆け寄ってきてくれた。

 

「ハンナ、おかえり……!」

「ただいま……」

 

 久しぶりに会った両親は、少し老けていた。一人娘があんなことをしでかして、辺境に送られたのだから、当然だろう。

 

「ごめんなさい……」

「いいのよ。それより顔を良く見せてちょうだい」

「おい、痩せすぎじゃあないか。ちゃんと食ってるのか」

「じゃあ今日は、いっぱい作らなきゃ」

 

 両親はそれ以上何にも言わず、私を迎え入れてくれた。久しぶりに食べた母の作った食事はとても美味しく、痩せた私を心配してか、お菓子も作ってくれた。素朴だけれど甘くてものすごく沁みて、泣いてしまいそうだった。

 

「……ごめんなさい。私が、馬鹿だった」

「お前だけのせいじゃないだろう」

「そうそう。それに、それだけ、好きだったってことよ」 

「……なんで」

「だってハンナは頭がいいもの。普段なら王子様だって分かった時点で諦めていたでしょう」

「……ううん、私はやっぱり馬鹿だった」

 

 私は自分のことを、もう少し賢いと思っていた。けれど恋への憧れと本気の恋の区別もついていなかった馬鹿な小娘だった。心のどこかで馬鹿にしていた、小鳥の囀りのように憧れを口にする子達の方がよっぽど賢かった。

 母のその一言でやっと理解した。身分違いと分かったときからアロルド様の前から去る選択肢はいくらでもあった。分かっていながらなんだかんだとずっと去ることはしなかった。引き止められる事を期待して、同情を買うようなことを言って、気を引いた。それを欲に目が眩んだだけだと思っていたけれど、そうではなかった。その後も色々喧嘩したり思うところはあったのにそうしなかったのは、結局のところ、それでも好きだったから。

 

 アロルド様は、まさしく私の王子様だったのだ。

 

 自分で放り捨ててから、一世一代の恋だったのだと気づくなんて、やっぱり私は馬鹿である。

 それに気づいたら、涙が零れて止まらなくなって、私は母の胸で泣いた。父は「あの野郎が」とアロルド様に散々毒づいてから、私の頭を撫でてくれていた。

 

 

「ーーハンナ、本当にひとりで?」

「うん」


 ひとしきり泣いて、そのままにしてくれていた自分の部屋で眠って、少し気持ちも整理ができた気がする。


「……そう。あなたが気にするのなら仕方がないけれど……たまには顔を見せに帰ってきてね」

「たまにはと言わず、いつ戻ってきてもいいからな」

「うん……ありがとう。お父さん、お母さん」

 

 両親にはここにいろと何度も言われたが、あの夜会での出来事は尾ひれもついて随分出回ってしまっている。帰ってきたら、両親にさらなる迷惑をかけてしまう。それはどうしても嫌だった。

 だから両親には感謝をしつつ、やっぱり別の街で暮らすことにした。

 

 +++

 

「ごめんなさい」

「どうして?」

 

 私は王都から少し離れた街で、何とか家と働き口を見つけ、新しい生活が始まった。仕事や生活自体は概ね順調。しかし結婚適齢期の独り身の娘というのは目立つせいか、良かれと思った雇い主に騙し討ちのように男性を紹介されて、私はうんざりしていた。お付き合いや結婚をする気はないと何度も言っているのに。申し訳ないが、本当に余計なお世話だ。

 一般的には声を掛けてもらえるうちに、よさげな男性とさっさと結婚するのが賢いのかもしれない。迷惑を掛けて、形式上縁を切った父母もきっと安心するだろうというのは分かっている。 でも、無理だ。

 

「俺の何が駄目なんだよ」

「あなたが駄目なのではなくてですね……」

 

 もう何回もお断りしているのに、しつこい。

 さっきまではこの人が駄目というよりも、単に自分の心の問題だったのだが、あまりのしつこさと自分の誘いに乗らない女に対する苛立ちの隠せなさで、たった今「駄目」の方に天秤が傾く。

「誰ともお付き合いするつもりはありませんので」と話を打ち切り、逃げるように振り切って家に帰った。

 

「疲れた……」

 

 着替えもせずに指輪を眺め、明かりできらきら煌めく様に、癒しを求めてしまう。アロルド様の元を去ってから、こうしてぼうっとしながら指輪を眺めるのが日課になっていた。今日は仕事で疲れたというより、しつこい男性のお断り対応で疲れてしまった。

 灰かぶりの魔法が解けたかのように、夢だったんじゃないかと思うくらいだけれど、思い出の物証である指輪が、現実なんだと教えてくれる。


「……寝よう」


 いつまでもこうしていてもいけない。明日も仕事だと寝る準備をしようとすると、部屋の扉を叩く音がする。

 誰だろう。また大家さんがお裾分けを持ってきてくれたのかなと扉を開ければ――

 

「――!」


 ひゅっと喉が鳴った。昼間の男性だ。どうして、ここが。

 なぜ家を知っているのか。なぜ私は誰かを確認してから開けなかったのか。訪ねてくる人など大家さんしかいないので、完全に油断していた。

 怖い。慌ててドアを閉めようとしたけれど、つま先を入れられ無理矢理入り込まれてしまう。 叫ぼうとしたけれど声が出ず、部屋の奥に逃げるので精いっぱいだった。

 

「若い女の一人暮らしで生活に困った様子もない、どうせそういうことでもしているんだろう。お高く止まりやがって……こんなものまで持っているのか」

 

 悪いことに、さっきまで指輪を眺めていたから、とっさに机の上に置いたのを見つけられてしまった。もう最悪、お金は持って行ってくれたらいい。でもそれは、その指輪は。

 

「やめて! 返して!!」

 

 ようやく声が出た。そのまま助けを叫べばいいのに、私は指輪を取り返そうと男に食って掛かってしまう。「しまった」と思ったときにはもう遅く、腕を掴まれてしまった。

 

「――っ……!」

 

 怖い。嫌だ。怖くて動けないでいるのを、抵抗ととって苛立ったのか、力ずくで引っ張られて痛い。でも恐ろしくてまた声が出ない。

 

「痛――ッ……!」

「ハンナ! 大丈夫か!?」

「あ、アロルド様……!?」

 

 自分からではなく、男から「痛い」の言葉が出る。なぜ。なぜここに。どうしてここが。さっきと全く同じ疑問が頭に浮かぶ。そんな私をよそに、アロルド様は私を襲おうとした男を締め上げながらこちらを向いた。

 

「……一応聞くが、同意ではないな?」

「違います!!」


 大きく首を振れば、さもあらんと言わんばかりに頷き、アロルド様は男を無理矢理立たせる。


「ハンナも話を聞かれるだろうから、一緒について来てくれるか」

「は、はい……」


 結局疑問は解消されないまま、アロルド様と一緒に付き纏いの男を騎士団に突き出し、そのまま事情を聴かれたりで、解放されたのは明け方だった。

 疲れてはいるが、色々ありすぎて目が冴えている。冬はじめのきりっとした空気も相まって眠くはないが、頭の中はこんがらがっていた。

 

「無事でよかった」

「あ、ありがとうございました……あの、どうしてここが……」

「城で聞いた。帰るぞ」

「……いいえ」

 

 以前の貴族のような出で立ちのアロルド様は、私の手を掴んだ。でも、それはできない相談だ。私はアロルド様の手を振り払った。

 

「私は貴方に相応しくありません」

「ハンナ、何を言っている」

「最初からおかしな話だったのです。お互いに、相応しい場所に帰るべきです」


 私は以前にも同じ言葉を言ったことがあった。

 その時はただの手練手管。今言ったこれは、私の心からの言葉だった。

 

「それなら温情を示された時点で別れている。今更……! ……私は、ハンナが、好きだから……!」

 

 アロルド様はそう言って、再び私の手を掴む。私は「好きだ」という言葉に心を揺らしてすぐにはその手を振り払えなかった。アロルド様はそういうことを正面から言うような性格ではないので気にしたことはなかったが、久しぶりに本人の口から、面と向かってその言葉をもらったわけだけれど、こんな状況なのに嬉しい。

 そういえば、そうと取れる言葉を言ったことはあるけれど、私自身ははっきり「好き」と言うことは終ぞなかった。


「……ごめんなさい。私はもう、貧しい生活に、疲れました」

 

 その代わりに心にもない言葉を吐けば、アロルド様は怒鳴りそうになるのを堪えて、一生懸命何かを言おうとしては口を閉じて、を繰り返している。何かを言いたいが、怒鳴らないように我慢するのと、上手く伝えられなくて歯痒いときのそれだ。

 そのまま語尾と怒りはしゅるしゅると萎んでいく。


「……っ、だが……ハンナが、贅沢できると思って私と恋仲になったのなら……それが叶うどころか、元より貧しく辛い生活をさせてしまっている、から……なら……」


 名残るように、手が、離れる。

 こうと決めたら自分を曲げないところは、アロルド様の悪いところでもあり、いいところでもある。

 どう考えても私を正妃にするというのを曲げるべきだったのに、曲げなかった。色々思うところあれど、私はそれをひっそり心のどこかで嬉しく思っていた。だからこそ辺境でも、私なりに頑張ったのだ。

 なのにそれを、ここで曲げるのか。本当は嫌なくせに。不器用でまっすぐでちっとも曲がらないのに、私のために決して曲げず、私のために曲げようとする。

 

 ああ。この人は私を本当に、愛してくれているのだ。 

 

「……今まですまなかった」

 

 贅沢云々でという部分だけは「違う」と言いたかった。そういう部分がひとつもなかったとは言えないが、それだけが目的なら、私だって辺境に送られる前にもう少し上手く立ち回っている。けれどそれを言ってしまったら、有るべき場所に帰ってもらうためにしようとしたことが全部無駄になってしまう。だから泣いて縋りそうなるのを、ぐっと堪えた。私がアロルド様にできることは、それだけだ。


 せめてと往生際悪く、駅馬車の乗り場まで見送りについていったものの、何かを言えるはずもなく。

 

「……もう、早く帰って休め。あと、危ないから、相手を確かめずに扉を開けるな」

「……はい」

 

 普段とは反対に、アロルド様にやんわりと窘められるだけで会話が終わって、俯いてしまう。

 とうとうお別れなのか。それでもちゃんと送り出さなければと顔を上げれば、アロルド様は思っていたのとは違う方向に歩き始めた。

 

「……? あの……どちらに?」

「どちらって、家に帰るのだが」

「あの、王都行きの駅馬車はあちらですよ……?」

「何故王都に? 帰るのは村だが」

 

 今度は私がアロルド様の手を掴む番だった。城に戻れるように願ったのに何故。まさかレティシア様が嘘を吐いたのだろうか。文句を言える筋合いはないけれど、約束が違う。

 

「だって、その格好は……」

「一度城に戻れと言われてその時に……ああ、城に戻れとは言われたぞ」

「では何故、……」

「何故も何も、あそこが私の家だからだ。私にはもう継承権もなく身分もないし、いらない。城ではない。ハンナと暮らしたあの家こそが、私の家だ。だから、帰る」

「……っ」

 

 何でよ。

 私のために曲げたのに、どうしてそこは曲げないんだ。

 色々考えていたのに、ばっさり、ごっそり。全部無駄じゃないか。

 何でよ。

 そんな風に言われてしまったら。


「……私も」

「ん?」


 もう、降参するしかない。


「……やっぱり、私も……一緒に帰っていいですか……?」

「……当たり前だ……帰ろう」

「はい」

 

 アロルド様は一瞬驚いたあと、それはそれは嬉しそうに笑う。差し出された手に手を重ねれば、アロルド様はしっかりと握り返してくれた。

 

 +++

 

「そもそもあいつは子どもの頃からずっと兄上のことが好きだったらしい」

「……はい?」

「それが何の因果か私の婚約者にされてしまった。それでも仕方がないと思って粛々と受け入れていたのに、私があまりに好き勝手するから、堪忍袋の尾が切れたと」

「えぇ……」

 

 その後家に戻って荷造りをしながらよくよく話を聞けば、居なくなった私を探しに行こうとしていたところを無理矢理引っ張られて城に帰ったたらしい。その際、「城へ戻れ」という話はされたが、きっぱり断ったそうだ。

 そんなことより私の居場所をと言ったところ、レティシア様が教えてくれたのだという。


 正直学び舎の時、レティシア様は私が深読みするよう仕向けて騙すために色々話したのかもしれないと若干疑っていた。

 しかしどうやらそんな意図はなく、本気で「自分が正妃になるまで大人しくしてくれてたらそれでいい。その後は側妃でもなんでもお好きにどうぞ」という、そのままの意味で話してくれていたらしい。なのにその譲歩を台無しにされ、そっちがその気なら受けて立ってやろうじゃないかと同じ土俵に上がったのだと。

 

「結局私の一方的な瑕疵だということで、兄の妃か隣国の王族に嫁ぐかどちらかを了承しろと父母に迫り、今は兄の妃に内定している」

「……それなら、最初から協力しあえばよかったのでは……」

 

 アロルド様は、「兄の方が優秀だから、兄が継いで自分は補佐した方がいい」と常々言っていた。なら最初からレティシア様と協力して円満に解決すれば、私たちは辺境で苦労する必要などなかったのではないか。

 

「その辺りは亡くなった義母上の身分の問題と、私の母の問題と……何よりレティシア自身が私に腹を立てていたのと、加えて立ち回りや演技等々、そんな器用な真似が私に出来るわけがない、絶対にぼろを出すだろうと……」

「あぁ……」

「おい。納得するな」

「いや、だって……すみません」

 

 それに関しては完全にレティシア様に同意する。私が同じ立場でもアロルド様には何も教えないかもしれない。アロルド様には無理だ。

 まあ、アロルド様や私が、自分なりに恋に対してなりふり構わなかったように、レティシア様も、自分の恋を第一に持ってきたということなのだろう。あとはきっと、アロルド様に対する意趣返しだ。

 確かに思い返してみれば、レティシア様は「貴女の意向にすべて添うことはできない」と言っていた。そういう意味だったのかと合点がいった。

 

「ただ、それでハンナにはいらぬ苦労をさせたから、その点だけ(・・)は申し訳ないと言っていた」

「レティシア様はアロルド様にはやっぱり勿体なかったですねぇ」

 

 可笑しくなって、そう言えばアロルド様は不機嫌そうに眉を上げた。

 

「だから、私くらいがちょうどいいかもしれません」

「ちょうどいいじゃない。ハンナがいいんだ。それに――」

「……領主、ですか!?」

 

 アロルド様は城に戻らない代わりに、辺境の裁量権を求めたところ、レティシア様の口添えもあってそれが了承され、貴族籍は回復されたらしい。私も大概図々しいお願いをしたと思っていたのに、それより遥か上を行っていて、びっくりしてしまう。

 最初にそれを言わなかったのは私を試したのか。ずるいと思ったが、アロルド様は本当にそういうつもりではなかったらしい。まあ、そもそもそんなことができるのなら、夜会であんなことにはなっていないし、ここにもいない。

 

「一応、領主として辺境に封じられることになるが、結局貧しいことには変わりはないし、経営は難しいだろうから……」

「何を言っているんですか! 貧しくても領主としてなら全然違いますよ!!」

 

 領主となればまず第一に権限がある。多かれ少なかれ、国から予算も割り当てられる。税にしても、国に納めたあとの使い途が選べる。ただの平民としてあそこにいたのとは雲泥の差だ。

 

「実力は不足していますが、出来ることは増えます。アロルド様のやりたいと思った色々なことも、軌道に乗れば出来るはずです」

 

 みんなに何かをお願いするにしても、多少は対価を出せるだろうし、希望をすれば、人材も寄越してもらえるかもしれない。

 あれやこれやと考えていると、アロルド様が、ふっと笑った。

 

「……何か?」

「いや、やはり私には、ハンナが必要だな、と」

 

 そう言うやいなや、まるで騎士の誓いのように、アロルド様は私の足元に跪く。

 

「苦労をかけると思うが――私はハンナが好きだ。どうか、私と結婚して欲しい」

「……はい、喜んで。私もアロルド様のことが好きなので、どうぞ、よろしくお願いします」

 

 ああ、私もやっと言えた。

「好き」と言った途端、涙がぼろぼろと零れ始める。

 きっと、あんまり綺麗ではない泣き顔だから、見られたくないなと思っていたら、アロルド様は抱き締めて隠してくれた。

 

 +++ 

 

 一緒に辺境に帰ってしばらくして、アロルド様と私は簡素な結婚式を挙げた。

 花嫁衣裳もなく、みんなの前で誓うだけ。冬だから、ご馳走も花もない。それでもいろんな人に囲まれ祝福され、とても素敵で、間違いなく一生の思い出に残るものだった。いつか、父母を呼んでもう一度しようと言ってくれたのも嬉しかった


 それから。

 冬が終わって春も過ぎて、辺境での生活基盤も私の心持ちも、ようやくしっかりとしてきた気がする。 

 何より拓けば拓くほど豊かになっていく様はとても面白い。なんでもしなければならないが、なんでもできる。確かに苦労はあるが、こんな辺境に異動してきてくれた人たちや、住民達と頭を突き合わせて「ああでもないこうでもない」と考えるのはとても楽しい。


 ただ――

 

「ちょ……やめてください」

「いいだろう。減るものでもないのだから」

「むしろ減って欲しいんですけれど……」

「そうは言うが、ハンナは充分細いだろう」

「そんなことはありません」


 私の目下の悩みは、少しばかり太ってしまったことだ。大変平和な悩みではあるが、私にとっては結構な大事である。

 アロルド様自体は、肉付きがよくなったことを喜んでいる。だからまぁいいかなぁ、と思わないでもない。でも胸やお尻はまだ分かるけれども、二の腕やお腹を揉むのは正直止めてほしい。一応まだお年頃なのだ。

 それに名前だけは領主婦人だなんて大層なものになってしまったので、いつかは夜会ぶりにドレスを着る日もくるだろう。そうなった時に、少しでもアロルド様との格差はない方がいい。

 大体貴族の女性はほっそりとしているのに、骨ばるでもなく出るところは出ているというのに。何故私には均等に肉がついてしまうのか。むしろついてほしいところにはついてくれなくて悲しい。

 

「まぁ、今はそれよりやることがいっぱいあるからいいか……」

「私の目標は、そんな風に言わせないよう、指輪に合うハンナのドレスを作る余裕を作ることだな……」

「ドレスはどうしても何かで必要になってからでいいです。それより先に――」


 ――アロルド様の御守りと、お揃いの指輪が欲しいです。


 そう耳元で囁けば、アロルド様は嬉しそうに苦笑している。


「……ハンナは欲がないな」


 そうだろうか。遠慮も何もなく、欲丸出しだと思うが。

 それに。


「だって、一番欲しかったものは、もういただきましたし」


 そう言って私はアロルド様の手を握る。

 するとアロルド様は、それはそれは嬉しそうに笑って握り返してくれた。

 

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