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彼女がいた証拠  作者: とち
春風と二股
4/10

4

「コンタクトって、目が疲れるのね」


 十真子は独り、愚痴とも取れる感想を口に出す。実家にいた時は、すぐに母からの気のない返事が聞こえてきた。


 図書館から帰る途中、春風が黄砂と一緒にやってきて、目が開けられなくなった。記念すべき初のコンタクトは、傷だらけになった。


「高かったのに」


 明日からまた、この瓶底眼鏡で暮らさなくてはならない。


 突然、インターホンが鳴った。時計は夜の七時を過ぎようとしている。手に持っていた眼鏡を掛け、玄関に向かった。


「誰だろう。大家さんかな」


 新しい街で一人暮らしを始めてから、一週間しか経っていないのだ。十真子の住んでいる部屋など、誰も知りようがない。


 ドアスコープから覗くと、例の隣人が立っていた。十真子は警戒する。防犯のため、チェーンをかけたままドアを開く。


 男と目を合わせるには、やはり見上げなければならなかった。


 まだ何も言っていないのに彼は話しかけてきた。


「この本、おまえの?」


 見覚えのあるタイトルだった。十真子が入学式の朝、鞄に入れたものだ。電車で読もうと思っていたのだが、見つからなかった。勿論、心理学の本ではない。


 この男が持っているということは、あの出来事の最中(さなか)、落としたとしか考えられなかった。


「返してください」


 ドアの隙間から手を出し、乱暴に奪い取った。


「なんだよ」


 気を悪くしたようだったが、十真子はさらに言い放つ。


「用はそれだけ?」


「感じわりい」


 彼はポケットに手を突っ込みながら言った。


 それはこっちのセリフだった。あんな風に怒鳴られたら誰だって、良い感じにはならないと思う。


「それってさ、どんな本?」


「あなたに関係ないでしょ」


「せっかく届けてやったんだから、それぐらい教えてくれてもいいんじゃない?」


 悔しいが、言い返せなかった。本を落としてしまった自分が嫌になった。


「れ」


「れ?」


「れ……きし小説」


「へー。そういうの好きなんだ?」


「う、んまあ」


 十真子は、今日二回目の嘘をついた。恋愛小説だとは、口が裂けても言いたくない。


「で、用は済んだでしょ。さようなら」


 急いでドアを閉めようとする。


「あ、それと……」


 言いにくそうにしている。


「まだ、何かあるの?」


 この男に気を許すつもりはない。第一印象とはなかなか覆らないものだ。


「一昨日は、ごめん。ちょっと言い過ぎた、かな」


 ちょっとどころではない。十真子は案外、根に持っていたことに驚く。傷ついたのだ。


「百歩譲って私はいいけど。彼女にあんな言い方してさ、女泣かせだね」


 彼の眉が、歪む。


「煽ってんの?」


「別に」


 十真子は鼻を上に向け、小さな復讐を遂げたつもりでいる。


「逆だから」


 彼は少し怒ったような口調で答えた。意外な言葉に狼狽える。


「どういうこと?」


「浮気」


「……え?」


「いや、二股ってやつだな」


 十真子の言葉を待っている。


「え、あ、そうなんだ」


 なるべく平静を装った。


 十代のほとんどを一人で過ごしてきた十真子にとって、未知の世界だった。 


 恋愛小説で手に入れた知識などリアルにおいては何の役にも立たない。


「俺、かわいそうじゃない?」


 男は笑って誤魔化した。


 確かに、彼女の美貌なら、他の男が放っておかないだろう。しかし十真子には、あの時の彼女の涙に嘘はないように思えた。


「そんな女性(ひと)に見えなかったけど」 


 彼は短くため息を吐いた。


「あいつはさ、演じるのが上手いんだよ。自分が他人からどう見られているのかずっと意識してる。あの日も傷ついたふりしておまえに見せてたろ。悲劇のヒロインみたいにさ」


「悲劇のヒロイン?」


 有名人のスキャンダルじゃあるまいし、ただの一般人が成せる技ではない。


 彼の言葉をにわかには信じられなかったが、一度すれ違っただけの人間に対して、これほどまでに嫌悪感を覚えたことは無かった。事実なら心底、目の前の男を気の毒に思う。


「悔しいんだよね。四年も一緒に居たのに気付けなかった」


 十代の四年は長い。玄関ドアの向こうに立つ大きな男は、初めて会った時よりも小さく見えた。


 そういえば、彼の年齢を十真子は知らない。ふと気になったが、その後すぐ、こんな男に少しでも興味が湧いた自分を心の中で全否定する。


「普通分かるでしょ。二股なんかかけられてたら」


 恋愛中級者みたいな発言をしてみる。


「それは、付き合ってから一年目に気付いてた」


「は?」


 十真子は、開いた口を塞ぐのに苦労した。


「いつかは俺だけを選んでくれるんじゃないかって、アホみたいに信じて待ってたんだ。でも、そうじゃなかった」


 不誠実そうな見た目からは想像できないほど、純粋で一途だった。


 要するに、彼女が自分だけを選ばなかったことが悔しいのか、と聞きたかったが、十真子は口をつぐんだ。


「他の男に目移りするのは、俺が大事にしてなかったからなのかもしれないって。だから、出来る限りの時間を彼女に捧げてきたつもりだったんだけど。都合よく使われてただけっていうか。あいつにとって男はただの暇つぶしで、自分を飾るためのただの道具。ネックレスと変わらない。まあ、価値観の違いってやつ?」


 彼は長めの前髪を、くしゃっと掴む。


「そういう人間だってことに、なかなか気付けなかった自分に一番腹が立ってる」


 言いながら、苦笑いする男の瞳は澄んでいた。


 第一印象をすぐに覆すのも、若者の特権だ。

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