飼ってる吸血鬼に噛まれた聖女様
私ことセレーネは18歳にして、民から絶大な信頼を寄せられる聖女としてその卓越した能力で人々を導いています。
そしてこの日、公務のために訪れた街で私はふと微かな歌声を耳にしました。そしてそれに導かれるように人々の喧騒を避け、暗く静かな路地裏へと足を運びました。
「わぁなんて美しいのでしょう……」
お恥ずかしい話、思わず呟いていました。
そこには長い金髪の美しい少女が倒れていたのです。彼女の肌は青白くまるで命が消えかけているかのようでしたが、その芸術品のような容姿に陰りはありません。彼女の顔立ちは、成熟した大人の魅力と無垢な少女の純真さが絶妙に調和した神秘的的な美しさです。
一瞬で眼を奪われましたが、いけませんね。私はこれでも聖女ですから人命救助は最優先です。
「大丈夫ですか?」
私は優しく声をかけ、少女の肩に手を置きました。少女は微かに目を開けてこちらを見つめてきます。どうやら生きているようです。
少女その瞳には強い警戒心が宿っていましたが直ぐに気を失いました。
「安心してください。私が助けますから」
そう言って、先ず魔法で体の擦り傷を治そうとして―――――気づきました。魔法が逆に彼女を皮膚を焼いていました。彼女は人ではなかったのです。吸血鬼でしょう。
「これは……困りましたね……」
いえ、吸血鬼は殺してしまえばそれで終わりなのですが………そうですね、はい。単純に私が殺してしまうのを惜しんでいるのです。私は可愛いもの綺麗なものが大好きですから。だからと言って、私の立場的に吸血鬼を助けたのがバレたら大問題です。最悪、異端者として火あぶりでしょうか。本当に野蛮ですよね。
「う~ん…………ま、いいですよね」
バレなければ問題ありません。それにいつも人助けしてあげているのですから、口のない神様とやらは目も瞑ってくださるでしょう。
あれ………そういえば吸血鬼ってことは人権がありませんから、この美しい少女を飼っても大丈夫ですよね?よし持って帰りましょう。私が拾ったので私のものです。あ、なんだか気分が上がってきました。一度ペットを飼ってみたかったんですよね。首輪は必要でしょうか?あー大神殿に住まわせるなら人のフリをさせるので無理ですね…………………ちょっと残念です。
そうして私は吸血鬼――――リアを大神殿で飼うことになったのでした。
あれからリアを大神殿に連れ帰ったその日から、私は彼女の世話を始めました。始めは警戒されていましたが、少しずつ信頼関係を築いていくことができました。飼うと言っても酷いことはしてませんし、多少の不便はあっても衣食住に不自由させたこともありません。
血液しか栄養にできない彼女に対して、私は毎日新鮮な血液を用意しました。私は飼い主ですから当然自分の血を提供しました。掌をナイフで切って、それを美しい吸血鬼に舐められるのは。背中がぞわぞわずるような得も言われぬ背徳感があります。
そしてその対価として着せ替え人形にしたり、抱き枕にしたり、愚痴を聞いて貰ったりしてもらっています。
ふてぶてしくてちょっと素直じゃないリア、でもそこがまた可愛いリア。日々の癒しです。彼女がいないと聖女なんてもう続けられないかもしれません。
元気になる彼女を見るほど、どこかへ行ってしまいそうで不安になって、鎖で縛って私の自室に閉じ込めたくなります。そしてドロドロに甘やかしてもう離れられないようにしてしまいたいです。
「はぁ…………」
最近の私はちょっと変ですね……いえ、元から少しおかしい自覚はありましたが、そういうことではなくてですね………彼女のことを考えると幸せな気持ちになるのに不安になって落ち着かなくなるのです。こういうのは飼い主がペットに抱く感情ではないと思うのですが、これは一体どういう感情なのでしょうか……。
「セレーネ、ちょっと話があるの」
「リア、どうしましたか?」
リアの冷たい声が響きました。いけません、ぼうっとしてました。私は驚きながらも彼女の元へと歩み寄ります。リアの表情には、いつもとは違う何かが宿っていました。
「どうかしましたか、リア?」
もう一度優しく微笑みながら尋ねかけます。リアは人形のように愛らしい吸血鬼の少女でペットです。可愛い愛玩吸血鬼です。そんな彼女が怒った顔をしています。今日はどうしたのでしょう。そんな表情を見てると、なんだか私まで気が落ちてしてしまいます。
機嫌が悪いのでしょうか?なら、慰めてあげるのもやぶさかではありません。うんうん、これは仕方ありません。いつもは逆ですが、偶にはこういうのも――――――、
「へ………?」
視界は白い天上へ、ドサリと背中にベットの柔らかな感触が伝わってきました。
「………あ、え……え………?」
…………どうして私はリアに押し倒されているのでしょうか?
リアの冷たい手が私の肩を強く押さえつけています。一体何が起こってるのでしょうか………?状況を整理しようとしますが、彼女の甘い香りが鼻腔を刺激して思考がまとまりません。
彼女の長い金髪が私の頬を撫でて、柔らかく絡み合う感触が伝わってきました。甘い香りが漂い、私の心臓の動悸が早鐘のように速くなります。
そして馬乗りになった彼女がその整った顔を徐々に近づけてきて、
「ま―――――」
「黙って」
そう遮るように一言、リアは私の首筋へ鋭い牙を突き立てました。
魔力を奪われる恐れがあるため、これまで一度もさせてこなかった吸血行為。それに対して抵抗の暇もなく、チクリと鋭い痛みを打ち消すように全身に甘く蕩ける快感がじっとりと広がっていきました。脱力感と同時に、ゾクゾクと感じたことも無い温かな多幸感が脳を犯してきます。
「ん…………っ」
傷口を優しく舐められて、これまで出したことがないような艶めかしい声が漏れる。このままじゃいけないと思う反面、首筋に顔を埋めて美味しそうに吸血するリアを愛おしいと思ってしまいます。
熱に浮かされたように思考と行動が一致しません。
そして段々と体が動かなくなってきました。吸血鬼は魔力とともに生命力も奪えるということを今更ながら思い出しました。
このまま死んでしまうのでしょうか…………それほど恨まれているようなことをした覚えは………まあペット扱いをしていたのですから当然かもですね…………………………………あーでも、彼女が去ってまた聖女として一人生きるくらいなら、いっそ彼女に殺されるほうがいいのかも知れませんね―――――――――
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吸血鬼は血液以外を栄養にできない。主に人間、他の動物でも代替は可能だけど効率が著しく落ちてしまう。だから吸血鬼は人間を襲うし、人間は吸血鬼を襲う。
だから吸血鬼として生まれた私は人間に襲われることが日常茶飯事だった。そしてその日は失敗した。熟練の冒険者たちに不意を突かれて命からがら逃げ出した。
力尽きた私は、薄暗い路地裏にもたれかかった。遠くには陽光に照らされた大通りが見える。その明るさと暗さの対比が、まるで私たちの関係そのものを象徴しているかのようだった。
――――――羨ましい。
そんな胸の内に沸いた馬鹿な感情をかき消すように鼻歌を歌う。だけど、体力の限界が近づいているのを感じて意識が次第に薄れていく。
視界がぼやけ、周囲の音が遠のいていく中、私は最後の力を振り絞って立ち上がろうとしたが、足がもつれて倒れ込んだ。冷たい地面の感触が私の体を包み込む。
「これで終わりなのね…」
小さく呟きながら、私は目を閉じた。意識が完全に途切れる前に、誰かの足音が近づいてくるのを感じたが、それが誰なのかを確認する余裕はなかった
――――目を覚ますと、私が見知らぬ場所にいることに気づいた。私の前には銀髪の美しい少女が居る。
「!!……………ここはどこ?あなたは誰?」
寝かされていた大きなベットから飛び起きて、警戒心を露わにして尋ねる。私が吸血鬼であることを知らずに介抱したのか、それとも目的があるのか、返答次第では即座に目の前の少女を殺して逃げなくてはいけない――――――だけど、そんな考えは少女の言葉によって一瞬で霧散した。
「ここは聖都の大神殿で、私はセレーネですよ」
少女――――セレーネは優しく微笑みながらそう処刑宣告をしたのだから。
終わった…………聖都、それにセレーネと言えば歴代聖女の中でもとびっきり優秀だと噂される名前、どちらも吸血鬼の間では絶対に近寄ってはいけない代表のようなものだから。
たとえ、ここで聖女を殺せても、そのあと都市を出ることも出来ずに私は殺される。
「なんで助けたの」
なるべく弱みを見せないように冷たく言い放つ。
「そんな不安そうな顔をしないでいいですよ。条件を飲んで下されば安全も衣食住も保証しますから」
「……………条件って?」
どうせ碌でもないことか、無茶振りだろうと、隠すことのない強い疑念と敵対心を抱いて一応尋ねる。そして聖女は邪気のない満面の笑みで答えた。
「私に飼われて欲しいんです!」
「は………?」
「私のペットになって欲しいんです………」
頬を赤らめて言い直すな………………こいつの頭はおかしい。本気でそう思った。
こんな変態が聖女なんて人間は大丈夫なのか。だけど、聖女に匿われるなら確かに安全だろうし、いつか油断したところ寝首を搔いてやればいい。
そうして私は半ば強制的に聖女のペットになった。
最初に悲観していたほど、ここでの生活は悪くなかった。
セレーネが私の身分を保証してくれたおかげで、疑われることもなく神殿内を自由に動けるし、周りの修道女たちも親切にしてくれる。彼女達からしてみれば、慈愛心溢れる聖女様に拾われた不幸な孤児で、敬愛する聖女様のお気に入り。私自身は何も変わっていないのに、まるで別人に生まれ変わったみたいな感じがする。
そして聖女の当人の姿が、伝え聞いていた人物像とは異なることもわかった。彼女は日々のストレスや悩みを私に打ち明けることが多くあった。
そして今夜も――――――私は大神殿内のセレーネの自室で静かに本を読んでいた。人間の娯楽本は思いの外面白い。だけど突然、セレーネが部屋に入ってきて疲れた様子でベッドに倒れ込んだ。
神殿の修道女たちがこの姿を見れば驚きで目を丸くすること間違いない。彼女の銀髪は乱れて、普段の凛とした姿とは違う無防備な姿がそこにあって複雑な感情が渦巻いた。
「なんでそんなに無防備なのよ……」
「今日は本当に疲れたんです」
セレーネは目を閉じたまま答えた。
「あの人たちは何もわかっていないのに、私にばかり頼ってくるんですよ。私の体は一つしかないんです…………」
「なんで吸血鬼の私にそんなことを言うの?」
なんでそんな姿を見せるのか。敵に弱点をさらけ出しているようなものだ。これではこちらの気が削がれてしまう。そんな私の思いとは裏腹に、彼女は何言ってるんですか?と笑う。
「吸血鬼じゃなくて私のペットですよ?」
こいつ…………つまりは人以下のペットだから、だらしない姿を見せられるし、胸の内を話すことができるということなのだろう。
「ふん、なら好きにすれば」
私は勝手にしろとばかりに本の続きを読むことにした。彼女は私がこういう態度をしても何も文句は言わない。寧ろニコニコとしている。彼女は本当に私に対してペット以上の役割を求めていないのだ。
――――――――そしてその後もセレーネの愚痴を聞き続けてふと思った。
彼女は聖女だから誰にも弱みを見せることができない。だから、こうしてペットと評する私に愚痴を吐くことしかできないのではないだろうか。
…………もしそうなら、誰もに慕われているように見える彼女は実際誰よりも孤独だと思った。
「リア、少しお願いがあるんですが」
セレーネが唐突にそういうので、本から顔を上げると彼女はベットに座っていた。
「歌ってみてください。リアを拾ったときの鼻歌でいいですから」
セレーネの言葉に驚き、私は眉をひそめた。
「歌うのは得意じゃないわ」
そう冷たく言い放つと彼女は期待に満ちた眼差しを残念そうに落とした。…………まるでこっちが悪いことをしている気持ちになる。
ため息をつきながら机に本を置く。
「………わかったわ。でも、期待しないでね」
「!!」
瞳を輝かせるセレーネから目を逸らして、私は少しずつ歌い始めた。これは元々、街中で人間が歌っていたもので、幼い私はその姿に憧れてた。
なれるはずもないのに…………今思い出してもほんと馬鹿みたいよね。
「やっぱりリアの声は素敵ですね!」
歌が終わると、セレーネは拍手をしながら顔には子供のような無邪気な笑顔が広がっていた。
どうしてこんなに嬉しそうなの……心の中でそう呟きながら、その姿に何かが胸の奥で温かくなるのを感じた。
「うるさい、そんなこと言うな」
なんだか照れ臭くなって、その日は彼女の顔を直視できなかった。
人間は知らないだろうけれど、吸血鬼が飲む血液の味は相手の自分に対する感情によって変化する。知らない相手だと水のように味気ない、憎まれている相手だと吐きたくなるような味、そして好いてくれている相手だと―――――私は彼女のものを飲むまでを血液がこんなに美味しくなるものだと知らなかった。
「い………っ」
セレーネは掌をナイフで躊躇いなく切った。周囲に疑念を抱かせないためか、彼女はいつも自分の血液を私に与えてくれる。
とろりと大きな傷跡から赤い血液流れる。あとで治癒の魔法で治せるといっても、躊躇なくそれをできる精神性が理解出来ない。
――――――いや、本当はわかっている。
私はセレーネの掌から流れる血液を口に含んだ。その瞬間、甘美な味わいが舌の上に広がる。その味はまるで蜜のように濃厚で、心の奥底まで染み渡るみたいだった。
なんでこんなに美味しいの…………流れ落ちる血液が勿体なくて、傷口ごと舐める。傷が痛むのか、びくりと腕が跳ねるけど引っ込めるようなことはしなかった。
初めて飲んだときはその甘さに驚愕した。そうして彼女が私に害意がないことを知った。更に日に日に彼女の血が美味しく感じるようになっている。
セレーネの血を飲むたびに、彼女の優しさや思いやりが私の心を犯していく。これまで誰かにこんなに大切にされたことがなかった。血液を飲むだけでこんなに胸が満たされることはなかった………たとえ、愛玩ペットに対するものに過ぎなくても、私の存在が彼女にとってどれほど大切なのかが痛いほど伝わってくる。
だから、私はこの瞬間がとても怖くて、とても好きだった。
極まれに、私はセレーネの抱き枕にされる。
最初はその行為に対して強い抵抗を示していたけれど、あまりにしつこい嘆願に面倒になって、偶にならという条件で認めてしまったのだ。
なんでこんなことを………私は心の中で呟く。セレーネの腕に包まれながら、彼女の心臓の鼓動が耳に心地よく響いてくる。
「リア、あなたは本当に可愛いです」
「…………うるさい」
今日の彼女は少し酔っている。何でも偉い人達とのパーティがあったらしい。朝から嫌そうに出て行った彼女は、疲れた様子で少し前に帰ってきた。
お酒に弱いのかそれとも飲み過ぎたのか、どちらにせよ聖女という立場が思いのほか大変らしいことを彼女とそれなりに一緒にいればわかってくる。
「そんなに辛いなら、聖女なんてやめればいいじゃない……」
「ふふ……リアは優しいですね……」
「…っ」
セレーネに耳元で囁かれて、頬が熱くなるのを感じる。だけど、目尻を下げる彼女を見てすぐに冷めていった。
「でも、私は特別ですから………」
「代わりの人間くらいいくらでもいるでしょ。人間は数が多いのだけが取り柄じゃない」
なんだが、無性に腹が立ってぶっきらぼうに言い返す。
「まぁ………後継はいますよ……」
「なら、そいつに全部任せればいいじゃない」
「いえ、私と比べたらまだまだ未熟なので………彼女が育つまで…は……」
「セレーネ?」
…………寝たらしい。疲れているみたいだから、起こすのは止めておいてあげた。
彼女の呼吸に合わせて胸がゆっくりと上下する。そのリズムに合わせて、さっきまで苛立っていた私の心も落ちついてくる。
規則正しい吐息を聞きながら、彼女の寝顔を眺める。彼女の輝く銀髪に触れると、絹のような滑らかさが指先に伝わってくる。
そっとその髪を撫でながら、ゆっくりと手を彼女の顔へと近づけていく。彼女の寝顔はまるで無垢な子供のようにあどけない。普段の強さや気高さが嘘のように消え去っている。そして頬から唇へ、柔らかくほんのりと温かな感触を感じながらその輪郭をなぞる。
「可愛い……」
セレーネの長いまつげが微かに震えて、指を離す。
彼女のベットで彼女の腕に包まれて、彼女の優しく心地良い香りを感じながら――――――彼女の首筋にしな垂れた銀髪をどける。
セレーネの熱が、香りが、信頼が私の理性を溶かしていく。その無防備な白い首筋に噛みつきたくなる。
でも、その瞬間私は全てを失ってしまう。セレーネを抜きにしても、私は今の生活が気に入っている。実情はどうあれ、私は今人間の領域で人間として生きていけている。場所がおっかないのはともかく、これは私が欲しくても得られなかったものだ。
だから、私は今日も彼女に背を向けて瞼を閉じた。
「ねぇ知っている――――?」
それはセレーネが留守の間、修道女たちと話をしていたときのことだった。
曰く、セレーネは親に捨てられ孤児になったあと聖女の素質を見出されて教会に拾われた。けれど、当時の教会は複数の派閥による血みどろの権力闘争が行われていて、セレーネは結局大人達の政争の道具として利用されてきた。だから彼女は聖女になるなり数々の功績を打ち立て、民衆の圧倒的な支持のもと腐敗した教会を一年で立て直した。
修道女たちからすれば、不幸な少女が神様に選ばれ民衆を導く英雄譚でありシンデレラストーリーなのだろう。
でもその話をきいたとき、私は色んなことが腑に落ちて、同時に胸が苦しくて仕方がなかった。
「え、え、どうしたのリアちゃん……?」
「ちょっと何を泣かせているの!?」
「え、私!?」
私にも育ての親とも言える存在はいた。
「気にしないで………………なんでもないから」
でも、親に捨てられて、散々大人に利用されてきた彼女は愛情を知らない。そして聖女になって皆に等しく愛情を注いでも、だれも彼女にそれを与えることはなかったのだろう。だから、彼女は歪んでしまった。私をペットにするくらいに。
そして返ってくるものがないのに、真面目な彼女はこれからも自分の身を削って他者に分け与え続けてしまう。そんな生き方しか知らない上、他者に頼られて生きてきた彼女は誰にも弱みは見せられない。
…………能力があっても、精神的に彼女には向いていない。いつか限界がきてしまう。
―――――だから私は終わらせようと思った。たとえ、今の生活の全てがなくなるのだとしても。
その夜、私はセレーネをベットに押し倒した。
「………あ、え……え………?」
動揺する彼女に馬乗りになる。そして、ゆっくりと顔を近づける。
頬を染めるセレーネ――――――もしかしたら彼女はどうして自分が頬を染めているのかも、どうして抵抗できないのかも、理解できていないのかもしれない。
「ま―――――」
私が聖女をやめさせてあげる。
「黙って」
私は彼女の静止を振り切って、白く柔らかな首筋に顔を埋める。牙が首筋に触れた瞬間、セレーネの体がびくりと震えた。私はその感触を感じ取りながら、ゆっくりと牙を深く突き立てた。温かい血液が口の中に流れ込み、間接的な血液の摂取とは比べられない甘美な味わいが全身に染み渡る。
――――痛くないかしら………綺麗な肌についた傷に舌を這わせる。
「ん…………っ」
彼女の艶めかしい声が、彼女の強くなる甘い香りが、私の理性を刺激する。
吸血を続けるとセレーネの体が震え、彼女の甘い香りが私の感覚を支配する。彼女の血液が私の中に流れ込むたびに、私の心は彼女への感情で満たされていく。そしてその一方、段々と彼女の体から力が抜けていった。
―――――こうして聖女は私に殺された。
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今では顔すら思い出せませんが、私の両親はあまり出来た人間ではありませんでした。きっと世間一般では屑と呼ばれるでしょう人種です。彼らは、いつも鬱憤を晴らす道具として私へ暴力を振るっていました。
そしてそれに堪えて続けていると最後には捨てられ、孤児となりました。
寒さと飢えに震えながら、私は教会の門前にたどり着きました。そこにいたのは、厳しい顔をした聖職者たち。彼らは私を見つけ、運が良かったことに私に聖女の素質があると分かると快く教会に引き取ってくれました。
これで、やっと死ぬことに怯えなく済むのだと、そう安堵したのを今でも覚えています。ですが、教会の中はあの家よりもずっと冷たく恐ろしい場所でした。そこでは、様々な派閥が自分たちの利権を巡って日夜、権謀術数を張り巡らしていましたから。
『君には期待しているよ』
『キミが努力しないと、これから先、キミのような不幸な子供が沢山出てきますよ』
『もし、成果が出せないようなら教会から出て行ってもらいますからね』
大人達は様々な言葉で、私を都合の良い道具に育てようとしました。優しそうな笑顔の下で、蠢く真っ黒な欲望が透けて見えるようでした。
そしてその中で、私はときに渦中に巻き込まれながらも、大人たちの神輿としてその全てを見届けてきました。
だから、終わらせました。聖女としての地位と民衆の圧倒的な支持の下、私へ媚びを売っていた大人ごと旧体制で腐った全てを革新してあげました。
そしてそれからも私は、皆が望む聖女であり続けました。だって、私はこういう生き方しか知りませんでしたから。
何をすればいいかわからないけど、私には能力がある。だから助けを求められたら助ける。単純でわかりやすいです―――――――――でも…与えて、与えて、与えて……………その繰り返しに最近少し疲れてきました。何かはわらないですが、ずっと何かを欲しているのです。
『聖女様ありがとうございます!お陰で倅が助かりました!』
誰も私の名前を呼んでくれません。
『聖女様が疲れている姿を見たことがありません。これも神のご加護でしょうか?』
誰も私を見てくれません。
『聖女様は博愛心に満ちた素晴らしいお方です!』
誰も私を理解してくれません。
『『『助けてください聖女様!』』』
誰も私を救ってくれません。
――――――誰か私の空虚な心を埋めてください。
目が覚めると、そこは見慣れたベットの上でした。
頭がぼんやりとしていて、何が起こったのかすぐには思い出せません。ですが、次第に昨夜の出来事が脳裏に蘇ってきました。
そうです。私はリアに押し倒されて、吸血されて、そのまま意識を失ったのです。殺されたと思っていましたが、そうではなかったようです。
「リア……?」
呼びかけた声はかすれていました。近くにいるのでしょうか………体が重くて動かせないから確認もできません。昨日の彼女は変でしたから、どこかへ去ってしまったのかもという不安が拭えません。
「………ここにいるわ」
彼女の声が返ってきて、心の中でホッと息をつきます。そちらへ視線を向けると、リアがベッドの傍らに座っていました。ですが表情には複雑な感情が浮かんでいます。
「何をしたんですか……?」
気になっていたことを問いかけます。正直、想像はついていますが、これはちゃんと聞いておかないといけないことですから。
リアは一瞬、沈黙した後、静かに口を開きました。
「あんたの魔力を奪って、聖女としての力を失わせたのよ」
「…………やっぱりそうでしたか」
「怒らないの?」
「ええ……でも、どうしてですか…?」
やっぱり、私への復讐でしょうか……殺すよりこっちの方が苦しめられるみたいな…………もしそうなら魔力を失ったことより悲しいですね。何だか胸がチクりと痛みます。
ですが、彼女の回答は私の想像を裏切るものでした。
「聖女としての役割が、あんたを苦しめているからよ」
リアの声には確かな優しさが感じられて、胸の奥がポカポカしてきます。
――――でもわかりません。
「復讐………じゃないんですか?」
「はぁ………」
溜息をつかれました。なぜでしょう…………。
リアは深いため息をついた後、少し照れくさそうに目をそらしました。彼女の頬がわずかに赤く染まっているのが見えます。
「復讐なんて、そんなこと考えてないわ。ただ…」
リアは一瞬黙り込みましたが、やがて決心したように再び口を開きました。
「ただ、あんたが苦しんでいるのを見るのが辛かっただけ。だって……私は、あなたが……」
セレーネは言葉を探すように声を途切れさせて、私の手をそっと握りしめてきました。そしてもう片手で私の頬へ掌をそっと押し当てます。彼女の指先の熱が私にまで伝わってくるようで……、
「好き」
リアの声は優しく、しかし決意に満ちていました。その熱っぽい声と瞳に、私は胸がギュッと締め付けられるような感覚を覚えました。彼女のそれがどういうものであるか、そのくらいは知識としてありました。でも、それが自分に向けられるのは初めてで…………。
「リア……」
それがとても嬉しいのに……何故か泣きそうになりました。悲しいわけじゃないのに、誰かからこんな温かな貰うのは初めてで。
それを見てリアは一瞬驚いたように目を見開きました。勘違いされたくないのに、涙が頬を伝います。
「すみません……これは―――――」
「大丈夫……分かってるわ」
リアがそっと顔を近づけてくるだけで、心臓が音が大きくなっていきます。そして見つめ合い――――、
「っ……!」
リアの柔らかな唇が自分の唇に触れると、その熱がじわりと胸まで浸透してきます。まるで時間が止まったかのように感じました。その瞬間、全ての不安や恐れが消え去り、ただリアの存在だけが私の世界を満たしていました。
キスは優しく、だけど確かなもので、胸の内から湧きあがるその幸福感に浸りながら、リアの愛情を全身で感じました。リアの手が自分の髪を優しく撫でる、その動きの一つ一つが心を満たしてくれました。
あぁ……ようやく分かりました。私が彼女に抱いているこの感情は、ペットに向けるものなんかじゃなくて―――――――――。
「でも、これからどうしましょう………」
色々と落ち着いたところで、私は今後のことを考えます。私の魔力はほとんどリアに奪われたので、もう聖女として立場は維持できないでしょう。これは仕方ないことですから諦めます。
でも、そうなると私は今の大神殿の生活を続けることができなくなります。いえ、私が頼み込めば、認めてはくれそうですが、聖女としての地位がなくなるとなると、いずれリアの正体を隠すことも難しくなるのです。これまでは、職権を乱用して色々と無茶を聞いてもらってましたからね。
「心配しなくても、神殿を出ても私が面倒みてあげるわ。今の私って結構最強なのよね」
私から魔力を奪い取った元凶が自慢げに言いました。
「するべきことも、したいことも、これから一緒に探していけばいいわ」
「じゃあ、こうした責任をとってくださいね」
「ええ、私はあなたのもので、あなたは私のものだもの」
そう言ってリアは、また私をベットに押し倒して首筋に顔を近づけてきました。そして、
「だから、今度は私が飼ってあげようかしら」
ふふっと妖艶にそんな恐ろしいことを囁いてきたのでした。