5、終わりの時、始まりの時 -Step by Step-
早鐘の勢いで動いていた心臓がようやく弱まった頃、真司はゆっくり目を開けた。眼前にはすっかり目を覚ましたルイがいて、真司の手には斎の手がしっかり握られている。二人が無事だったことに安堵して真司は息を吐き出した。
「お疲れさま。切られた左腕は大丈夫かい?」
「あ、そういえば」
ルイが振り下ろしたナイフを受け止めた左腕を動かしてみる。動作に違和感は無いものの、痛みは少しだけ残っていた。
「違和感は無いから大丈夫だと思う。……それよりも首が痛い」
「そうだ。ちょっと見せて」
清人は座ったままの真司の首筋を診る。見た目にはなにも変わりはなかったが、真司は火傷のようなじくじくした痛みを感じていた。
「あぁ、これは厄介なものを付けられたね」
清人の目には何が映っているのか、真司が痛みを感じるピンポイントを彼はしっかりと触れる事はせずに指の腹でそっと触れた。
「すごい、痛い」
「しばらくは痛むよ。異物が入ったのと同じだから、拒否反応が起こってるんだ」
清人は持参したバッグを探って札を何枚か取り出し、真司の首筋に貼り付ける。完全に痛みが無くなった訳ではないが、随分と引いたような感覚だった。
「結局、これは何なんだ?」
「印、だよ。これがある限り獏は君を見失うことはない。一種の道標だ」
「これがあるとどうなる」
「日々の生活には支障はないだろうけどね。貘が復活したら君をどうにかあちら側に引き込もうとするだろうね」
「復活、するのか? あの状態で?」
「貘は実体を持っている訳ではないけど、今回は実体を保てなくなったから退散しただけであって、力が溜まればまたこちらにも出て来る」
完全にいたちごっこだよ、と清人が溜め息を吐けば、斎も何ともいえない顔をして頷いた。
「君一人じゃ今回のように他人の夢に攻撃を仕掛けられた場合、助けにいけない。今回は大丈夫だったけど、君はもう少し自分を守る術というものを身につけた方がいい。荒削りの戦法は危険だよ。……それで、提案なんだけどね」
少し言いづらそうに清人が言葉を切った。真司の中でも清人の提案が何なのかは薄々感づいてはいた。
「うちに来ないかい? 斎くんもいるし、僕も君を全力でサポートしてあげられる。向こうのことや仕組みも教えてあげられるし、君の能力を伸ばす事も出来る。悪い話ではないと思うけれど、君がここを出る覚悟があるかどうかが問題だね。ルイくんたちと離れる事は出来る?」
あぁ、貘が言った『大事なもの』とは、ルイや真司単体を指したものではなかった。真司に印を付ける事によって彼自身にチームを捨てさせようというのだ。
「悪趣味だ」
「貘は本来悪夢を食すのを生業としているからね。気に入った人間を気分悪くさせる為には何でもするような男だよ」
誰とも無く息を吐き出した。
真司の脳裏に浮かぶのは、ここにはいない幹部たちの顔。けじめを着けなくてはなるまい。
「……少し時間をくれないか」
「そうだね。じゃあ、三日。しっかり悩んでくれていいよ。君の一生を左右する問題だから」
清人は連絡先を書いた紙を真司に渡すと、三日後に、と言って斎を連れ、真司の部屋を出て行った。
部屋に残されたのはルイと真司。お互いに何を言うでも無く、ただ、沈黙の中に身を埋めた。
「シンジさん。電話、鳴ってます」
ルイに言われて床に置きっぱなしだった携帯を持ち上げると、電話は切れてしまったが、ディスプレイには大量の着信履歴が残っており相手は全てチームの幹部たちだった。
真司が折り返しアキタに電話をかけると、彼にしては珍しく二コールも立たないうちに通話状態になった。
『シンジ! ルイは大丈夫か!?』
「元気でいるよ。代わるか?」
『あぁ、……それより、急に騒動が治まっちまったんだが、これはどういうことだ?』
「詳しく話せるか?」
『チヒロに代わる』
ざわざわと喧噪がバックに聞こえる中、随分久しぶりのような気がするチヒロの声が聞こえた。
『暴れてた人たちが急に大人しくなっちゃったんだよね。気持ち悪いくらいにぴたって止まって、それからはどうも呆然としてる感じ』
夢の中の時間が現実世界と同じとは限らないが、それは獏が黒い霧になったことが原因だろうか。兎に角、D2の売人がいなくなったのだ。危機は去ったか。
「暴れてた奴ら、全員D2の常用者かもしれない。聞いてみろ。それと、現在出回ってる以上のD2はしばらく出回らない」
『それは、どういうこと?』
「大元が崩れたんだ。復活するのはずっと先だろうよ」
どれくらいの早さで貘が回復するかは分からないが、しばらくは無事だろう。
『分かった。……ルイに代わって』
携帯をルイに手渡して、真司は台所に引っ込んだ。とりあえず、飲み物が欲しい。今だってまだ、頭の中が上手く整理出来ていないんだ。
今のままでは獏に対抗していくのも難しいだろう。
それはあまりにも明確で真司は反論をする気にもならない。闘うには夢の世界のことも、自分が扱える力についても知らないことが多すぎた。対抗手段を探るためにも、清人と行くのが妥当なのだろう。しかし、だけど……。
「俺は、チームを出なければならないな」
ここにいるままでは集中することも出来まい。
変わるきっかけでもあるが、あまりにも急だ。
シンクの淵に手を付き、溜め息を吐く。決心することは容易ではない。
「シンジさん。アキタさんが代わって欲しいそうです」
台所に顔を出したルイから携帯を受け取り、耳に当てる。
「もしもし……」
『何かあったのか?』
心配そうな声に、真司は苦笑した。きっと情けない顔をしているのだろう。
「まぁな」
『今から出れるか? 今回の事、ちゃんと聞いておきたいんだよ』
「お前に話しても分かるかどうか」
『チヒロもモモもいる。どうにかなるだろう。今回のはいつもと違う、そうだろう? お前は自分の内に籠りすぎなんだよ。もっと、俺たちを頼れ』
そっと、目を閉じた。今日の事、これからの事。色々と話しておかないとな。
真司は深呼吸を一つして目を開いた。
「分かった。事務所に今から集合しよう」
『夜に事務所に集まるなんて、初めてじゃないのか?』
「あぁ、チーム初だ。ちょうどいいだろ」
じゃあまた後で、と電話を切り、ルイを呼んだ。
「今から事務所で会議だ。今回の事、全部話す」
「……分かりました」
俯いたルイの表情は読めないが、複雑な心境にいるのだろう。
「結局、出てかなきゃいけなくなるかもな。……約束、守れそうにない」
「……………仕方ないです」
折角、チームにいて、新しい事をしていくと言っていたのにこの仕打ちだ。真司はルイにどんな言葉をかけてやればいいのか、分からなかった。
***
事務所で真司は今回の事が人外の存在が起こした事件であること。その大元は撃退したものの、いつかは戻ってくるかもしれないということ。自分が負傷し、チームを離れなくてはならないことを話した。
「僕は斎さんが来てからずっと、こうなるんじゃないかって思ってたよ」
ぽつりこぼしたのはチヒロ。アキタに寄り添うように、真司とは目を合わせずに言った。
「きっと、斎さんがシンジを連れて行くんだと思った」
「行くか行かないかは自分で決める」
「うん、それは分かっているけど、シンジを変えたのは彼でしょう?」
否定は出来なかった。真司の生活に食い込んでかき乱していったのは斎だ。今までの生活を違ったように見れたのは斎のおかげだった。
「僕はいい機会だと思うよ。シンジにとっても、僕らにとってもね。アキタは?」
「俺か? 俺は別にシンジが決めたんならそれでいいだろ」
「うん、模範解答。モモは?」
「俺は誰が上になろうが、やることは変わらねぇよ」
「そうだね。ネコは?」
「ボクはシンちゃんがいなくなったらさみしぃよ。シンちゃんがリーダーじゃない赤狼なんてヤダ」
「分かってる。……ルイは?」
幹部一人一人の言い分の最後がルイなのはチヒロも考えてのことなのだろう。四対の目がルイを見据える。
「本当は、本当はシンジさんにここにいて欲しいです。でも、シンジさんは俺の所為で怪我をしたんです。俺にシンジさんを引き止めることなんて出来ません」
気丈な言い方はしているが、目を見れば縋り付くように真司を見ているのは分かった。これを振り払えという、諸悪の根源である貘の顔を思い浮かべて、腹の底に何かどろどろとした怒りが込み上げてくるのを真司は感じていた。
「すまない。俺はやっぱり行くよ。いたちごっこだろうが、貘は俺が何回でも倒してやる」
「チームはどうするの?」
「……チームはどうにかこのまま続けていってもらえないか? 信念さえ守って貰えれば名前を変えることだって構わない。ここはこの街の住人の唯一の逃げ場になってやれるんだ。頼むっ!」
座ったままではあったが、真司は深々と頭を下げた。それを見て慌てたのがルイとネコだったが、チヒロは落ちついた様子でアキタを見た。
「どうするの? 副リーダー?」
「続けることに異議なんかある訳ないだろう。俺たちにとってもここは居場所だ。でも、お前がやってきた中で俺たちが不満に思っていた所は直させてもらう。……ワンマン運転過ぎたんだよ、お前は。もっと頼ってくれても良かったんだ」
下を向いたまま、真司は何とも言えない表情で唇を噛んだ。視界が狭くなっていたんだろう。周りなど何も見えていなかった。
「とりあえず、クスリに手を出さない、入りたいと言ってきた奴は誰でも受け入れる、パクられるようなことはしない、で良かったか?」
一つずつ指を立ててカウントするアキタがおかしくて真司は思わず声を上げて笑った。
「あぁ、それで上出来だ」
「次のリーダーはアキタでいいの?」
「他にやりたい奴はいるか?」
真司が改めて聞けば、反対意見は無し。元々、副リーダーになっているのも適任なのがアキタだったからであって、繰り上げになるのは至極普通の事だ。
「じゃあ、副リーダーはルイ、お前がやれ」
「俺ですか!?」
「あぁ。でも、お前はまだまだ経験も少ないし、慣れてもいないだろうからまずはアキタに引っ付いて色んなことを見ることが大事だ。それから、夜遊びもいいけど、大検があるんだからほどほどにしろよ」
ルイの頭を撫でて真司は告げた。
「お前のことはみんなが見ていてくれるから、ちゃんと頼るんだぞ。俺みたいにならないようにな」
苦笑いを浮かべて真司は立ち上がる。これで、ここともお別れだ。
「今まで本当にありがとう。楽しかった」
「もう来ないみたいな言い方だな! 全く」
「たまには帰ってきてよ? 待ってるから」
「坊主の事は任しておけ。きっちり教育しておいてやる」
「シンちゃん、寂しいよぉ。本当に遊びにきてね。メールもするからねぇ」
「シンジさん、無理しないでくださいね」
「ははっ、それはお前だよ。変に気負わないで、自分のペースを守るんだぞ」
それぞれの別れを背に真司は事務所を出る。他のメンバーへの連絡は残った四人がやってくれるだろう。これ以上自身が関わる必要はない。事務所へ続く階段を下り、入り口を出るとそこは全くの無音の世界で。歩き出して初めて、自分には仲間と呼べる存在がいなくなった事を知った。それはもちろん真司の錯覚であり、チームを抜けたからといってルイたちが全くの他人になる訳ではない。それでも、今までのような関係とは違ってしまった。それはもう仕方のない事なのだ。
やるべきことはもう決まっている。後は歩き出すだけなのだ。
真司はビルの全貌が目に入る位置まで後退し、世話になったビルに向かって静かに一礼をした。
***
次の日にはバイトをやめさせてもらい、家具を売り払った。部屋も明日付けで出て行く事を話し、退去の相談を行った。
清人に連絡を取ると、迎えに行く、と返答があり、とうとうこの町を出て行くのだと実感が湧いてきた。がらんとした部屋に寝転がると、思い出すのはチームで過ごした日々で、意外とチームのことが好きだったんだな、と真司は呟いた。
当日、真司の荷物は段ボール一つとボストンバックだけだ。大家の立ち会いで退去手続きを行って、迎えに来た清人の運転する軽トラックの荷台に乗り込む。助手席には斎が座り、窓を開けて気持ち良さそうに風に吹かれていた。
次第に遠くなる町並みを真司は心に刻み付けるように、精一杯目を見開いていつまでも、いつまでも町を見続けていた。
やがて、見知らぬ風景が広がり始めると、真司は新しい生活に胸を躍らせた。現金なもので故郷を去る事は難しくとも、やはり新しい生活と言うものはなんでも心躍るものだ。無機質なビルの多い青竜胆町とは打って変わった住宅街の雰囲気は、穏やか過ぎて真司は少しくすぐったさを感じた。
「ここはなんて町なんだ?」
「橙壇原町。今日は車で来たけど、青竜胆町までは電車で二十分って感じかな」
電車で二十分。どうも中途半端な近さだ。いつでも帰れる代わりになかなか決心がつかなそうだ。
「もうすぐ着くよ」
そう言われて真司は荷台の上で立ち上がった。一般的な家々の中に一つだけ異様な雰囲気を放つ門が見える。本能というか、真司の中の何かが警告を発した。
門が近付く。どうか通り過ぎてくれ、と念じた真司の思いも虚しく、トラックは門の中へ入った。
「………………これは?」
どう見ても人が住んでいるようには見えない荒廃振りに真司は言葉が出なかった。
「賀茂井相談事務所。……通称、幽霊屋敷」
立派な日本家屋と広大な日本庭園があったのであろう場所は草木が生え放題で、家にも蔦が這っている。外からは明かりも見えずに人の住んでいる気配は見えない。……なんの冗談だろうと思ってしまう。
「斎くんは目が見えないし、僕はめんどくさがりでね。妹は家を空けがちだから、どうしてもこうなっちゃうんだよね」
ははは、と陽気に笑う清人の後ろ姿を信じられないものを見るような目で見つめるが、状況が良くなる訳ではない。
「ほら、早く荷物持って来て、迷うよ?」
家の中でどうやって迷うというのか、真司はすでに清人について来た事を後悔し始めていた。
「まずは、……掃除か」
「やった。……そういってくれると思ったよ。そうだ。修行の始めに忍耐力をつけようか」
「取って付けたように言いやがって……」
飄々と言ってのける清人に溜め息をついて、真司は青竜胆町にいる仲間たちへと思いを馳せた。