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自室に帰り、布団に斎を寝かせて服を脱がせると、身体のあちこちに切傷や、腫れ、何かで締め付けられた鬱血痕が残っていた。切傷には化膿止めを、腫れには冷湿布を処方し、安静にさせる。寝息は穏やかで、うなされている様子はなかったが、これだけの傷を負った身体は休息を必要としているようだった。
「とにかく、あいつは何なんだ」
僅かな邂逅ではあったが、真司が危機感と違和感を覚えるには充分な時間だった。
自分自身のあり得ない跳躍と、人間らしからぬ男の体質。男は斎を『こちら側の人間だ』とのたまった。彼にそう言わせる事情が二人の間にあるのだ。
早く、目覚めないだろうか、真司はそんな事を考えながら、瞼を覆い隠す斎の前髪をそっとどかした。
結局、斎が目を覚ましたのは至極簡単で、部屋に響いた携帯の着信音を聞くなり彼は緩慢に身体を起こした。主人に呼応するようにヌイも身体を起こし、斎の方へ身体を寄せる。それを拒否せずに彼はヌイの頭を撫でながら、手探りで携帯を探した。
携帯は彼が常備しているディバッグの中から聞こえており、真司は斎の手元へそれを引っ張ってやった。
「ありがとう、真司」
さらりと自分に言われたお礼にも、真司はもう驚かない。言い方を変えれば、開き直ってきたというか。少しくらい不思議なことが起きても驚かなくなっていたのだ。
斎も目を覚ましたのだし、何か飲み物でも用意するか、と真司は腰を上げる。
台所でコップや何やらを準備していれば、そういえば数日前にも同じような事をしたなと真司は懐かしく思った。思えばあの時から全てが動き出したのだ。
「真司」
「のわぁっ!」
これも彼の日の繰り返しだったが、異なるのは斎が真司に向かって携帯を差し出していたことだ。
「所長が真司に話があるんだって」
「所長って……」
「この仕事を受けた、僕が所属する事務所の所長だよ」
そんな人が見ず知らずの自分に何の用だと不審に思いながらも、真司は携帯を耳に当てた。
「もしもし?」
『お、やっと出てくれた。シンジくん、だっけ? 私は賀茂井相談事務所、所長の賀茂井清人です。以後お見知りおきを』
勢いに圧倒されながらも真司が返事をしたが、電話の向こうの男は果たして聞いていたかどうか。
『それで早速なんだけど、斎くんをもうしばらくそちらにいさせてもらってもいいかな? 後で斎くんから話してくれると思うけど、獏を追うには今回そちらにいた方がやり易いらしいんだ』
「ばく……?」
『ということでよろしくね』
聞き慣れないフレーズに真司は思わず聞き返したが、電話の相手――清人からの回答はない。斎に聞け、とそういうことだろうか。向こうからは情報の一切を発信しようとはしていないのが分かって、真司は若干苛ついた。お前は何も知らなくていい、と言外に言われているようなものだ。
「ちっ、……とりあえず、その獏って奴を捕まえりゃあいいんですね」
相手の声の感じからして、年上であろうと予測した真司は丁寧語を用いたが、それも形だけの役割しか持っていない。
『舌打ち、聞こえたけど、……まぁ、いいや。協力はしてくれるんだね?』
「さっきからそう言ってんすけど」
持って回った言い回しに苛々しながらぶっきらぼうに吐き捨てれば、受話器の向こうからは抑えた笑い声が聞こえた。
『うん、若いっていいね。その調子で頑張ってね。じゃあ、斎くんに代わってもらっていい?』
話は終わったとでも言うような台詞。実際にそうなのだが、真司は自分自身を軽く見られたような気がして不機嫌なまま、斎に携帯を押し付けた。
「清人さん、いちいちからかわないでください」
『いやぁ、久しぶりに面白そうな子だからさ。……危なくなったら必ず、連絡するんだよ』
「はい」
一息吐いて真剣な声を出す清人に斎も気を引き締めて返事をした。それほどに危険を伴うのだ。
電話を切って携帯を閉じれば、ヌイが待っていたように斎にじゃれついた。
「さっきはお疲れさま。ありがとう。ヌイ」
腰を屈めてヌイの背を撫でる斎の声は安堵に満ちていた。そんな姿を後目に真司は紅茶を入れ、斎を居間に促す。
ローテーブルの回りに腰を落ち着け、真司はやっと息を吐いた。
「身体は大丈夫か? 一応、怪我の手当はしておいたが」
「そこら中痛いけど、なんとか大丈夫みたい。……真司はどうしてあそこにいたの?」
「あぁ、そうか。あの時は気絶してたんだっけな」
斎は真司の戦いを見てはいないのだ。話すべきかどうか悩んでいると、斎の膝に頭を乗っけていたヌイが小さく鳴いて己の存在を主張した。
「そっか、ヌイに聞けば良かったんだ。真司、ちょっと待ってて」
斎はヌイの頭を数回撫で、手はそのままに息を整える。ヌイはゆっくりと目を閉じ、斎はゆっくりと『目を開いた』。
瞼は傷で開かないはずなのに、どうしてそんな風に思ったのかは分からなかった。何分かした所でヌイが身体を動かし、斎も手を離した。
「ヌイが嘘を記憶してるなんて、考えられない。でも、……そんなことって」
斎の顔はすっかり青ざめてしまった。痛みがぶり返してきたのだろうか。
「斎、まだ病み上がりなんだ。休め。急がば回れっていうだろ。今は身体を治すのが先決だ」
「ううん、そうじゃない。真司、君、一体何したの?」
「何って、……」
何を聞かれたのか分からない真司は聞き返すことしか出来ない。
「なんで獏と闘えるの?」
「獏って、あの執事みたいな奴か?」
「そう。あいつは夢を食うんだ。だから、獏って呼ばれる。あの時、あの空間は獏に支配されていたって言うのに、なんで君はあんなことが出来たの?」
「知らねぇよ。あんときは頭に血が上ってて、あいつだけはぶっ飛ばす、って思って飛んだら、あり得んくらい飛んで。でも、闘い方には迷わなかった。……何でだろうな」
「知らないよ。それは俺が聞きたい」
斎がカップに口をつけると二人の間に沈黙が流れた。
「とにかく、今は獏を追うよ。協力してもらえる?」
「あぁ、何にせよ、解決しなきゃ意味がないからな」
「ありがとう」
そっと微笑んだ斎の笑顔は顔の傷など気にさせないほどに柔らかく、真司はティーカップに添えた手の力を強めた。
「よろしくな。斎」
「うん、こちらこそ、よろしく」
「そう言えば、お前に投げられたの、地味にショックだったんだけど。どういう訓練してんだよ」
数日前の事を引っ張り出して問えば、斎は困ったように笑った。その笑い方は何となくムカついたが、この際、真司はそれをスルーした。
「誤摩化すなよ」
「いや、言っても分かってもらえるか。どうか」
「聞いてみなきゃ分かんないだろ?」
あぐらをかいてにやりと笑ってみせれば、斎は諦めたように口元を緩める。こういう時は本当に目が見えていないのか、分からなくなる。
「ご覧の通り、俺は目が開かないようになってる。その所為か、普通の目には見えないものが見えるようになっているんだよ。俺の場合は人体を生成する精神体が見えているみたいでさ。ほら、よくオーラを感じるとか言うよね。一般的に使われる例としてはきっと気配とか気迫とかなんだろうけど、俺にははっきり見える。だから、生きているものには大体ぶつからずに歩く事ができる。襲ってくる奴らは特徴的な色で見えるから、分かりやすいんだ」
「じゃあ、ヌイ必要ないんじゃないのか?」
「まぁ、歩くだけなら不便はないけど、映像が一つもないのも考えもので、ヌイには俺の目の代わりをしてもらっているんだよ」
斎の膝に顎を乗せて完全にくつろぎモードのヌイの頭を撫でてやりながら、彼は話を続ける。
「さっきは君と獏との闘いを見せてもらったんだけど、ヌイと記憶を共有する事によって、この子が見た事を、ヌイの視界を通してだけど認識する事が出来るんだ」
「記憶の、共有、ねぇ」
「ヌイはずっと俺と一緒にいて、それなりの特訓をしてきたから出来ることでもあるんだけどね」
ほわほわと笑う斎はそれなりに整った顔をしていて、顔の傷がなければさぞかしモテるんだろうな、と思うと、なんとなく腹が立って、真司は乱雑にローテーブルを斎の前からどかした。
「とりあえずお前は寝ろ。少しでも体力付けといたほうがいいだろ? 作戦会議は明日するぞ」
真司は斎の手からカップを取り上げ、そして広くなった居間兼寝室に斎を寝かせた。
真司は斎が寝たのを確認すると、携帯を持って部屋を出た。幹部たちに連絡を取るのだ。
先ずはネコに。長く呼び出し音を響かすが、気付かないのか、出る気配がない。元々ネコの生活は不規則で、もしかしたらただ出られないだけかもしれないのだ。留守番電話サービスに切り替わった所で真司は諦めて電話を切った。
対してチヒロには直ぐに連絡がつき、事情を話すと呆れたような溜め息が返ってきた。
『やっといつもの調子に戻ったっていうか。やっぱり……』
「ん? どうした?」
何か考えているような間に真司は尋ねたが、チヒロからの返事はなかった。
『何でもないよ。報告はまだいる?』
「あぁ、明日事務所で聞く」
よろしく、と結び、真司は電話を切った。もう一度ネコに電話をかけた。これで出なければ、明日に回そうという算段だった。
所が意外にも早い段階で回線は繋がった。
『もしもし……?』
出た声は低く、いつものようなテンションの高いネコは何処にもいなかった。
「……ネコの携帯、で間違いない、よな?」
『え、あっ! シ、……っ!』
ガタゴトと物音。ガヤガヤと後ろで聞こえるのはクラブの喧騒か。沈黙のまま、声は聞こえず、しかし、繋がっている為に回線は切れずに、真司は携帯を耳に当てたまま黙って待った。
『シンちゃん! 急にかけてこないでよぉ。メッキ、剥がれちゃうんだから』
静かになったそこで聞いた声はいつの間にか、いつものネコに戻っていた。
「メッキ、なのか?」
『あぁもぉ、何でもいいよ。で、何さ?』
「お前が見た執事みたいな売人を捕まえることになった。明日事務所で作戦立てるから、って連絡だ」
『あぁ、そぉいうことね。りょーかい。分かったぁ。明日、事務所行くね』
「ちょっと待て。……お前さ、どっちが本当なんだ?」
テンションの高い普段と、先程の不意打ちのような声。どちらが作られた存在なのか。果たしてチームにいることで彼に無理をさせているのではないか。モモに続き、普段見せない部分を垣間見せたネコに真司は尋ねざるを得なかった。
『さぁ、どっちでしょ? 無理はしてないから、大丈夫だよー』
「本当に大丈夫か?」
『ボクが大丈夫って言ってるのー。……信じてよ』
「そう、だな。分かった。忙しいとこ電話してすまんかったな。じゃあ、また、明日」
『うん、じゃあねぇ』
回線が途切れ、静寂が場を支配する。改めて感じた。モモもネコも自分のテリトリーを広げ、その中で自己を確立している。
動いていないのは、立ち止まっているのは、自分だけだ。
不意に吐き気に襲われた。込み上げる胃液を呑み込めば喉が焼かれた。
俺はここにいていいのだろうか。ほろりと口から溢れたのは真司の心の奥底に巣食う恐怖だった。
***
ルイの夢の中はすでに元の姿では無くなっていた。
薄暗い部屋の中。壁には斬りつけた痕と穴があり、ベッドのマットレスは中身をぶちまけている。
『随分、荒れているね』
「ん、……」
カッターを大事そうに持って、ルイは虚ろな目をバクに向けた。
「あんたが、あんな事言うから」
『あんなこと?』
「シンジさんが、いなくなるって」
『それは、君次第だと思うけどね?』
くすくすと笑う。ルイは壊れたままだ。
『でも、本当に、シンジが自分で出て行きたいと言った時はどうするの?』
「……それならいいけど、でも、一応、あの人は殺しておきたいなぁ」
『あの人、……って一緒にいた彼のことだよね』
「そうです。あの人に連れて行かれるのだけは、嫌だ」
ゆらりと立ち上がるルイは、バクを見つめ、彼の方に足を動かした。なんとなくおぼつかない足取りでバクに近づき、彼の服の袖を掴む。
「俺は何をしたらいいんですか?」
『彼を少し妨害してくれればいいよ。後、君の夢を貸して欲しい。私の本来の力を発揮出来るのは夢の中だからね。彼を君の夢に誘導させればいい。その為には君の意識を無理矢理夢に引きづりこまなくちゃならない。いいかい?』
「何でもいいです」
従順に頷く彼に、バクはひっそりと溜め息を吐いた。ここまで、壊す気はなかったのに。
「みんなが事件の為に動いてます。俺が関わっていることも分かっているはず。今更元になんか戻れないから」
『何でそう思うの?』
「アキタさんに会いました。それで、あなたのことを聞かれたんです。いつ見てたのかは知らないけど、あんまり関わらない方がいいって」
『それで君はなんて答えたの?』
「俺の事を分かってくれる人です、って言っておきました」
『それは、……お褒めに預かり光栄だね』
少しだけ、部屋の空気が変わった。精神が回復の兆しを迎えているという事だろう。
「アキタさんまで、動いているなんて。あなたのことをどの程度知っているかは分かりませんが、怪しいと思われているはずです」
『なるほど、この恰好だし、怪しいのは仕方ないだろうね』
燕尾服の裾を持ち上げて、笑う。確かに、青竜胆町では異色を放つ衣装だ。
『彼らはきっと、クラブで私を捕まえようとするだろうね。その方が確実だ。それに君がいる。君たちのチームの縄張りはオアシスが近かったね。……あそこは木曜日に行っていたな。今日は火曜日。決行は早くて明後日だね』
「明後日に、俺はオアシスに行けばいいんですね」
『きっと、中で私を見つけるだろうから、私を追う人を捕まえて欲しいんだ。きっと向こうは彼を持ってくるだろうね。外から来た、彼を』
「あいつが、来る」
暗く澱んだ瞳が、バクを見上げた。これが、ルイの原動力となる。彼はこれから、自分の為に他人を犠牲にする。今の状態ではその後のことなど考えてもいないだろうが、本当に目的を果たした後、彼は壊れてしまわないだろうか。壊れてしまうのなら、その前に夢を味わっておきたい。しかし、それは契約違反だ。
「なに考えているんですか?」
『……君の夢が食べたいなぁと思って』
「食べたらいいじゃないですか。俺はクスリやってる訳じゃないし、普通に過ごしている分には人の夢は無限、なんでしょう?」
『覚えていたかい。やっぱり君は頭がいい』
思わず、バクはルイの頭を撫でた。小動物に対する愛情のようなものだが、もう成年に近い彼のことだ。恥ずかしがったりするだろうかと思いきや、存外大人しく、頭を撫でられている。
『こうされるの、好きなのかい?』
「普段は、嫌い。でも、バクさんのは、好きです」
ふわり、と空気が軽くなり、夢の部屋が修復されていく。落ち着いてきたようだ。普段の彼に戻っていくのだろう。
『今日はこのまま寝てしまいなさい』
「夢は……?」
『君が起きる前に食べてしまうよ』
「そう………、良かった」
ルイの瞼がだんだんと下ろされていき、やがて完全に意識を失った彼は、バクに寄りかかるように眠ってしまった。それと同時に部屋の輪郭がぼやけていく。次はもっと意識の深い所に新たな夢のフィールドが作られるのだ。
『ゆっくりお休み、ルイ。明後日は君を酷使する事になるから』
ベッドにルイを横たわらせて、バクは彼の髪を梳く。輪郭がぼやけて消えてしまうまで、バクは飽きずにルイの傍にいた。