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目前にずっと感じていた獏の気配が突然、ふつりと姿を消す。
「見失った?」
ぴたりと足を止めてしまったヌイの頭を、撫でてやりながら斎は溜め息を吐いた。
真司と別れ、獏を追いかけたはいいが、簡単にはその痕跡を掴ませてはくれない。
追いついては交戦を繰り返していたが、もう体力も限界に近い。しかし、それは獏にとっても同じ。いや、獏の方が、消耗が激しいはずだ。
「どうしようか。……一旦、休もうか?」
腰を下ろしてヌイの顎をこしょこしょとくすぐってやれば、ヌイは気持ち良さそうに目を細めて鼻を鳴らした。
「こんな所で何してるんですか?」
尋ねられた声に斎が顔を上げる。彼は実際に見る事は叶わなかったが、そこには斎と背格好が同じくらいの青年が立っていた。
「……ちょっと疲れただけなんです。ありがとうございます」
「この町って結構物騒なので、気をつけてくださいね」
よいしょ、と呟く青年の言葉を聞いて、斎は彼が誰かを背負っているのだろうと感じた。
青年が去る気配を感じながら、斎は集中して周囲を探ってみたが、もう獏の気配を感じる事は出来なかった。
***
ルイは青年を背負い、自宅への道を歩く。
青年はルイよりも上背があり、意識がない所為で重たくのしかかっていた。
「もう、急に落ちないでくださいよ」
「だって、君、私はさっきの彼に追われていたんだよ? 隠れなければ見つかってしまうだろう」
「………急に復活しないでください」
独り言のつもりだった言葉に返答が返り、ルイは一瞬背負った青年を落としてしまいそうになった。
ルイが斎に声をかける数分前。
ルイは予備校からの帰り道を歩いていたのだ。そうしたら、向かいから走って来た青年がルイの肩を掴んでこう言った。
「ちょっとかくまって」
その瞬間、彼の体から力が抜け、ルイはその体を慌てて支える事になった。誰かは分からない状態ではあったが、彼が意識をなくす瞬間に聞いた声だけは聞き覚えがあった。
「バク、さん?」
聞いた言葉に返答は返ってこない。しかし、かくまってと言われた手前、放っておく訳にもいかず、ルイは青年を背負うことにしたのだった。
しばらく行った所で、もう一人、見慣れない格好をした青年が道ばたで犬と戯れていた。
こんな夜遅くに出歩くなんて正直関心は出来ないなと思いつつ、ルイが声をかけたのが斎だ。
「こんな所で何してるんですか?」
尋ねて顔を上げた斎の目をルイは見る事が出来ない。不審に思いながらも、少しだけ会話をして、ルイは再び歩き出したのだった。
「何でこの前と顔が違うんですか?」
燕尾服を着た人間を背負うのはなかなか無い経験だと思ったが、それよりも気になるのはバクの顔だった。明らかに昨日会った時と顔が違うのだ。その所為で、ルイは先程もバクであるという確証がないまま、青年を背負う事になったのだ。
「それは、まぁ、……話すと長くなるんだけど。その前に、君の中にお邪魔してもいいかい?」
「……一応、両親は出稼ぎ中だから、部屋は空いてますけど」
生真面目な顔でそう返せば、バクはルイの肩口に顔を埋めて肩を震わせた。
「あはは、そういう意味じゃあないんだけどね。この身体も返さなくちゃいけないから、そこ、右に曲がってもらっていいかな」
「っていうか、起きてるんなら自分で歩いてください。俺はそんなに体力ある方じゃないんです」
地面に降り立ったバクは背筋を伸ばして、腰を回した。
「いやぁ、疲れた。やっぱり、物質世界は制約が多いね」
「物質世界……?」
「その話は落ち着いてからにしよう」
「すぐには話してくれないんですね」
「寂しいかい?」
確かにそうなのかもしれない。バクは元々出会い方からして特殊だった。当然、黙っておかなくてはならないことだってあるだろうし、聞いた所でルイが理解できないかもしれない。だからと言って話してもらえないのは、仲間はずれになっているようで、寂しかった。
「でもね、私を君の中にいる人と一緒にしないでもらえるかな」
バクの言葉にルイは背筋がひやりと冷たくなる。いつも何も話そうとはしないシンジの姿にバクを重ねていたのだろう。バクを見れば、彼の瞳は冷めている。何もかもを見通されている気分だった。
「……ごめんなさい」
ルイが頭を下げると、バクは溜め息を吐いた後、ルイの頭に手を置いた。
「謝んなくていいけどさ。どんな人なの?」
「いい人ですよ。すごく。俺みたいなのをチームの幹部にしちゃうし、喧嘩できない人でも、夜出歩かなきゃいけない人はチームに入れちゃうし。……でも、入れるだけなんです。問題が起きない限りは放置だし。あんまり、みんなに会おうとしません。新しく入った人の面倒を見るのは全部、他の幹部の人がやってます」
「……ルイは、その人にどうして欲しいの?」
改めて問われると返答に困る事に気付く。自分はシンジさんにどうして欲しいのか。
「かまってもらいたいのだったら言わないと。黙ってても分からないよ」
かまって、もらいたかったのだろうか。ルイは自問してみるも、今すぐに回答は出そうになかった。その間にバクは先を行っていて、立ち止まったままだったルイを待っている。
「おいで。話が聞きたいんだろう?」
ルイの前に再び手のひらが差し伸べられる。あの時は、裏切らないから、と言われたんだっけ。と頭の片隅で考えた。この手を取れば、少しでもシンジに近づけるだろうか。
新しい世界に足を踏み入れる。勇気を出さなければ、何も変わらない。ルイはそう決意して、今度は躊躇わずにバクの手を取った。
「教えてください」
「いいよ。まずは身体を返さなきゃね」
バクはそう言って、そこからすぐにあったアパートの一室に入った。“彼”はどうやら一人暮らしらしく、狭苦しい部屋に申し訳程度に家具が置かれているだけだった。バクは手慣れたように洗濯物の中から、スウェットを探し出して着替え始める。ルイは手持ち無沙汰になり、周りを見回してみるも、おもしろそうな物はこれと言ってなかった。
「……ちょっと横たわってもらえるかい?」
スウェットをまとい、完全にくつろぎモードになったバクに言われた通り、ルイは布団も引いていないフローリングの床に横たわった。肩甲骨が床に当たって痛い。
「目を閉じて、ゆっくり息をして。すこし、眠ってもらうから」
バクの声は心地よく、眠気が誘われてきたが、知らない場所で眠るというのはさすがに警戒心が沸き上がる。
「大丈夫。変な事はしないから」
「そう、いうんじゃ……なくて」
眠気で閉じてしまいそうな瞼を必死に持ち上げて、ルイはバクを見上げた。にこにこと人好きのする笑顔を見ても今は胡散臭いだけだ。
「分かっているよ。目が覚めたら港だった、なんてこともないから。安心して、お休み」
瞼に手を置かれて囁かれる。もう、我慢も限界だった。やっぱりついていくんじゃなかった、と若干の後悔を胸にルイの意識は眠りへと落ちていった。
***
『ルイ、起きて』
肩を揺すられ、声をかけられて、ルイはゆっくり目を開けた。
「あれ? いつの間にウチに?」
一番に目に入ったのが、見慣れた天井。身体を起こせば、どう見ても自分の部屋だった。
いつの間に運ばれたのだろうと、ルイが考えていると、軽く肩を叩かれた。振り返ってみれば、そこにいたのは見ず知らずの男だった。
『ここが、君の魂の寄る辺なんだね』
「バク、さん?」
声だけを頼りに、顔の違う男に同じ名前を聞くのはこれで二回目だ。果たしてどれが本当なのか。ルイは理解に苦しむ。
『この姿も私の本当の姿ではないよ』
心の中をのぞかれたような、そんな気分がしてルイはざわつく胸元を掴んだ。
『私は夢を食らうイキモノだと言っただろう? 元々私に実体なんて無いんだよ。今の姿はこうやって人の前に姿を現す時に使う擬態だよ。一応、ハンサムに見えるようには設計してあるはずなんだけどね』
「俺、いつの間に運ばれたんですか?」
意識がなくなっている間に場所を移動しているという事は一種の恐怖だ。その間に何が起こったのか検討もつかないのが余計に怖い。しかし、バクはそんなルイの恐怖を感じていながらも口元は笑みを作ったままだった。
『いや、君はまだ、あの部屋にいるよ』
「でも、ここは俺の部屋です」
『だから、此処は現実じゃない』
バクは手近にあったノートを丸めて握りつぶした。現実であればぐしゃりと音を立てて、潰れるだけのそれが、なんとも気の抜けた音を立てて、バクの手の中でしぼんだのだ。まるで、ふくらんだ餅がしぼむ時のような音だ。
『何となく分かってもらえたかな』
急には無理だ。まだ、考えや感覚がついていかない。
『すぐには無理だよね。まぁ、徐々に慣れればいいよ。所謂ここが、精神世界。反対に私が言った物質世界という世界が、普段君たちが生活している世界だね。君が夢を見ているときにも、時折こちらにアクセスしているんだ。朝起きて、朝食を食べ、外に出た所で目が覚めて、夢だったと気付くなんてこと、経験したことないかい? それは、気付かないうちに此処にアクセスして、生活を行って、外界的な要因、つまり目覚まし時計だったり、電話だったりで目を覚ます。寝ている最中にここで活動を行う事は結構あるんだ。……普段は覚えていないだけでね』
そこで一端、バクは言葉を切り、部屋の床から、椅子を作り出した。
「……っ!?」
椅子が出現した途端に、ルイは激しい頭痛に見舞われた。
『ごめん。君の無意識にお邪魔させてもらったよ』
「無意識……?」
『そう。君、この椅子どこかで見覚えないかい?』
まじまじと椅子を見ると、それはいつも座り辛く感じていた予備校の椅子だった。
『あるみたいだね。無意識の中にはこうした情報がまるで広大な海のように漂っているんだ。私は君の無意識の中にある椅子のイメージを掴んで無理矢理ここに具現化した。だから、頭痛がしたんだ。でも、君が自身でイメージを作り出すのは簡単だよ。例えば、そうだな、空を作ってみようか。空をイメージしてみて』
ルイは目を閉じて、空を思い浮かべてみる。目の前にバクがいる所為だろうか。ルイが思い浮かべたのは、バクと初めて会った日の朝焼けだった。
目を開いた其処はもう、自分の部屋ではなかった。朝焼けが輝く、事件現場のビルの前に二人は立っていた。
『どうだい? 頭痛はしないだろう?』
「……はい。でも、ちょっとだるいです」
『ここまで再現するのは少し大変なのかもしれないね。で、ここまで話したのは、君が聞きたいって言ったのもあるけど、実は、お願いがあるんだ』
「なんですか?」
初めて認識した世界の中で突然『お願い』などと言われれば、ルイでなくとも躊躇はしただろう。それに相手はどうも読めない相手だ。警戒しない方がおかしい。
『特に何をやれってことじゃなくてね。ただ、少しかくまって欲しいだけなんだ』
「さっきも言ってましたね。」
『そう、さっき君に会ったとき、かくまってって言ったでしょう? 追われているとも。私のやり方はどうも君たちの考え方とは合致しないみたいでね。よく追われているんだよ』
「でも、バクさんはこの精神世界の人なんですよね。だったら、こちらにいればいいんじゃないんですか?」
『いや、厄介なことに、彼らもこちらに潜れるんだよ。自分の意思でね。私の痕跡があれば、引きづり出されてしまう。今は彼が単独で動いているからそれほどの脅威ではないんだけどね。本格的に動き出されると危ない。だから、君の無意識領域を貸して欲しいんだ』
無意識を貸す、などと考えた事はなかった。無意識という自分では確認する事の出来ない部分を貸したとして、心配なのは自分への影響だ。
『私が暴れ出さない限り、君の意識に問題はない。それに君が望めば、ここで会えるようになるよ。それから、君の夢には一切手を出さないでおこう。夢を食べると言う事は結構な影響を人に与えるからね。君が変わってしまうのは忍びない』
「影響は、無いんですね」
『あぁ、約束するよ』
「じゃあ、……使ってください。俺の、無意識を」
自分を助けてくれたバクの為だから、今度は自分がバクの役に立ちたいとそう思ったのだ。
『ありがとう。これからは君の傍にいよう』
その声を最後に、ルイの意識は遠のき、白く、拡散した。
***
再び目を開けると、そこはまだ、自分の部屋ではなくて、本当の意味で先程体験していた時間が本物であり、夢である事を実感した。
「あんたも、バクに誘われたクチか?」
男の声にびくりと肩を震わせる。そこにいたのは、先程まではバクであったこの部屋の住人。これが本来の彼なのだ。バクとは声の印象も喋り方も違う。もう、バクはここにいないのだ、とルイは実感した。
「俺は、誘われたというか、助けてもらいました」
「ふぅん。あれが、人助けねぇ」
「えと、……帰ります。お邪魔、しました」
「変なおじさんに声かけられてもついていっちゃダメだよ〜」
「茶化さないでください!」
男の軽口を一蹴し、ルイは部屋を飛び出した。
もうすぐ成人するというのに、相変わらずチームでも子供扱いだし、今のようにからかわれることもたびたびある。何が足りないのだろうと、唸りながら、ルイは自宅への道をずんずん歩いた。空には雲一つない綺麗な満月がルイの足下を照らしていた。