病いの中で
体調は悪かった。
もうここでは何もできることはないと、通院していた病院から新しく開設されたと紹介されて、送られた療養施設は洋館で、どうやら新しく建てたのではなく、空き家になっていた別荘か何かを買い取り、そこを使っているようだ。
実験的に開設したらしく、料金は無料だと言うので、ならばそれでと安易に選んだ場所だった。
まさかこの歳でこんなことになるとは思ってもいなかったので、これまでの治療のこともあり、もう貯金も底をついていたのだ。
あいにく体が思うように動かないので、その不必要に豪華な洋館の内装を堪能することもできずに、久司は終日腕に点滴を刺されたまま、部屋のキングサイズのベッドに横になっていた。
腕には、久司の様子をどこかにあるだろう、ナースステーションにでも送っているらしい、銀色の金属の時計のような物が巻かれている。
本来そこまで悪くはないのだが、身体中に漂う倦怠感が半端ない。
トイレに立つ時に窓から見える景色は、ここがかなりの山奥なのが分かるだけで、ここがどこなのか全くわからない。
そもそもここへ来るまで、介護タクシーに乗せられて横になっていたので、道すら見ていなかった。
ただ、かなり揺れたので、道が悪かったことだけは久司にも分かった。
しかも、長い時間揺られていたので、途中さらに気分が悪くなって最悪だった。
とはいえ、到着した部屋はとても広く、一人で使うのはもったいないほどだ。
天井からはアンティークの控えめなデザインのシャンデリアが吊り下がっている。
床はふかふかの絨毯敷きで、一度倒れた時も全くダメージは負わなかった。
一応、ここは緩和ケア専用の場所だと聞いているので、具合が良ければあちこち歩き回っても良いようだったが、久司はあいにく着いてからずっと、身動き取るのも億劫で、食事も部屋へと運んでもらっていたので、他の患者に会うこともなかった。
会うのは、定期的にやって来る医師の男だけで、外国人のようだが流暢な日本語を話すので、問題なく意思疎通はとれたが、そちらも話す気力もないので、事務的なやり取りしかしていなかった。
トイレに立つことはできているので、歩こうと思えば歩けるのだが、そんな気力も湧かない。
そもそもここは山奥なので、電波も届かないのかテレビも部屋に設置されていなかった。
自分の携帯電話も、ここへ来る時解約してもらっていて、誰に連絡を取ろうと言うのでもない。
…このまま、死ぬんだろうな。
久司は、そう思いながら大きなベッドの天蓋を見つめていた。
そこへ、いつもの医師が入って来た。
そろそろ点滴が無くなりそうなので、夜のために交換に来たのだろう。
久司が黙っていると、相手は言った。
「久司さん、今夜は新しい薬を投与しますね。」相変わらず、分かりやすいハッキリした、日本語だ。「これでかなり楽になるはずです。動けるようになったら、積極的に動いた方が良いですよ。お風呂も入る事ができるし、生活が変わります。このままだと寝たきりになって、トイレにも行けなくなるので管を通すことになりますし。しっかり動きましょう。他の患者さん達も、頑張っていますからね。」
医師はそう言うが、この気だるさでは何もする気が起こらないのだ。
痛みはないが、この癌という病は厄介だった。
しかし、久司はふと、思った。
他の患者…。
「…他には、何人がここに?」
医師は、作業をしながら答えた。
「ここは実験的な療養施設なので、他に17人の患者さんが居ます。久司さんは二階の部屋に居て、ここは2号室です。二階には10室、3階には8室入居しています。皆同じ部屋の造りです。」
ということは、この大きな洋館にたった18人しか居ないのだ。
医師は、作業を終えて、言った。
「…では、これで。これは、かなり高価なお薬ですので、まだ一般の方は使えなくて。被験者として無料でお使い頂けるんですよ。」
被験者?
ということは、認可前なのではないのか。
久司は思ったが、もう実験台にしやがってとは、言う気力もない。
ただ頷いて、そしてなにやら寝苦しい中、その夜はそのまま、目を閉じたのだった。
次に目が覚めたのは、窓から差し込む明るい日射しに気付いたからだった。
…久しぶりに良く寝た。
久司は、ここのところ必ず夜中に何度も目が覚めて、なかなか寝付けじに寝返りだけを繰り返す毎日だったので、それだけでもスッキリした気持ちだ。
ふと脇を見ると、点滴の管が台に巻かれて外されている。
え、と驚いて腕を見ると、そこにはガーゼが当てられてあるだけで、もう針は刺さっていなかった。
…ここへ来るまでも、外せなかったのに。
久司は、久しぶりに身軽になった気がして、恐る恐る起き上がった。
体が、驚くほどに軽い。
そのままトイレへと向かったが、少しふらついたものの、眩暈も何もなくサクサクと動く事ができた。
何より、あれだけ痛み止めを常に投与してもらわないと、すぐに激痛に襲われていたのに、今は何もないのだ。
…新薬とか言っていた。
久司は、ふと思い出した。
あの医師は、これでかなり楽になるはずだと言った。
かなり高価な薬なのだとも…。
…動いた方がいい。
久司は、思って回りを見回した。
広くて億劫だった部屋も、こうして見ると終の棲家としてはかなり豪華でラッキーだ。
この上は、この建物がどんな場所なのか、見ておかなければならないだろう。
食事は、一階のキッチンに行ってそれぞれ好きに摂るようにと最初に言われていた。
それなのに、無理だと部屋へと運んでもらっていたのだから、ここは頑張るべきだろう。
壁際にある金時計は、9時半を指していた。
久司は、恐る恐る扉を開いて、廊下を見てみることにした。
すると、廊下には若い可愛らしい女性二人と、歳が近そうな男性一人が立っていて、扉から顔を覗かせた、久司に気付いてこちらを向いた。
…患者?
久司は、咄嗟にそう思った。
なぜなら、全員の腕に自分と同じ銀色の腕輪と、点滴の痕があったからだ。
「…あれ、初めましてですよね?」女性の一人が口を開く。「なんだか具合が悪そうな人が居る、って噂になっていたから。お顔を見るの初めてだもの。」
隣りの、女性も言った。
「そうね。ええっと、私は聖子。こっちは芽依。私達、ここに入院してるんです。」
隣りの男性も言った。
「なんだ、大丈夫そうだな。歳が近そうで嬉しいよ。オレは拓也、三階の14号室なんだ。朝飯行くのに降りて来たら、二人が居たから話してた。君は?」
久司は、答えた。
「なんか今朝は凄く調子が良くて。点滴が外れたのもいつぶりだろうって思う。オレは久司。歳は30。近いかな?」
拓也は、笑った。
「ああ近い!オレは32。こっちの二人はもっと若い。二人とも、23歳なんだ。」
マジか。
久司は、ショックを受けた。
自分も大概運がないと落ち込んでいたが、この二人はもっと若いのだ。
それでも、確かに顔色はあまり良くないし、とても痩せてはいた。
明るく見えるが、そう振る舞っているとしたら確かにそうだろうと不憫に思えて来た。
芽依が、言った。
「そんな目で見ないで。確かにここへ来る時は絶望してたけど、聖子ちゃんだって同じだし。何より、ここに来てからとても体調が良くなったの。だから、平気よ。もう治ったかもって思うぐらい。」
治っていたら、医者が退院させるだろうが。
久司は思ったが、頷いた。
自分だって、治ったと錯覚するぐらい今は体調がいいのだ。
拓也が、言った。
「ま、同じ境遇ってことで。よろしくな、久司。オレのことも、気軽に拓也って呼んでくれ。それより、飯に行こう。お前、初めてだろ?いろいろ場所を教えてやるよ。」
とても患者とは思えないほど元気な様子の拓也に言われて、久司は勢い頷いた。
歩いて行く時に、芽依が小声で言った。
「…昨日まではすごくつらそうな時があったの。でも、今日は元気みたい、拓也さん。」
そうなのか。
久司は、やはりみんな頑張っているんだと、甘えていた自分に恥ずかしくなりながら、階段を降りて行ったのだった。