魔王の側近は勇者から逃れたい
店番をしていると見覚えのある男が現れて、カガリは思わずカウンターの下にしゃがみ込みそうになった。
身を隠したい衝動を耐えて、店員として自然な言葉を投げかける。
「いらっしゃい」
若干声が裏返った気もするが、この男に対する反応としては間違ったものではないからそこまで変には思われないだろう。
店の物を物色している男の名はユーグ。人間の世界を魔の手から守った英雄、勇者と呼ばれている。
彼は5年前に魔王の側近の片割れを討ち滅ぼし、魔勢に大打撃を与えた。彼の活躍により魔軍団に押されっぱなしだった人間勢は戦況を巻き返し、今もなお僅かに人間が優勢な状態で均衡を保っている。
彼の出生地の王は彼の功績を大層喜んだ。勇者を持て囃し、国の英雄として重用しようとしたが、ユーグは断った。やることがあるからと。
国のあちこちを回った後は、祖国を出て放浪し始めた。腰を据えるよう求められてものらりくらりと断り続けているようだ。
これらの噂を世間に疎いカガリですら知っているのは、そこらじゅうに勇者の武勇伝を語りたがる人間がいるからだった。
その勇者がこんな田舎町にやってきたのだから、当然町は騒然となった。女たちは一目見ようと列を成し、男たちも武勇伝を聞きたがった。
意外にも勇者は群がる人たちを煩がらずに、親切に対応しているらしい。世捨て人のような生活をしているのだから、人とは関わりたがらないと思っていたが。
そこまで回想して、カガリは自分の姿を確認するためにこっそりと目線を下げた。
大丈夫だ。擬態は完璧にできている。
魔力で人間に偽装し、更に性別も男に見せているのだ。気づかれるはずがない。
カガリは勇者が滅したと思われている女魔将軍だった。
最後の対決のことは今でも鮮明に覚えている。
「坊や、剣なんて無粋なものは捨てて、その美味しそうな魔力を吸わせてくれない?」
カガリの挑発にユーグは何も反応を返さず、静かな目でカガリの目を見据えた。人間がよく向けてくる憎悪や嫌悪等の感情は見えない。魔力を根こそぎ絞り取って、澄ました顔を苦痛に歪ませたくなる。
当時のユーグはまだ20も越えない若造だったが、なんとも魅力的な魔力を持っていた。
人間が魔力を持つこと自体珍しいのに、それが甘美に香っているのだから味わいたくなるのは当然のこと。
味わった後、少しだけ生かしておいてやってもいい。この男はどうやら周りの人間に慕われているようだから、魔将軍に従う姿を見せて絶望を味わせるのも面白い。カガリは自分の想像にうっとりと舌なめずりした。
彼女は己からしたら赤子にも等しい人間の男を侮っていた。だからユーグが無造作に近寄るのをさして警戒もせずに迎えてしまった。
間違いに気づいたのは、突如胸に魔剣が突き刺さった時。瞬きの間にユーグはカガリの懐に入り込んでいたのだ。
彼女は驚きに目を見開いたがすぐに何が起きたのか理解した。腕を鎌に変えて男の首を刈ろうと鞭のようにしならせる。
けれどそれより早く、ユーグのもう片方の手が二本目の魔剣をカガリの胸に突き刺した。今度こそ、カガリは衝撃に血を吐いた。
交差した二本の剣でカガリの体が浮く。剣を血が伝い落ちた。魔剣を通じて魔力を吸い取られ、もがく動きが鈍くなる。
「この若造が……!」
吐き気に耐えるカガリの紅い瞳がユーグを睨んだ。こんな小僧に魔将軍たる私が傷つけられるだと? 許せない。
ユーグは見たもの全てを焼き尽くすような深紅の瞳を静かに見返した。そしてカガリを自分に引き寄せると、その口の端に滲んだ血を舐めとった。
唖然と口を開けた彼女に男は艶やかに笑ってみせる。
「お前は俺のものだ。その生も死も」
「たわけたことを……私は魔王様のものよ!」
吐き捨てると、カガリは残された力のほぼ全てを使って変化した。そして虫の息で何とかその場を逃げ出したのである。
屈辱を味わいながら、文字通り小さな虫に化けて。
ユーグはカガリを仕留め切っていないことに気づいている。
だって、逃げ出すときに風に乗った声が聴こえたのだから。「次に会った時は覚悟しておけ」という声が。
勇者が方々を旅しているのは今度こそカガリを確実に殺すためだという確信がある。
しかし枯渇寸前となった自分の力が戻るまでは魔界に戻れない。そのため人間界で息を潜めて絶対に勇者に見つからないようにしていたというのに。
(どうしてここにいるのよ……!?)
カガリはすっかり及び腰になっている自分に気がつき舌打ちしたくなった。魔将軍と恐れられた姿はどこにもない。
人間に擬態できるまでには回復したが、勇者を前にすると到底敵いそうにないことはすぐわかった。
油断していたとはいえ5年前ですら歯が立たなかったのだ。それなのに、当時の100分の1すらも魔力がない今の状態で、人間として成熟期を迎えているこの男に勝つ手立てはない。
カガリは奥歯をギリと噛み締めた。
(縊り殺してやりたいものを……魔王様の障壁であるこの男を前にして、隠れるしかできないとは情けないこと)
しかし今やるべきは決して正体をバレないようにすることだけ。
幸い今のカガリの姿は5年前とは似ても似つかない。長く野暮ったい前髪で顔を隠し、貧相な体つきをぶかぶかの服で覆っている。どこにも女魔将軍を連想する要素はない。
それを確認して自信をつけたカガリは、店内を興味深そうにゆっくり回る男にようやく店番らしく話しかけた。
「お客さん、何かお探しですか?」
陳列棚には魔法道具が並べられている。食料を温かく保つ箱や、遠隔地と言葉を交換する装置等、魔法が使われている家具が置かれている。
カガリは魔法に少し明るい――とオーナーには思われている――のを買われ、この魔法道具店で雇われていた。
ユーグは声のほうを振り返り、友好的に笑った。人を魅了する笑顔。見かけは爽やかな青年に過ぎないが、5年前のどろりとした声を覚えている彼女は悪寒に背筋を震わせた。
「町外れに面白い店があると勧められたんだ。たしかに他の町では見たことのない機械があって面白い」
「へえ、そうですか」
カガリは勇者に店を教えた町の人間に呪詛を送った。
店にはオーナーが集めた実用品や嗜好品の他に、彼女が自作したものも置かれている。たまに売れると嬉しいものだと、人間じみたことを最近のカガリは思っている。魔将軍の魔力が込められた品だと知ったら、買っていった者どもは恐れ慄きすぐに燃やし去るだろうが。
振り返った勇者は、何故かじっとカガリの顔を見つめた。目の色は擬態しても変えられない。前髪に隠れて見えないと思うが、真正面から目を合わせないように視線を落とす。
「あの、僕の顔に何か付いてますか」
「ああ、いや」
あまりに凝視されるので、自分の顔をぺたぺたと触って確かめたくなる。大丈夫、平凡な男の顔のはずだ。
ユーグは戸惑いを見せる店員に謝った。
「探している人に似ている気がしたんだ。すまない」
(どういう勘してるのよ!)
カガリは空恐ろしくなった。本来の自分は人を惑わせる肢体を持つ妖の女だ。今の冴えない姿のどこにその片鱗を見つけたのか。
震えるカガリを余所にユーグは商品を物色した後、一つ手に取った。
「これを貰おうかな」
「あ、ありがとうございます……」
ユーグが手にしたのはカガリが作った物だ。自分の作った物が勇者の手にあるなんてぞっとしない。
こちらの方がよろしいのではと別の物を勧めたくなったが、下手なことを言うよりはさっさと帰ってもらったほうがいいだろうと思い直し、商品を受け取って精算する。
「作り手は誰だ?」
「さあ、町の人って聞いてますけど」
カガリはすっとぼけた。用が済んだなら早く出ていけと下を向いたまま念じる。
「ありがとうございました。またのお越しを」
「ありがとう」
つい決まり文句を付けてしまったが、風の噂で聞いた話によると勇者はいつも10日ほど滞在したら次の町へ行くという。
ユーグがこの田舎町に来て明日で10日目。旅支度もあるだろうし、もうここへ来ることはないはずだ。
ユーグが去るのを息を詰めて見送る。何とか危機を乗り越えて、カガリはようやく肩の力を抜いた。
日が落ちてきた頃、カガリは店仕舞いの準備を始めた。オーナーに閉店まで任されるようになって一年程経つので慣れたものだ。
朝にまた掃除するので、簡単にはたきで装置の埃を払う。何とも原始的なやり方である。魔法を使って楽をしてもいいが、こうやってちょこちょことはたきを振るのも嫌いではない。
最後に店内を見回してやり残したことがないか確認して鍵を手に取った時、店の扉が開いた。体格の良い男がのそりと入り口に現れる。
「あー疲れた。カガリ、店番ありがとう。みんな勇者に浮かれて話が止まらないもんだから、すっかり遅くなっちゃったわよ」
「おかえりなさい、オーナー」
カガリはこの店の主人に挨拶を返して荷物を受け取った。
オーナーは体は男で心は女の人間である。ちょうど自分と真反対のようで、内心カガリは面白く思っている。
鞄には魔法を込めやすい素材でできた部品や食材や植物が雑多に詰められていた。取り出しているとオーナーが説明を始めたので、合いの手を打ちながらカウンターに並べていく。
「この前あんた、特化魔力を色に変換して判別できる装置の話をしてたじゃない? 面白そうって思って、とりあえず魔力に反応して色を変える花をたくさん卸してもらったのよ。どう? 使えそうかしら?」
「まずは花が何に反応してどう変化するか調べないといけませんから、大勢の人に協力してもらわないといけないでしょうね」
「あらあ、意外と大変そうねえ」
「それに、風とか土とかの比較的主流のものならサンプルも手に入りやすいですけど、光とか闇とかはそもそも使える人が少ないのでサンプルの取りようがないです」
「それだと意味ないわね。カガリが魔法を使えたら良かったんだけどねえ」
オーナーがぼやくので、カガリはすみませんと気持ちのこもらない謝罪をした。この冴えない青年は魔法に通じているだけで魔力は持たない設定である。
「結構ハードルが高そうね……。そうだ、勇者様にお願いするのはどうかしら? 勇者様は珍しい魔法も使いこなすって聞いたことがあるし」
「オーナーが会いたいだけでしょう。勇者は何か探し物をしている様子だし、こんな小さい町に長居しませんよ」
「ちぇっ、つまんないわね」
オーナーは口を尖らせた。
言おうか迷ったが、後でバレたら面倒なので正直に今日のことを話す。
「今日、勇者がこの店に来ましたよ」
「なんですってえ!?」
オーナーがカガリの肩を鷲掴み前後にガクガクと揺らした。
「なんで!? どうしてよ!?」
「町の人に勧められたらしいです」
「なんであたしのいない日に来るのよお……!」
オーナーはカウンターに顔を埋めて泣き崩れた。かと思ったらすぐにガバッと勢いよく顔を上げる。目力が強い。
「一対一で話したのね?」
「他に客はいませんでしたからね」
「くっ、なんて羨ましい……勇者様はどんな方だった!?」
「どんなって、噂通りですよ。緑の目で青銀の髪」
「情緒がないわ、もっと細かく描写なさい!」
情緒を求められても、人間の容姿を褒めるような語彙力は持ち合わせていないのだが。
鬼の形相を前に、カガリはうんうん唸りながら何とか単語を捻り出した。
「ええっと、森の奥で苔むしたような緑の目と、誰も踏み入れていない雪原に朝日が差し込んだ時のような色の髪でした」
「ふぅん、苔は微妙だけど雪原はなかなかね。及第点よ。ああ、勇者様はさぞかし美丈夫なのでしょうね……あたしも直接お話したかったわ」
オーナーは巨体をよじって恥じらいながら悔しがるという器用なことをしてみせた。
たしかに人間にしては整った顔立ちをしていると思うが、認めるのも癪である。カガリが「そこまででもなかったですよ」とつっけんどんに言うと、オーナーはあからさまに呆れ顔をした。
「あんた一丁前に勇者様に反感持ってんの? 男として負けを認めるのが悔しいのはわかるけど、プライドがあるのならその格好をどうにかなさいな」
「僕はこの格好が気に入っているからいいんですよ。オーナーこそ、そんなに悔しいのなら町の娘に混ざればよかったじゃないですか」
「あたしは奥ゆかしい乙女なのよ」
妙なところでこだわりを持つ人間だ。
カガリはカウンターから立ち上がった。
「そろそろ帰ります。明日は予定通り休んでいいですか?」
「いいわよ。あーあ、明日勇者様が店に来てくれないかしら……明日だったらあたしがいるのに……」
「諦めてください」
カガリは素っ気なく言い残し、嘆くオーナーを残して店を後にした。
翌日、カガリは森の中を歩いていた。魔力持ちの獣を狩るためである。
本当だったら人間を狩りたいところだが、小さな辺境の町では人が一人いなくなっただけでも大事件だ。そもそも魔力持ちの人間自体が少ない。
カガリは衣食住に困らず、身を隠す場所を探す必要のない今の生活をそれなりに気に入っている。町一つ簡単に消せるぐらい魔力が回復しないうちは大人しくしているつもりだった。
人間から魔力を絞りとれないとなると、残すは獣や植物。植物は微々たる魔力しか持っていない。獣も似たようなものだが、個体によってはそれなりに魔力を蓄えている場合もある。
カガリは二羽の兎と一頭の鹿を仕留め、肉を少しだけ切り分けると、毛皮と骨以外の全てを平らげた。
満腹になって森を出る。充足感に包まれ足取りは軽い。
毛皮と骨は売れば金になるので持っていく。肉の切れ端はオーナーへの土産だ。両方持って、その足で町外れの店に向かう。
「オーナー、肉持って……きました……」
店のドアを開けて、カガリはあっという間に後悔した。カウンターに座るオーナーの正面に、昨日も見たような後ろ姿があったからだ。
奥から引っ張り出してこられたのか、いつもはない椅子まで置かれてそれに座っている。もう旅を再開しているはずなのにどうしてここにいるのだ。
「あら、カガリ。いつもありがとう」
カガリに気づいたオーナーが礼を言う。振り返ったユーグと目を合わせないように伏し目がちに頭を下げた。
「お邪魔しました。それじゃ」
肉を渡してさっさと店を出ようとしたが、オーナーに呼び止められてしまい仕方なく足を止める。
「お待ち、今カガリの話をしてたのよ。昨日勇者様が買っていった商品、あんたの作ったやつじゃない。なんで嘘なんてついたのさ」
「あー、なんか恥ずかしくて」
カガリはボソボソと言い訳した。余計なことを言わないでほしい。
「君は魔力はないが優秀な魔法道具の作り手だと聞いた。本当か?」
「さあ、優秀かどうかは……」
「何謙遜してるのよ。カガリの商品目当てに来るお客だっているじゃない」
「はは、そいつはどうも。それじゃあ今度こそ僕はこれで……」
カガリが今度こそ振り返って店を出ようとすると、ガタッと立ち上がる嫌な音がした。
「じゃあ俺も出るよ。長居してすまない」
「やだわ、勇者様ならいくらでもいてくれていいのに」
もう少し頑張って引き留めてくれないものかと思うが、オーナーは名残惜しそうにはしているものの、案外あっさりと勇者を送り出した。
カガリはユーグを待たずに歩き出していたが、小走りに追ってきたユーグにすぐに追いつかれた。
「君の家について行ってもいいか?」
「どうしてですか?」
「どうしてだろう。君にはわかる?」
「わかるわけがありません」
カガリは正面を向いて歩き続けている。ユーグが邪魔するように横から覗き込んでくるのが非常に鬱陶しい。
「一度止まらない?」
「どうして止まらないといけないんですか?」
「どうしてだろうね」
眉間に皺が寄りそうになるのを何とか堪えた。こいつより強い力があれば今すぐぺしゃんこにしてやっているものを。
ふーっと色々な感情を吐き出すように長い溜め息をすると、カガリは単刀直入に言った。
「ついてこないでいただけますか?」
「家を教えてくれればついていかない」
「……」
なんでよ! とは言わない。3度目のやりとりを繰り返す未来が見える。
もはや口で説得するのは諦めて、カガリは勇者を無視してずんずんと歩みを早めた。ユーグは空気を読まずについてくる。
そっちがそのつもりならと酒場に向かう。人間どもにくしゃくしゃにされてしまえ。
勇者がカガリが続いて酒場に入った瞬間、早速目敏い女店員に見つかった。
「あっ、勇者様だわ!」
店員の声で気づいた町民たちがわらわらと勇者に群がり、あっという間に勇者は周りを囲まれて身動きが取れなくなった。
「勇者様、まだいらっしゃったんですね! この町を気に入りましたか?」
「まだまだ聞きたいことがいっぱいあるんです!」
「ちょっと、男どもはあっちに行きなさいよ!」
「そうよ、私たちだって聞きたいことがあるんだから」
「勇者様は定住しないんですか?」
「魔将軍はどうやって倒したんですか?」
目論見通り足枷を作ると、カガリはそそくさと店を後にして無事家へ帰った。部屋に入ると擬態を解く。頭を振ってふわりと舞う黒髪を腰に流した。
前髪をかき上げて吐息を落とす。
「あの勘の鋭さどうなってんのよ……」
カガリは町を出たほうがよいか迷っていた。
勇者は明らかに彼女を怪しんでいる。けれど多分確信はしていない。それならば今のうちに姿を消すべきではないか?
しかしそれはそれで疑われる要素を増やすことになるだろう。
「奴がいなくなるのを待つほうが利口かしら……」
何に引っかかっているかはわからないが、それが解ければ町を出て行くはずだ。カガリは待つほうを選んだ。
(間違いだったかもしれないわね……)
目の前の男を見て、カガリは心の中で呟いた。
ユーグは連日店にやってきて、オーナーと喋ってはカガリに質問を寄越したり、商品を吟味して過ごしている。
生殺しのような気分で気が滅入る。カガリは目を瞑って頭を振った。
「……はどう思う?」
「……え? 何ですか?」
「カガリ、あんた最近ぼーっとしてることが多いわよ。疲れが溜まってるんじゃない?」
その自覚はある。主に目の前の男のせいで。
カガリはわざとらしく頭を押さえて体調不良をアピールした。
「そうかもしれません。今日は早退していいですか?」
「いいわよ。明日も休みなさい。お大事にね」
オーナーが心配そうに言うのにカガリは薄く笑みを返した。
カガリはオーナーのことを結構気に入っている。殺すときは苦しくないようにしてやろうと思っている程度には。
早退したカガリは森へ向かうことにした。気の疲れは魔力の消耗にも繋がる。余計な魔力を使った分、いつもより早めに補充することにしたのであった。
奥へずんずん進んで行き、いつもの場所までたどり着くと、首や手首を回す。さて、元の姿に変わるとするか。
「ここで何をするんだ?」
「ヒッ!!」
いきなり掛けられた声にカガリは飛び上がった。
恐る恐る振り返ると、楽しそうに辺りを見回すユーグがそこにいた。ホラーか?
恐怖と動揺に若干震える声で尋ねる。
「ゆ、勇者様、どうしてここに」
「つけてきた」
普通に言うんじゃない! カガリは内心叫んだ。
「どうして……」
「家に帰るのかと思ったら森へ行くから、危ないと思って」
おまえの存在が一番危ない。
「体調は大丈夫なのか? 動物を食べれば治る?」
「はい……はい?」
「狩るんだろ。手伝おう」
勇者の笑顔が恐ろしい。どういう意図で言っているんだ。
ユーグが手際よく罠を作った後、カガリはなぜか勇者と一緒に息を潜めて獣が罠にかかるのを待つことになった。この時のカガリの心境は筆舌に尽くし難い。
茂みに身を隠しながら、ユーグは隣に座るカガリに囁く。
「楽しいな」
「……楽しいですか?」
「ああ。カガリとこうして何もない時間を過ごすのが夢だったのかもしれない」
はたから見れば男が男に睦言を囁いている絵面である。おかしいことに気づいているのだろうか。カガリが本来の姿をしていたとしても、それはそれでもっとおかしなことになるのだが。
バレているのか? でもそれならすぐに殺さない理由は何だ? こちらから無謀な勝負は仕掛けたくない。一瞬で首を刈れる距離にいても、この男に勝てないのは本能でわかるのだから。
ぐるぐると考えているうちに、ユーグが仕掛けた罠に猪がかかった。勇者は簡単そうに猪の鼻を押さえ目隠しをして無力化してしまった。今のカガリが一人で仕留めようとしたら倍の時間はかかるだろう。カガリは口元を引き攣らせた。
ユーグは手慣れた様子で血抜きをしていく。
「あ、血も飲むか?」
「……飲みません」
普段は飲むが、カガリとて人間が普通は血を飲まないことぐらいは知っている。
勇者に持たされた肉を片手に、ずっと引き攣った笑みを浮かべて家に帰った。
どうして勇者は当然のようにこの店にいるんだ。そしてオーナーはどうして何も言わない……いや、後者の理由はわかる。男の面が良いからだ。
ユーグがこの町に来てから1ヶ月ほど経った。噂通りならとうに次の町へ向かっている頃だろうに、一向にそうする気配はない。
そして図ったように(実際図っているのだろう)カガリの前に姿を見せる。
逃げるべきか否か。悶々と悩むカガリをよそに、今日もユーグはオーナーと和やかに会話を交わしていた。
「ユーグ様、今日はちょっと手伝ってほしいことがあるのだけど」
「俺でできることなら喜んで」
「ユーグ様にしかできないことよ! ここに並べた花に順番に違う種類の魔力を注いでほしいの」
オーナーは以前カガリが言った魔力判定装置を作ろうとしているらしい。確かに勇者にしかできないことだ。
「ユーグ様は何種類の魔法が使えるのかしら?」
「五大魔法と光と、最近は空間魔法もコントロールできるようになってきたかな」
「すごいわ〜! さすが勇者様ね!」
オーナーと違ってカガリは無邪気に喜べない。3つ使えれば上出来のところを7つとは……正真正銘化け物と言えるカガリから「化け物か?」と引かれているとはつゆ知らず、ユーグはオーナーの説明を聞いている。
「この商品開発のためには色んな種類の魔法を注いでもらうことが必要なのよ。でもカガリが言うには光魔法や闇魔法の使い手は少ないから無理って話だったのよねえ。ユーグ様のおかげで光魔法と空間魔法は目処がつくわ〜」
「闇魔法の使い手ならそこにいるじゃないか」
「えっ?」
ユーグの目線とカガリの目線が交差したとき、カガリはバチッと鳴る音を聞いたような気がした。
青銀の眼に呑まれる……その前に、殺さねば。
無意識に飲み込まれそうなカガリを現実に戻したのは、オーナーの豪快な笑い声だった。
「カガリが闇魔法使いぃ? アッハッハ! 冗談はイヤよユーグ様、カガリは全く魔法が使えないんだから」
「そう? 俺の勘違いだったかな」
ユーグはあっさりと引いた。
オーナーの指示に従って花に魔法を込める男の姿から目を逸らし続けて、カガリは一日をやり過ごした。
逃げよう。カガリは決意した。
明日は休みを貰った。ユーグが毎日店に行くとしても、カガリがいなくなったことに気づくのは2日後。それまでにできるだけ距離を稼いで町から離れるのだ。
得た家と仕事を手放すのは惜しい気もするが。そして何より、気に入った人間をこの手で殺せないのが名残惜しいが、命には変えられない。楽しみは後に取っておくという考え方もある。
夜明け前でひんやりとした町中にひと気はない。それを確かめて、軽い足取りで町の外へ一歩踏み出たのと同時に、膜のようなものが己の体に張り付いたのを感じた。
(空間魔法か……!)
瞬時に悟ったカガリは対魔法で膜を引き剥がし、脚に魔力を込めて走り出そうとする。その瞬間、片脚に触手のような魔力が絡みつき、びたん! と無様に顔から地面に突っ込んだ。
「そろそろ限界かなと思っていたけど、予想通りだったな」
カガリが顔を上げると差し出される手が目に入った。持ち主はもちろんユーグだ。
空間魔法の波動を感じてからここに来たとしたら、10秒もかかっていない。いくら何でも到着が早すぎる。
戦慄するカガリを知ってか知らずか、ユーグはにこやかに笑いかける。
「カガリの手をこうやって握ることができる日が来るなんて、探した甲斐があった」
「……まだ握ってない」
「起こしてあげるよ」
ユーグに手を掴まれて引き寄せられ、カガリは男に抱き止められるような形になった。そのままきつく腕の中に囲われて身動きが取れない。なんて馬鹿力だ。
勇者は町の人間に対して被っていた好青年の皮をどこかへ捨ててきたようだった。カガリを見つめる目は獲物を捕らえる寸前の獣そのもの。
このままでは殺される。5年前に勇者から逃げた方法をとるべきだろうか。虫に擬態して逃げるなど屈辱でしかないが、たった今受けている屈辱に比べたらマシだ。
そうカガリが考えて実行に移そうとした時、ユーグが言った。
「虫に変体しても逃がさない」
「……何?」
「今は空間魔法を完璧にコントロールできるようになったから。5年前は膜を張ったら虫のお前を潰してしまいそうで使わなかったが、今なら無傷で捕まえられる」
安心するといい。そう微笑まれても安心などできるはずがない。
密着する体を離そうともがきながら、カガリは何とか悪あがきを試みる。
「あの、何か勘違いしていませんか? 僕は別にちょっと出かけようとしただけで……」
「勘違い? こんな美味そうな魔力を持っているのに?」
ユーグはうっそりと笑うや否やカガリの唇に吸い付いた。意表を突かれて開いてしまった口の中にすかさず舌が捩じ入ってきて、カガリはその勢いを受け止めるしかできない。
気持ち良くて腰から落ちそうになったところで気がついた。
(……って魔力を奪われてるじゃないの!)
私が5年かけてこつこつと貯めてきたものを根こそぎ奪うつもりか!
そうはさせまいとカガリが勇者の胸を押して離れようとしても、後頭部を引き寄せられて唇から魔力を吸われ続けると、抵抗する気まで奪い取られる。
いつしかカガリはユーグの腕に囲われた状態のまま、仲良く地べたに座り込んでいた。
もうこのままでもいいか……カガリの思考が溶けてきた頃、ようやくユーグがそっと唇を離した。肩で息を吐きながら、カガリは数秒の間ぼうっとユーグのてらてらと光る唇を見ていたが、我に帰ると男を睨みつける。
「な……なにを考えて……」
カガリが口をごしごしと腕で拭うのを見て、ユーグは思わずといった様子で噴き出した。
「なんとまあ……見かけによらず可愛らしいことをする」
「可愛らしいだと……!?」
途中で自分の声の異変に気づき、カガリは慌てて自分の体を見下ろした。服は男物だが、体つきは完全に女に戻っている。擬態する分の魔力まで奪われてしまったのだ。彼女の心情を表すように、豊かな黒髪が肩を力なく滑り落ちる。
呆然自失のカガリに、ユーグは勇者らしからぬ妖しい笑みを浮かべた。
「ずっと探してた。ようやく見つけた」
「見つかって良かったわね。それで? 殺すならさっさと殺しな」
「殺す? とんでもない」
「殺すために私を探していたのではないの?」
「違う。お前を俺のものにするため」
「私は魔王様のもの。おまえのものになどならないわ」
5年前と変わらぬ返答に、ユーグは不快そうに鼻を鳴らした。
「魔王を滅ぼせば俺のものになるか?」
「おまえごときに魔王様を殺せるものか! 自惚れるのも大概にしな!」
憤慨するカガリの頬を、稚児を宥めるようにユーグが撫でる。その手を容赦なく打ち払うと、男は仕方なさそうに苦笑した。
(……まるで相手にしていないと、そういうことね)
ユーグはカガリを侮っているのだ。容易く御せると思っている。カガリはこれまで抱いたことのない憤怒が胸の中に渦巻くのを感じた。……それならそれを利用してやる。
カガリは赤い唇を妖艶に吊り上げ低く宣言する。
「今日この時おまえが私を殺さなかったことを、一生後悔させてやる」
私を侮辱したことを、おまえを慕う人間どもに償わせてやる。
「それまではおまえの側にいてあげるわ」
「望むところだ」
ユーグは応えるように口角を上げ、カガリに覆い被さった。