03 先輩の素顔? 食堂バイトの正体!!
マリー先輩は真っ暗になった自室に入ると、備え付けの蛍光灯のスイッチはスルーして部屋の奥にある間接照明を点けた。ぼぅ、と部屋が優しい光に包まれる。薄暗いとまでは言わないけど、明るすぎない。そんな落ち着く光だ。
先輩は椅子に腰かけ、今まで顔を覆い隠していたサングラスとマスクを取り払い、「ほら、あんたも座り」とわたしをベッドの方に促す。整った鼻梁と、アーモンド型の大きな目。ぷっくりとした美しい唇の右下には小さなほくろがあり、高校の制服には不釣り合いな色っぽさが醸し出されている。控えめに言って、わたしが人生で見たことがないほどの美人がそこにいた。
言われたようにベッドに腰かけようにも、目の前の妖しく微笑んでいる美しい女性が毎晩使っているものだと思うと、同じ女だというのに妙に緊張して尻込みしてしまう。どこか良い匂いもしてきた気がする。
「ん? タマちゃんどうしたん? 急に固まって」
絶世の美女がまるでいつも軽口を叩いているマリー先輩みたいな声と口調で話しかけてくるもんだから、頭が痛くなってきた。いや、冷静に考えたらマリー先輩その人に決まってるんだけど、脳が理解を拒んでる。だまし絵でも見てる気分。なんとか、どうにかしないと……。
「そ、そう言えば、いいんですか? 感染症対策だとかで、他の生徒の部屋との行き来は控えるように、て言われてるじゃないですか。それにマスクだって、話すときは必ずしてなきゃいけないんですよ」
眼前の魅力的な女性は「お、せやったせやった」とマスクで口元を覆い隠す。おかげでサングラスこそしてないもののオーラは半減し、マリー先輩感のあるマスク美人になった。少し勿体ない気もするけど。
「すまんな、ついいつもの癖なもんで。しっかし人の部屋に上がって開口一番、それか。タマちゃん、意外とお堅いんやな」
「一応、規則ですから」
正直、規則なんてどうでも良い。あのまま良い顔を直視するのがつらいから吐いた方便だ。マリー先輩には恥ずかしくてとても言えないけど。
「マスクするのはええけど、ウチらは同じ職場で一緒に働いて、学校側から見たらもう立派な濃厚接触者やで。今更そんな規則守ったところで、例えばウチが病床に伏したらタマちゃんも隔離対象や。逆にタマちゃんが罹ってもウチは隔離や。もうこんな規則、意味ないんや。ウチらの間ではな」
「……ま、それもそうかもしれませんね」
もちろん病気は人間の決めた規則に忖度なんてしてくれない。人から人に病気が感染る確率にはマスクの有無は関係すると聞いたことがある。規則は意味ないけど、マスク自体は意味あるんじゃないかな。
わたしがそんなことを考えて気を紛らわしていると、目の前のマスク美人はニィーッと、まるで博物館の彫像から借りてきたような美しい目元を台無しに歪ませて。
「なんなら、ちょっと離れとるけどお互いに合鍵渡して部屋行き来するようにでもするか? それでも学校から見た接触具合は大して変わらんで」
「ちょっ、合鍵って、そんな恋人みたいなこと! 何言ってるんですか!」
わたしをおちょくってケラケラと子どものように笑う様子を見て確信した。うん。当たり前だけど、サングラスしてないだけで、この人マリー先輩だわ。美しいお顔に騙されるところだったわ。ようやく身体が動くようになったわたしはマリー先輩のベッドに腰を下ろす。
「まあ、ウチの眼を見てビックリして緊張する気持ちも分かるけどな」
「眼?」
言われて改めてマリー先輩の眼を観察する。さっきまで部屋の暗さに瞳が慣れてなくて気付かなかったけど、左目は黒目を薄くしたようなきれいな銀色、右目は南国の海のような碧色をしている。日本人離れしたオッドアイだけど、顔の造形の良さと相まって神秘的な雰囲気さえ感じられる。
「ウチな、生まれつき眼の色素が薄くてな。眩しさを抑えるためにいつもサングラスをしてんねん。学校にも特別に許可もらってな。最近は世情の関係でマスクもしなきゃならなくなって、おかげで不審者まっしぐらで辛いわ」
「なるほど。だからあんな恰好してたんですね」
こんなに顔が良いのに、隠さなきゃいけないなんて勿体ない。いや、見た人に変な期待を持たせて話してガッカリさせない分、今の方が良いのか?
「あんな怪しい恰好、ウチには似合わんやろ?」
「いえ、その性格にはピッタリじゃないでしょうか」
「なにおぅ」
マリー先輩がそう言うと、二人して笑いがこみあげてきた。良かった。やっぱり先輩、良い人だ。
ひとしきりわたしたちは笑い合い。
「ところで、わたし、何で先輩の部屋に来たんでしたっけ?」
「せやった! 楽しくて忘れるところやったわ!」
ガタッと先輩が立ち上がる。
「実はな、あの食堂バイト、学校が用意したセーフティーネットなんや」
「セーフティ、ネット……? 何ですか? それ」
「身近、かどうか分からんけど、よく例に上がるのは生活保護やな。タマちゃんも授業で習ったやろ。何らかの事情で働けないとか、健康で文化的な最低限度の生活をできないほどの低賃金しか支払われていない人に政府から補助金を出す制度や」
「流石に生活保護は分かりますよ。でも、それと食堂バイト、何か関係あるんですか?」
「簡単な話や。実は生活保護みたいなものはな、何も直接現金を渡すだけが形やないんや。簡単な仕事をひねり出して、それしてもらってその対価を支払うという形もあってな。そういう社会保障の仕組み一般をセーフティーネットって言うんや」
「つまり、食堂バイトがそうだと」
マリー先輩は「せや」と頷く。思い返してみると、たしかに食堂バイトは少し力は使う仕事ではあるけど、作業内容自体は単調そのものでそれほど難しくもなかった。
「あんなちんけな仕事で時給いくらや?」
「千円、と聞いています」
「やろ? 今度街出たとき見てみ。高校生相手に千円も出すバイト、あらへんで。それを朝晩の一日四時間で週五。タマちゃんの生活コストは知らんけど、ウチと同じくらいなら寮費と生活費を払ってトントンといったところやろ。食費も賄いというか、現物支給で浮くしな」
わたしも出口先生からこのバイトを紹介して貰った日、部屋に帰ってから計算してみたから分かる。確かにマリー先輩の言う通りだった。これなら生活していけそうだと思えたんだ。
「しかも年間の給料も計算してみたら、なんとギリギリ所得税の発生する百三万円に届かんくらい。タマちゃんも後で計算してみ? とにかく、何もかも出来過ぎなんや、あの食堂バイト。金に困った生徒が問題行動を起こさないように学校が用意したセーフティーネットとしか考えられん。あんまり数抱えられんやろし、保護者から反発があるかもしれんから学校は秘密にしとるんやろな」
マリー先輩の話は妙に説得力があり、わたしは納得してしまった。なるほど、学校が用意したセーフティーネット。出口先生がわたしが特待生落ちしたらすぐに紹介してくれたこととも辻褄が合う。
「と、これがタマちゃんには何か特殊な事情があると考えた理由や。差し支えなければ、ウチに事情話してくれへん? 何か力になれることもあるかもしれんし。もちろん無理にとは言わんけど」
マリー先輩がいつの間にかお湯を沸かしていた電気ケトルを引き上げ、わたしにティーパックの紅茶を差し出してくれたので、お礼を言って一口飲む。
あったかい。まるで心まで温めてくれるみたい。この部屋の柔らかい包み込むような光。優しく微笑む美しい先輩。とても安心する。この人になら……。
そのとき、バリン! と心の奥で何かが決壊する音が鳴った気がした。突然、視界が歪みだす。
「せんぱ、うっ、せんぱ、あれ、何で、ひっく、上手く、しゃべれ……」
急変したわたしの様子に驚いたのか、マリー先輩がわたしの隣に座りなおし、わたしの頭を胸に抱きかかえてくれた。あったかくて、柔らかい……。突然振れ動いた心が落ち着いていくのを感じる……。マリー先輩は優しくわたしの頭を撫で、「落ち着くまで、しばらくそうしててええで。一人で、誰にも相談できなくて、不安やったんやな」と言ってわたしにハンカチを渡してくれた。
ハンカチを目に当てると、湿った気配がした。いつの間にか泣いていたらしい。そっか、わたし、自分では気丈に振る舞ってるつもりだったけど、不安だったんだ。
そのまま泣きじゃくりながらマリー先輩に事情を話した。特待生から落ちてしまったこと。お金が無いこと。だけど奨学金を受けられないこと。親も頼れないこと。食堂バイトで生活は何とかなるけど学費がどうにもならないこと。
その間、わたしは全然上手く喋れてなかったのに、マリー先輩は頭をよしよしと撫で続けながら、うん、うん、と優しく相槌を打って、わたしの話を聴き続けてくれた。