使い込みマスク
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おはよう、ここのところますます冷え込んできたように思わない?
天気予報だと、また最高気温がひとケタ止まりですって。散々、夏場は暑さでいためてくれたと思いきや、今度はナチュラルクーラー大全開と来ている。徹底的に人間を苦しめないと気が済まないのかしらね、神様は。
――くっちゅん。
ああ、ごめんなさい。どうもこの頃くしゃみが出ちゃって。熱とかはないし、風邪じゃないと信じたいんだけど。
――マスクをつけた方がいい?
うん、確かにごもっともな意見。けれどもね、私はちょっと昔の経験から、マスクに対して、あまりいい印象を持っていないの。
その時の不思議な体験、ちょっと聞いてみないかしら。
我が家の遺伝なのか、冬場に一家で悩まされるのは、肌荒れとくしゃみだった。特に女の場合は顕著で、母が水仕事をする時に、あかぎれで悩まされているのを間近で何度も見ている。
くわえて、母親はマスクを常備していた。
食事をとる時をのぞけば、調理の時や買い物に出かける時はもちろんのこと、テレビを見ている時も、寝ている時もマスクを外した様子はない。授業参観の時も、いつもマスクをつけて見に来ていた。
クラスメートも、そんな母親の姿を目にし続けていたためか、私に尋ねてきたことがある。
「あなたのお母さんは、もしかして、『口裂け女』なの?」
都市伝説の有名どころ、口裂け女。マスクをつけた女の人が、下校中の子供に近寄ってきて、「私、きれい?」と尋ねてくる。その受け答えによっては、マスクの下に隠された耳まで裂けた口を、ご披露してくるのだとか。
当時の私の学校には怪談ブームの到来していた。少しでも得体の知れないことがあると、なんでもかんでも、お化けの仕業と思い込むきらいがあったの。
とても失礼な話。私自身、母のマスクの下が普通の人の口であることは、重々承知している。
美人なのは確かで、昔はものすごくもてていたと、話していたのを聞いたことはあったけど。
「そんなわけないでしょ〜」と、私自身は軽く流すつもりで答えていたけれど、これがきっかけだったんだと思う。
――どうして母さんは、あそこまでマスクをつけ続ける必要があるんだろう。
そう考えるようになったことの。
直接、訊いてみればよかったんでしょうけど、私の直感が「女はウソをつくもの」だと告げている。舌先三寸で丸め込まれてしまう恐れだってあった。
ならば真実は、日常とその影に転がり、にじみ出てくるものによって示される。
私は家にいる時、できる限り母親のそばにいるようにして、観察を始めたの。
特によく見るのが、夕飯を作っている後ろ姿。私は極力台所にいるようにし、テレビをつけながら、しばしば母親へ視線を送る。
玉ねぎを切っているところだった。換気扇を回しているのは、目にしみないようにするためだろう。でも、私の注意はその手元でも目元でもなく、口元へと注がれていた。
母のマスクはプリーツ型。長時間の着用にも向くタイプだ。近くによると、ミントの香りがついていて、リフレッシュ効果も兼ねているみたい。
幾重にも連なる山脈のように、鼻からあごにかけていくつも刻まれている折り目。そのひとつひとつの間に、ちぢれた毛玉がいくつか見受けられる。製造時点で問題がないとすれば、それなりの時間扱い続けないと、あまり目にすることがないものだ。
もしやと思って、家中のゴミ箱を漁ってみる。燃せるゴミの日は明日。ここ数日間のゴミはまだストックされたままのはずだ。
漁ってみる。この台所のものから、寝室にあるものまですべて。
ここ数日間で、マスクをつけていたのは母親だけ。捨てるとしたら母親だけ。けれども、そのマスクが一枚も見当たらなかったの。
洗濯して使っているという線もあるけれど、あのタイプのマスクは不織布。洗うには向いていない、使い捨てのもののはず。それをどうして……。
試しに私は、次の連休でできる限り、母親の近くでマスクの動向を探ることにしたの。
家事の手伝いをしながら、母親がどう動くか探り続けたけれど、さすがにお風呂やトイレの中までは観察できない。でも出た後で、洗面所にあるゴミ箱や、サニタリーボックスをのぞいても、やはりマスクは見つからなかったの。
母のマスクの毛玉は、また増えたような気がする。洗っていたら、あれを見逃すことなんてまずないはず。それに、心なしかマスクから臭いがしてくる。
母の臭いだ。日中は香水で消しているけれども、化粧を落とした後の母の肌の臭いが、すっかりあの布の中に染み込んでしまっているの。元々マスクについていたはずの、ミントの香りがすっかりなくなってしまうくらい。
――どうして? どうしてあんなに汚いマスクを使い続けているんだろう?
父親の臭いが気になり始めた時期でもあったから、余計に私は母親のことを不審な目で見るようになったわ。
そして連休最後の夜のこと。
私の部屋は二階で、両親の部屋のはす向かい。お互い物音を聞こうと思えば、聞ける距離にある。狭い家の中ということもあって、階段を上がってくる音も筒抜けだ。
私はその日もゆっくりとご飯を食べ、ぎりぎりまで台所で粘ったけど、宿題をやるために断念。自分の部屋へ戻って、黙々と取り組んだの。
階下の台所からは、水仕事をしている音が響き続けていたけど、私の宿題終了からさほど時間を置かずに水が止まる。しばらくして、階段を上がってくる足音。
私は、母親が二階に姿を見せ始めるタイミングで、さりげなく部屋を出る。その顔からはマスクが消えている。そのうえ母親は私の目の前で、トイレの戸を開けて中に入っていってしまった。
好機到来。私はあえてスリッパを履かず、忍び足で一階へ。
手始めに台所のゴミ箱。やはり中には母親のマスクはない。トイレも、洗面所も然り。ならば、余っている部屋を探るのみ。
意気揚々と探索を始める私だったけど、わずか数十秒であっけない幕切れを迎えてしまう。
八畳の和室の床の間。本来ならば、高そうなツボとかが置かれている木の板の上に、マスクは転がっていた。いや、置いてあったといったほうがいいかもしれない。
マスクはピンと伸ばされて、わずかなたわみも残っていなかった。それが母の顔に接していた部分を上に向けて、横たわっている。
近づいてみると、マスクの底に小さな水たまりができていることに気づいた。更に、そこからは、あの母親の臭いが、ずっと強くなったものが漂ってきている。
――汚い。
私は反射的に動いた。ずんずんと音を立てるのも構わず近づき、不潔なマスクをあるべきところに戻してやるため、手を伸ばした。
その指が、マスクに届く数センチ手前で「なめられた」。
思わずひっこめると、五本の指先がぬらぬらと濡れている。しかもそこから臭ってくるの、母のものでも、父のものでもない。嗅いだことのない、もっと鼻をつく何か……。
「こら」と頭を、ぽかりと叩かれる。見ると、母親が私のすぐ後ろに立っていた。マスクに気を取られて、近づいてくるのに気づかなかったの。
「あんたがこの頃、あたしをじろじろ見るから、何をしているのかと思えば……」
私は和室から引っ張り出されてしまう。その間も、床の間のマスクの水たまりは、じわじわと広がりつつあった。
母が話すには、確かにあのマスクは何日も使い続けたものだった。けれど、それは取り換えるのが面倒だったのではなく、お守りのため。
母は父と付き合い出した時から、何度か大きなけがや病気を体験することがあったみたい。どうにか命はとりとめたものの、かつて神職を務めていた祖父に、忠告をされたとか。
今まで母が袖にしてきた男たちで、すでに何人かは死んでいる者がいる。彼らは、母が誰かのものになるのを妨げ続けていると。
その時に取るように言われた対策が、マスクの使い込みだった。
くしゃみは内にあるものを外へ出さんとする、身体の働き。そこから出る唾液を持って、自分自身の身代わりを作り、彼らへあてがえ、とのこと。
それ以降、母は祖父に言われた通り、ほぼ毎日マスクをして、自分のエキスを存分に染み込ませる。そのうえで、ああして床の間に捧げることで、自分に惹かれている魂たちの矛先を反らせ続けているのだとか。