度胸と勇気に感謝を、そして光の祝福を
子供はそう言うと、秋葉の頭を軽く撫でた。
(迷い込んだ? ……私が? どういう意味?)
その意味を汲み取ろうと考えを巡らせると、その触れた掌からなにか暖かな光が自分の中に注がれていくのを感じた。光は全身を巡り、手足の指先にまで浸透していくのか、じんわりと熱が広がっていく。温かい湯が張られている風呂に入った時と、似ているような気がする。
子供が何をしたのかわからず、不思議な感覚に驚いていると、すぐに手は離れていった。
「はい、終わり。助けてくれたお礼だよ。貴女の度胸と勇気に感謝を。そして光の祝福を」
「あの、迷い込んだって……どういう意味? それに、あなたは一体」
「答えを知るだけが正解じゃないでしょ? 貴女がこの世界に来たことにはきっと意味がある。そして、それを知ることにも意味がある。だから自分で探してみて。何も知らずに踏み込んでしまったのに、厳しいことを言っているのかもしれないけどね」
子供の接する態度は先程と打って変わり、妙に聡明だ。雰囲気も子供らしくはなく、秋葉の状況でさえ全て見透かしているように見える。
だけど最初から答えを知っているのならこうして聞きはしないし、しかし自分で探せと言われたのなら、これ以上話を聞けるはずもない。
子供の言葉を聞くと、やはり自分はおかしな状況に巻き込まれてしまったのではないかと察してしまい、秋葉は困惑した。
がっくりと肩を落とす。どうするべきか道もわからず、下を向くことしかできなかった。
「さぁ、僕にできるのはここまでだ。その力があるんだ、この世界では特に不自由することもないはずだよ。あとは前に進むも、立ち止まるも、君次第だ」
そんなことを言われても、と顔を上げると、すでに子供の姿はなかった。
辺りを見渡してみても、そこには今も攻防を繰りなす少年とあの男以外、人の姿は見当たらない。また魔法をかけたかのように、一瞬でそこから消えてしまった。
その力とは、なんのことだろう。彼は何を伝えようとしたのだろう。
自分の掌を見つめるも、やはり答えは一向に見つかりそうにない。特別な力があるようには、全く思えなかった。
(でも、さっきの暖かい光は……?)
ぼうっと考え込んでいると、蛙が潰れたような悲鳴が傍から聞こえる。目を向けると、すでに勝敗は決まっていた。いや、最初から勝負になどなっていなかったのだが。
男は尻もちをつき、額に汗を滲ませながら少年を見上げていた。
「足掻くのはここまでだ。お前の身柄を騎士団に引き渡す。どんな処罰を下されるかはわからん、だがお前のしていることは魔の手先と同じことだ」
「へ……っ、俺の、負け……ってか?」
「人を攫い、金を稼ぐなど言語道断。例え魔は許しても、この空を翔る風……スレイヴ・ブリーゼが見逃すことはない! その身に刻むがいい! 我が剣に秘められし力、名の通り強き風を……!!」
少年は男に向かい、剣を振り上げる。
だが未だに刃は鞘から抜かれていないため、あのまま男の頭目掛けて振り下ろされるのだろうか。
血が多く流れることはないだろうが、あんなもので勢い良く殴りつけられたら相当に痛いだろう。瘤はできるし、頭蓋骨のほうが割れてしまうのではないかと心配になる。
しかしそんな中だというのに、男の顔がまだ負けを認めてはいなかった。なぜだろう、状況は不利なはずなのに、ニヤニヤと笑みを浮かべたまま小馬鹿にするような目で眺めている。
「……なにがおかしい?」
少年が問いかければ、男のほうから弱い風が吹く。
周囲は木々に覆われているはずなのに、その合間を縫って上手く風が流れてくるようだ。どこか奇妙な雰囲気に、秋葉もつい周りの様子を窺ってしまう。
すると何かに気づいた少年がはっと息を呑み、剣を下げて急いで秋葉の元へ駆け寄ってきた。
あの男は放っておいていいのだろうか、このまま助けてくれるのだろうかと眺めていると、少年が大きく舌打ちをした。
「まずい……! 影が来る!」
「しゃってん?」
「影だ! 最近この辺りによく現れる、悪魔の手先だ……! 知らないのか!?」
切羽詰まった様子で叫ばれ、どこか怒られたようにも感じた秋葉は怯え、首を竦めながら頷いた。
「奴等は人間を闇に引きずり込み、そのまま悪魔の元へと連れ去ろうとする。そして魂を半ば強制的に捧げることになり、二度とこちらには戻れなくなる! ……っくそ、かっこつけてる場合じゃなくなってきたぞ、これー!」
少年は地面に座り込んだままの秋葉の腕を掴み、共に逃げようというのか引っ張り上げるが、両手首が縛られていることに気づき驚いていた。
同時に、男の背後からおどろおどろしい気配が近づいてくることにも勘づいてしまう。
だが男は億劫することなく笑っていた。そこから動くことなく、ヘラヘラと笑い続けていた。
なにがそんなにおかしいのだろう。この気配に、これで共倒れだと秋葉達を嘲笑っているつもりなのだろうか。
少年はポケットから小さなナイフを取り出すと、秋葉の手首に縛りついている縄をそれで切り始めた。
「あぁ、もうなんだよ、これ! 頑丈に結びすぎだろ! 簡単に切れなーい!!」
「わ、私のことよりも、早く逃げたほうがいいのでは……」
「はぁ!? なに言ってるんだよ、そんなことできるわけないだろ!! …………っ、いや、こういう時こそ取り繕わなきゃいけないんじゃないか? こんな時だからこそ、俺がしっかりしなきゃいけないんじゃ。冷静に、あくまで冷静にだ。…………ふ、不安になる必要などもない。この空を翔る風の手によれば、影の危機などその名の如く風のように翻してみせよう。命を俺に預けろ、女。なに、少しばかりの恐怖、ここで楽しんでみせようではないか」
控えめに言っても、何を言っているのかわからない。
恐らく自分の中では良いことを言って満足しているつもりなのかもしれないが、その言葉とは裏腹に表情には一切余裕など感じられない。
影がどのような存在なのか知らない分、秋葉にはまだ少年と同じ恐怖を抱くことはできなかった。
「あぁ、待て待て待て動くな、もうちょいで切れそうなんだよ! あともうちょいなんだよ!」
少年がナイフで懸命に縄を切ろうとしてくれている。
だが、男の悲鳴に近い声が聞こえ、二人は同時に顔を上げた。
視線を移した時にはすでに男の体は半分以上闇に呑まれ、恐怖に満ちて蒼ざめた顔には、絶望しか浮かんでいなかった。恐ろしさのあまり、男が苦悶の表情を浮かべ、声にならない声でなにかを必死に叫んでいる。
恐怖で、体が強ばってしまう。秋葉は目の前で何が起こっているのかわからず、悲鳴も出せずに、ただただ呆然として唇を震わせた。
闇が人間を呑み込むというのは、こういうことなんだろうか。初めて見た恐ろしい現場に、今にも泣き出してしまいたくなる。
嘲笑っていた男も死に直面すると、隠していた感情を剥き出しにして顔を歪ませ、外に向かって必死に手を伸ばす。
ショックで気を失うことができたなら、どんなに楽だったんだろう。何も見ることができずにいたら、どんなに助かっただろう。
だが残念ながら秋葉の意識は飛ぶことなく、気を確かに持っていた。そして、男から目を離せずにいた。
「……っ、よし、切れたぞ! おい、切れた、切れた! 早く逃げよう! なっ!?」
「あんなの、ゲームの世界でしか見たことがなかった……。まさかこんなことが、現実世界で起きているだなんて……」
「はぁ? 何言っているのかわからないけど、早いところ逃げないとやばいって! あいつは普通には倒せないんだ! 聖なる力を授かった聖騎士や聖女様なんかを連れてこなきゃ、影は――――」
男が完全に闇に呑まれていくと、その大きな影の後ろから小さな丸い影達が幾つも現れる。影は地面に落ちると、人形のような小さな体に形を変化させ、秋葉達の前に立ちはだかった。