光ある世界に小さな闇は要らない
(――――この、変態男!!)
男の手から逃れようとするものの、しっかりと体を掴まれていて思うように動けない。
叫ぶべきかと一瞬頭を過ぎるものの、男は秋葉を担いだまま歩き始める。
どうしよう、どうしようと半泣きになっていると、この場にそぐわないデジタル音が付近で突然流れ始めた。
男が足を止め、振り返る。
すると、地面でバイブ音を鳴らしながら音楽を流していたのは、先程秋葉が手放してしまったスマートフォンだった。読書に没頭すると時間を忘れて読み耽ってしまう秋葉は、学校を出なければいけない時間が近づくとアラームが鳴るように設定していたのだ。
だがどう見ても外は夕方に見えない。空も明るく、蒼く澄んでいて、まだ昼過ぎぐらいにしか感じられない。
男は尚も音を鳴らし続けながら揺れ動くスマートフォンに、興味深そうに近づいていった。上から覗きこんだかと思えば、前後左右から角度を変えつつ、警戒しながら眺めている。
まるで初めて目にした生き物を見ているかのような、不自然な動きだ。あれは本当に携帯電話を知らないのだろうか。
情報化社会から掛け離れた、電波も届かないような山奥でひっそりと暮らす仙人気取りのようなものか。仙人は決して人攫いなどに手を出したりはしないだろうが。そもそもここは森の中だが。
「……なんだ、これは。おもちゃか?」
「え……、これがおもちゃに見えますか? 携帯電話ですよ。スマホ」
「すまほ? でんわ?」
先程と同様、とぼけた振りをして秋葉をからかっているのか、それとも素で言っているのか。だが男の声のトーンを聞いた感じでは、後者にしか聞こえない。
内心驚きつつ、秋葉は男の様子を窺う。むしろこれはチャンスなのではないかと睨む。
「音が鳴っているな……。だが、オルゴールなんかとはまた違う作りなのか? おい、これは何をする物なんだ。やっぱり錬金術か?」
男が秋葉を担ぎながら、地面に落ちているスマートフォンに向かい、屈んで手を伸ばす。
男の手が緩んだ瞬間、今だ、と秋葉は大きく体を左右に揺れ動かした。
屈もうとしていた男がバランスを崩し、見事横に転がっていく。
目論見通り、体を拘束していたはずの腕が外れ、秋葉はそのまま地面に落下すると同時に、勢い良く地を蹴って走り出した。
両手は後ろに縛られたままで走りにくいが、それでも今は文句を垂れている場合ではない。がむしゃらになって、そこから逃げ出していく。
だがやはり狙いを定めた獲物をそう簡単に見逃せる程、男は生易しくなかった。すぐに体勢を立て直し、当然のように秋葉の後を追ってきたのだ。
秋葉は肩越しに後ろを振り返り、そして後悔した。
追いかけてくる男の目の鋭さが普通ではなかった。逃げれば殺すとばかりに血走り、恐ろしい気迫に迫られ、秋葉は怯んでしまったのだ。
その拍子に足が縺れ、転んでしまう。
男はうつ伏せになって倒れる秋葉の体を反転させ、拳を振り上げた。
(殴られる……!!)
逃げ出したことが、余程おもしろくなかったのだろうか。
怒りに身を任せ、例え商品であろうと少しでも恐怖と痛みを与えればおとなしくなる、この男はそう考えているのではないだろうか。
どのくらいの強さで殴られるのだろう、骨が折れたらどうしよう、怖い、とぎゅっと目を閉じ、秋葉は振り下ろされる拳を受け止める覚悟を決める。
誰かに本気で殴られた経験などなく、その衝撃の強さがわからない。
咄嗟に声を上げようにも、誰に助けを求めたらいいのかわからず、微かに自分の口から漏れる息の音しか聞こえない。
ぶるぶると震えながら、これから与えられる衝撃を待っていると、ふと頭を撫でられた。
え、と思わぬ展開に恐る恐る目を開いていくと、拳を振り下ろそうとしていた男の姿がそこにはなく、代わりに金の髪色をした少年が秋葉のことを見下ろしていた。
先程男の手に捕えられていた子供とはまた違う、どちらかといえば秋葉と歳の近い少年だった。空に似た蒼い瞳が自分の姿を映し出し、こんな時だというのに、その中に惹き込まれてしまいそうになる。
少年もまた大きく目を見開き、同じように秋葉のことを見つめていた。
「……あ、の?」
あまりにも食い入るようにじっと見つめるものだから、耐え切れずに声をかける。
だけど少年は、それでも目を逸らそうとしなかった。自分から視線を逸らしていいものかわからず困惑していると、後ろから唸るような声が聞こえてくることに気がつく。
獣が威嚇する時に出す低い唸りに似た声に、秋葉は恐怖を感じて身をすくめた。
すると少年の背後から、先程までそこにいたはずのあの男が急に身を乗り出し、咆哮を上げて襲いかかってきた。
「――――っ、あぶな……!!」
「その汚れた手を下げろよ、人攫い……。お前のような輩がいるから、この地は悪に染まりつつある。光ある世界に、そのような僅かな闇は要らない。人を不安の色で染める靄は、俺が今ここで消し去ってやる……! 覚悟を決めろ!」
男の手には小さなナイフが握られていた。ナイフの切っ先が少年の背中を目掛け、振り下ろされる。
だが秋葉が叫ぶ前に彼は身を翻し、足を踏み込むと、そのまま男の頬に拳を勢い良く叩き込んだ。
驚く程の身軽さに目を見張ったのは秋葉だけではない、男も同じだ。
相手が怯んだ隙に腰に下げていた剣を鞘から抜かずに構え、腹へと打ち込む。そして今度は男がよろけたところを蹴り飛ばす。
その見事な流れに目を奪われつつ、秋葉はやはり状況を理解できずにいた。
少年が持っている剣はなんだろう、あれは本物なんだろうか、そしてあの服装はなんだ……? もしや自分はなにか映画か海外ドラマの撮影現場にでも迷い込んでしまったのではないだろうかと、混乱してしまう。
少年の服はゲームなどでデザインされている冒険者の格好、そのものだった。
汚れた焦げ茶色のマントを背になびかせながら、彼は尚も剣を鞘から抜かずに応戦している。応戦していると言いつつも、戦況は圧倒的に少年のほうが有利なのだが。
男の動きよりも素早く、与える一手も力強いのか、少年の剣がぶつかる度にその体は揺らめき、崩れそうになっている。
秋葉はこの場から逃げ出すこともできずに、少年の攻撃一辺倒を黙って見守るしかない。
図書室で本を読む予定だったのに、なぜこんなことになってしまったのか。何がどうなって、こうなったのか。
考えれば考える程、わからなくなる。自分が呆けてしまっただけなんだろうか。だが本当に、それだけで屋内から屋外へと瞬時に移動してしまうものなのか。
すると今度は耳元で、くすりと微笑む声が聞こえた。
視線を移すと、そこには先程まであの男に捕えられそうになっていた子供の姿があった。秋葉は息を呑むも、せっかく逃げ出したというのにまた興味本位でここへ戻ってきてしまったのだろうかと、心配してしまう。黙ってその横顔を見つめていると、目が合った。
「お姉さん、よかったね。助けが入ったみたいで安心したよ。そのまま連れ去られそうになっていたら助けるつもりでいたけど、僕が手を出す必要はなさそうだね」
「……あの、どうしてここに戻ってきたの?」
「お姉さんが僕を助けるつもりでいてくれたからでしょ? 人の好意を無下にできる程悪い奴じゃないんだよ、僕は。演じておきながら自分で仕留めるつもりでいたけど、貴女が来てくれたからね」
何を言おうとしているのかわからず眉根を顰めると、子供は目を細めてもう一度微笑んだ。
「ありがとう、まさか奴と同じ人間が助けてくれるとは思わなかったよ。……といっても、お姉さんはすこし普通の人とは違うみたいだけど。どこかに出来た隙間から迷い込んできちゃったのかな?」