放課後、図書室、埃をかぶった本
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その日の授業も終わり、高校二年生になる椎名秋葉(しいな 秋葉)は図書室へと向かい、一人廊下を歩いていた。
涼しい風を肌で感じることもあり、秋の訪れを予感とさせる時期に少しずつ変化していく日々。
廊下は夕暮れに照らされ、橙色に染まっていた。誰に急かされることもなく、窓の外に広がる景色を眺めながら一人で歩くこの時間が、秋葉はとても好きだった。
流れる風が、背まで伸びた彼女の長い黒髪を揺らしていく。
校内では部活動に励む生徒もいれば、足早に家へと帰る生徒もいる。教室に残り数人でおしゃべりを楽しむ生徒もいれば、わざわざ放課後にまで教科書を開き勉強をする、勤勉な生徒の姿もあった。
各々が何事にも縛られることなく好きに時間を過ごしている中、秋葉は図書室に着くと鞄を置くこともなく、すぐに目的のある本棚へと向かい進んでいく。
昨日の放課後も同じように図書室で読書をしながら過ごしていたのだが、ちょうど帰宅しようとした時に興味深い本を見つけたのだ。
それは本棚の一番下にある奥の段に、真っ白な埃を被った状態で放置されていた。誰の手に触れることもなく、陽の光を浴びることもなく、人の目を避けるようにひっそりと存在していた。
「よかった、まだ残ってる」
埃を手で払い、秋葉はその場でぱらぱらと頁をめくり、本の扉を開いていく。
どんな物語なんだろう、どんな冒険が待っているんだろう、どんな人物が主人公なのか。いつだって本を開く時は期待や緊張で胸がわくわくする。
見出しには「竜は人間に恋をする」と表記されていた。よくある異種族間の恋愛模様を描いたファンタジー小説かと推測し、一頁目からきちんと目を通そうと机のあるほうへと戻る。
窓が開いているのだろうか、入り込んだ風が秋葉の髪を優しく揺らしていくのがわかった。一瞬空気が変わったような気がしたが、特に気にすることもなく、本に目を向けたまま室内を歩いていく。
本は自分をその世界へ連れていってくれるから好きだ。実際現実ではありえないことが、本の世界では当たり前のように起きている。
例えば剣と魔法、錬金術。それに冒険。人間と妖精との恋、四大元素を司る精霊。
秋葉の世界では絶対に起こりえないことが、本の中では日常的なものとして捉えられている。そんな出来事の中に自分を引き込んでくれるのが、本なのだ。
自分がもしこの世界にいるならば、どんな風に行動していくのだろう。秋葉が主人公と同じ立場だったなら、この展開をどう乗り切るだろう。想像を膨らませながら読めば、さらに面白さは増していく。
だから秋葉は読書が好きだった。ジャンルを問わず、本を読むのが好きだった。
本に気を取られながらも席へと向かい歩いて行き、椅子に座ろうと腰かけた、その瞬間。
秋葉は失敗して、なぜかそのまま床に尻もちをついてしまった。
そこに椅子があるとばかりに意識していたものだから、受け身も取れずに勢いよく尻をぶつけてしまった。危うく舌を噛むところだった、危なかった。
誰かにイタズラでも仕掛けられ、自分が座るのを見計らって意図的に椅子を引いたのかと思いすぐに背後に視線を移してみるが、そこには誰の姿も見当たらない。
逃げるような足音も聞こえなかったところを見ると、それは秋葉の思い違いで、ただ一人マヌケに転んでしまっただけなんだろうか。
そう思えば途端、妙な恥ずかしさが自分を襲い、秋葉は急いで周囲を確認する。誰かに見られていなかったか、一気に不安に襲われてしまった。
だが、そこに広がる光景を見て、秋葉は言葉を失う。
「……え?」
校内にいたはずなのに、いや確かに図書室にいたはずなのに、秋葉の周りを囲んでいたのは先程までここに存在することのない草葉だけだった。床だと思い座り込んでいたのは、地面の上だったのだ。草が生い茂っているせいか陽が当たらず、妙にひんやりとしていて、秋葉自身の心も同じように冷めていくのがわかる。
しばらく座り込んだまま、周囲を見つめ呆然としてしまった。
――――どうして、こんなところに……? いつの間に、こんなところに?
慌てて立ち上がれば突然側から幼い悲鳴が聞こえ、秋葉は緊張と恐怖で固まってしまった。
なんだろう、今の叫び声は。なにかあったのだろうか。
どう聞いても尋常ではない叫びに、心臓が嫌に大きく音を鳴らし始める。
自分の状況も理解できず、だが悲鳴を聞いたからには放っておくこともできず、秋葉はワケもわからないまま衝動的にそこから動き出した。
ここで立ち止まってはいけない、少しでも動かなければいけないと、なぜか強くそう感じながら、一歩を踏み出し始めていく。
空は青く澄んでいて、秋葉の上には変わらない蒼がそこにあった。
物語は新たな登場人物を招き入れ、また大きく変わり始めていく。
誰も気づくことはなかった。
この世界に、イレギュラーな存在が紛れ込んでしまったことに。
この存在が、消されたはずの物語の主人公を揺さぶることに。