敢えて気にしない振り
されるがままにしていると、近くから声をかけられた。
「スレイヴ」
地を這うような低い男の声だった。だがスレイヴは足を止めなかった。
「スレイヴ……!」
男はもう一度スレイヴの名を呼んだ。先程よりも、確かに大きな声で。
スレイヴの耳にも届いているはずだが、聞こえない振りをしているのか立ち止まることはない。
それよりも、秋葉の背を押す力も強くなった。早くここから立ち去りたいといったようにも取れた。
無視をしていいのかと肩越しに振り返ろうとすれば、「早く行こう」と止められてしまい、何も口出しできない。
男はそれ以上スレイヴの名を呼ぶことはなかった。スレイヴも、口を閉じたままだった。
しばらく歩くと、秋葉に被されていたマントが少しずらされ、顔だけを外に解放することができた。
「……いいんですか?」
「とりあえず、ここ、入って」
ここ? と顔を上げると、レンガで造られた二階建ての家がそこにはあった。
暗闇の中で薄ぼんやりとしているが、外壁はクリーム色、屋根は赤いレンガで造られており、ドアは木で出来ているのか外観はとてもメルヘンチックだと見てわかる。どことなく童話に出てくるような、七人ぐらいの小人が住んでいそうな可愛らしい形をしていた。
ドアの横には看板が掛けられていて何か字が書いてあるが、英語でもなくおかしな文字をしているので秋葉には読むことができない。鐘もついているので、家というよりは店に見える。
客が家の主人より先に入るのも失礼だと思うので、秋葉はまず遠慮した。
するとスレイヴがドアを開け、早く入れとばかりに後ろからぐいぐいと背を押し、急かしてくる。
一歩踏み入れると部屋の中は外と同じ、いやそれ以上に薄暗く、明かりをつけなければ何も見えない程だった。
それに埃っぽいようで、段々と鼻がむず痒くなってくる。まるで長い間掃除がされておらず、放置されているような部屋だ。
こんなところで鼻炎を起こし、涙と鼻水を流すわけにはいかないと秋葉はつい手で自分の口を塞いでしまった。他人様の家で失礼な挙動だったかと後になって後悔するが、その本人は気にしていないようだった。
スレイヴが慣れた足取りで部屋を歩き、なにかブツブツと呟く。
「……闇を照らす小さな炎よ、出でよ」
瞬間、テーブルに置かれていたランプに灯りが宿る。すると天井にも吊るされていたのか、幾つかのランプにも次々と灯りがともっていく。
淡い光が室内を照らし、その幻想的な光景に秋葉は口を開けたまま、ただぼんやりとランプを眺めていた。
部屋の入口傍にはカウンターがあり、その隣には何も並んではいないがショーケースが寂しげに置かれている。
奥にもショーケースが数個あり、そこには様々な色をした液体の入ったフラスコや試験管、なにかの植物や雑草が乱雑に放置されていた。
一目でわかる。この部屋は機能していないと。
スレイヴはドアの鍵を閉めると、「ついてきてくれ」と奥に案内し、階段を登っていった。秋葉も続くと、上にはすぐにワンルームが広がっていた。
ソファーにベッド、テーブルがあり、だが他は何も無い。飾り気のない簡素な部屋ではあるが、おそらくスレイヴはここで暮らしているのだろう。
カーテンは閉め切っており、外の様子は見えない。何も無いせいか閉鎖的な空間のようにも感じ取れ、少しだけ居心地が悪く感じた。秋葉には窮屈だった。
「どこでもいいから座ってくれ。ほ、ほら、色々とあったし、疲れてるんじゃないか?」
「ご、ご迷惑をおかけします。スレイヴさんも、よかったんですか?」
「え、なにが?」
「さっき、誰か呼んでいましたよね? 気づいているとは思っていたんですけど、でも返事をしなかったから……。もしかして、私がいたから聞こえない振りをしていたのかな、なんて」
そう言えばスレイヴはバツが悪そうな顔をして、視線を逸らしてしまった。それは言いたくないようにも見え、聞かないほうがよかったのだろうかと焦ってしまう。
「……そういうわけじゃないぞ。空耳かと思っただけさ。俺に声をかける奴なんて、ここにはいないから」
自嘲するような薄笑いを浮かべると、スレイヴはなにか思い出したのか下へと降りていった。
やはりあまり触れないほうがいい話題なのかもしれない。会ってまだ数時間程度ではあるが、スレイヴはなにかと自分のことになると落ち着かない節があることに秋葉は気づいていた。
例えば先程の街での一件。なにかに怯えているのか、余程自分に自信がないのか。名前を教える時でさえ、彼はそわそわとこちらの反応を気にしているようだった。そして街の住人達の態度、自分を見下す発言。
人には言いたくない過去もあるだろうし、知られたくないこともある。だから秋葉は敢えて気にしない振りをした。迷惑をかけている身の分際で、他人の過去までほじくり返そうとは思わない。
とにかく今秋葉が考えるべきことは元の世界へ帰る方法だけなのだ。それも自力で探さなければいけない以上、誰かを気遣いたくても気遣う余裕など今は無い。
しばらくすると、スレイヴはビーカーのような容器を二つ持ってやってきた。
中には茶色い液体のようなものが入っていて、向こうの世界でいう紅茶や烏龍茶に似ている気もする。
手渡されるが、人の飲める物なのか判断もできず、じっと眺める。意外にも匂いは柑橘系で、悪くはない。
スレイヴをちらりと見ると、彼は普通に口をつけていた。大丈夫、ということなんだろうか。
恐る恐るだが、こくりと、試しにビーカーに口をつけ一口飲んでみる。すると一気に香りと同様、爽やかな味わいが口の中に広がり、甘酸っぱくて美味しいと感じた。緊張していたせいか喉が渇いていた秋葉は一口、また一口と口に含んでいく。
気づくと、ビーカーの中身は空っぽになっていた。あっという間に全部飲んでしまっていた。
異世界の飲み物を飲むことができるだなんて、貴重な体験だと秋葉は感激した。しかし何故ビーカーなのか、そこが不思議だった。
「美味しかった?」
「あ、はい。こっちでは実験で使うような物で飲み物を飲んだりするんですね。驚きました」
「え?」
「ほら、これ。マグカップでしか飲んだことがなかったから、妙に新鮮で。あれはお茶なんですか? とても美味しかったです」
スレイヴは苦笑いをしながら、頬をかいた。自分の持つビーカーを眺めながら、あー、と唸っている。
秋葉も同じようにビーカーを眺めてみた。やはり、どう見てもビーカーはビーカーだ。
「客人が来ることなんて滅多にないから、そういうのは用意してなくてだな。あ、でもきちんと洗ってるから汚くはないぞ! 間違った知識を覚えられても困るから言っておくけど、普通はこんなので飲まないからな!? カップを使って飲むんだ。きょ、今日だけは仕方なく……というわけで」
なるほど、やはり本来はこんな使い方をする物ではないのだと秋葉は納得した。
「でも本当に味は美味しかったですよ。これ、この世界のお茶なんですか? おかげで緊張も和らいだような気がします」
「ほ、本当か? 美味かった!?」
「はい、とても。ビーカーに入ってるからどんなものかと思ったら、意外にも美味しくて驚きました。ごちそうさまでした」
スレイヴがまた心底安心したように、ほっと溜息を吐き出した。不味いと言われたらどうしようと、不安にでもなっていたのだろうか。
スレイヴは嬉しさを頬に浮かべ、はにかんでいる。そんなところにまで自信がないのかと思ったが、秋葉は何も言わずにその様子を眺めていた。