思い描いていたものとは異なる場所
こんな非常事態に細かく気遣ってなどいられない。秋葉は少しだけマントの隙間から顔を覗かせ、少年にお願いしてみることにした。
「あの……、もし戻るなら学校まで連れていってくれませんか!? そうすれば家までの帰り方もわかるし、警察にだって相談もできるし!」
「学校? ケーサツ? あの街に学校なんてあったか……? 聞いたことがないな」
「え、聞いたことがない!? そ、そそそんなバカな! あの、ここどこですか!? せめて街の名前さえ教えてくれたなら、親に連絡もできるかもしれないし……! もしかしたら迎えにだって来れるかもしれないし!」
「連絡って。伝達魔法でも使えたりするのか? なんかよくわかんないけど、とりあえず移動するぞ。あまり俺から距離を置かないように。下手をするとここに取り残されちゃうからな」
伝達魔法とは、なんのことを言っているのだろうか。秋葉は彼の言っている意味がわからず、首を傾げた。
聞きたいこと、答えてほしいことはまだたくさんあるというのに、少年は地面に手を置くと何かぶつぶつと呪文のようなものを唱え始めてしまう。
まさかとは思うが、それこそ本当に魔法でも使おうとしているのではないだろうかと顔が引き攣っていく。振りではなく、実際に。
先程の影といい、なんだか違う世界に飛び込んできてしまったようだ。秋葉は頭が痛くなるような思いだった。
彼がなにをするのかマントの隙間から目を覗かせ眺めていると、どこから現れたのか地面の上に瞬時に魔法陣が描かれていく。
少年を囲むように、木の枝でイタズラ描きをしたわけでもないのに、記号や線が光を帯びてそこに浮かび上がっていく。
驚きとあまりの眩しさに、秋葉の視界が奪われてしまった。どんな仕組みで浮き上がっていくのだろうかと、まじまじと魔法陣を見つめ続けたくなるが、さすがに眩しくて見ていられない。
「我が声に応えし精霊、我が言葉を聞き入れよ。風よ、我等を導く流れる風よ。その行き先へと誘え」
少年が呪文を唱えると同時に、魔法陣が一層強く光を放ち始める。光は次第に白から緑へと、時計の針が秒針を刻むようにして徐々に変化していく。
まるでファンタジー映画で流れるようなワンシーンだと鳥肌が立った。こんな展開はテレビの中でしか観たことがないと、不覚にも感動してしまいそうになる。
どこかにカメラが仕込まれているのではないかと周囲を確認するように窺ってしまうが、当然ながらそんな物は見当たらない。
どうにも悪戯にしては手が込んでいるし、そもそもこんな森の奥で少年が秋葉に対しテレビ側が受けそうな演出を仕掛ける要素がない。騙されているのだとしても、これは嘘には見えなかった。
実は自分は図書室で本を読んでいる最中に何らかの理由で意識を失い、夢を見ているのではないかと考えてしまう。夢の中ならばあの影も、都合のいい自分の力にも、少年の容姿にも、全てに合点がいくからだ。
だが、どう見てもそれは偽物ではないと思える。夢の中ならば朧げな世界も、秋葉にの目はハッキリと明確に映っていた。
(髪を引っ張られた時は痛かったし、感覚もあるし。ということは、やっぱり現実? だとしたら、そんな時ってどうしたらいいの?)
視界が光で遮られ、あまりの眩しさに目を閉じる。微かに風が流れ、背まである自分の髪を揺らした。
このまま目を開けると、また図書室に戻っていた、なんてことはないだろうか。夢から……、幻から覚めたりはしないのだろうか。こんな展開、誰も望んだりなどしていないのに。
しばらく目を閉じたままでいると、少年が軽く肩を叩いた。
実は肩を叩いているのが少年ではなく、秋葉の通う学校の教師だったらいいのにと心の底から願ってしまうが、さすがにそれはありえないのだろうか。こんな夢なら、二度と見なくていいのに。
ゆっくり目を開いていくと、そこはまた森の中から一転。がらりと景色が変わっていた。
ぽかん、と。だらしなく口を半開きにしたまま、呆けてしまう。
「……え?」
「はい、到着。一瞬だっただろ? 俺、こう見えても一応簡単な魔法は使えたりするんだよなー。すごいだろー! どうかな、えーっと……」
少年が隣でなにか言っているが、秋葉の耳にその言葉が届くことはなかった。返事をする余裕さえなかった。
だってそこに広がっている光景は、秋葉が思い描いていたものとは全く異なる場所だったから。頭に被されていたマントを、無意識に強く握りしめていた。
地面に敷かれているのはアスファルトではなく石畳。木組みで作られている三角の屋根の形をした可愛らしいデザインの家々が街道沿いに並んでいて、一目で秋葉が住んでいた場所ではないと、嫌でも思い知らされてしまう。
ならばここはどこなのだろう。街の名を聞かされたところでわかるわけがないと、この時点で頭が痛くなる。
太陽が空の上で光を放っているというのに、それでも街の中は薄暗く、明かりでもつけなければ遠くまで見渡すことができない。
道沿いには暗闇を照らすように幾つもの小さなランプが置かれ、火が灯されていた。
空を見上げて、秋葉は溜息を吐き出した。
というのも、この街には全体を覆うように、とても大きな樹が中心部らしき場所から伸びていたからだ。大樹がそびえ、その枝が街を抱擁するように端まで伸び、葉をつけ、陰を作り出しているのだ。
陽の光でさえ遮ってしまう程の無数の枝と葉があり、その光景に圧倒される、とでも言えばいいのか。
本当に大きくて、力強くて、いま抱えている悩みや不安が頭から吹き飛んでいってしまう程だと心が震えそうになった。この樹に比べたら自分はちっぽけな存在だと、そう思えるぐらいに。
秋葉はついスマートフォンのカメラを起動させ、写真を残そうとした。だがここでは暗すぎて、画面には何が写っているのかわからない。ライトをつけても、よく見えなかった。
もう少し離れた位置からこの街を見てみると、とても絵になるような景色がカメラの向こうに広がるのかもしれない。
胸を高鳴らせ樹を見つめていると、隣にいた少年が秋葉の持つスマートフォンを覗き込んできた。まじまじと、画面に映る向こう側を眺めている。
先程の男同様、スマートフォンを初めて見たような反応で、興味津々といった様子だった。目が合うと驚いたのか咄嗟に体を離し、後ずさっていったが。
別に覗かれて困るようなものでもないし、そんなにバツが悪そうにしなくてもいいと思うのだが。
少年は気まずげに頬をかきながら、すぐに秋葉から目を逸らした。
「そ、そそそそういえば名前を聞いてなかったよな! いつまでも互いの名前を知らないのもアレだし。き、聞いたことがあるかもしれないけど……、俺はスレイヴ・ブリーゼっていうんだ。うん、あの、例の……」
例の、とはなんのことだろう。
はっきり言って聞いたことがないと言ったら、彼は怒るだろうか。初耳だった。いや、先程盛大に自ら叫んでいたような気もするから、知っていたといえば知っていたのだが。
スレイヴと名乗った少年は居心地が悪そうに、秋葉の様子を窺うようにチラチラと視線を寄越していた。
どことなく、怒られてビクビクしている子供のような反応にも見えてしまい、不思議に思う。名前を名乗っただけだというのに、なにをそんなに恐れているのか。
「スレイヴさん。……えっと、ごめんなさい。あの、私は初めて聞いたというか、もしかすると有名な方だったんですか?」
「……っ、いや、知らないならいいんだ! むしろ知らないでいてくれた方が俺としては助かるというか、めちゃくちゃ良かったというか! はぁ、変に緊張した……」
「私は、椎名秋葉です。秋葉が名前です」
「アキハ……。アキハ、だな。うん、覚えた。あの、よろしくな! これからも、末永くよろしく!」
ほっとしたような人懐こい笑顔を見せると、少年は秋葉の手を取り勝手に握手をし始め、ぶんぶんと大きく上下に振った。
しかし末永く、とはまたどういうことなのだろうか。そこに、どんな意味が込められているのか。
だが秋葉はなんとなく、感じていた。
図書室からどこか森の中へ一転したように、森の中から見たことのない街へと一瞬で移動してしまったのだから、嫌でも察してしまった。
もしかすると世話になるのはこちらの方ではないか、と。ここは確実に自分が住んでいた場所とは程遠い世界なのではないか、と。
不安と共に、彼女は薄々勘づいていたのだった。