第2章 第3幕 Hunting~to be continued
間もなく人事異動の内示日がやってくる。
そんなある日の夜、東京にいる佐治から弥皇宛にメールが届いた。和田が入力したデータベースを読んだらしい。
緑川の人事にはストップが掛けられたという。安倍の夫、佐藤のゴリ押しがあったようだが、どうやら人事サイドには佐藤のプライベート行動が筒抜けだということだった。
一職員のプライベート行動を知り得る人事サイド及び県の人事案を発表前に知ることができるサイコロ課って、途轍もなく凄い?と思いつつ、和田と麻田を呼び、佐治からのメールを見せた弥皇。
3人が頬を寄せ合うように近づき輪をつくりながら、警察官舎の廊下でひそひそトークを始めた。
麻田は人事サイド行動筒抜け説に懐疑的である。一方、弥皇と和田は人事サイドに対する評価を改めたようだ。
「人事サイドって、どれだけ情報掴んでるのかしら」
「相当のコネクションあるようだねえ」
「今は内部告発とか、メールで簡単にできちゃいますからね」
「我々警察も同じってことなの?」
「そうなりますね」
弥皇の一言で、麻田は輪の中から外れた。
内部告発か、穏やかならぬ響きだ。麻田は遠い過去が蘇るように感じて、その夜は眠りにつけなかった。ベッドの中で羊を数えつつ、夜明けを迎えたのだった。
さて、麻田と和田については緑川への心理潜入が巧く運んだようだ。脳裏に焼き付く役目を果たしたようである。
残るは弥皇だ。
弥皇は隣の部署にいるため、なかなか会うタイミングを合わせられずにいた。
どうすれば緑川の前に現れ、なおかつ結婚詐欺のカモとなるような男のイメージを植え付けることができたものかとシミュレーションしてみるが、そのチャンスが巡ってこない。
奴が餌食にするのは、どういう男性なのだろう。
サイコロ室の資料によれば、車でダイブした犠牲者は40代後半。
大人しく、仕事に対して真面目。周囲には優しい男性という評判。
勤務してからの交際歴は無し。
アルコールやたばこは、殆ど口にしない。ギャンブル癖もない。
ここ数年は、心療内科で心の調子を整える薬を処方されていた。
長男、嫁取りということで結婚が遅れたか。
根が真面目だから、女性に気の利いたジョークも言えなかったと見える。
(僕とは正反対のタイプじゃないか。女性との交際歴なしを除けば)
弥皇は焦りを覚えつつあった。他の職員や、別ルートでカモを探されてはミッションにならない。
まして、カモとしてのターゲットから外されれば、自分の沽券に関わるというものだ。
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇
「弥皇さん、聞いてくださいよ」
その日、緑川と飲んで夜遅く戻った和田が、弥皇の部屋で嘆きぼやく。
時間は日が変わろうかという頃だった。
「遅かったな。例のお祝いか?」
「ええ、全くの女王さま。ドSですよ」
和田の見立てによると、本性はまだ隠していると思われるが、仕草の一つ、言葉尻の一つまで、緑川の言いなりにさせるという。無理矢理、酒を飲ませようとする、酒が終わればゲームセンター。カラオケに行かなかったところを見ると、歌は苦手なのだろう。膨大な捜査資料にも歌の話は出てこない。
弥皇は参った、というふうに肩を竦めて見せた。弥皇は独りカラオケが大好き。間違えても、緑川を誘う際にはカラオケなどと答えてはいけないというわけだ。
そういえば、といった顔で弥皇が和田に聞く。
「全部でどのくらい使った?」
「今日は1万くらいです。皆、緑川が出しましたよ」
「行くとこまでいったら、それなりの出費になるな」
「なんですか、それ。怖いこと言わないでくださいよ。嫌ですよ、鶏ガラ見るの」
「和田くん。そういう時は、二人きりになれて嬉しいけれど、きちんと段階を踏みたいって逃げるんだよ」
「段階を踏む、ですか」
「そう。親に会うとか、指輪が欲しいって言われた時も、まずはその手で逃げろ」
「逃げられなかったら?」
「鶏ガラは、絶対に逃げるしかない。指輪は、『緑川さんに相応しい指輪を買えるほどお金がなくて。両親に仕送りしているんです』と誤魔化す。それでも、って言われたら・・・」
「言われたら?」
「経費で落ちるのか?指輪って」
「知りませんよ、サイコロ課に予算なんてないでしょ」
「じゃあ、自腹だな」
「勘弁してください。なんで僕が。仕事とはいえ、初めて女性に送る貴重な指輪が緑川になるのは我慢できません」
「これが僕たちの仕事だ。公僕と言う言葉を忘れないように」
げんなりと肩を落とし立ち去ろうとする和田に弥皇は不思議そうな顔をしながらなおも聞いてくる。
「僕らが警察庁から来てる警官だってことは緑川も知ってるんだよね」
「配属時にそういう挨拶しましたから、たぶん知ってるかと」
「君が警官だとして、自分が絡んだ犯罪を暴くかもしれない危険な相手、近づいてはいけない相手って思わないのかな」
「どうでしょう、その辺能天気っていうか、ただのバカですよ、ありゃ」
弥皇の思考にしてみれば、普通、犯罪者は警察と聞いただけで自分たちを敬遠する傾向が強い。
通常ベースなら本当にそのとおりで、よほど自分の犯した罪が暴かれるはずがないと言う自信がないと警察関係者は相手にもされないはずだ。
尻尾を掴ませるものかという自信の表れなのか。
何か秘策があるのだろうか。
弥皇はふと我に返り、和田に、緑川と遭遇できないと嘆いた。
サイコロ課時代から、余程のことが無い限り残業しない弥皇。こちらに来てからもその習慣は変わらない。
和田が言うには、緑川が庁舎から出て、家に帰るのは午後8時過ぎ。それまでは県庁の中で遊んで時間外手当を不当に受給しているという。
そのお金で休日は朝から出かけてハイブランドの物を買い漁り周囲に自慢しているのだとか。
弥皇の顔が段々鬼のようになる。目は三白眼となり、口元はへの字に曲がりだした。和田は弥皇を宥めながら、緑川遭遇作戦を伝授する。
「仕方ないですよ、午後8時過ぎに庁舎を出て、遭遇したら声かけて、緑川の向かう駅方面に一緒に歩けばいいでしょう、弥皇さん」
「犠牲者と僕の行動パターンや性格の余りの違いと、緑川拒否症候群が入り混じって、今、僕はシミュレーションが飽和状態なんだ」
「じゃ、僕が緑川に言いましょうか」
「おお、その手があるねぇ」
「知り合いとして紹介するくらいなら構わないと思いますよ。あとは弥皇さんの腕の見せ所ですけど」
「ついでに私からのコメントも付け加えて」
いつの間にか、麻田が弥皇の部屋に紛れ込み、地の底から這い出るような、電源を切ったテレビから出てくるような怖い声を出す。
「麻田さん、急に出てきたから吃驚しましたよ」
弥皇の言葉など、麻田は聞いていない。
「ジャブかませれば、必ず食いつくわよ。先日挨拶に来た秘書課の麻田係長と面識があって、先日廊下で会ったら緑川を綺麗な人だと褒めていた、と」
「火が付きそうな言葉ですね」
「完全にターゲット確定」
だが、3人の計画は直ぐに実行には移せなかった。緑川は次の日から、恒例の生理休暇が始まったのである。今週はもう出勤しないらしい。
女子職員の間で、噂が聞こえてくる。素知らぬ顔で理由を聞く和田。廊下の端で、何人もの女子職員が輪になり和田を囲む。
一種、和田が王様のハーレムのようにも感じるが、空気はそれを違うと物語っている。女性職員たちは和田そっちのけで緑川への口撃に忙しい。和田はどうにか突破口を開けないかと、そちらこちらに視線を送っている。
一人の女性職員と目が合い、早速口撃に乗じて緑川のことを質問する。
「緑川さん、身体が弱いんですかね」
「ずる休みよ、本人は至る所で自分は虚弱体質って言ってるけど。知ってるんだから、毎日適当に時間つぶして時間外手当もらって。でも休みの日になると必ず外に出て遊んでるのよ」
「そうなんですか。どうしてわかるんです?休日の行動」
「SNSにあげてるのよ。ご丁寧に自分の顔写真まで」
「そりゃ、わかっちゃいますね、誰でも」
「あ、内緒ね。貴男、彼女のお気に入りみたいだし」
「まったく。仕事は全部あたしたちに勝手に振るの、上司がいるのに」
「そういえば、上司の沖田さんとはあまり話しませんね」
「沖田さんは馬鹿を相手にしないから。ミーは嫌われているの」
「ミー?緑川さんのことですか?」
「エムって呼んだらバレバレじゃない。この部署で名字のイニシャルがMなのは彼女だけだし」
「じゃあ、僕は聞かなかったことにします。でも、噂は教えてくださいね。僕の先輩が興味あるらしくて」
「やっだ、また趣味悪いのが増えたの?それにしちゃ、此処に来ないわね。ま、いいけどさ」
和田は頷きそうになる自分を制するのに苦労した。こういう集団の中にいて、YES/NOを発するのは危険だ。発した時点で和田が言っていたことにされかねない。そのリスクだけは避けなければ。
緑川の居ないこの機に重要な情報を仕入れようと必死になっていた和田は、目の合った女性陣誰彼構わず聞きまくる。
「話は変わるんですが、先月かな、自死した職員さんがいるって聞きましたけど」
「ああ、ミーがカモにして捨てたって噂の彼ね」
「フラれて死ぬくらい、何か事情があったんでしょうか」
「親の金に手をつけたみたい。ミーに貢いで。で、勘当されちゃって」
「でも、独身の方でしたよね。もしかして結婚の予定とかあったりしないのかな」
「結納金にしたって今や200万から300万の間でしょ。貢ぎ過ぎだって」
「いくら貢いだんですか?」
「2千万くらい貢いだらしいわよ」
内心苦笑する和田。
噂と言うものは、段々尾ひれがついて広がっていくものだ。
これこそ伝言ゲーム。話を面白おかしくしたい、大袈裟にしたいという、内面心理の一端であろう。ある種、緑川への嫉妬もあるのかもしれない。
「僕の常識の範囲外でした。凄いんですね」
「噂じゃ、それ専用の通帳あるらしいって」
「貢がせるための?」
「そう。貢いだ相手と自分しか知らない口座」
「でも、偽名で振込もありでしょう?」
「いざという時の保険よ。本名で振り込ませるって」
「保険、というと」
「奥さんにバラすってこと」
「あー、なるほど」
「独身男性はまだしも、奥さんが怒るでしょ、そんなの」
「そうそう、普通なら離婚沙汰になりかねないもの」
「噂じゃあ、相当いるらしいわよ」
「へー、そんなにいるんだ。みなさん、お金持ちなんですね」
緑川のいない一週間は、情報収集の宝庫になった。
ミーという陰の名。僕等もこれからはミーと呼ぼう。
貢がせ専用口座の真偽。これは是非、通帳を押収して欲しいものだ。
貢いだ金の対価。どのような名目で車ダイブしたあの男性から800万円もせしめたのだろうか。
親から勘当されたのは事実なのか。親の金を使い込んだとなれば、搾り取れなくなって自死に追い込んだ可能性は十分にある。
物的証拠がなければ事件とは言えないし、結婚詐欺とは成り得ない。
何か、もう一つ、緑川が犯人であるはずの決定的なトリガーが隠されているに違いない。
週明け、緑川はいつもながらのプチ遅刻で出勤してきた。早速和田は緑川に近寄り、こっそりと『ご馳走さま』とお礼を言ってから、椅子に腰かけた。緑川は満足したようだった。そして、また行きましょうと、こともあろうに職場のメールを使って誘いが来た。
心の中では、いつもげんなりしている和田。
ドSというより、あれは馬の調教か何かの間違いのような気がする。そうだ、かつては自分ほど年の差がある年下男性と交際していたのなら、調教好きのドSということになるか。そんな年上の女なんて普通なら男の方から願い下げだけど。
困ったのは弥皇さんと緑川のアポイントメント。どうしたら緑川と引き合わせることができるだろう。
和田に一つの考えが閃いた。
廊下で出くわし長々と話すのは難しい。緑川がのってこない可能性もある。そこで目を付けたのが1階の珈琲ショップだった。珈琲ショップで、ばったりと弥皇に出くわす芝居を打つことができないか。
和田の計画は、いたってシンプルなものだ。
緑川は毎日、午前10時と午後3時の定時に仕事をさぼって珈琲を飲みに1階の珈琲ショップへ行く習慣がある。
和田は緑川の傍により、珈琲の香りを褒めちぎって一緒に連れて行ってくれと頼めば連れて行ってくれるのではないか。
珈琲の趣味の良さを褒められれば、緑川はいい気になって和田を珈琲ショップに誘ってくれるだろう。そこに弥皇をスタンバイさせておくのである。その計画をささっと陰でメールし、弥皇に知らせ、OKの返事が来た。
北の地に生まれたホームズは、いつも直球勝負。負けることを想定していない。
緑川に直接耳元で囁きOKの言質をとった和田。メールやSNSで形に残るのが何より嫌だった。
午前10時。緑川が席を立ち、1階の珈琲ショップに向かう。和田も素知らぬふりをし、後から続いた。
緑川たちが店に入った頃、弥皇は既に店の奥に陣取って珈琲を口にしていたのが和田からも確認できた。緊張の色が見て取れるが、それはそれで、演技っぽくなくていい。
緑川が珈琲2つを注文し、店内の中程にある自分のお気に入り席に座った。和田が珈琲を持って緑川の向かいに座ると、店の奥に陣取っていた弥皇がすかさず立ち上がり、和田の方に近づいてきた。すれ違いざまに、和田が声を掛ける。
「あ、お久しぶりです」
和田の声に気が付いた緑川が弥皇の方をちらりと向いた。
「こちらの人は?和田くん」
「こちら、警察庁の先輩で、えーと」
「弥皇と申します。東北への出向は初めてなのですが、こんなお綺麗な方がいらっしゃるとは。本当に今回の出向は、僕にとって幸せの極みです」
「緑川と言います。和田くんの先輩?今度一緒にお昼でもいかが?」
「ええ、是非!」
弥皇はうるうると目を潤ませている。
絶対目薬仕込んだな、と和田は思ったが笑ってはいけない。表情も、いつもどおりでなければ。ミーは鼻が利きそうな予感がする。どこで自分たちの作戦を嗅ぎつけるかわからない。
昼食の約束を交わし、店を出てトイレに向かった弥皇。電話を出し、メールする。
(緑川と昼食の約束取り付けました。向こうが主導するものと思われます、どうします?)
メールの宛先は、麻田だ。
(初日に私が出たら、貴男を印象付けるチャンスにならないので、遠慮)
(はいはい)
数日が過ぎた。只管に弥皇は待つしかない。和田ですら、その話題を緑川に振ることができない。
仕方がない。和田は緑川に、美味しい昼食を食べたいと話を振り、緑川がその気になって動き出すのを待った。
和田の予想どおり、昼食の日時と店は緑川が選定した。
和田は弥皇も一緒にと必死に頼み込む。初めは渋い顔をしていた緑川だったが、和田の必死さに折れた、というよりは和田に貸しを作りたかったのだろう。
翌日、県庁から離れたホテルのラウンジで、3人で昼食を摂ることで話は纏まった。
指図されたり決められたりするのを、一番嫌うサイコパス。だから和田は必死に頼みこむしかなかったのだが、和田の心の内は激しいぞ唸るものが溢れ出しそうになっている。
なぜ自分がこんな鶏ガラのために一生懸命演技をして、女王様のご機嫌伺いをしなければならないのか。一体いつまでこんなことが続くのか。
翌日の昼、緑川から告げられた待ち合わせ場所に急ぐ弥皇。遅刻などしようものなら、緑川に良い印象を与えられない。サイコパス達は、自分が遅刻するのは良くても、相手が遅刻するのを大いに嫌う節があるのだ。
待ち合わせ場所は1階の珈琲ショップの前だった。
良かった、和田と緑川はまだ到着していない。階段を急いで下りて来た甲斐がある。昼時のエレベータは、満員電車並みに込み合う。緑川の性格からして、階段を下りてくるはずもない。必ず和田を伴ってエレベータに乗ってくるはずだ。
いわずもがな。
エレベータの方向から、和田を後ろに従えた緑川が姿を見せた。
速足でそちらに向かう弥皇。
「こんにちは、緑川さん。美味しいランチのホテルだそうですね。楽しみです」
さて、次はどう出ようか。
考えあぐねていると、緑川が弥皇に話しかけてきた。
可愛らしい、人懐っこい笑顔である。弥皇の名札をまじまじと見つめる緑川。
「弥皇と書いてみなみ、って読むの?珍しいのねえ、出身はどこなの?」
弥皇はカチンとくる。みかみと教えただろう。なんで南になる。
そこで顔に出してはいけない。にっこり笑って緑川を見つめる。自分の芝居は主演男優賞モノだと思う。
「両親は北関東にいますが、先祖は近畿方面だと聞いています。皇室に所縁のある職に就いていたのでしょう」
「私、大学時代は文学部で日本史専攻だったし、歴史とか英語とか成績良かったから。わかんないときはいつでも聞いて」
「恐縮です、もしよかったら、またこうしてお時間くださると有難いです」
「こちらこそ。で、何食べる?」
「緑川さんのお薦めなら、どれも美味しいでしょうね」
「じゃあ、任せて」
「そうだ、メールのアドレス、交換していただけますか」
「あら、いまだにメールなの?古いわね」
「普段からSNSとか使い慣れないもので。今度それも教えてください」
その後、和田と一緒にではあるものの、弥皇は緑川と珈琲タイムや昼食を一緒にするようになった。皇室所縁の一言が効いたに違いない。
だがまだ、財産を聞くような真似はしてこない。
それが緑川の詐欺方法なのか。
一緒にいるときは一瞬たりとも気が抜けない弥皇がいた。
一方で、歴史が得意と言う緑川が嘘をついていることが判った。古代に始まって、中世、近代、何もかもが中途半端な知識しか持ち合わせない緑川。下手に質問して返答に窮するシチュエーションだけは避けなければ。
弥皇は常に気を遣うことになった。
緑川や和田らと昼に食事を一緒にするようになったある日、警察官舎に戻った弥皇は、体中から憮然としたオーラを放っていた。
原因は勿論、緑川だ。
麻田の部屋に向かい、コンコン、とドアをノックする。
果たして、麻田は帰宅していない。一度自室に戻ると、1時間後にまた、麻田の部屋をノックする。今度はドアが開いた。
「麻田さん、弥皇です。僕の部屋に来ませんか。和田くん、まだ戻ってないんですけど」
「どうしたの、珍しい」
「ヤケ酒気分ですかね」
「貴男が私の部屋に入るよりは、私が行くわ。娯楽室で酒飲んで、万が一にでも何か叫んだら不味いしね」
弥皇は先に自室に戻った。パジャマ用ジャージのようなだらだらとしたジャージを着ていた麻田だが、外出用ジャージに着替えたらしい。5分ほど遅れて弥皇の部屋のドアを叩いた。
弥皇が静かにドアを開け、麻田を部屋に招き入れる。部屋の中を覗いた麻田は素直に驚いた。
男性にしては、と言ったら失礼だが、整理整頓の行き届いた部屋。
ライトや時計など、小物の選定はファッショナブルでいて、カラーリングもモノクロームグラデーションによる絶妙なコントラストを描き、その中に1カ所だけ明るめの色を加え、居心地の良さを与えてくれる。
それでいて、機能面でも一定以上のラインを保つ。
妥協を許さないセンス。そのセンスに支持された物だけが、これまた機能的な位置に、きちんと置かれている。
「あら、予想外」
「部屋ですか。麻田さんのことだから、僕はチャラチャラと適当に買い求めてると思ったんでしょう。でなきゃ、すごく汚いとか」
「いやあ、本音を言えば。見直したわ、良いセンスしてる」
「あ、麻田さんが初めて僕を褒めてくれましたね」
屈託のない笑顔で弥皇が笑う。
しかしその笑顔は直ぐに消え、その目には暗い影が宿る。重々しい口調で弥皇は話し始めた。
「麻田さん、僕ね、妥協できないんですよ」
「何に」
「さっきから、何かこう、腹立たしいような、果てしなく疲れたような気分が渦巻いて」
「だから、何にそういう気持ちを持ったわけ?」
「ミーです」
「ミー、っていうと、あのミー?」
「そうです。歴史の歴の字も知らない女が、歴女気取りで僕に蘊蓄たれやがる」
「弥皇くん、もう飲んだの?」
「いや、これからです」
「深酒は止めなさいよ。明日以降もミー周辺をうろつくんだから。和田くんのところに行けばよくなった分、楽になったでしょう」
「あのつまらん話の、どこが良くて骨抜きになるんです?」
「綺麗だって、鼻の下伸ばしたじゃない。皆で」
麻田が意地悪ばあさんのようにメガネをずり下げ、右肘で弥皇を小突く。
弥皇は恥ずかしいといった素振りで、両手を頭の後ろで組んだ。その手を前で組み直し、左手を右手で抓る動作を繰り返す。
ありったけの溜息をつく弥皇。
深く、そして長く。
苦労の絶えない弥皇と和田に対し、まだ何も起こらない自分は何て呑気な毎日なのだろうと反省しつつも、早く緑川の尻尾を掴みたいと焦っている自分を冷静に捉えている麻田は、弥皇が買ってきた焼酎を水割りにして2人で飲み始めた。
2人とも、言葉を発しようとはしない。焼酎をグラスに次ぎ、水を加え、一気に飲み干す弥皇。少しずつ口に運ぶ麻田。それ以外の物音は部屋の中から遠ざかり、官舎沿道のクラクションの音が聞こえるだけ。
誰ともなく、口を開いたのは弥皇だった。
「これまで、色んなカテゴリを見てきました。僕はいつだって相手を敬いつつも、距離を置いてきただけなんです。ミーのような阿呆は、カテゴリ未満。写す価値なし」
「3流以下ってこと?」
「そうです、あんなに阿呆だと、話題にも一苦労なんですよ。こっちが知ってる、ということを悟られてもいけないでしょう」
「確かに。こっちが勝っていたら、その時点で外れ確定するわね、恥かかせられないから」
「でしょう?例えばですよ、邪馬台国は何処に在ったと思います?」
「私は九州説ね」
「僕は畿内説なんですよ、自分の系譜も含めて。そこから話が発展するでしょう、普通」
「ミーはどっちだったの」
「邪馬台国さえ知りませんでしたよ、ミーは」
「はあ?知らないことは無いでしょう、仮にも日本人なら学校で習うじゃない。場所は別としても」
「焦りましたよ、恥かかせられないし。なんのことは無い、この県で有名な武将がいましたよね。確かゲームとかにもなった」
「ああ、いたいた。片目の武将と優秀な家来」
「商業関連部署にいたとき、少しだけ仕入れた蘊蓄を我が物顔に話すんですよ、ドアホが」
「あまり嫌っても駄目よ、顔に、特に目に出るから」
「明日から気を付けますから、今晩だけは本音を吐露させてくださいよ」
「はいはい、わかったわ」
「麻田さんはメガネ取ったら美人なのに、どうしてガードを固めているんです?」
「弥皇。お前。酒の勢い?言いたい放題じゃないの」
麻田は眼鏡の縁をいつもの癖で親指と中指を使って押し上げる。
弥皇は顔色こそ変わっていないが、麻田には、弥皇が相当酔っているように感じられた。
「はは。明日からいつもの僕になりますから。まったく、今回の任務ほど馬鹿らしいものは無い。でも、誰かが傷つく恐れがあるでしょう、阻止しないといけない」
「そうね、普通なら移動任務はあり得ない。助けられる命があるってことなのよ、きっと」
「僕が近畿の皇家所縁の末裔だって話したら、食いついてきましたよ。金目の話にね。僕、本当は二男ですけど嘘ついて『長男で節税対策に勤めているだけ』って言ったら、もう目が爛々」
「皇家所縁は本当なの?」
酔っ払いの、にっこり笑い。
「ホントです。色んな所縁があるでしょう。今度ご一緒にいかがです?」
そこに、部屋をノックもせずに和田が息を切らして飛び込んできた。弥皇は何故か慌てている。麻田はのんびりしたものだ。
「なんだ、和田くん。ノックもしないで」
「お帰り、和田くん。お先に飲んでたわよ」
「二人とも、のんびり酒飲んでる場合じゃないですよ!ミー関係の骨抜き退職組、練炭で自死しました」
「なんですって?」
弥皇と麻田ののんびりムードも、刃が空を斬る如く掻き消された。
「練炭?なぜ足が付くような真似を」
「今はわかりません。ここの県警本部からは連絡ないんで、本庁からの連絡待ちです」
その晩遅く、データベースに入力したという佐治からの連絡を受け、三人はデータベースをタブレットで見る。
被害者は、安倍先輩を叱責し、その後も緑川に付きまとっていた元上司だった。3日前、緑川の通帳に1千万円の振り込みが為されていた。
暑さ寒さも彼岸まで。
季節は冬から春へと移動しつつあった。
それは街中だけのことである。この地方は海と山に囲まれた地形で、山にはまだまだ雪が残る。
元上司は自宅が自然豊かな場所にあるらしく、自宅から10数キロ離れた雪山に車で練炭を持ち込み、車は内側から目張りされていた。内側から鍵をかけ、練炭と着火剤の入った七輪に火を放ったものである。自殺サイトを見たと思われ、そのページコピーと、ご丁寧に水入りやかんまで用意していた。
睡眠剤、抗不安剤、アルコール、吐き気止め用の二日酔い止め剤と乗り物酔い止め剤の成分が胃の中から見つかった。
緑川に会った頃か、その前後に精神不安定になった時期があり、この元上司も通院歴があった、現在も通院している。今回、遺書は見つかっていない。
同日、Nシステムで元上司の向かった山麓に、緑川が往復していることが確認されている。このことから、山の麓、人目に付かない場所での密会を持ちかけた緑川が、最初にアルコールと薬類を飲ませ、相手が寝入ってから七輪などを助手席に準備して火をつけ、犯行に及んだとみられる。七輪や練炭、やかん、目張り用ガムテープ、アルコール、酔い止め薬など、緑川が準備したであろう品々については、購入記録を照会中。
なお、元上司の車の鍵は見つかっていない。
「嘘みたいだ。昨夜のうちに事件を起こしてたのか」
弥皇が我を忘れたように呟く。
麻田はここでも冷静だった。
人事カードによっては止めるつもりもあったのかと訝る弥皇に、麻田は、人事がどうあれ犯行には踏み切っただろうと推測する。和田も同意見だ。
「方法は以前の練炭殺人事件を模倣したのでしょうね。金の振り込み時期からして人事が原因じゃなく付きまといに嫌気がさしたんでしょう」
「あの料理人カテゴリ同様、自分も逃げ切れるって?そりゃ甘いですよ。あの料理人は凄腕のサイコパスだ。ミーと比較できるような相手じゃない」
「ミーから心中を持ちかけたかもしれないわ。結婚するためのお金を巻き上げてから結婚できない状況作って、貴方と一緒になれないなら、って言えばいい。お金は全て骨抜きに準備させられるでしょう。墓場まで持って行こうとしたはずよ。車の鍵だけは今もミーが持っているか、途中で捨てたか。それなら、アリじゃない?」
「ミーって馬鹿ですね。Nシステムの知識もないんでしょうか。地図を見る限りでは裏道なんていくらでもあるのに」
「雪があるだろう。山麓に行ったことがないから不安だったのさ。途中で車が転げたりしたら、言い訳できないだろう?スキー場とも逆方向だし」
重苦しく流れる空気。犠牲者を出さないために着たはずが、出てしまった、犠牲者。いくら安倍先輩を潰した直接のトリガーとはいえ、緑川のサイコパス犠牲者の線が濃厚だ。
「あ、佐治さんから続報です」
また、各々データベースを確認する。
「何だって?」
「まさか」
「安倍先輩が同じものを購入している?練炭と七輪」
「薬類も持ってるし」
「Nシステムは?」
「安倍先輩は発病後、すぐに車の運転を止めたそうです。免許の更新だけはしてますが」
「なら、レンタカー。よほど慣れてないと雪道は走れないわよね」
「レンタカーを今照会中のようです。けど、安倍先輩は雪道大嫌いだったみたいですよ」
「どうしてわかるの?」
「雪道で五回ほど自損事故起こしてます。注意力も学習能力もないなあ」
「僕だって雪道はイヤだよ。絶対に走りたくない」
「簡単とは言いませんけど、注意さえすれば走れるものですよ」
「和田くん。簡単に言うけど、南の地出身者にはそれが無理なんだよ」
また、佐治から続報が入る。
安倍先輩名義でレンタカーを借りた記録は残っていなかった。借用記録に名前が無いほか、Nシステムにもヒットしていない。
また、アリバイが確認されている。家人と、向かいのマンションに住む人物の証言によると、安倍先輩は、当日在宅しており、パソコンの前に座っていたという。
安倍先輩は、以前にも農薬や硫化水素の材料まで買い込んだことがあった。鬱病と診断されていた時だ。記録を辿ると、かれこれ5年ほど前になる。復職時には処分した、と職場の友人に告げていたらしい。
今回の事件とは関係性が薄いものの、こちらもきな臭い動きだ。
何れ、一刻も早く緑川の犯罪と立証するためには、何らかの証拠を掴まなければいけない。3人共に、表情に焦りの色が滲み出ている。
弥皇も、すっかり先程の酔いから覚めた様子だ。
「私の情報、流してちょうだい」
「僕は和田くんのところに通い詰めて、ミーを誘いに乗らせよう」
「僕は引き続き様子を見ながら情報収集します」
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
翌日。
部署は元上司の噂で持ちきりだった。関東や関西で起こった事件と類似していることから、緑川に疑いを向ける女性たちもいた。
しかし、目の前で言えば、自分が骨抜き上司のターゲットになるのを察知しているのだろう。緑川が遅刻して出勤すると、皆、固く口を噤んだ。
緑川が、周囲の重苦しい空気に反応を見せる。
「和田くん、どうしたの?この部屋、空気重くない?」
「なんでも、昔の上司がお亡くなりになったとかで」
「ああ、新聞に載ってたやつね。あの人嫌いだったし、罰が当たったんじゃないの」
「悪い人だったんですか」
「私、日中から口説かれて大変だったの。噂じゃ退職してから精神的に参っていたみたいよ」
「そうでしたか」
思い出したように和田が緑川の方を向いて無邪気を装い、にっこりと笑う。
「秘書課に配属された麻田係長と、昨日廊下ですれ違ったら、美人さんの隣でラッキーねって言われました」
緑川は平静を装うようにしながらも、口の端が片方だけ上がり、目はギラギラとして、嫉妬の炎が燃え盛っているのを和田は見逃さなかった。
「あの女性係長と弥皇さんとは、知り合いなの?」
「さあ。顔見知りらしいけど、どうなんでしょう」
和田の、プラマイゼロの完璧な答え。
緑川の聞きたかったのは、和田や弥皇と麻田の親しさの程度である。それを、どうなんでしょうと煙に巻いた。どちらかわからないが、仲が悪いとは言っていない。今も緑川の目の奥に、炎が見え隠れする。口元が歪み続けるのがわかるほど、効果的な言葉だったようだ。
突然やってきて、あたしの行きたい場所を占領した女。髪がさらさらとして、あたしのくせ毛コンプレックスを嫌と言うほど刺激する女。それが、あたしよりも人気があるはずがない。弥皇と仲が良いなら、弥皇を誑かして骨抜きにしてしまえ。そう思ったのかもしれない。
「ね、今日も帰り、行かない?」
「あ、はい。そういえば、弥皇さんがご一緒したいって」
「向こうは別の日に。今日は貴男だけ」
「日取りだけでも決めていただけると有難いです。弥皇さん、緑川さんに夢中なんです」
「あらそう。じゃ、明日って伝えておいて」
「ありがとうございます。弥皇さん、会うといつもせがむから安心しました」
その日、緑川は相変わらず仕事もしないで暫く何か考え込んでいた。
和田は隣で仕事をしながら、麻田さんを追い落とす算段を模索しているのだろうと揣摩臆断した。
緑川にとって麻田さんは邪魔者でしかなく、もし今、麻田さんが何らかの不祥事で失脚すればその椅子を狙える可能性がある、と踏んでいるのだろう、と。
それは全くのお門違いで、元々が麻田のために新設した役職だから居なくなれば椅子は消えるだけなのだが。
仕事を8時まで手伝わされた上に、また酒の席に誘われた和田。
今日もか、と思う。
仕方なく後をついて夜のネオン街に入る。今日は、カウンター席。緑川のボディタッチが五月蝿い。兎に角、五月蝿くて仕方がない。小バエみたいだと思いながらも、笑顔を振り撒いて過ごす和田。此処は耐えろと先輩たちが言うからだ。
1軒で11時近くまで飲んだ後、緑川はこともあろうに「帰りたくないわ」と言い出した。和田、操の危機である。連れて行かれる方には怪しいネオンが立ち並ぶのが見える。
不味い。
和田は携帯電話を二台持ちしている。一台は一般用、一台は秘密のサイコロ課専用だ。
コートに手を入れて、秘密の携帯電話を駆使しながら、人前に出している方の携帯電話のコールを鳴らす。
「あ、すみません、電話が。少し待ってくださいね」
少し離れつつも、緑川に聞こえるような声で話す。
「はい、はい、今からですか?酒入ってますけど。はあ、はい、はい。わかりました」
緑川の元に戻って、すまなさそうに詫びる和田。
「上司からで。東京から先程こちらに着いたそうで、迎えに来いと言われまして」
「みなみさんとか、秘書課のメガネじゃ駄目なの?」
「あの二人は、警察庁では僕と違う部署なんです。今日の上司は直属で。警察の階級って厳しくて、上下関係は凄いですよ。その中でも出世頭の上司なので、僕はラッキーなんです、目を掛けて貰えて」
「じゃあ、仕方ないわね。今度付き合ってね」
「タクシー探しましょう。最初に緑川さんに乗って貰えれば安心です」
「ねえ、これからも付き合ってくれるでしょう」
「勿論です、でも僕。結婚前の行為、そういうのは自分の中で許せないものがあって」
「どうして?私が良いならいいじゃない」
「大切に思えばこそ、です。もし僕が悪い奴で、女性の体目当てに近づいて、心も体も乗っ取って、そのまま逃げたら女性に対して失礼じゃないですか。僕は行動に責任を持ちたいと思っていますから」
と、弥皇譲りの講釈を受け売り垂れ流し、緑川をタクシーに乗せ、見送った。勿論ナンバーは把握済みだ。
そのあと、自分は違う場所に移動して、タクシーを捕まえた。鏡を手に。緑川が追いかけてきていないか確認するためである。流石に緑川も、其処までは頭が回らなかったのだろう。
しかし、緑川が酔っていなかったのは、その目を見ただけで和田には判った。
かろうじて、警察官舎が一般人には容易に入れる場所ではないことだけが救いである。
官舎に戻った和田は、くたくただった。緑川の相手は疲れる。緑川信奉者や崇拝者なら、なんとかホイホイのようにベタベタくっついていくのだろうが。
一方その時間、弥皇の一般携帯には、緑川からのメール着信があった。
(今度、夕食ご馳走になっていいかしら。勿論、お酒付で)
ご馳走ね、と思いながら返信する。
(ええ、是非!こちらは初めてなので、お店さえ選んでいただけければ)
(ホテルのディナーでもいい?)
(勿論です、貴女の前にはどんな景色も色褪せるでしょうけれど)
(じゃあ、明日の午後6時半に。待ち合わせは、駅前に武将の銅像があるから、そこで)
(はい、遅れないように行きます)
(楽しみにしているわ)
メールが終わった直後、和田が官舎に帰って来たらしく、弥皇の部屋に顔を見せた。和田は半べそだ。
「操の危機でした」
「上手く逃れたな」
「弥皇さんのお蔭です、感謝します」
「その代り、僕に奢って欲しいそうだ」
「連絡来たんですか。いつです?場所は?」
「明日、ホテルのディナー。そのまま部屋に引きずり込むんじゃないだろうな」
「わかりませんよ、少しサービスしてから首根を捕えて鎖でつなぐ。そんなインプレッション、感じます」
「面倒過ぎる。阿呆とは話したくないんだが」
「まあまあ、堪えてください。任務ですから」
「なんでサイコロ課があんな阿呆に振り回されるんだ?」
「サイコパスと言う確証を得るためでしょう。囮捜査じゃないですし」
誰かがコンコン、と弥皇の部屋をノックする。そっと開けるとそこにはフランブルクの姿があった。
「これ」
言葉少なに資料のみを弥皇に渡し、風のように去る。
資料を開くと、セキュリティ番号が表示されていた。データベースに資料を入れたのだろう。早速、帰ってきたばかりでスーツ姿の麻田も呼んで3人でデータベースをチェックする。
「金蔓は弥皇さんに絞られたみたいですね」
「憎しみのターゲットは、まだわからないか。私の名前は出したでしょう」
「はい、苦々しげでした」
「待っていれば向こうから仕掛けてくるわね」
緑川に振り回され結構な時間を費やしていた3人は、すっかり忘れていた。明日は人事異動の内示日だった。3人は着たばかりなので、近頃、周囲がそわそわしている原因が理解できなかった。
どうやら、人事異動は一大イベントらしい。警察庁あたりも同様なのだろうが、サイコロ課の面々にはドキドキ感というものが無い。サイコロ課が存続さえすれば、皆、それで満足なのだから。
翌日夕方、人事異動の内示が行われた。
勿論、緑川が秘書課の係長に異動する内示など、天地がひっくり返ってもある筈がない。今の福祉部署に残留した。緑川の悔しがりようといったら、尋常ではないのが誰の眼から見ても一目瞭然、誰も緑川に話しかける者はいなかった。
心底悔しかったらしく、持っていた内示書を廊下の隅でビリビリと破いているのを和田が目撃した。その後部屋に戻ってからは平気を装っていたが、言葉の端々に冗談めかした陰険さが目立った。
例えば、隣の人間が地方事務所に内示が出た。その職員にはこうだ。
「あら、残念ね。外回りで」
向かいの女子職員には、こうだ。この職員は本庁の三階に内示が出た。
「あら、あの部署って評価低い人が行くのよ」
その後、弥皇に会った和田が耳打ちする。
「ミー、荒れに荒れてますよ、今日。大丈夫ですか?」
「話聞いて、それからだねえ。約束したから行くしかないでしょ」
「危ない時は逃げてくださいよ」
夕方、弥皇と和田両名に麻田からメールが着た。
(秘書課に美人で有能な江本という職員が転入。ターゲットになる可能性、アリ)
弥皇も和田も、その職員に魔の手が伸びないようにするにはどうしたらいいのか、知り合いも少ない今、妙案が浮かばない。
ソンウさんとフランブルクさんは、どこか他からの指示で動いている。連絡も取れない現状で、彼らを頼るのは無理だろう。どちらかフリーなら手もあろうが、男性陣はどちらも緑川の周辺を探っている。
もう一つ身体が欲しいと願う男性2人である。
麻田からのメールを見てからしばらく考え込み、弥皇は約束の時間10分前に待ち合わせ場所に着いた。
もちろん緑川は、いない。
30分が経過したが、来ない。
生憎、弥皇は緑川の携帯番号を知らない。知っているのはメールのアドレスだけだ。和田に聞けばいいのだろうが、緑川の心情を考えれば、こちらから連絡を取るのは憚られた。
それに、怒りに震えて人前に出られる状況ではないのかもしれない。和田には緑川の動きを監視させているから、動きがあれば何か連絡があるだろう。
2時間、ぼんやりと待った。待たせて、待たせて、相手の反応を見る可能性もある。終電までは待たなくてはなるまい。
3時間が経とうかと言う頃、漸く緑川が現れた。息せき切って走ってきたようだ。ま、それもこの何十メートルをダッシュしただけで、その実は悠々と歩いて来たのだろうが。
「ごめんなさあい。みなみさあん」
弥皇は、緑川の体調を心配したと言おうとしたが図星になりそうなので敢えて避けた。
「待ち合わせの場所を間違えたかと心配したんですが、携帯の番号を知らなかったので」
「あら、和田っちに聞けば良かったのに」
心の中で、目が点になる。
(和田っちだと?和田が聞いたら憤慨するな)
「そうでしたね。いやあ、思いつきませんでした」
「もう来ないと思った?」
「どうでしょう。僕が待ちたいと思った限りは、何時まででも待つつもりでいましたが」
「嬉しいわ。ホテルのディナー、もう遅いわね」
「緑川さんとご一緒なら、何処でも構いません」
「じゃあ、ホテルの最上階にワインバーがあるから、そこに行きましょ」
駅のタクシー乗り場からホテルの名を告げ、エントランスまで乗り入れる。
「釣りは要りません。お気を付けて」
タクシーの会社名、ナンバー、ドライバーの氏名、皆記憶する。
着いたのは外資系のホテルで、確か東北初、秋にオープンしたばかり。最上階には、東北初上陸の有名飲食店が軒を連ねる。このワインバーもその一つだ。
「いらっしゃいませ、ご予約ですか?」
「いえ。空いているなら、夜景が綺麗な席を」
弥皇はそう答え、ボーイのあとをゆっくりとした足取りで付いていく。
ちょうど時間帯が良かったらしく、夜景の見える席が空いていた。
「わあ、ここのホテル、初めてなの。夜景が綺麗」
「緑川さんの美しさには夜景も霞みますよ」
「あら、お世辞?」
「僕は正直だけが取り柄ですから」
「お上手なのね」
「本音ですよ」
弥皇は心で呟く。
(本音を言えば、僕はここから一刻も早く逃げたい)
「じゃあ、いただきましょうか」
「ちょっとしたお料理も。ワインは赤にしますか?白にしますか?」
「お肉が食べたいけど、お肉には赤ワインなんでしょう?」
(行儀作法の時間じゃあるまいし、どっちだっていいだろうが)
「じゃあ、赤ワインにしましょうか」
「ううん、やっぱり白ワインが飲みたい」
「わかりました」
すっと横を向いて、こちらを窺っているボーイさんに目で合図する。
「白ワインに合う、こちらでのお薦め料理は?」
「ほんのり火加減の鯛のメドレーや、鱚と茸のクリーム煮 パイ包み焼き、伊勢海老のタルタル キャヴィアと黒トリュフの競演、といったところでしょうか」
「どうします?緑川さん」
「全部貰ってもいい?」
「ええ、では、今のお料理全て。ワインはお任せします」
ボーイが去った。緑川が不思議そうに弥皇を見る。
「どうしてワインもお薦めを聞かなかったの?」
「ホテルの格を見るためですよ。料理に合わないワインなら失格ですからね」
「そうなんだ」
「一流と名乗るなら、その誇りを持って料理とワインをセッティングするものです」
まず、ソムリエがワインを持って弥皇たちのテーブルに近づいてくる。
ブショネのワインか否か、コルクの匂いを嗅いでいる。どうやら、コルクに問題はなかったようだ。
次に、テイスティングである。
弥皇は気障にするつもりも、気取っているつもりもないのだが、匂いを嗅いだり口に含んだワインを舌で転がす動作、それらが嫌味なく、いちいち決まって見える。一連の動作をスマートに済ませ、ソムリエに微笑み、YESの合図を送る。
ワインの銘柄や年数なども説明を受けたが、ただ頷くだけで、弥皇は聞いていなかった。目の前にいるこの女に説明して解るはずもなく、それなら、耳に入れないでおいた方がいい。
麻田さんならこういうところでワイン談義が出来るだろうに。
「かしこまりました」
ソムリエが去って行くと、緑川が満足げに笑っている。
「弥皇さんってもしかして、お金持ち?」
「いいえ、全然。手元にお金ないですから」
「手元、ね。今のなんだっけ、ワインのソムリエの。あれなんて、すごく慣れてた」
「ああ、こういった場所には、たまたま通い慣れているだけですよ」
(相手はいないけど、いつも一人だけど、嘘じゃないし)
「ワインも料理に合うようです。楽しみに待ちましょう」
人事異動の内示があった当日にも関わらず、緑川は一切その話に触れなかった。相当やっかみを持ったに違いない。ターゲット保護の方法を考えなければ。緑川の幼稚な話に合わせつつ、弥皇の頭はそのことで一杯だった。
2時間ほど、その店で寛いだ。もうすぐ終電の時間だ。緑川はどう出るか。
「あ、終電。帰らなきゃ」
「そうですね、ご家族も心配されるでしょう」
「じゃ、また今度」
緑川は、いかにも横で弥皇を待っているようだったが、その実、支払方法を確認しているのが見て取れた。
弥皇は、財布からプラチナとブラックカードを出した。そして、ブラックカードで決済した。
庶民の噂に上る、いや、ある意味都市伝説と化している、プラチナカードとブラックカードである。カード会社からの招待を主とするプラチナカード。そして、何よりカード会社から招待されない限り、その存在すらわからないとされるブラックカード。
超のつくお金持ちしか持てない、持つことすら許されないといわれる、2種類のカード。
カードを見た瞬間、緑川の目は爛々と輝き、口元はまるで切り裂き魔が相手を仕留めるときにニヤリと笑う、そんな風貌。
美人とはお世辞にも言えない、浅ましい本性が湧き出ていた。
夜も遅く。弥皇がこれまた憮然とした表情で警察官舎に戻ってきた。
麻田と和田は、緑川が怒りのあまり弥皇との約束をすっぽかしたのではないか、よしんば約束を守っていたとして、弥皇が待ちくたびれなかったのかと心配していた。
じらせるか、怒りを収めるかどっちかだろうと思ったから、想定内だという弥皇に、ほっとした様子だった。
「よく3時間も待ったわね。店閉まるじゃない。どこで飲んだの?」
「ほら、新しいホテルが出来たでしょう。そこのワインバーで。普通にワインとつまみで。トドメがブラックカード」
麻田が呆れた顔をする。
ミー如きにブラックカードを使うのかと言った顔をして弥皇の胸を何度も突き、挙句カードを見せろと命令する。弥皇は財布を隠そうとするが、麻田に見つかって没収された。
「あんた、マジ持ちしてんの?私、持ってる人に、初めてお目にかかったわ」
「もひとつありますよ、とっておき」
「とっておき?何?」
「ナイショです」
「そりゃ楽しみね。で、秘書課の話よ」
麻田によれば、水星の如く現れ秘書に抜擢された江本。彼女本来の姿は、なんと、現職警察官である。警察庁が直々に派遣したS、二名の片割れだという。もう一人Sがいるということだ。
県警本部も、先日の山麓殺人とみられる事件で緑川へのマークを厳しくするとともに、サイコロ課の若輩者3人では、逆にミイラ取りがミイラ、いや、失礼、緑川の術中に嵌るのではないかと危惧したようで警察庁に相談を持ち掛けたらしい。
そこで、Sの女子警官二名とSP二名を派遣というのが顛末だ。
Sと言っても、実質SPに近い存在で武術に優れたツワモノ女性たち。周囲をSPが囲んでいる限り、刃物程度のストーキング連中なら、十分身の安全を守れるのだという。
「皆、名だたる大会の記録保持者みたいよ。格闘系にも秀でているの。私たち、そろそろ帰り支度かもね」
「そっちは証拠作りで、その心理を暴くのが僕らの仕事じゃないですか」
「そりゃそうだね、和田くん」
「そうね、私もSPに守られたいわあ」
弥皇と和田が、どんぐり眼で麻田を見る。男性2人が、ズズズッと音を立てて後ずさる。
「麻田さん、彼女らを倒すくらいの猛者でしょう」
「僕も知ってますよ、有名ですもん、何名もの男性が意識消失って」
「あれは。たまたま相手が失神しただけよ」
「と、言うことにしておきましょう。また明日から、戻っておいでコールが来るまで働きましょうね。麻田さん、弥皇さん」
「和田くん。ミーの取引銀行、知っているか?」
「確か、大小銀行の県庁支店だったと。僕が通帳作るって口走ったら、大小にしなよ、あたしもだから、って言いました」
「そうか、ありがとう」
「弥皇くん、どうしたの?」
「だから、とっておきですって」
そのまま弥皇は部屋を出て何処かに消えた。
麻田は朝寝朝湯と、まるで爺やのような生活。
和田は情報のデータベース入力に忙しい。
弥皇は昼過ぎに戻ったようだった。
麻田が朝湯を止めて部屋に戻った。洗ったばかりのサラサラとした髪。まさに一本一本が艶を帯び、それだけでも十分に色気があるのだが、本人は殊更、化粧や髪など、女の武器ともいうべきアイテムを覆い隠そうとする。
その行為が、逆に武器を目立たせる場合もある、ということを、どうやら理解していないらしい。
顔の火照りもそのままに弥皇の部屋に乱入した麻田がニヤリと笑う。和田も弥皇の帰宅を待っていたようで、すぐに姿を現した。
「で、弥皇くん、とっておきって何?」
「そうですね、弥皇さん。こちらも万全の態勢でジャストなタイミングを計る必要がありますから、教えてください」
「仕方ないなあ。最後に『おーっ』って言わせたかったのに」
麻田と和田が、口に手を当ててプッと笑う。
「実はね、佐治さんから連絡入ってるの。こないだも和田くんに銀行聞いてたでしょう」
弥皇は肩を落とす。
「バレバレかあ」
「見せて」
弥皇がバッグから取り出したのは、小切手帳だった。これなら、緑川自らが金額を書いたことも筆跡で分かる。おまけに、支店こそ違うものの、緑川が初めに就職した銀行である。緑川が辞めた銀行に行かせるつもりかと、麻田、和田共に苦笑いする。
「意地悪なやり方考えたわね」
「先日の無駄な時間を、倍にして返して欲しかったんで。僕自身、小切手帳をミーになど渡すのは不本意ですし」
「自分の当座預金なの?」
「そうですよ」
「金持ちなの?あんた。それともただの阿呆なの?」
「失礼ですねえ。麻田さん」
「あら、ごめんあそばせ。つい本音が」
「そういう本音は、心に仕舞ったままにしてください」
「ミーへの小切手帳は、本当に本物なわけ?」
「正真正銘、本物ですよ。ダミー使ってバレたら、それこそどうなるかわからないでしょう」
「ねえ、小切手見せて。私、恥ずかしながら見たこと無いの」
弥皇が小切手帳を麻田に渡した。
「右側にある二本線、これって何?」
「確か、即現金化できない、じゃなかったかな。その場で現金に換金されたら、即、他の銀行に預け替えるだろうから。あの銀行とは疎遠だし。ただ、僕、正直使い方よく覚えてないんですよ」
「一つだけわかるわよ、少しでも障害物を置くのね」
「筆跡鑑定で小切手の金額を自分で決めさせればいいでしょう?会話では僕が隠しマイクを持って資金提供の金額を定めますけど、ミーのことだ、それ以上の金額を下ろすに違いありませんからね」
「当座預金のお金って別の口座に移したらすぐに使えちゃうわけ?」
「そうです。その銀行で現金化できないだけで。当座の残金ゼロなら不渡りですよ。僕の死期が早まるだけだ」
麻田が、もう一度データベースを確認する。
「今まではお金を手にしてから数日以内に犯行に及んでいるわね」
「貰う物貰えば、相手は要らないでしょうから」
「おや、待てよ。和田くん、麻田さん。佐治さんデータベース更新してるみたいですよ」
【結婚詐欺等サイコパス事件】
前回の計画殺人は、やはり融資を申し込んでいた形跡がある。以下、被害者の書き込み。
『結婚したい人が出来ました、緑川聖泉と言う女性です。プロポーズし、OKされました。嬉しい。写真は後程載せます』
『(最後の書き込み)
彼女に、結婚資金が必要だと言われました。結納金だねって。これで、必要なものを全部揃えてくれるそうです。
あとは、新しい生活を待つばかり。とても楽しみ。彼女が写真を嫌がるので載せませんが、とても綺麗な女性です』
ただし、これらは一般に出回るようなSNSではなく、仲間内同士のみでやりとりできるSNSの類い、とのこと。5~6人とのごく親しいやりとりだったようだ。だから、緑川の本名が出ていた。緑川は知らなかったことだろう。
なぜこの情報が警察に流れたかと言えば、死んだ男性の友人たちがSNSを見て、自死するはずがない、自死する理由がないと警察に駆け込んだからだという。一部の友人は緑川なる女性が詐欺を働いているのではないかと疑って警察に連絡を入れたらしい。
SNSの事実を知る者は少なく、其れ等の証言が、自死ではなく事件だとする信憑性を高くする要因にもなり得ていた。
被害者男性は独身のアパート住まい。緑川は、何か自分にとって不都合なものが出ないかどうか、合鍵を作って出入りした形跡があった。目撃証言もあり公表寸前だったが、第二の殺人が起こり、念のため捜査本部では全ての情報を一時非開示としたようである。
ブレーキ痕についても、踏まなかったのか踏めなかったのか、がキーポイントだと。これは推測の域を出ないものだったが、ブレーキ下に何か置いてあったかように、車のブレーキ下部分のマットに不自然な跡が残っているらしい。ダイブして破損した車の中からは、ワインの瓶などアルコール類の残骸が2~3本見つかっているという。大きさも要領も形もまちまち。ダイブの衝撃で割れたものも多数あり、どうやらワインの瓶がブレーキの下にあったらしいという推測だけで、それを緑川と繋げるものは何も出ていない。
雪山での事件は、被害者は生前、1回に数万から数十万、合計で200万円程を緑川の骨抜き専用通帳に用立てていた。それも在職中が多く、緑川が避けるようになった後は、金銭の動きは無かった。
しかし、急転直下で、死の数日前に1千万円、振り込まれていたのである。
退職金からの振り込みと思われた。
被害者とされる男性のメールや電話などの内容確認を急いでいるが、心中をもちかけたとすれば「親の将来的な介護資金」を要求された可能性が高い。緑川亡きあと、両親が暮らせるような介護付きマンションへの入居費用。それならば、纏まった金額が必要になるであろう。
事件の全貌は、練炭殺人との予測が大多数を占めている。
和田が弥皇を心配する。
「弥皇さん、不味くないですか」
「命?望むところよ。あとは、七輪の登場を待つだけさ」
「でも山麓には行けないわよね。弥皇くん、車持ってないし」
「この辺りは、山も近いけど海も近いですから、海沿いと言う線もあります」
弥皇は、いつでも来い、といわんばかりに心の準備をしている。心残りがちょっぴりあるが。知らず、知らず、溜息を洩らしたらしい。
「どうしました、弥皇さん」
「ん、和田くんか。いや、何でもないよ」
「まったまた。何か心残りがあるんでしょう」
弥皇は、心を見透かされているのかと、徐に警戒する。
「いいえ、違いますよ。何言ってるんです、麻田さん」
「僕は和田ですよ。麻田さんは、そっち向いて何かやってます」
「あ、そ、そうか?」
「絶対そうです。今の溜息。生死と己が願望の狭間で悩める男そのものでした」
「願望、か。あるかも」
「何?」
「絶対に内緒。誰にも言わない」
麻田はこの手の言葉に対する反応が速い。後ろを向いていたはずが、今や弥皇の目と鼻の先に自分の鼻がくっつかんばかりに近づいている。
「何が内緒だって?」
「弥皇さんが、生死と願望の狭間で悩んでいるんです」
「じゃあ、黄泉への御餞別は?」
「麻田さん、鬼ですね。それこそ要りませんよ。涙の一粒で結構です」
「なんだ、真面目ね。いつもと違って」
「生死の狭間にあれば、きっとこうなるんですよ、弥皇さんも人間ですから」
「和田くん。キミの方が心臓に毛が生えていると思うよ、僕は」
和田は、これでいて不可解な人物である。怖がりのようでいて、そうでもない。かといって、猛者でもない。蚤の心臓かと思いきや、毛が生えていたりする。誠に不可解である。
週明け、出勤した和田は緑川の動向を注意深く観察し、メモしていた。
緑川は、金曜日こそ怒り心頭に発していたようだが、今は通常ベースに戻っている。此処までの笑顔は久しぶりだ。何か、自分にとってプラスになる出来事を起こしたに違いない。
急いで、麻田と弥皇にメールする。
(ミーがいやに上機嫌。不自然過ぎる)
弥皇が自分の部署を出ようとした瞬間、緑川が福祉課に姿を現した。一階の珈琲ショップに行こうと誘ってきたのだ。
周囲を見ると、「いけいけ!」と皆ニヤニヤしている。勘違いされた。まあ、それこそが第一目的だったはずだが。
廊下を歩きながら緑川が弥皇と腕を組もうとする。公衆の面前であるにも関わらず。やんわりとその腕を振り解いた弥皇は代わりににっこりと微笑んだ。
「お早う、緑川さん」
「これからは聖泉って呼んでね」
「聖なる泉、本当に清々しくて綺麗なお名前ですね」
エレベータに乗り、階下まで降りて珈琲ショップに入った弥皇と緑川。
「緑川さん。お好きな物を決めたら、席に座っていて結構ですよ」
緑川が奥に消えたのを確認し、弥皇はベルト式隠しマイクのスイッチを押した。科捜研のお手製だ。事件が新たな展開を見せたことで、県警の科捜研は協力的になってきた。
珈琲やら菓子やらを携えひとしきり緑川を探す。
思ったとおり、一番奥に陣取っていた。
「はい、どうぞ」
緑川が、一層甘えた声を出す。
「ありがとう、みなみさん。ね、相談があるの」
「どうしたんです?」
「あたしね、取りたい資格があって。仕事で海外に行くことも多いし、そっち関係」
「それは素晴らしい」
「でね、米国税理士と、米国公認会計士の資格取るためには、行ったり来たりしないといけないんですって」
「なるほど。それは費用が掛かりますね」
「辞めて行くわけにもいかないし」
「そうですね」
「もう一つ、イタリアソムリエ協会認定ソムリエの資格が欲しいの。この間、みなみさんの仕草を見てて感動したの。こういう風にスマートに飲んでもらえるんだって。ソムリエにお任せする人も多いみたいだし」
「お褒めに預かり光栄です」
「それでね、それでね、お願いがあるの」
「何でしょう」
「うちの親、体の具合が良くなくて。お給料が病院代に消えちゃうの」
「大変ですね、ご両親、お父様?お母様?」
「母よ。父は『俺が面倒を見るからお前はいい』って言うんだけど、支払いはあたしがしてるから心配で」
緑川が、周囲に聞えないよう、身体を乗り出し、弥皇の耳元で囁いた。
「それでね。お金、少し用立ててもらえないかなって」
「おいくらくらいです?」
「1千万ほど」
「うーん、1千万ですか」
「ダメ?」
緑川が、上目遣いに弥皇を見る。
周囲の男性職員は羨望と嫉妬の眼差しをギラつかせ、弥皇を真っ向から睨んでいる。
(こいつら、1千万貸せって言われてんの知ったら、目つき変わるかな)
「ダメではありません。ただ、僕の一存じゃ決められないんです。明日またお話ししましょう。少しだけお待ちください」
(よっしゃー、金蔓作戦成功だ。ホント、馬鹿な割には傲慢だ)
緑川の興味は、男より金、に移ったようだ。
和田への集中砲撃も鳴りを潜めた、といった様相を呈している。
それから弥皇は、毎日のように誘われ高級レストランでの食事やら酒飲みやらに付き合わされた。高級な場のみ、ブラックカードである。ただの酒にブラックは勿体無い。
洋服もねだられるのだが、『今のキミをこれ以上綺麗に魅せる洋服はない』『着飾る必要などないくらいに美しい』などと、聞こえはいいが、実際には煙に巻き買うのを渋っていた。
煙に巻かれることを好まないと思われる緑川が、我慢して弥皇に拘った理由は、やはりブラックカードだったのだろう。
一週間ほどたち、またワインバーで資格取得融資の依頼があった。いや、半ば催促だ。
弥皇は、ひと言だけ、答えた。
「いいですよ」
「じゃあ、あたしの銀行に振り込んで」
「この間も言いましたが、実は僕、手元にまとまったお金を持っていないんです」
「じゃあ、どうするの」
「こちら、どうぞ。小切手帳です。中は白紙です」
差し出されたのは、金額欄が白紙で右側に二本線のある小切手だった。ただし、銀行と支店は、緑川が大卒後に勤務した銀行だ。
どうでるか、弥皇は緑川の顔色を見る。今は銀行名など、目に入っていないと見える。目を皿にして見つめているのは、白紙の小切手、ただそれだけ。
普通なら使うのに苦労しそうなものだが、緑川は元銀行員である。こういうところだけは抜かりなく、使用手段を画策しているようだ。
ましてや、白紙の小切手。1千万は、あくまで口約束だ。
「ね、もしも、もしも足りなかったら、もう少し貸してもらえるかな」
弥皇はハッキリとした答えを出さなかった。
「緑川さん、まさか5億とか言いませんよね?」
「やだ、どれだけ入ってるの、当座に」
緑川の顔が、一瞬、夜の石造にライトを当てたように不気味な顔に見えたのは錯覚だったのか。
その晩の緑川は、いつにも増して上機嫌だった。弥皇は、緑川が自由に使えるような小遣い帳を渡したようなものだ。これでもう、弥皇に用はないだろう。
あとはいつ、殺人の動きが出るか、そこだった。
今までの例で言えば、お金が振り込まれてから3日前後で犯行に至っている。弥皇の例は通常と違い、当座預金のある銀行に小切手を持ちこんで、自筆でサインすれば、直ぐ口座に振り込まれる仕組みだが、犯行までの時系列は変わらないだろう。引き出せるだけのお金を引き出し、いつにも増して犯行を急ぐかもしれない。
しかし、緑川は公務員になる前の銀行員時代、秘書課に行けなかった腹いせに、その銀行から全財産を吸い上げ、口座を解約していた。
一旦そこで口座を作らないと、直ぐにお金は口座入金されない。他行の小切手で、現在の自分名義銀行口座に振り込みできるのか。厳密にいえば、銀行間で違うらしいが、出来ない銀行が多いようだ。リスクを最小限にするためである。
弥皇が小切手を振り出した銀行は、他行への振り込みを認めていない。また、小切手に線が入っているため現金受取も不可だった。緑川が、仕方なく元勤めた銀行の、何処かの支店に行くしかないよう、わざと仕向けた。口座の開設、通帳発行という細々とした手続き。時間稼ぎでもないが、すぐに小切手帳を使われるのも癪に障った。
小切手帳を緑川に渡した後、弥皇は警察官舎に戻り麻田の部屋をノックしていた。
「麻田さーん」
「何?」
「明日、ホテル行きましょう」
麻田の目が丸くなる。
「あんた、言うに事欠いて突然何言い出すわけ」
「イヤだな、変な想像しないでください」
「え?別に私はそこまで言ってないけど。ところで随分浮かれてるわね」
「ホラ、ワインバーです。麻田さん、ワイン詳しいでしょう」
「そりゃ、ワインは好きだけど。大丈夫?私といるのがバレたら計画おじゃんよ」
「大丈夫です。いつもの休暇期間に入ったようです。ホテルも緑川の家や県庁から遠いし、夜も出てきませんよ」
「やっぱり浮かれてない?」
弥皇が麻田のサラサラ髪を、右手の5本の指でゆっくりとかき上げ、耳元で囁く。
「逆ですよ」
「逆?」
「生きて帰れる保証は、100%じゃないですからね」
麻田が弥皇を見つめる。弥皇の本気度は100%のようだ。
「そうね。わかった、いつ行く?」
「明日」
翌日、夕方。
県庁の裏で待ち合わせた麻田と弥皇は、タクシーでそのままワインバーのあるホテルに向かった。
まだ、開店までに時間がある。
「ロビーで珈琲でも飲みましょうか」
「ちょっと。万が一ミーが別の男と来たら、どうするの」
「あの女にとって、僕はもう用済みですから」
用済みになった弥皇。小切手帳を入手し、ごそごそと口座に入金するばかりである。
麻田は名義人が弥皇だというが、弥皇曰く当座預金に資金さえあればよい。今頃いい気になって銀行巡りだと渇いた笑いを麻田に向ける。
「麻田さんのような常人には理解できないですよ、あの女の行動ときたら」
「最初の『美人~』って鼻伸ばしたときと、随分差が激しいわね」
「我ながら、こんなに女性を見る眼が落ちたか、と反省しきりです」
「で、どうして今日は私を誘ってくれたの」
「心残りを消すために」
麻田がのけぞりながら大声で笑いだした。
反対に弥皇は半分怒ったように真面目な顔をする。
「あ、笑っちゃいけないでしょ、この場面。二人ともシリアスにいかないと」
「私とワイン飲むことで、心残りが消えるの?」
「そうですね、恐らく」
「こりゃまた、弥皇くんらしい発言ね」
「一人でワインを飲んできましたから味は分かる。でも、二人で飲むワインの味が分からない」
「こないだ、ミーと一緒に来たじゃない」
「あれは人じゃない。ただのサイコパスです」
「なるほど。私は人と認めてもらえたようね」
「ええ、麻田さんなら。麻田さんは、赤白どっちがお好きですか」
「どちらかと言えば、淡白な白が好きね。ただ、料理の臭みが口の中に残りそうな料理だけは、赤ワインの濃厚さで消すかな」
「僕もそうなんです。ま、今日も料理だけ決めて、ワインはお任せにするつもりですけど、もし、お好みのワインがあったら言ってくださいね」
「そうするわ、有難う」
「ワインと料理のマリアージュがね、結構いけるんです。この店は」
「相性か。ね、緑川にマリアージュなんて言葉使ったりするの?」
「まさか。知らないでしょう、たぶん」
「そうね。恥かかせたら計画台無しになっちゃう」
弥皇と麻田。一見相反しそうな性格の二人だが、この夜だけは仕事も忘れ、弥皇の命運も忘れ、二人はワイン談義に興じるのだった。
翌日、佐治から、緑川が早速小切手を使って1千万円の口座入金を依頼したことが報告された。3日経てば、口座に入金される寸法だ。
緑川は調子に乗って公務を休み、毎回1千万円ほど、5日続けて別支店に現れては引き出しを繰り返しているという。
計、5千万。
その晩は和田の部屋に集まり、緑川の動きを整理する3人。麻田と和田の心配をよそに、弥皇は冷静に見えた。
「緑川の連続休暇今日が最終日ですね。この5日間で5千万円分の小切手を換金しています」
「意外と渋ちんだね。僕はもっと豪勢にやるかと思ってた」
麻田も流石に弥皇の命が心配らしい。
「って、笑ってる場合じゃないって。今度はホントに命賭けるんでしょ」
「そうですね。このまま僕を野放しにはしないでしょう」
「全部おろしてからってことはないの?」
「僕、口割りませんから」
「気を付けてよ。なんか、気が気じゃないわ」
「僕もそうです。ドキドキするんですよ。そうだ、和田くん。キミ、研修だって言うことにして東京帰りなよ」
「え?だって麻田さんとかもまだいるし、弥皇さんもどうなるかわからないし」
「僕は大丈夫。キミもあの女のペットに成り下がるのは、やめてさ。あいつは自分好みに躾たいペットを常時探している。キミの役割もほぼ終わりだから、一刻も早くあの女の前から消えたほうがいい」
「麻田さんは大丈夫なんですか?」
「SPだらけの職場みたいなものよ。あとは行政部への報告だけ。そうね、もう帰りなさい」
「じゃあ、僕はお先に失礼して東京に戻ります。明日の新幹線で帰りますので」
「ああ、元気で」
「そうね、みんな元気で、東京のサイコロ課で逢いましょう」
最後に1千万を口座入金した日。
緑川から弥皇に電話で連絡が入った。
「こんにちはあ、忙しくって。連絡もしないでごめんなさい」
「そうでしたか。お忙しいのは一段落しましたか?」
「ええ、おかげさまで」
「何よりです」
「ねえ、みなみさん。融資していただいたせめてものお礼なんだけど、明日ドライブに行かない?」
お金を貸してもらった、せめてもの礼。海岸にドライブに行こうという誘いだった。
「明日は休みですからね、いいですよ、僕はいつでも」
「良かったあ。じゃあ、今住んでるところまで迎えに行くわ」
「いえ、ここは外から入れないし、電話の入りも悪いんです。だから僕が緑川さんのお宅の近くまで電車で行きますよ」
官舎まで迎えに行くと言われた弥皇は、緑川宅との中間点で待ち合わせることを希望した。万が一、警察関係者の顔を知られないように。
翌日。
いつも6時に起きる弥皇が、珍しく5時に目が覚めた。緊張しているのかなと自分でも思う。部屋にあるミニ洗面台で顔を洗い、いつもと違った雰囲気にするため整髪料をつけて髪を纏める。緑川との待ち合わせは午前10時だ。官舎を出るのは9時でいい。髭は出掛ける寸前に剃ることにした。
出陣までの3時間。弥皇は何か心理に関する本を読もうと思ったが、内容が頭に入らない。運良く戻れたら、市毛課長に掛け合ってご褒美に休みを貰い海外に行こうか。1冊だけこちらに来て買った海外のガイドブックを眺める。
だが写真をパラパラと見ているだけで、海外への興味を持つまでには至らなかった。
和田は午前7時に起きてきて、シャツにコートを羽織っただけの軽装で東京に戻った。
「弥皇さん、何時に出るんですか」
「9時かな。和田くん、気をつけて」
「はい。弥皇さんも、くれぐれも気を付けてください」
8時半に和田を見送った弥皇は、髭を剃り着替えに移る。弥皇は寒がりだから和田のようにシャツにコート一枚などという真似は無理だ。黒いタートルニットを着て、薄茶のシャツを羽織り、その上に黒いダウンジャケット。下は厚手のアイボリーのパンツ。いつもなら好みのブランド物の靴を合わせるところだが、今日は終わりが見えない。迷うことなくベージュ系の安物の靴にした。
出掛ける前、麻田に挨拶する。
「行ってきます、麻田さん」
いつもは鉄の女みたいな顔をしている麻田が、さすがに心配そうに弥皇を見る。
「本当に気を付けて」
「有難う、麻田さん」
「弥皇くんが無事に戻ったら」
「戻ったら?」
「また一緒に何か美味しい物、食べに行こう」
「そうですね、見繕っておいてくださいよ」
「いってらっしゃい」
弥皇は二度、繰り返す。
「行ってきます、麻田さん」
そういってもう一度、後ろを振り返る。
「麻田さん」
「何?」
「約束ですよ。二人きりで行きたい」
「え?」
「絶対に、二人きりで行きたい」
「いいわ、約束する、必ず二人きりで行こう」
約束の駅まで、電車を乗り継ぐ。とうとう、来たか。
電車内で普段は絶対に見せないしかめっ面をしている弥皇。
ガラスを見ながら、否。ガラスを素通りして、その向こうに見えるであろう景色を思い描く。その横に、すっと立った男性がいた。気配が一般人と違う。
弥皇の隣に姿を現したのは、なんと市毛課長だった。
「課長!」
「お疲れ。これから決戦か。命令だ。どこかでこの洋服に着替えろ」
洋服と靴一式を渡された。
「これは?」
「作戦遂行に必要なアイテムだ。絶対に着替えろよ」
「はい。分かりました」
「緊張した顔だぞ」
「はい。なるべく意識を失わないようにして脱出するつもりですが、ガラスを破るしかありませんから時間との闘いかと」
「大船に乗っているから大丈夫だ。安心しろ」
「ありがとうございます。万が一もあるんで、皆によろしく伝えといてください」
「ないない。皆には、元気で戻ると言っておこう」
(課長。慰めになってないですよ)
待ち合わせの駅が近づいてきた。
電車を降りた弥皇は、そのまま乗車する課長に向け、敬礼をした。改札を探し静かに、ゆっくりと歩みを進める。
一度改札口の前まで進んだ弥皇だったが、課長の言っていたアイテムを思い出した。
そうだ、着替えなければ。
周囲を見回すと、改札に行く前にトイレ設備があった。
中に入り、袋の洋服を取り出すと、洋服と靴下、靴まで新調されている。
ベージュのダウンとベージュのタートルニット、黒いシャツと黒いパンツ。すべて全国展開している衣料量販店で買ったものらしい。靴も靴下もベージュで靴はローファー。パンツの中にマスクがねじ込んである。何のためにねじ込んであるのかわからないが、何か使用の機会でもあるのだろうか。
それにしても、よく弥皇自身のサイズが分かったなと感心する。常日頃の会話で口にしていたのか、サイコロ課や警察庁内での健康診断などで記録が残っていたのか、よく覚えていない。
脱いだ洋服は、申し訳ないが駅のトイレに捨てさせてもらった。元々今日はめかし込むつもりは無かった。相手が緑川なのも、多分に影響したのは間違いない。
改札を出て車列の方に足を向け、歩みを止めた。そういえば、緑川の車種を思い出した。前の事件でNシステムに写っていた。赤の1,500ccの車だ。ここには2台、赤の車が駐車している。
しかし、車の車種や色を知っていると言って緑川車に近づくことはできない。相手が来るまで待つしかない。今日は、早く自分を黄泉送りにしたいだろうから、そんなに遅れてくることは無いだろうと弥皇は考えていた。
案の定、電車到着後10分もしないうちに緑川は現れた。車は、やはりNシステムにヒットした赤い車。1,500cc、ナンバー照合、確認。
「お待たせですっ。これから行くのは、オススメデートコースなんですよ。海がね、とても綺麗なの。その中でも、知る人ぞ知る、穴場をお知らせしちゃいます」
「それは楽しみだ。こちらは海も綺麗だと聞きます」
緑川によれば、これから向かうのはデート場所で有名な海辺の、穴場スポットだという。 反対にいえば、誰も来ない危ない場所、ということか。そちら方面に向かう車は多いから、デート場所があるのは確かだろう。
今日はいやに口数が多い、緑川。自分のことを話すだけ。こちらへの質問はしない。そして、弥皇に話す機会を与えないようにしているのが明らかに分かる。金を釣れたからいい、それだけではないだろう。会話によって5,000千万の小切手使用がバレたり、何か不都合を避けようとする心理が働いていると見える。一見、嘘を覆い隠そうとする子供と、何ら変わりない感情。
其処にあるのは、良心の欠如であり、皆無の罪悪感であり、これまでに平然と並べられてきた嘘の数々である。
今回の事件でお前は終わりだ。
弥皇は、緑川の話はロクに聞かず相槌だけ打ち、その実、脱出方法をシミュレートしていた。
緑川たちの車の後を、黒い全ガラススモーク張りの車が追っていた。運転席も助手席も見えない。完全な違法改造車だ。さすがの弥皇もその存在には気が付かなかった。
「さ、着きましたあ。みなみさん、降りましょうか」
駐車場だ。緑川が笑う。
「そうだね」
弥皇も答える。最期までみなみかよと思いつつ。
そして、弥皇は自分でドアを開けた。そのとき、後部座席か、トランクだろうか、ゴロゴロ、と転がる音がした。七輪のような、硬い物を積んでいるのだろう。練炭の臭いまでは嗅ぎ分けられなかった。
車内に、何種類かの芳香剤を混ぜたような、弥皇に言わせれば「趣味の悪い香り」が充満していたからだ。
10分ほど、周囲を散歩しただろうか。シミュレートも固まった。弥皇から言葉を出す。
「まだ風が冷たいね。車に戻ろうか」
助手席のドアを開けようとした弥皇を、微笑みながら緑川が遮る。
「次は弥皇さんの運転で」
「道、わからないよ」
「大丈夫。教えるから」
そう来たか。そりゃ、僕が助手席で事切れていては事件になる。事件であってはいけない。自死でなければならないのだから。
言われるがままに、運転席に移った。と言うことは、場所はここでは無いようだ。
もっと奥まで車を進めて、その場所まで僕に運転させるのか。これでハンドルとアクセルから僕の痕跡が出るな。なるほど。
「もう少し先に行くと、穴場があるの」
向かった先には、無人の車が二台、止まっていた。一台は、先程の黒いスモーク張りの車。もう一台は、シルバーの1,500cc。ちょうどこの赤い車のカラー違いだ。
スモーク車の正体は知らないが、シルバーの新車は自分が乗って帰るための車だろう。両親や知り合いには、車を下取りに出し、買い替えたといえば済むことだ。
「ほとんど車もいないところだね」
「ここは穴場だから」
もう一台の車を気にしている緑川は、どう頑張っても中が見えないのに痺れを切らし、仕舞には、コンコン、とドアを叩く始末。相手が筋の良くない輩だったらどうするつもりなんだろう。
目の前しか見ない、後先考えない。完璧なようでいて抜けている。結局全て嘘で塗り固めるから、大雑把なやり口で構わないのだろう。運良く、スモーク車からの応答はない。どうやら、中には誰もいないようだ。
次に来るのは、飲み物だろう。それも、十中八九、アルコール。
「みなみさん、どうぞ」
飲み物を差し出す緑川。そら、来た。ウイスキー、ダブルぐらいの量をグラスに注いであった。これをストレートで飲むわけね。春になったとはいえ、東北の、それも海風は冷たい。それでも、せめて氷で冷えたのが飲みたい。気を利かせろ。
「これじゃ、帰りには飲酒運転で捕まってしまうよ」
「この辺、警察いないもん」
「それでもね、飲酒で新聞沙汰は公務員たるもの、恥ずかしい」
「じゃあ、少し寝てから帰ればいいよ、ね?あたしも飲むし」
と、緑川本人は、いけしゃあしゃあと飲んでいる。
警察の取り締まりがないのは本当らしい。
「じゃあ僕は三~四時間、横になって酔いを醒ますよ」
「あ、早く酔いから醒める薬があるの、今出すね」
これが睡眠剤やら何やらの薬か。
弥皇は薬を貰って、ウイスキーとは別に用意されていた水で飲むふりをし、自ら気管に入れた。途端に、激しくむせた。むせると同時に、ドアを開け、薬を全部吐き出した。無論、緑川に見つからないように。
あとで見つかったとしても、土に塗れた薬を胃に入れる訳にはいくまい。ただ、周囲を確認しないとも限らない。見つからないよう、持ち去らせるわけにもいかない。一か八かで、パンツのポケットに入れてあったマスクを取り出し、マスクに吐き出したものをくるみまとめて、再びマスクをポケットに突っ込んだ。
どうしてボトムスにマスクが入っていたのか、これで理由が判ったような気がした。
「大丈夫?」
声が掠れて緑川の問いに答えられない。右手をあげて、大丈夫、と言う仕草をする。
ダブルの酒を飲み終える頃、弥皇は呟いた。
「さて、少し横になるよ」
「あたしも一緒に寝るわ」
寝入ったように見せかける、弥皇。
緑川は余程時間が押したのか、それとも一刻も早く帰りたかったのか、20分もしないうちに犯行作業に取り掛かり始めた。
まず、弥皇が寝ているのを確認した。ウィスキーグラスはそのまま置きっぱなしだ。何も手を付けず、手袋だけをはめる音が聞こえる。
薄眼を開けて見ていた弥皇は、あまりのお粗末さに呆れ返った。
これで完全犯罪のつもりか?
そして、腹が読めた。
方法など、ぞんざいで構わないのだ、今回に限っては。
たぶん、今回のストーリーは、『無理心中』
そう、犯人は僕。
そんなことを考えながら、緑川の作業を見える範囲と音だけで、確認する。
弥皇自身、結構な度数のアルコールを入れているので、それが功を奏した。良く寝ているように思わせることができたらしい。
すると、そこから緑川の作業はスピードアップしていった。
トランクから七輪、練炭を出し、助手席の足下に置く。四方のガラスに内側からガムテープで目張りをして密着させていく。ネットのサイトを真似したつもりだろうが、なんとも雑なやり方。
助手席だけはドアを開けて張ったので、ガムテープと車体との粘着力が弱かった。他に良い方法を思いつかなかったのだろう。仕上げに、着火剤を入れて火を放つ。やかんには先ほど弥皇が飲んだペットボトルの水を入れて。
車のエンジンは掛けたままだった。
弥皇は、段々と効いてきたアルコールと車内の熱で、考えが纏まらなくなってきた。
(無理心中だから、エンジンがかかっていてもおかしくないのか?いや、普通に考えて、エンジンは切るだろう。えーと、ガソリンを燃焼させるには酸素が必要で、燃焼後には二酸化炭素が排出される。今の場合、一酸化炭素が車内に充満するわけで、エンジンを掛けたままなら、ある程度外からの空気を入れられるはずだ。酔って間違えているか?)
考えが間違っていなければ、これでしばらく車の換気が使える。弥皇にしてみれば、天の助けだ。そう、ガラスを割るまでのタイムリミットが少しだけ、長くなるはずだ。一瞬安心した弥皇だが、空気が混じるということは換気以前に一酸化炭素が酸素に混じりはしないか。でももう、シミュレートができない。
そして、燃料ランプが赤く点灯し始めた。燃料切れでエンジンが止まるのを見越したか。ギリギリの燃料で来たのだろう。点灯し始めたということは、この古い車で、ざっと見積もって百キロメートル弱、走行可能分の燃料があるということだ。
自分の車なので、別に指紋拭き取りも要らないと踏んだのだろう。ドアを内側からロックするように助手席を締めると、シルバーの車に向かって走って行くのが見えた。本当に急いでいたのだろう。近くには怪しげなスモーク車もいる。緑川はバタバタと事を済ませ、逃げるようにシルバーの車に乗り込むとスピードを上げて立ち去って行った。
ストーリーが無理心中だとしたら、助手席をロックする必要もないと思うのだが。
緑川の考えた筋書きは、たぶんこんなところだろう。
『学業に融資してもらったが、代償として交際を要求された。海岸へのドライブを強要され、仕方なく行った。其処で再度交際を要求されたが、学業優先のため交際を断ったところ逆上し練炭による無理心中を図られた。自分も酒を飲まされた。相手は酒と薬を飲んでいた。自分は薬を飲むふりをして飲まず、アルコールだけを飲んだ。車内は目貼りされたが、どうにか自分でドアを蹴破ることが出来たので逃げた。薬は逃げるときに海に捨てた。相手は酒と薬で熟睡したようだった。怖くなって、誰にも話せないまま時間が過ぎた。申し訳ないことをした。自分がすぐ警察に行けば助かったかもしれない。でも、以前からストーカーしてやると脅されていたので怖かった』
自分に貢いだ男に別れ話を切り出し逆上され、無理心中を図られたというストーリーは、今の世の中、成り立たないでもない。
その場合不自然なのが、目的地まで電車で防犯カメラに写り込むよう歩いてきた男が、練炭のような大荷物を持っていないということである。まあ、市毛課長から受け取った荷物は大きかったが、電車内でもらったものだから共犯者でもいない限り無理心中の手法とは言えない。
あるいは事前に、駅のコインロッカーに入れておくという手もあるだろう。それなら男は、2回、駅の防犯カメラに写り込むはずだ。地元民ならまだしも、東京から来た自分が防犯カメラの場所を知るわけもない。防犯カメラを避けながら目的地まで進むのは、土地勘がないと難しいものである。
何処をどう頑張っても、別れ話に逆上して無理心中を図る(=死ぬ)犯人が取るような行動心理ではない。計画的な犯行なら辻褄が合うのだろうが。
以前に購入したのだろうが、納車自体は今朝、ここに納車させたはずだ。共犯でもいない限り、ここにシルバーの車はないはずだから。それでなければ、2、3日前にディーラーに行き、車を取って自分でここまで運転したと考える方法もあるが、そうなれば、やはり共犯者が必要となる。緑川が共犯者を作るとは考えにくい。自分が頭脳判断力も行動力も一番でなければ気が済まない、そんな女だ。
そんなもの、ディーラーに聞けばすぐに判る幼稚な手だ。どのように言いくるめたのか分からないが、ディーラーでも、自宅ではなく海岸の奥まった場所に、と言われれば記憶に残るだろう。
反対に、心中なら何より不自然極まりないが、無理心中ならデートと称する日に新車を納車させるのはごく当たり前だ。海辺に置いたのも、サプライズだとディーラーに吹き込めば、ディーラーも快く引き受けてくれることだろう。
緑川のことだ、恋人へのサプライズとかそういう名目でディーラーに運ばせたに違いない。
一体、仕方なく、そう、好きでもない相手と出かけた海岸ドライブでサプライズプレゼントに車を渡す阿呆が何処にいるというのか。
サプライズで車を贈るくらいの人間を、嫌っていたと考えるのは著しく妥当性から外れていく。一般的に。やっていることがどうもチグハグな気がする。頭が良くないのだけはわかった。男性の被害者たちは、どうしてこんなアホらしい策に気付かなかったのだろう。
借りた金のお礼なら、車ではなく資格取得になると思うのだが。
それにしても。
無理心中がお約束の場合、普通なら相手と自分を縄で結ぶよな、無理心中って。逃げられないように。ま、縛られなくてよかったけど、などと軽く考えてみる。
手が自由の身であるということは、弥皇にとって断然有利な状況だった。
弥皇はシルバーの緑川車が視界から消えるのを待ち、息をなるべくしないよう心掛け、どうにか窓を破る方法を考えた。
まず、助手席のダッシュボートを開ける。
そこには何も入っていなかった。緑川がガラスを破られる可能性を考慮したとは考えにくい。普段から何も入れていないのだろう。
後部座席を見る。どうにもふにゃふにゃしたぬいぐるみくらいしか見つからない。
工具一式、車内の何処かにあるはずだ。トランクだったら、ジ・エンド。座席を壊せばなんとかなるだろうか。
うぅっ。
空気中の一酸化炭素を吸い込んでしまった。息をしないのも結構大変な作業だ。外の空気を入れている代わりに、後部座席にも一酸化炭素が早々と回っている。エンジンを切るべきか。いや、もう回ってしまったからには仕方がない。早く固形物を見つけなくては。
段々、目の前がチカチカしてきた。不味い、このまま意識を失ったら、アウトだ。
弥皇は緑川が後部座席に置いた自分のバッグを開け、何か無いか探した。手帖とペンくらいしか見つからない。仕方がない。手帖で、自分の指を切った。紙で切った時は、痛みが増す。どうにか意識を保っていられた。
工具、工具、何処だ。探しても見つからない。何か、何でもいいから、固形物はないか。
あ、馬鹿だな、僕は。
もしかしたら、この車なら頭部のヘッドが外れるかもしれない。それならパイプが2本出るはずだ。急いで後部座席側からヘッド部分を引き抜いてみる。
動かない。そういうタイプじゃないのか?
運転席側に回る。もう一度チャレンジしようとして、助手席側の一酸化炭素を、もろに吸い込んだ。
意識が朦朧とし始めた。不味い、本当に不味い。
このまま倒れたら、麻田さんと美味しいものを食べる約束を果たせない。その約束だけは、是非とも実行に移したい。
手や肘をガラスに打ち付ける。意識を保つために。ペンを刺したりもした。
それももう、限界に近づこうとしていた。このまま、事切れてしまうのか・・・。
その時だった。
誰かが車の窓を叩く。初めは意識が朦朧として、誰だか分からなかった。
弥皇朦朧とした中で目を凝らして窓の外を見た。なんと、そこにはフランブルクとソンウが並んでこっちを見ている。車の窓を叩いたのは、彼等だった。
後ろの窓を軒並み破壊するという仕草で、前に屈めと丸くなる仕草を交互に繰り返す。言われた通り、朦朧としながらも運転席に戻り、身体を丸めて後ろからの破片などに備えた。どうやら、動画に収めながらの救出劇となるようだ。二人とも準備をしている。
次の瞬間。
けたたましい音とともに、ガラスが割れた。そこから手を入れて後部のドアを開けると、まず弥皇を車外に出すべく運転席を後ろに倒してくれた。弥皇さえ助かれば、急ぐ必要もない。
初めは息も出来ず、チアノーゼが出ていたらしい。フランブルクに背中をさすって貰いながら、徐々に酸素を取り込むことが出来るようになった。九死に一生でもないが、ソンウとフランブルクがいなかったら、生きてここに立てていたかどうか。空気がこんなに美味しいものとは思わなかった。
ソンウたちは、車内の様子も可能な限り動画に収めていた。七輪を動画に写しガムテープやその他内部を全て動画に収め、最後に火を消したのだった。
「ありがとう、ソンウ、フランブルク」
「ミッション、完璧」
「あと、弥皇、姿を消すだけ」
七輪があるからと弥皇は助手席を観なかったのだが、またもや、車内に遺書を残されていたのをソンウが見つけた。
『僕はもう彼女なしでは生きられない。一緒に死にます』
ふざけた遺書だ。
「弥皇、急ぐ」
「見つかる前に」
遺書はパソコンで作成されており、どちらとも決め手に欠ける。疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に、が今の原則。今回の場合、生き残った弥皇の言葉が全てを物語る。
弥皇は、そのまま東北から姿を消すことになった。
あの後ろにぴったりついていたスモーク車の乗員は、フランブルクとソンウだった。
緑川の車を追いかけ、追い越し、車から出て、二手に分かれて緑川が停車しそうな場所をマークしていたという。
そして、奥に入った緑川の車を目撃した。
フランブルクとソンウは別の角度から、隠れて一部始終を動画に撮っていた。緑川が立ち去ってからは、申し訳ないと思いつつ、弥皇がガラスを割る方法を探すところも撮っていた。そうしないと、緑川の犯行が裏付けられない。その後、窓ガラスをハンマーで叩き壊し、弥皇を救助した、というわけである。
潮の香りが心地よかったであろう駐車場は、潮の香りと一酸化炭素の臭い、散乱したガラスで百年の恋も瞬く間に冷めてしまうような、無様な光景に変わり果てていた。
「すごい状態になっちゃいましたね」
「片付ける」
「緑川は、ここに戻らないでしょうからいいですけど。普通犯行現場に犯人が戻るという通説がありますからね。緑川のような手合いは、自分に自信があるし、他の人間より上だと思っているから戻らない、戻りたいと思っても戻れないでしょう」
「代わりに、フェイクの赤い車置いておく」
「なるほど。近くまで来なくても車があれば・・いや、ナンバーくらい見るでしょう」
「この車から付け替える」
「いや、それ、不味いですって。緑川の、この車だって言う証拠が無いと」
「上からOK出てる」
弥皇は、姿を見られるわけにいかない。万が一、緑川が誰かに命じて弥皇の死を確かめに来ないとも限らない。殺人の片棒を担ぐ人間も、それを強要する女もいないとは思うが、念のため、弥皇は素早くスモーク車に身を潜めた。
中に入ると、フロントガラスと運転席及び助手席は、良く店舗などで見かけるミラーガラスになっていた。俗にいう、マジックミラーである。
警察機構で使用するため緊急時の運転が大前提なので、スピードに耐えうる頑丈なガラスが必要だ。ソンウ曰く、日本には町工場でいい仕事をしている例が多いという。この車改造のためのガラスも、日本の町工場の頭脳を結集し出来上がったものだそうだ。
国内では違法改造車の扱いではあるが、余りに出来がいいので諸外国の大使館からも引き合いがきているという。戦闘地域やテロ勃発地域において、中が見えないことは安全なのだとか。
薄暗くはあるが、運転できないほどではない。夜は通常のガラス程度になるから、運転も可能だろう。それにしても、よくもここまでの違法改造車を作ったものだと感心する。
8ナンバーの改造車である。緑川は、まさかこれが警察車両とは夢にも思わなかっただろう。改造した8ナンバー車は多い。緑川が8ナンバーと気づいたかどうかも怪しいが。
外ではソンウとフランブルクの二人が、破壊した車のガラス類を綺麗に片付けていた。ナンバーは流石に諦めたらしい。何処かに電話しているようだ。
暫くすると、緑川の車と同車種の赤い中古車が運ばれてきた。ナンバーは付いていたがその上に緑川と同じナンバーの偽プレートの玩具をくっつけて、赤い車はそこにおかれた。
勿論、全体に目張りをして。
中のマネキンは弥皇が今、着ている服と同じものを着ている。予め、洋服は二着用意されていたのだった。これでかつらでも被せれば、万が一見られたとしても、じろじろと見たりはしないだろう。
そのために課長は洋服一式置いて行ったのか、と、あの時の課長の言葉を思い出し今更ながらに弥皇は笑ってしまった。
「問題があるとしたら、一般人がこれを見て警察に通報することくらいか」
「大丈夫、弥皇。この先に、行き止まりの看板立てる。見に来るとすれば、あの女だけ」
「ありがとう、ソンウ、フランブルク」
「弥皇、死んだことになった。我々、東京へ向かう」
黒のスモーク車に乗り込んだ弥皇は、東北を離れ東京のサイコロ課に帰ることになった。
東北に、あの県庁内に心配の種が残るものの、課長も向こうに行ったみたいだし、全て上手くいくだろう。絶対、サイコパス騒動に決着をつけなければいけない。
しかし、先程一酸化炭素を少し吸い込んだようだ。ちょっと吐き気がする。
「フランブルク、ソンウに伝えてください。先ほど、少し一酸化炭素を吸い込んだようだと。吐き気がする。警察病院に行ってもらうよう、話してください。呼気中アルコール濃度も計測したいですし」
「わかった。病院向かう」
ソンウたちに話して、健康診断がてら警察病院に寄った。自分の身体から、何がしかの証拠が出るのは明白な事実だったから。
やはり、一酸化炭素の中毒症状が出ていた。また、呼気中アルコール濃度0.18mg以上と、結構な数値を示していた。途中で吐き出した薬は、科捜研に送るべきだろう。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
翌日。
海辺の死に関し、新聞に記事が出ないことを不思議に思う緑川だったが、弥皇から奪ったお金もふんだんにある今、無理心中のニュースなど念頭になかった。
今の緑川が気にかけているのは県庁内のあの眼鏡女を初めとした邪魔者のことだった。
緑川は、自分にとって邪魔なものは、其れが人であろうが物であろうが徹底的に排除したくなる衝動に駆られる。
そう、女王の前を綺麗なガラスの靴で歩く者は、それが誰であろうとも、処罰されなければならないのだ。女王以外に、綺麗なガラスの靴を履くことは許されないのである。
だから、眼鏡女を筆頭に甚振らなくてはならないのが二人増えた。
そう、年度末に秘書課に配属された江本ゆかりと内田小枝子だ。緑川が安倍先輩の次にターゲットにしたのは、秘書課を巡る女性陣である。
まず、江本と内田。江本は本当に綺麗で、仕事も完璧と評判の女性だ。秘書課内においても、テキパキと動き誰にでもきちんとした対応の出来る女性である。何より、華があるという噂だ。
(許せない。華があるですって?あたしを超える女など、この世にはいないの。邪魔だから、何処かへいって。いえ、何処かに飛ばしてやる)
頭で理解していなかったが、緑川は彼女の若さに相当な危機感を募らせていた。
だからすぐさま行動に移った。自分を慕い寄ってくる後輩男子を、江本の周囲でうろつかせたのである。
後輩男子はすっかり江本を見初め、付きまとい出した。後輩男子の付きまといは、人事当局に知れ渡る所となり、こともあろうに、ストーカーとして逮捕されてしまった。
それも、江本に一本背負いで投げ飛ばされ、たまたま居合わせた警官に手錠を嵌められたという、お粗末な結果をもって。
緑川、完敗である。
しかし本人は認めようとしない。
(失敗?あたしが?違うわ、あたしが悪いんじゃない。あたしの言うことを聞かなかった男が悪いのよ。罰せられるなら、あの男。だって、ストーカーで捕まったんだもの)
内田も同様に評判の良さを買われて秘書課に行ったという噂だ。顔はそんなに良くない、取り柄と言ったら笑顔くらい。実際にはかなりテキパキと動く人物なのだが、ふんわりした見かけだったので、緑川にはそう見えなかった。
(あんなブスがあたしを差し置いて行くなんて。どうしてなんだろう。ああ、そうよ、知り合いにとても偉い人がいるに違いない。でなければ、あたしが勝つに決まっているもの。そうよ、そうに決まってる。それだと、下手に手出ししたら、あたしの顔に傷が付かないかしら。そうだ、それと無く、探りを入れればいいんだ)
意を決し、緑川は内田に接触を試みた。秘書課に入るわけにはいかないので、秘書課職員が専門に使うエレベータを使った。
何度も上がり降りを繰り返していると、ようやく内田がエレベーターに乗ってきた。
「こんにちは、秘書課にいる方よね」
「初めまして、内田と申します。どうぞよろしくお願いします」
「ところで、どなたか県庁にお知り合いでもいるの?」
「知り合いと言うか。麻田係長には大変お世話になっています」
麻田の名を聞いた途端、緑川の顔が引き攣り片方の眉が意地悪そうに上がる。
「麻田?どちらかでご一緒に?」
「はい、以前に少し」
「そう。頑張ってね」
推薦者が麻田と知り、怒りがじわじわと広がる緑川。
その時々の感情に任せて行動する緑川は、物事の奥の奥を考えようとしない。
内田のこともそうだ。麻田に関係があるなら、警察に関係した人物ではないのかと考えそうなもので、そこまで考えが至れば、安易に甚振ろうとなどとは通常なら思わないことだろう。
だが、緑川は麻田と内田の関係性を脳裏にさえ思い浮かべようとはしなかった。
(いらつくわ。なんだかとてもいらつく)
和田は研修とかで東京へ向かったという。調教する和田もいない。緑川にとって、毎日がイライラの連続だった。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
そんなある日。
福祉課に残留した緑川の上司として臨床心理の管理官が派遣されてきた。何処から来たのか知らないが、やけにすべての女性に優しい。
(あたしに一番初めに声を掛けて、優しくするべきじゃない。何も知らないのかしら)
名札を見た。市毛、とある。
緑川からは、挨拶しなかった。さも、市毛管理官、お前からあたしに声を掛けなさい、と言わんばかりに。
翌日朝に、やっと市毛は緑川に近づき話しかけた。
「ああ、キミ」
「はい、何ですか」
緑川は座ったまま。市毛を見上げて、やっと自分に挨拶することに気づいたのかと鼻を高くした。
「立ちなさい」
なんですって?このあたしに命令する気なの、このオヤジ。
立つ気などさらさらなかった緑川だったが、人事を司っている福祉課長が寄ってきて、管理官の言うことを聞け、という仕草をされた。課長の指示を聞かなければ内申に障る。
いやいやながら立ち上がった緑川に対し、市毛は頭から足の先までじろじろと見定めたような目で言い放った。
「その服装、公務員としてのTPOにそぐわないね。まるで雑誌から出てきたようだ。ロングブーツは止めなさい。そしてスーツがあるなら、そちらを着なさい。秘書課の麻田係長のように」
緑川の顔色がサッと赤みを帯びた。
口元が引き攣り震えるのが止まらない。それはやがて、全身に広がりを見せた。細かに震える身体。何も考えられなくなっている脳。
ひと言も、返事は返さなかった。
市毛は暫くの間、「YES」の返答を待っていたようだが、絶対に返事をしたくなかった。無視してやればいい。そう思った。
周囲を見回した市毛。「こりゃ駄目だ」と言わんばかりに両手の掌を上に向けた。首を左右に振りながら。
周囲、特に女性たちは、すっと席を外した。廊下に行くようだった。事実、廊下では緑川を嘲る会話がなされていた。女性たちは常日頃のストレスが解消できて、溜飲が下がる思いだったらしい。この出来事で女性職員たちから、市毛課長、いや、市毛管理官の株は爆上がりしたようだった。
緑川は完全に噴火した。
人前で、それも自分が一番自慢し、自信を持っている服装のことで注意されるなんて、あり得ない、許せないという気持ちが緑川の中に渦巻く。まして、麻田と比べられるなど我慢の限界を超える。
それから1時間もしないうちに緑川は腹痛を装って早退した。
家で考えた。邪魔な奴らの追い落とし。麻田とあの男、市毛。そうだ、あの二人を一緒にして写真合成しよう。千田でやったように。大丈夫、あれだって出来栄えは凄く良くて皆が信じたんだもの。今度も絶対に上手くいく。
(あの女、麻田。邪魔な上に、変なのばかり連れてきて。あんたさえいなきゃ、とっくにあたしはその席に収まっていたの。あんたが来たばかりに席を取られて、こんなヘボい部署で我慢されられて。有能なあたしが、なんでもっと目立つ場所に行かないのよ。おかげで今日だって、あのくそジジイの御小言を聞く羽目になった)
麻田を許さないとあらためて誓う緑川だった。追い落としの方法は決まった。あとはチャンスを待つばかりである。
と、ちょうど翌日の夕方、いつもより早めに帰ろうとした緑川の前を、麻田と小言ジジイの市毛が連れだって歩いていく。何かの感が働いた。この二人は、何かしらある、と。
写真が撮れれば撮るし、撮れなくてもなにか得る物があるはず。公園に入った二人を付けて、自分も公園に入る。
何やら話しているようだったが、突然笑って抱き合うのが見えた。これは恰好のエサだ。緑川は咄嗟にスマホで写真を撮った。
早速、人事当局あてに匿名で、ばら撒いた。何が起こるか、楽しみだった。
しかし、何事も起こらない。
三日、一週間。もう、待てない。苛立ちは我慢の限界を超えた。
普通なら人事異動で麻田の席が空くはずなのに。あの写真なら、一発で麻田の株を落したはずなのに。緑川は何故だろうと訝り、瞬間的に自分を納得させる理由を見つけようとする。イライラが募り、いつもの連続休暇に入った。
写真に関して言えば、何も起こりようがなかった。予め緑川の帰宅に合わせ、市毛と麻田の二人が出て行ったもので、人事サイドへの連絡もなされていた。あの時の市毛と麻田の会話といえば、弥皇無事、緑川噴火の報告であり、歓喜のハグだ。
それ以前に、人事サイドもビックリの大事件が勃発、発展していたのだから、人事当局にとっては警察庁から来た男女間の一枚の写真など、最早どうでもいいことだった。
それすら知らずに、緑川は休暇を無為に過ごしていた。
それでも、あの小切手帳さえあれば、暫くは金蔓に困らない。通帳を見ながら、毎夜薄ら笑いを浮かべ、目はギラギラとしていた。
引く手数多だった昔に比べ、げっそりと痩せ、皮膚は弛みを見せている。夜のこじんまりしたライトに照らされたその姿は、肉の削げ落ちかかった骸骨が眼だけを爛々と輝かせているように見えた。そんな容貌も相俟って、薄ら笑いを浮かべた緑川は、本物の鬼女に見えたかもしれない。洋風に言えば、ゾンビである。
女性陣を甚振ることに失敗した緑川。
「失敗」の二文字ほど、緑川のプライドを揺さぶり傷つける言葉は無い。緑川は休暇をとって家で遊んでいた。調教中の和田もいない。何か面白いことがないだろうか。
(いつも休んで行っていた、この翻訳のアルバイト。小切手帳さえあれば、しなくて済むかもしれない)
(また、小切手を使っても怪しまれないだろうか)
幸い、弥皇の死亡ニュースは流れていない。
あの場所が誰にも知られていないに違いない。ただ、あの場所を訪れるのは危険だ。犯人は必ず犯行現場に戻る、とテレビでも良くいわれる。自分くらい賢い人間なら、そんなヘマはしない。
(誰かに頼んで見に行ってもらおう。でも、なぜと理由を聞かれたらどう誤魔化そうか。知り合いに自分の車を貸していたが返ってこない。海岸でみたという人がいるが、自分で確認に行けないから・・・。いや、それは不味い。遠目でナンバー確認だけでいいからといっても、実際に車の中を見ないとは限らない。みなみには、命の有無に関わらず、なるべく姿を見せないでもらわねば。当座預金から、金を根こそぎ出し終えるまで)
いつか弥皇の死亡が分かった時点で、そこまでなら融資ということで言い訳が付く。ううん、弥皇が死んだところで、一冊白紙でもらったのだから、いくら融資するかなど皆知るまい。当座全てを融資してもらったのだと証言すればいい。
(不渡りになったところで、あたしの腹は痛まない。信用を無くすのはみなみなのだから。ま、死んでしまえば信用もへったくれもないけれど)
飛び起きて、お気に入りの外出着に着替えた。
弥皇殺人の直前に入手したシルバーの車で、出かけた。そのあとを、ゆっくりと付けていく黒いワゴン車があるとも知らずに。
最初に、昔勤めた銀行に行くのだけは嫌だったが、金の誘惑に勝てるはずが無かった。
毎回1千万ずつ出金してきたが、毎度この銀行に来るのは煩わしい。
5億はない、と弥皇は言った。と言うことは少なくとも1億はあるだろう。いや、3億くらいあるかもしれない。
でも、億単位の金を小切手で決済したら、目立ちはしないだろうか。
いいえ、当座の世界は何億と言う金が動くことだってある。自分が公務員になって大枚の世界に縁遠くなっただけのこと。自分のような優れたものにだけ、金は与えられる。
そう。
自分にはいくら与えられてもいいのだ。それで死ねるなら、男たちも本望というものだろう。
自信満々の表情を浮かべ、緑川は銀行の支店へと足を踏み入れた。一億円の小切手を切り、口座への入金を求める。
「少し、お待ちください」
いつも待たされる。
慣れていたので、その日も雑誌を読もうかスマホで何か読もうかとしていた矢先。窓口から呼ばれた。
不渡りだという。
ならば、と5千万円で切りなおしたが、やはり不渡りだと言われた。
不覚だった。
口座取引が停止になってしまった。あと4千万くらい残っていたかもしれないのに。1千万ずつ何回かに分けておろせば良かった。
でもまあ、いい。5千万だもの。
次に、大小銀行に行って、奪った全額の入ったカードでATMを操作する。
『窓口にお問い合わせください』と表示された。
今日はツイてない。窓口に行き、話をした。
暫く、待った。10分、20分。スマホをいじってゲームをしていたが、対応が遅すぎる。銀行に文句を言おうと立ち上がった。
その時初めて気が付いた。
先程まで自分の前には誰も居らず、広々とした空間に座りこれからの楽しい生活をシミュレーションしていたはずなのに、今は、目の前が窮屈な空間に変化している。
「緑川、緑川聖泉さんですね」
むさ苦しい、ヤクザみたいな男が三人。新手のナンパかしらと訝る。
「緑川さん、ですね」
もう一度確認された。
「はい、そうですが」
「弥皇南矢さん、ご存知ですね。弥皇さん殺害未遂容疑が掛けられています。この通り、捜査令状もあります。署までご同行願います」
警察手帳と捜査令状を見せられた。手錠をちらつかせる男たち。一番年上そうな男が首を横に振る。手錠は部下らしき男の背広の内ポケットに仕舞われた。
その代り、肩をがっちりと掴まれた。
逃げられないように、である。
「いたーい」
可愛く叫んでみたが、相手には通じなかった。
「連行する」
先ほど首を振った男が口にすると、他の男たちに肩を掴まれたまま、歩かされた。
銀行内での、まさかの展開である。
周囲にいた客は恐れおののき、または何事かと目を輝かせ、緑川たちを見る。
(なに、こいつら。それに、何故金がおりなかったの?)
緑川は、銀行員を睨みつけた。
反対に行員たちは、皆が立って緑川をあざ笑うかのように能面のごとき顔をしている。
そう、大小銀行をはじめとした県内金融機関には、捜査令状が下りた時点で警察から通達がおりていた。
『緑川聖泉の全口座、全取引を凍結せよ。なお、小切手による換金には応ずることなく不渡りとして処理されたい。またATM機器におけるカード使用は、使用不能扱いとし、小切手を使用した銀行本支店、ATMや銀行に現れた本支店においては、警察本部あてに早急に連絡されたい』
男たちに掴まれたまま外に出され、止まっていた黒いワゴン車に押し込められた。
緑川聖泉、弥皇南矢殺害未遂の疑いで逮捕。
5月13日金曜日、午後2時46分。
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇
弥皇の証跡を基に、車が押収され、七輪や練炭、弥皇が吐き出した薬、東京に向かう途中で医療機関を受診し、計ったアルコール濃度や健康診断の結果票が提出され、事件当日の動きが明らかにされていく。
また、詳細なその日の動きを記録するために、弥皇はいつでも録音マイクを仕掛けていた。併せてそれらを警察に提出した。
極めつけが、ソンウとフランブルクが録画した当日の海岸、緑川の赤い車での行動とシルバー車で逃走した、あの録画シーン。勿論、証拠品として提出された。その中には、七輪を移動し、練炭を移動しガムテープで目貼りをした緑川の動きが映っていた。
至極残念なのは、練炭に着火するところだけが隠れて撮れなかったことである。
裁判で、録音テープ類が何処まで証拠採用されるかは不透明だ。もしかしたら認められない可能性も十分にある。小切手帳からの振り出しと、自分の口にした金額がどのくらい相違があるかだけでも、金銭授受の主導権が緑川にあったことの証となれば良いのだが。
警察庁では、日本中の全金融機関に『弥皇南矢名義の小切手帳で現金あるいは口座入金を要求する人物が現れた場合、至急最寄りの警察署に連絡されたい』という通達を出していた。
弥皇が襲われた時点から緑川を尾行し動きを見ていたが、捜査令状がおりたため、取引停止に踏み切ったのだった。
何故なら、前回の事件までは男性からの振込と言う形を取らせたために、どちらが主導してお金の授受が成されたのか解明できなかった。金銭は相手の意志で送られたのか、それとも緑川の意志で送らせたのか、或いはだまし取ったのか、誰が金銭の流れの主導権を握っていたのか、確たる証拠になるものがなかったのだ。
今回、弥皇は緑川に会うたび会話を録音していたので「1千万」という言葉が残っていた。
しかし、最終的に緑川が小切手を使い口座へ移した金額は4千万円も多い、5千万円である。これで完全に緑川が金銭の授受を主導していることが明らかになった。
緑川は、おとり捜査だと弁護人に訴えているという。
自分は金があるから有名な弁護人をつけると息巻いているとか、そういったスケールの大きい話が漏れ伝ってくる。取調べでも、色香で相手を誘惑するような素振りを見せたり、気に入らない話は聞こえないフリをしたり。誰かと比較しようものなら、一瞬鬼のような目をして、その後だんまりを決め込んだりと、相変わらずのサイコパス的所作で立ち回っていると聞く。
ただ、弥皇が警察の人間だという情報を掴み、緑川に対する囮捜査を行ったという噂も県庁内では流れているらしかった。どうやら、どこの誰かは知らないが、今の今になっても緑川信奉者は存在しているようだ。
差し入れを届けた人間か、面会した人間に限られるが、今回、直接犯行に加担、或いは物品の購入など共犯に値する行動をとった人間は確認されていない。その気になれば、いつでも情報提供者を割り出すことなど造作もないのだから、県警側では放っておくことにしたという。
弥皇は警察の人間だが、警察庁に所属する限り、警察官としての捜査権は無い。
東北に行き県警出向した際も、そこからすぐ行政部に出向しているため、同じく捜査権は無い。私人として、海岸に行ったあの日に緑川を現行犯逮捕できたかと言えば、それも難しい状況だった。自分が密室にいる状態が作られてこそ、殺人容疑になり得るのだから。
どちらにしても、緑川の言う捜査権は、弥皇が行使できるものではなかったのが事実だ。サイコパス心理の調査を行うためサイコロ課員が東北に行ったのであり、囮捜査に該当しない、弥皇本人が詐欺に引っ掛かっただけ、というのが警察側の言い分だ。
今回の連続殺人及び殺人未遂事件では、緑川が故意に詐欺を働いたという事実がある。結婚、介護費用、学業融資のために3人の男性から計7千万円もの金銭を騙し取り、時に相手を車ごとダイブさせ、時に練炭を燃やした。それは紛れもなく、悪意である。
県警の大規模家宅捜索を受け、自宅から、小切手帳、通帳、カメラやパソコン等が押収された。通帳には、保険として本名で振り込ませていた上司や元上司の名が連なる。白日の下に晒されたのは、様々な男性職員から金額の多少を問わず融資を受けていた実態。
行政部では、職員、元職員を含め夥しい数に上り、上を下への大騒ぎとなったのは言うまでもない。
警察は、全員の家族に事実関係を知らせ、金銭授受の過程を聴取することを決定した。妻に黙って融資した職員が殆どで、ましてや、人事サイドでも掴めないほどの職員の数。皆、人事課は仕方なくても妻だけは止めてくれと懇願したが、警察はそんなあまっちょろい言葉をいちいち聞くほど甘くは無い。
結局、相当数の男性が妻に見捨てられたらしい。熟年離婚したケースも少なくないと聞く。離婚ばかりではないのだろうが。
本人が悪いわけではないから処分は行われなかったが、噂は噂を呼ぶものである。暫くの間、県庁内はゴタゴタが続いたようだ。元職員も、お咎めこそ無かったが、家の中はさぞや滅茶苦茶になったことだろう。退職金付きの年金受給者というバックボーンもあり、こちらは漏れなく熟年離婚のパーセンテージがアップしたらしい。
県警の科捜研で解析した結果、カメラやパソコンから、千田追い落としの時に使った、合成写真の合成過程が見つかった。また、ダイブしたとされる男性職員と、弥皇の時に使われた遺書の文面が発見された。緑川本人はゴミ箱からポイ捨てして、この世から無くなったと思っていたようだが、パソコンはそんなにオバカではない。内部にしっかりと証拠が残っていた。
パソコンに合成時の記録があったものの、これがイコール緑川の仕業と断定できるかどうかは、捜査の進展を見守るしかない。
共犯者がいて、家からパソコンを持ちだしてまで作業したとは考えにくい。
実家にパラサイト住まいで、若い友人の出入りは殆どなかったという証言が取れている。それ故に、写真合成もそれらの過程も、緑川が行ったと考えるのが妥当であり、自然だろう。
また、入庁時に書いた書類や他の自筆書類も次々と県庁内部から押収され、小切手の筆跡鑑定が行われた。これが金の流れを明らかにした唯一の書類である。鑑定には時間を要し、本人である確率を最大限上げるよう、努力していると聞く。
千田の自死未遂、車のダイブ死亡、山麓での練炭死亡、そして、海岸部における弥皇練炭殺害未遂。緑川本人は、未だに総ての事件を否定している。
緑川の罪はそれだけではない。他にも、精神を病んだ女性たちが多数存在する。
それらに関しては、罪と呼べるかどうかの判定は困難であり、実質、トリガーであることの証明ができるかできないか、の程度に終わるだろう。
もう一人、銀行の先輩も、風の便りに元気を取り戻したと聞く。時間の流れが、やっと鍵の掛かってしまった心に合鍵を作り出してくれたのだろうか。喜ばしい限りである。
新聞等で緑川事件が報道され始めてから、千田の元夫からサイコロ課宛に手紙が届いた。
『真実を暴いていただき感謝します。あのとき、千田を許せなかった自分が恥ずかしく、後悔しています。でも、後悔などしたところで千田はもう、自分の元には居ない。あんなにも愛したはずの千田が今、自分の目の前に居ないのは天が自分に与えた罰なのでしょう。千田の心が一日にも早く快復することを祈っています』と結んであった。
和田は、当たり前だろうといった表情で、手紙を皆に見せた。当時は仕方なかったとはいえ、夫が妻を許せず、ぎくしゃくし千田が精神を病んだことが離婚の原因になったと机をバンバン叩く。
「僕なら、許すけどな」
弥皇がぼっそりと呟く。
「弥皇さんが?何を許すんですか?」
「嘘と真実、どちらも」
和田が驚いた顔で弥皇を見る。
「夫と妻の話とか、男と女の話ですよ。弥皇さんて、そういうスタンスでしたっけ?」
弥皇は大きく息を吸い込んで、机に両肘を乗せ両手を組んで祈るようなポーズを取る。
「向こうで色々あったからねえ。妻とか夫とか堅苦しいものでなくとも、パートナーがいるのは、いいことだって思えるようになったのよ」
「何、ミーの影響?」
麻田が脇から弥皇を覗き込む。
「失礼なこと言わないでください、麻田さん」
「ああ、あの時本部から美人ばっかり、たくさん行ったものね」
弥皇が話を反らす。
「よく、あれだけの人数動かせましたね、課長」
「ん?まあ、それだけ事件を重く見たんだろう」
和田がのっそりと弥皇と課長、2人の間に入る。
「で、弥皇さんが魅かれたのは、本部の美人さんなんですか、それとも、あさ・・」
弥皇が慌てたように和田の口を塞ぐ。かなり不審な行動。
「いいじゃないか、僕の話は」
「今回の事件で、一番変化があったのは弥皇さんだと思うんですが」
「あら、そうなんだ」
「和田、あまり弥皇を苛めるなよ」
「そうですね、ブラックカードに小切手持ちですから」
「あら、弥皇くん、ホントにそうだったの?あの時だけのカードだと思ってた」
「まさか。誰もあのカードなんて貸してくれないでしょう?それこそ、シーンによって使い分けているだけです。そこらのスーパーで使うのは変ですからね」
「じゃあ、当座に、いくら入ってるの?」
「さあて。八桁ほどですかねえ」
「っていうか、ホントの金額、普通言わないだろうが」
「僕は正直が唯一の取り柄ですから」
「すごーい。億万長者ってヤツ?」
皆が一様に驚く。
その中でも、麻田が一番性格が悪い。
「僕は、人間という生き物の心を観察するために仕事していますからね」
「あ、そう。相続税とか払うために稼いでるんだ。お坊ちゃまだわ」
「今、誰か失礼なこと言いませんでした?違いますよ」
「ふーん、お坊ちゃまにしては、今回、命張って稼いだわけだ。死にかけたもんね」
「お坊ちゃまではありません。たまたま、お金があるだけです」
「弥皇くん。たまたま、お金が億もある人間なんて、この世じゃかなり珍しいと思うわよ。私に貢いでよ」
「貢ぐという言葉、男性から女性への、一方的かつ盲目的な下心を感じるんですが」
「そんなことないわよ。たぶん」
麻田が、普段見せない満面の笑みを浮かべ、やや上目遣いに、弥皇の表情を窺う。
「皇家所縁のナントカって、ホントにホントなの?」
「ナイショです」
「あら、内緒にしたいくらい何か秘密があるってことね?」
「おいおい、また始まったのか。お前達のは、単なる追いかけっこだろうが」
「すみませーん」
麻田と弥皇が同時に謝る。
久しぶりに全員が揃ったサイコロ課で、のんびりムードが続く。かと思えば、久々にバラバラトークが始まった。
「そういえば、骨抜きの一人で安倍の夫、佐藤。あの後、自死したそうですね」
「ああ、マスコミに吉田との密会現場写真を撮られた上に、吉田への入金記録やら、緑川の捜査で押収した例の秘密の通帳。あの中に名前があった。緑川への入金記録までマスコミに出た。あとは、安倍に対するモラハラ発言。何でも安倍が録音していたとか」
「そりゃあ、虚栄心の塊みたいな人間としては、もう生きて人前に顔出せませんね」
「安倍が最後に一生分の復讐をしたのかもね。それが許される範囲かどうかは別として」
「緑川事件の入金記録って、どっからマスコミに漏れたんだ?ましてや、吉田への入金記録なんてマスコミに漏れるわけないだろう」
「さあ」
「警察の中で安倍に接触した人間、いませんよ」
「知らぬが仏イコール、無知は至福である」
「弥皇くん、言葉の使い方、間違えてない?」
「知らなくても僕たちには何ら関係ないことでしょう。事件は終わったんですから」
市毛課長が机に両手をつきながら、大きく首を横に振る。
「これからが始まりさ。緑川の場合、自己愛性パーソナリティ障害なのは間違いない。その場合判例上は刑事責任能力があるとされる」
佐治も課長の真似をして両手を机においたまま、目を閉じて頷いた。
「善悪の判断が可能で刑事責任能力があれば、緑川にとって厳しい判決が予想されるからな」
五人が揃ったように、ふっと溜息をつく。
それぞれが役割を持って、解決に導いた東北のサイコパス事件。
決して、円満な解決ではなかったかもしれない。
それでも、心理的要素から始まる罪を減らしていかなければ、後々重大事件に発展する可能性がある。可能性がある限り、それらは排除されるべき本質的な要素となるのだ。
「さ、解散だ。お疲れ様」
「お疲れ様です」
弥皇が独身組に声を掛ける。
「麻田さん、和田くん、お帰りと言ってくれる家族が居ない者同士、飲みに行かないか」
「失礼ね、相変わらず。でも、いいわよ。和田くんは?」
「僕もご一緒します。お二人きりだと何が起こるかわかりませんから」
和田の言葉に、麻田と弥皇の二人が反発する。弥皇が反論の口火を切って落とす。
「どうして僕と麻田さんが二人きりになるんだい。和田くんも誘っているじゃないか」
「そうよ。それに、よしんば弥皇くんと二人きりでも、何にも起こりゃしないわ」
和田の目が三角になった。
「そうですか?本当に?」
「そうだとも」
「本当よ」
麻田も弥皇も、防戦一方だ。
和田の目は、今なお三角である。麻田と弥皇が嘘をついていると、怒っているらしい。
「僕の情報収集能力を甘く見てもらっては困ります。筒抜けでしたよ、全部」
「何が筒抜けなのかわからない。そんなに君を怒らせるようなことをしたか?」
「どうして僕に内緒にするんです」
「内緒も何も。和田くんに隠し事なんてしていないよ、僕は」
「ふーん。どうしても黙っているつもりなんですね」
「だから何を言えばいいんだ?」
弥皇を見た和田。男性二人が見つめあう。
「麻田さんに二人だけで飲みに行こう、って最後の現場に行く直前に、約束したでしょう」
「あ、あれは」
その言葉を聞いた瞬間、弥皇の顔が次第に紅潮していく。
真っ赤と言ってもいい。これほど顔色を変えた弥皇を、皆、見たことが無い。
そこで麻田が中に割って入り助け舟を出した。
言い訳のつもりか、弥皇を援護したかったのか、それはわからない。
「あの、ほら、生死の境目だったし。少しでも元気づけようと思っただけよ」
途端に、今度は弥皇が麻田を振り返る。顔を赤らめたまま、じっと麻田を見つめた。
「麻田さん、じゃあ、あの言葉は全部嘘だったんですか?」
麻田を少なからず責めるような弥皇の言葉に、周りは目が点になっている。
「あれは強ち、嘘ではないわよ、弥皇くん。今度、一緒に行きましょう」
「強ちってなんです。今、僕は心が痛烈に痛んでます」
「そんなに怒らないでよ」
「麻田さん。少なくとも、僕は本気で言いました。でも麻田さんは違っていたんですね」
「だから嘘じゃないって、さっきから言ってるじゃない」
麻田が困り果てるような顔になる。
畳みかけるように、和田が麻田の横で、ぼそっと呟いた。
「麻田さん。お二人が甘い雰囲気で、ワイングラス片手にご歓談の話も伝わっています」
「和田くん。甘いは余計だから」
角を生やしかけた麻田。弥皇と一緒になって和田に詰め寄った。
「君、どこからその情報を仕入れたんだい?」
「そうよ、大体それ誰に聞いたの?」
「だから、僕の情報収集能力です。緑川の件で至る所に網を張っていましたから」
やっと顔色が元に戻った弥皇。麻田も冷静になったように見えた。
「和田くん。とにかく、僕等のことは放っておいてくれ」
「そうね、取り敢えず、ここは引いてちょうだい」
「それって、弥皇さんと麻田さん双方、と言う意味で良いんですよね?」
和田は、ニヤっと笑った。
「じゃあ、二人とも認めたということで。さ、行きましょう」
「和田くん、雰囲気が変わったよ。素直で朴訥な青年だとばかり思っていたのに」
「雪が、東北の大地が、僕の本能を目覚めさせたんです」
市毛課長はそれを見ながら、佐治に目くばせした。
「我々も一杯どうだ」
「いいですね」
こうして、事件解決とともに、サイコロ課内の電気が消えた。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
サイコロ課の面々を、監視カメラで見つめる人物がいた。どうやらサイコロ課には監視カメラが付いているらしい。となれば、盗聴器も付いているのだろう。
これは、サイコロ人たちも知らない。警察庁の人間である市毛だけが知る事実だ。
いや、課内の四人も総てを知っていて、何も言わないだけかもしれない。彼らの心理は、一般人には計りかねる。
カメラや盗聴器の設置は、特に処罰を行うためではない。
どのくらいのキャリアがあり、どういった犯罪についてどういった能力を発揮するのか。机上の空論なら、プロファイルだけなら、専門的な部署など要らない。
上層部では、変人部隊と呼ばれるメンバーたちの行動面を見定める狙いがあった。
ただの四十七都道府県からの泣きごとなら、とうの昔に却下している。以前にも言ったはずだ。警察はそんなに甘くない。
近年、件数を増している異常な犯罪の手口、犯人の心理。これらを的確に纏め上げる組織は、絶対に必要なのだ。サイバー犯罪にサイバー室が創設されたように、サイコパスに対抗出来得る能力を有した人材の確保は、警察にとっても急務なのである。
そのメンバーが変人であれ、一般人であれ、事件解決の糸口さえ掴めれば、サイコロ課設立の目的はある程度果たされたことになる。
「どう思われますか」
「彼等か?」
「はい。使えるでしょうか」
「市毛が何とか纏めるだろう。あいつは昇進を蹴った男だからな」
「そうでしたか、彼が噂の」
「ああ。私の同期だ。変わった奴だよ。昔から」
明日もまた、謎や驚きに包まれたサイコパスの惨憺たる行為がサイコロ課の面々を待ち受けているだろう。それでも彼らに出来るのは、連綿と続くサイコパスの恐怖から人々を解き放ち、守り、救う。
ただ、それだけだ。
そのために自分たちの持ち得る知識であり、状況判断で事件を紐解いていく。そう、連続しているようでいながら、日々の景色が四季とともに変わるように、人の心もまた移ろい、時に歓喜し、笑い、時に肩を震わせ、怒り、時に打ち拉がれ、涙する。
喜怒哀楽があってこその人間。
どれが欠けても、人間というカテゴリそのものから遠ざかってしまうように見える。
サイコパスが、哀しみの感情だけを持たずに生まれたのか、哀しみの感情が封印されているのかは、わからない。
脳科学が飛躍的に進歩すれば、サイコパスの思考、その全貌を目の当たりにすることが出来るのだろうか。日本を含めた世界、地球全体が、今はまだ、全貌を知る段階にないのが現状だ。
サイコパスは、ひっそりと暮らしている。いつ起爆スイッチが入り、どこで行動を起こすかわからない。
普段はきさくで明るい人。それが多くのサイコパスに共通する外見である。
そう。
あなたの隣で、あなたの向かいで、明るく笑う。
その人こそが、本当はサイコパスかもしれないのだ。