第2章 第2幕 Monster=Psychopath
全てを読み終えるまでに、どのくらいの時間を要しただろうか。
読みふける間、ひと言も言葉を発しないサイコロ課員たち。麻田の眉間にはくっきりと縦じわが寄り、いつも軽口を叩き女性の悪口を言わない弥皇でさえ、無口のまま目を細くしてデータを読むことに没頭している。佐治や市毛課長も心なしか暗い表情になり、驚きを隠さないといった風情だ。
和田は入力したデータを見ながら、今回は相当のヤマになると予感していた。
全員がデータをひととおり読み終えたようだ。誰が最初に言葉を発したか誰も覚えていないのだが、いつものバラバラトークが始まった。
「いやあ、これは凄まじい」
「骨抜きですか、それこそ荒業ですね」
「だから、女の怨念は怖いんだってば」
「退職させたの何人?精神で何人駄目にした?」
「精神は10人以上。骨抜きは何人いるのやら。この分だと、10や20じゃ済まないだろうな」
「若くて綺麗な女性や、評判の良い女性が皆、潰されてしまいますよ」
「紛れもないサイコパスですね、これは」
「表面上普通に生活していますから、余計に目立たないのでしょうね」
「望みがあるとすれば、結婚詐欺の証拠が出ることくらいか」
「薄い望みですねえ」
「じゃあ、俺が荒業を使って望みを厚くしてこよう」
市毛課長が、ほくそ笑んで部屋を出る。
独身組三人は、そこはかとなく背筋に寒いものを感じ、ぶるぶるっと震えた。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
一週間後。
東北の地に、三名のサイコロ人が放り出されていた。
当該県警に無理を言って、警察庁から県警に出向したうえで行政部の事務に異動し、緑川の周辺を探り、サイコパス心理を見極めるために派遣された者たちだ。
市毛課長の言う「荒業」である。
犠牲になったのは、独身組、麻田、弥皇、和田の三名。
荒業計画を聞いた3人が、二つ返事で東北に赴くわけがない。
麻田はキャリアもT大と凄いので『キャリアウーマンが警察庁から着て秘書課に行く』という噂も流しやすい。幸か不幸か、麻田は緑川と同年代だ。麻田は納得していないが、周囲はそんなこと、お構いなし。麻田は今回の計画を聞くや否や、市毛課長に噛み付いた。
「どうして私がサイコパスのターゲットになるんですか」
「お前が女性だからだな。秘書の仕事は女性を採用しているらしい」
「女性だから?無茶苦茶です、そんなの」
そこに弥皇が割って入る。
「僕たちだって、結婚詐欺のターゲットになりに行くんだから。お互い様だよ」
「腑に落ちないわ。今回ばかりは」
「僕はどうして東北に行くんですか」
和田が生真面目な顔をする。その顔色を見た麻田と弥皇は、笑いをこらえながらスルスルと音も立てずに和田の両脇に寄って行く。
緑川の彼氏候補だと聞いた和田。あからさまに拒否する風体を見せて、何か反論の材料がないかとデータデスクを見に行こうとするが、麻田と弥皇に腕を押えられて身動きが取れない。
鶏ガラの相手だけは勘弁してほしいと市毛課長に願い出るが、和田の主張など誰も聞いてはいない。緑川と交際した相手がかなり年下だと言うだけで、和田が適任という。
弥皇は金持ちのふりをして、緑川の金蔓、違った、ターゲットになるのだと聞き、漸く和田の文句が止んだ。
市毛課長がメモを残して何処かに消えた。和田が開いたメモには『三名の検討を祈る』というワンフレーズのみ。
東北組3名は、「死んだら化けて出てやる」と口々に市毛課長を罵る。
確かに。
死と隣り合わせの東北ツアー。
己が表に出ることはほとんどなく、精神的に相手を追い詰めていく。
まるで、昔のモノクロ映画にあったミステリー、サスペンスそのもののストーリー展開。
其定其処らのお化け屋敷の比ではない。
命を懸けるような仕事が、サイコロ課にあるとは思いもよらなかった。
まあ、放り出されたものは仕方がない。職務を全うして帰る以外に道は無い。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
県警に出向き、人事担当部署に挨拶を済ませた3人。県警では粗方の事件経緯を把握している。
あの捜査メモもすごい執念だと和田は感じていた。余程聞き込みに時間を要したことだろう。あまりサイコロ課の出番を快くは思っていないようだったが、緑川がサイコパスと思われる側面があること、被害者多数ということも手伝い、疎かには出来なかったようだ。
行政部にもきちんと話していない捜査らしく、県警本部内にある捜査一課に顔を出した時は『邪魔するな』とだけ言われた。
住まいは運よく警察関係官舎を借用できた。警察官舎が住まいとは周囲に言えないため、居住地はダミーを使い、徹底的にはぐらかさなければならない。あとは心配することもないだろう。
明日は行政部に出向き、挨拶するだけだ。
「じゃ、また明日」
「はーい、僕らは三階ですから」
「お休み」
「ちょいまち。あんたたち」
「何ですか?」
「電話の登録」
「あ、名前の登録、偽名にしろって言われてましたね」
「そう、私が『おだまり』でしょ、和田くんは『かたすかし』、弥皇くんは『いやおうなし』佐治さんが『さじかげん』、課長が『いちもうだじん』。ちゃんと変えておきなさいよ。緑川に見つかったら計画台無しなんだから」
翌日、県の行政部に出向いた3人。
行政部長に会い、異動内示書を渡し、警察庁からの出向組だと伝え、麻田から始まり弥皇、和田が続けて挨拶をした。
「よろしくお願いします」
言うまでもなく、相手はかなり訝っているのが手に取るようにわかる。
なぜ、今の時期。
今は2月。来月には大規模な人事異動も発表する予定だというのに。
まして、なぜ警察の人間が行政の部署に入り込むのか。興味というより、迷惑だと言わんばかりの顔だった。
行政人事部署では特に驚きもしていないようだが、真意を確かめたい、そんな眼差しが冷やかしと交じりあい部屋の中を漂いながら、3人の顔に突き刺さる。
「わたくし、警察庁から出向し、行政部の秘書課に配属が決まった、麻田茉莉です。隣が福祉課の弥皇南矢、そして福祉二課の和田透です」
「お話は県警の方から伺っています。この時期に大変ですね。何か事件でも?」
「いいえ、人事交流ということで、私ども3名が行政についてご教示いただくことになりました」
「4月の異動時期には、まだ早いでしょう」
「行政部における異動時期の動きなどもご教示いただきたい項目の一つです」
麻田と弥皇は嘘八百を並べ立てる。和田はもじもじするばかりだ。隣で麻田が『ネジを巻け!』とばかりに微笑んでいる。
「そちらの男性は、お若いですね。警察庁ではどんな仕事を?」
「あ、僕は心・・」
麻田は目眩を起こす寸前だ。此処に来て正直に話してどうする。麻田はちらりと和田を睨み、和田の靴先をヒールで蹴り飛ばす。勿論、目の前の相手に気付かれないように。
一番左側に立っていた弥皇が代弁した。
「申し訳ありません、守秘事項で、お話できないことになっています」
「警察はそういった守秘事項が多いですからね」
これだから警察は、という顔、顔、顔。
めげずに、麻田が締めくくる。
「本当にお忙しい時期に、私どもを受け入れていただき、感謝します」
「では、明日からの勤務と言うことで・・・」
行政人事部署の部屋を出た3人。早速、麻田からの御小言が和田を包囲する。
「和田くん。本当の仕事言ったら、心理ヲタクの集合体ってバレるでしょうが」
「はあ、すみません。嘘って付き慣れないものですから」
弥皇がチッ、チッ、っと人差し指を振る。
「嘘はついていないさ。任務の一環として、与えられた偽情報を開示しただけだよ。本当のことを言うのだけが任務ではないだろう?」
「そうよ。捜査権のない我々にとっては、ターゲットに近づいて心理分析するしかないんだから。だからターゲットが反応しそうな場所に潜入するの」
「ところで、ターゲットが人事異動して福祉関係部署から離れることは無いんですか?」
麻田、弥皇、共に息が止まった。
そうだ、人事異動。
まさか、あと2か月弱でターゲットを分析しろと?
「まさかの展開、ないわよね」
「無いことを祈りましょう。2か月で分析は無理ですよ。24時間見張ってるわけじゃないですから」
「じゃあ、あとは官舎に戻ってもう一度ターゲットの履歴を確認して、自分たちの役割を再確認して終わりですね」
あとは明日からの任務を全うするのみ。
3人がそう思って歩き出した時のことだった。
目の前に、出た。
いや、現れた、ターゲット。
緑川聖泉。
3人とも、お互いの心臓の鼓動が、自分のそれとシンクロしたような錯覚に襲われた。
麻田は、癖とまではいかないものの、緊張したり気合が入ったとき、髪をかき上げる。今回は気合と言うより、突然のターゲット出現に驚いたようだ。
自分でも気づかないうちに、自然とその癖が出ていた。誰もが認めるであろう、サラサラで艶やかな、本当に綺麗な黒髪を、左手で無造作にかき上げた。
弥皇は写真と実物の違いを言葉にできず、もどかしさが募るばかりだ。
写真が昔の物だったのか、それとも自分の目が悪いのか。
それとも、和田の「媚びた顔」というフレーズが頭に残ったのだろうか。緑川の顔が、どうにも美人から遠ざかって見える。
(ただのオバサンやんか)
それでも、ここから任務の開始だ。
美人だ!という驚きの顔。ちょっと高揚しつつも職務中に話しかけられないジレンマ。
緑川が通り過ぎるまで、ずっと弥皇は緑川を見つめ続けた。
和田は、修業が足りない。
弥皇のように演技するでもなく、ただ反射的に、ぺこりと頭を下げ、素直に緑川をやり過ごした。
県庁の中では、誰も何も口にしなかった。どこで誰が聞いているかわからないから。
県庁の外に出た。和田が立ち止り、弥皇と麻田に声を掛ける。
「これから、どうします?」
弥皇と麻田が、急にハッとした表情を見せた。
「昼でも食べて、官舎に戻るか」
「そうね、色々生活雑貨もいるでしょうから買い物もしないとね」
和田がにこにこと笑う。
「お二人とも、かなり緊張していたようですね」
「和田くんは緊張しなかったの?」
「だから、好みじゃない女性に緊張しませんって」
「いや、そういう問題の前に、任務があるだろ。和田くん、ターゲット観察したか?」
「はい」
「気付いたことは?」
「麻田さんを鬼のような目で睨みました、一瞬ですけど」
「本当?私を?」
「ターゲットは毛髪にコンプレックスがあるようですね。クセっ毛でしたよ。お世辞にも綺麗な髪とは言えないなって思いました」
麻田と弥皇は顔を見合わせる。
自分たちが如何に緊張していたのかを物語るハプニングだったと言えよう。
「和田くん。今日の昼は私の奢り」
「気付かなかった僕も半分、出しましょう」
昼食は、県庁から歩いて30分ほど離れた駅前で摂った。観光客の間では、有名な店だ。
3人の場合、観光気分で食べるのではない。こういったところは待ち人数がでるから、地元の人は余り使わない。
仕事柄、公務員なら見れば大凡の見当がつく。県庁の職員なら、外出時には普通は身分章を付ける。
一般会社なら、会社のバッジか身分証明書を首からぶら下げている。紐の部分が背広から見えるのでバッジが無くても分かる。
あとは雰囲気だ。
両者には決定的な違いがある。
一般的に、公務員以外のサラリーマンは食べるのが早い。スケジュールが押してしまうから、優雅に食事を取る時間が無いためだ。
それに対し、余程のスケジュールをこなす公務員でなければ、ある程度の余裕をもって食す。
この店に、公務員の類いは、いないと見える。
麻田は席を探してよっこらしょと掛け声を発しながら座った。
「情報共有、どうしようかしら」
弥皇はくくくっと声にならない声で麻田を指差し笑う。
「よっこらしょはないでしょ、麻田さん。官舎にすれば?」
「五月蝿い、弥皇」
和田も最上の笑顔を先輩2名に向けた。
「また、着た早々喧嘩しないでください。警察の官舎なら行政部の人間は入りませんね。ただし、緑川の息がかかった人物がいないかどうか」
「それも調べないとな。県警にいる職員が行政部に異動している例もあるんだろう?」
「事務系なら。警察官の異動はありません。この警察官舎の住人名簿を見たところ、事務系の人間はいませんでした」
「どうして知ってるの?和田くん」
「県警に行ったとき、県警職員名簿をお借りしました」
「どうしてまた」
「弥皇さん、陽動作戦ですよ。ターゲットをうやむやにする、といったイメージですかね」
「もしかしたら、みな僕たちのことを警察庁の監察だと?」
麻田があっはっはと大きな声を出し笑った。
「色々な噂が出回るでしょうね。言わせておけばいいわ。和田くん、いい仕事したわね」
「褒められるなんて、久しぶりだなあ」
麻田、弥皇両名がニヤリと和田を覗き込み、小声で呟いた。
「今回、一番働いてもらうことになるからね」
夜の警察官舎。
寮形式の官舎なので、1階に談話室がある。
情報共有を談話室にしようか、弥皇か和田の部屋に集まろうかというところだ。
談話室は、隠したい情報には向かない。反対に、出回らせたい情報は各部屋で話しても無駄だ。
二つの場所を効果的に使用し、情報を拡散、或いは収集していくことで方向性は決まった。
まずは、和田の部屋での会合風景。
サイコロ課員にのみ閲覧可能なタブレットだから、当然、三重のパスワードと指紋認証式が掛けられている。それでも最重要事項は、瞳孔認証を用いている。持ち主以外がアクセスしようとした場合、データは破壊される仕組みだ。
「随分と細かい部分まで出てましたね、小さい頃とか」
「まあ、地域には必ず情報を握っている輩がいるからね」
「学校でのこととかも?」
「同級生とかに聞けばわかるだろう」
「職場も?」
「退職に追い込まれた人間なら、話す可能性は大きいさ」
「これが男性だったら、ここまで細かく出なかったと思うわ。女性の恨みは深いのよ」
和田が溜息をつく。
「女性に対する目が変わりそうですよ。僕、結婚できないかも」
弥皇のパンチが、和田の心に炸裂する。
「結婚なんてするもんじゃない。奥さんの顔色窺って過ごす毎日なんて真っ平だね」
麻田のボディブロー。
「同感。お前は女だから家事して当たり前、母親なんだから子育てして当たり前。馬鹿かっての。父子家庭はどうすんのよ。立派に育ってる子供だって多いわ。要は愛情の問題でしょう。愛情を注がない母親に注意するならわかるけど、女だ、母親だ、ってすぐにジェンダー論持ち出す男は最低よ」
「僕の友人、いつも喧嘩しあってる両親もってます。父親はディベートに優れているから、母親はヒステリー起こすんだそうです。友人は『どっちも馬鹿。どっちも自分を優先したくせに』って呆れてます」
「それ見たことか。一番の犠牲者はいつも子供じゃないの」
弥皇も麻田に激しく同調している。
「どっちもどっち。それぞれに言い分があるんでしょうけど、周囲にしてみれば迷惑極まりない」
和田が苦笑いする。
「先輩たちは結婚の話になると鬼のように否定しますね」
「そりゃそうよ、本能の部分からすればハズレ者だけど、私の人生、他人に変えられたくないもの」
「右に同じ」
そこに、トントン、とドアをノックする音が聞こえた。
瞬間、ドキッとする三人。
和田が徐に席を立ち、ドアの方に向かう。
「はい」
和田の目の前に現れたのは、30代ほどの男性と女性だった。
「失礼ですが、どちら様ですか」
男性が和田に耳打ちする。中華圏の言葉だろうか。男性の声は低く、聞き取りできなかった。麻田と弥皇が身構えるだろうと予想していた和田。
と、思いきや。
「あら、ようこそ」
「心強いパートナーのお出ましだ」
麻田と弥皇はフレンドリーな態度で男女を迎え入れる。和田は首を傾げた。自分たち以外に緑川を追っている人物がいたなんて。そんなことを思っていると、相手は流暢な日本語で挨拶してきた。
「俺は莎尊於です。日本語名は、かやつりたかお。コードネームは「さとうとしお」です。みなさん、よろしくお願いします」
「私は椥法堡。日本語名は、なぎほばら。コードネームは「いこくじん」でお願いします」
空気が読めていない和田を囲むように麻田と弥皇が立ち上がる。麻田が和田に耳打ちする。
「この2人は大丈夫。課長が派遣してくれたのよ」
弥皇は2人と握手しながら、ハグしている。よほど信頼している人間と見える。
「いやあ、百人力です。ご協力感謝します」
和田は、自分だけが相手の素性を知らないのが面白くない。
「よくわかりません。僕だけ置いて行かれた気分です」
莎が説明する。
「隠密部隊と考えてください。あなた方とは、余程のことが無い限り、お会いすることがない。わたしどもの顔だけ覚えていただきたく、本日ご訪問した次第です」
「どこかで会っても、必ず知らぬふりをしてください。わたしどもとの接触は吉と出るか凶と出るかわかりませんから」
そう言い放つと、影の訪問者たちは直ぐに姿を消した。
残った3人は、明日からの行動計画を立てて、各自、自分の部屋に戻る。
東北での寒さもさることながら、これから起きるであろう、大小様々な事件に思いを馳せる3人。犠牲者を最小限に食い止めなくては。
どんな小さなことでも、見落とせばそこに蟻地獄を呼びよせるだろう。サイコパスと言う名の、蟻地獄。緑川の蟻地獄に落とされてしまう、或いは引き寄せられる人が出ないよう、もし、落ちそうになっている人がいたら、何が何でも助けるのが、自分たちのミッション。
できることなら、蟻地獄そのものが無くなってしまう未来を祈りながら寝るとしよう。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
翌朝、福祉部署に出勤した男性2名。
勿論、和田は緑川と同じ福祉二課。弥皇は廊下で会えるように、隣の福祉課に配属された。
どこでゴリ押ししたものか。和田は緑川と机を並べて働くことになっていた。心なしか元気のない和田。
午前9時頃、臨時職員と呼ばれる契約社員さんたちが出勤してきた。
あ!と驚く和田。椥法堡、いこくじんさんがその中にいた。勿論相手は知らん顔。
和田も特に気にする素振りを見せず、緑川からのレクチャーを聞く。これが市毛課長の必殺技だ、緑川を和田の教育係にしたらしい。所属からしてみれば、仕事をしない緑川にはちょうどいいだろう、という腹が見え見えである。和田は、がっかりと肩を落とす。
ただ、全員に紹介してもらったことで、フランブルクさんと挨拶くらいはできるようになった。それだけが唯一の救いである。
和田と弥皇の間で、スマホを2回鳴らしたらトイレ休憩の名目で廊下に出ることにしていた。その時間が待ち遠しい和田。飄々としている弥皇は、ヘビに絡め捕られようとしている子ガエルには、頼もしい限りの先輩である。
ブーン、ブーンとバイブモードのスマホが鳴った。やっと弥皇からの合図が和田に届いた。和田はお腹を押さえながら立ち上がり、緑川に対し会釈してから部屋を出た。
「おはよう、和田くん。どうだい、慣れたかい?」
「虎穴に入ることは入りました」
「OH。そりゃあ、幸先がいいね」
「精神が持つか、心配ですけど」
「大丈夫、大丈夫」
あまり長くは話せない。連絡事項だけ確認したら席に戻ることにしている。和田が席に就いてまもなく、周囲がざわめいた。
警察庁所属T大出身才女にして、本日付で秘書課係長(行事担当)に発令された麻田茉莉の登場である。
「警察庁から参りました麻田です。よろしくお願いします」
警察出身者らしい、きびきびとした動き。
一礼した際、自慢のさらさらとした髪はしなやかに揺れ、まるで、そよ風に靡くかのように動きを持つ。
和田は、麻田が来た際、ちょっとだけ立つ位置と角度を調整し、緑川の表情をちらりと観察していた。麻田は緑川に一瞥をくれることすらせずに、部屋を立ち去っていく。
一部始終を横目で追った和田。邪気を感じる。凄い邪気。緑川は何事もなかったようにしているつもりのようだが、顔はひきつり、笑っているように見せているものの、その目は異常なまでに敵意に満ち溢れ、口元が歪み上手く笑顔が作れない。
そんな造作など、見破るのは赤子の手を捻るよりも簡単だと和田は思った。
(麻田さん、ターゲット確定ですよー)
決して、口には出せないこの一言。
和田が心理を研究しているから分かるのかどうか、周囲の人々にはどのような表情に写ったのか、聞いてみたい衝動に駆られる。この衝動を押さえなければ。逆に和田は、自分の興奮状態を察知する。
ちらりとフランブルクさんを見た。彼女もまた、緑川の動向を遠くから職員たちに紛れて観察していたらしい。表情は一切変えようとしなかったが、目が緑川の動向を見たと言いたげに鋭く光っていた。
和田も警察学校を出て県警勤務を経験しているからには、ある程度の訓練は行ったつもりだ。
しかし、実戦は違う。
目つきからして尋常でなくなるのが本当の犯罪者なのだと悟った。警察学校では、いくら腕っぷしが良くて悪者の役をしていても、譬えそれが知らされていなかった犯人検挙の訓練だったとしても、これほどの邪気は感じたことが無い。
自分は今、正に、本当のサイコパスを目前にしているのだとあらためて感じ、気を引き締め直す和田だった。
麻田が姿を消してから、緑川は何処かに行ってしまったようだ。
それまで息を押し殺していた和田は、廊下に出て新鮮な空気を求め、再び部屋を出て階段を探した。
途中、フランブルクさんが洗面所から戻る所に出くわした。
「これから本番です」
すれ違いざまの、ひと言。
「はい」
誰にも聞こえないよう、和田は低い声で応じた。
和田が廊下を抜け階段の方へ行くと、階段近くでは弥皇がふらついている。互いに連絡し合って廊下に出たわけではない。
「早速サボリですか」
問いかける和田に、静かに!と言わんばかりに口に人差し指を立てる弥皇。聞き耳を立て、緊張しつつも、聞き漏らすまいと神経を耳に集中させているのが見て取れた。2~3分、階段口でじっとしていた2人。
ようやく弥皇は、緊張の糸を解き、いつものふわふわ人間に戻る。
和田が目を丸くして弥皇に尋ねた。
「どうしたんです?」
「緑川が階下に降りた。2、3階下だろう。そこで話す声が聞こえた。相手は分からない。階段での会話って、結構上に聞こえたりするんだよ。この建物の設計上、聞こえ易い部分もあるんだろうがねえ」
「ここって9階ですよね、とすると7階辺りですか。内容は聞き取れました?」
「電話していたようだ。骨抜きだと思うよ、相手は。どの骨抜きかはわからない」
和田は、先ほど緑川の豹変顔を見たからか、どこか急いている自分がいた。
「骨抜きデータ、誰かに送ってほしいですねえ。いちいち調べられないでしょうし」
「そうだな」
「で、内容聞き取れました?」
「麻田さんがキミのところに顔出したんだろ?ヒステリックになっていたんじゃないかな。そういう言葉遣いはしていないし、甘えた声を出していたけど、内心は麻田さんに対してかなりライバル意識持ったみたいだ」
「麻田さん、普段見せないように心掛けているようですけど、結構美人ですからね」
弥皇が目を見開き、和田を見る。
「和田くんは、あんなのが好みなのかい?」
「どうして極端に話が飛ぶんです」
「悪い。兎に角、網にかかったのは事実だ。キミも教えを乞うふりして、色々と探りを入れるんだよ」
「弥皇さんは?」
「勿論、惚れる役目だよ。金蔓と思わせないと話が進まないから」
「囮の三連荘ですねえ」
「僕等は捜査に携わらないからいいの。たまたま此処に来ただけさ」
その時、麻田から2人にメールが入った。
自分達とは別に、被害に遭いそうなターゲットを見かけたら保護する事。それが市毛課長からの命令だという。
昨日考えた蟻地獄。これから立ち向かうのは正にそれだ、と思う3人。
緑川の行く手を阻む者、金蔓になりそうな者は即、ターゲットになり得る可能性がある。
弥皇は和田と向き合い、ガッツポーズを作る。気を引き締めてかからねば。
夜、和田が官舎に帰るとフランブルクさんがやってきた。
麻田と二言三言交わしただけ。何か封筒を渡し、そのまま闇に紛れた。
「麻田さん、フランブルクさん何を持ってきたんです?」
「骨抜きの資料」
二人が話していると、ちょうど弥皇が帰宅した。麻田が封筒を振って弥皇に知らせる。
「フランブルクから資料。骨抜き一覧表。顔写真付」
「ヒュー、流石。あちらさんは仕事が早い」
和田が懇願する。
「どこかで見たいです」
麻田が腕を組んで自分の部屋を固辞している。麻田が腕を組むときは、いつも何かを拒否している。
「いや、別に僕は女性と思ってないからいいけど、麻田さんは困るか」
「弥皇。向こう帰ったら、何倍返しを望む?」
「麻田さん次第ですよ」
和田は、なんだかんだといいつつも、この2人は息が合っているなと感じる。
ハードな麻田さんとソフトな弥皇さん。たぶん、息が合っているのを感じてないのは、当人たちだけだ。
「じゃあ、僕の部屋に行きましょう、麻田さん、弥皇さん」
「いいよ、着替えたら行く。最初に行っててくれ」
和田と麻田は揃って、和田の部屋に向かう。
部屋に入る。鍵を掛けると男女2人ではちょっと疾しさが残るので掛けないでおく。弥皇弥皇も来ることだし。
早速、骨抜き上司の資料に見入る2人。
古くは銀行時代。
現在も続く副業先の社長。
驚いたことに、かつて交際した相手の資料まである。
そして、公務員時代。
退職した者。現在も県にて勤務する者。結構な数だ。
20人は下らない。
下手をすると30人を超えているかもしれない。
和田は素っ頓狂な声を上げた。
「すごい数ですね」
最初は流す程度に読み、じっくりと家族構成など確認するつもりだったのだが、資料が厚すぎてそれは不可能に近かった。
「あっ!」
和田が叫ぶ。
「どうしたの?」
「見てください」
そこにあった名前。それは、ブーツ事件で緑川の怒りを買い、敵討ちされて精神に異常をきたした安倍先輩の夫、佐藤孝雄だった。
和田が早速課内の女子職員たちから仕入れてきた情報によると、安倍先輩は夫の給与の使い道などに口出しすることもなく、何時誰と何処に行こうが聞くこともないという。
平日夜、緑川に逢っているのも確かだが、もう一人の女性が急浮上した。
半年前に離婚した女性職員、吉田洋子。
休みの日も、何かと理由を付けては外出する安倍先輩の夫、佐藤。
どうやら、緑川よりも吉田の方が親密度は高いらしい。吉田は小さな子供がいるが、両親に預け、仕事を終えると放蕩三昧。色々な男性を口説くと同世代間では有名な女子職員のようだ。口説いた男性達を金蔓にしているのかは不明だが。
吉田の元夫は国家公務員で東京住まいである。養育費も結構な額が振り込まれている。
緑川は休日、男と逢うところを見られていない。今は交際相手が居ない証拠でもあろう。
「どっちが本命なのか、どんな理由があるのかわからないわね」
「平日の方が圧倒的に多いですが、イベントとかは?」
「休日なら吉田ね。平日は緑川の時もあるけど」
「でも、自分の奥さんが緑川のせいで神経病んだくらい、知っているでしょうに」
「和田くん。明日フランブルクにメモを渡して。吉田と安倍先輩、安倍先輩の夫の佐藤を調べてもらおう」
「安倍先輩の履歴ですか?夫の佐藤だけじゃなくて?」
「安倍先輩が病んだ理由もなんだけど、この家庭の内情が知りたいのよ。ここにあるだけじゃ判断材料にならない。安倍先輩の過去が必要だわ」
っと、そこに着替えて登場した弥皇。
和田がかいつまんで、状況を説明する。3人しかいないのに、またもやバラバラトークが始まる。
「女に興味のない僕としては、この夫の神経がわからんね。安倍先輩は一度この夫と離婚して、再度同居してるじゃないか。この辺がツッコミどころじゃないの?」
「子供二人か。子供のために同居した可能性は高いわね」
「嫌いだから離婚するんでしょう。どうしてまた同居できるんです?」
「私は母性あるわけじゃないけど、子供のこと考えたら、この子が成人するまで、って考えもありでしょう。だから名字はそのままに、婚姻していない」
「そのうち、何らかの原因で、それが緑川かもしれないけど。いや、待てよ。安倍先輩、前見た資料に二回目の長期休暇って書いてなかったかい?」
「安倍先輩が最初に精神を病んだ原因は夫じゃないの?DVとかモラハラとか」
「また逃げればいいのに」
「親権を夫が握っているとしたら?」
「心臓掴まれてるようなものですねえ。この夫もサイコパス、いや、どうかな」
「とにかく、この夫と緑川、吉田、安倍先輩。これは何か怪しい気配がぷんぷんしてる」
「どれ、他にぞっこんクンはいるのかな」
「今のところ、退職者も含め30名ほどは確実に。退職者は用済みなので適当にお付き合いしているようですが」
「今日の電話、相手は誰だったんだろう」
「電話?初耳ね」
和田が昼間の出来事を麻田に話した。
「ふーん、そうきたか。私の悪口を言って悔しがるくらいだから、弥皇くんの見立て通り、骨抜き相手でしょう」
「さて、この中にいるのやら」
「人事権を持っている人間じゃないかしら?」
「ああ、自分が異動したいのは、やまやまだしね。来月の人事異動情報も仕入れたいことだろうし」
「どれ・・・うーん。局長クラスにいることはいるんだけど、この人は病院関係者だから緑川の人事には口を出せないな。あとは・・・ああ。安倍先輩の夫がいたよ」
「他にはいないの?」
「緑川が擦り寄っている人事当局界隈の人間はガードが堅いから誘いに乗っていないね。大体、私情を挟む人間は人事屋として失格でしょ」
「となると、現段階で一番可能性が高いのが、安倍先輩の夫ね」
「吉田と佐藤と安倍。資料欲しいな。キーパーソンかもしれない」
「2、3日中には資料入手可能でしょ。あの2人に頼んでみる」
和田が驚く。
「人ひとり、いや、それ以上ですよ?とてもじゃないけど探偵だって無理じゃないですか」
麻田が右の口元だけ上げて、不気味に笑う。
「フランブルクちゃんやソンウくんは、常人じゃないのよ」
数日間、和田は必死に仕事を覚えながら、緑川好みの年下男性を演じるのに一苦労していた。あらためて分かったことがある。緑川の経歴にもあったが、緑川は、悪い意味で女王様気質なのだ。
だから、命令が大好きで、望みを叶えると褒美をくれる。で、また命令される。叶えるともっと褒美をくれる。その繰り返し。何かに似ている。そうだ、犬だ。犬の躾に似ているんだ。
犬に成り下がった自分。和田は、何となく惨めな思いがした。
とはいえ、考え直す。これはあくまで仕事上だ。仕事場以外で、自分に興味を示して来るかどうかが、和田にとって一つの鍵となる。あくまで、素知らぬふりをしながら周囲に溶け込み情報を掴むのが、自分にできる精一杯だろう。自分は金蔓には成り得ないのだから。
そんな和田に、あくる日の夕方緑川からお誘いの声がかかった。
「和田くん。転勤祝いしましょう」
「ほんとですか?ありがとうございます」
「じゃあ、日程と店はこっちで決めるから。その日だけは、空けておいてよ」
言い方は如何にも可愛らしいが、言っていることは女王様そのものだ。
ましてや、和田は声の汚い女性は苦手なのに、緑川は声が汚い。低いとか、ガラガラとか、そういう汚さではない。なぜ汚いと思えるのか、自分でも上手く説明できないけれど。ああ。わかった。声音と話し方がミスマッチだから汚く聞こえるんだ。
麻田さんのように、年相応の話し方ならこの声で十分なのに。年増といったら失礼だけど、自分の姿を客観的に受け入れられないって、不幸だ。自分が何歳のつもりでいるんだろう、この人は。
和田は、何か馬鹿らしさを感じ、思わず廊下に出た。
『王様の耳はロバの耳!』と叫びたい気分だった。
3日後、ソンウさんが警察官舎に来て資料を和田に託してまたも闇に消えた。
今回は3人揃っていたので、資料を片手に和田の部屋に入る。
和田が今日の出来事を麻田と弥皇に報告し、いつものバラバラトーク時間となった。
「仕事の転勤祝いと言うことで緑川から誘いがきました。今週の金曜日です」
「明後日か。金曜日なら、とことん付き合わされるんじゃないか」
「勘弁してください。自慢じゃないけど酒は嫌いだし、酔っ払いの相手も嫌いです」
「酔っ払いだと思うしかないわね、行動はつぶさに確認してよ」
「はい、実際飲みませんから、その辺で失敗することは無いと思います」
「万が一だけど薬物には気を付けてくれ、和田くん」
「ありましたね、そういえば」
「睡眠導入剤でフラフラにする手口ね。飲んだくれなきゃ大丈夫でしょう」
「はい、麻田さん。様子をみますんで。女王様だから「飲め」攻撃もあり得ますけど、程々にしときます」
「その辺は心配してないわ。うちの課でも一番酒に強いから。和田くんは」
「程々なだけですよ」
「さて。先日の報告書ね。私が読むから、和田くん、データベース入力できる?」
「任せてください」
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
麻田が資料を読み上げる。
安倍みちる。
県内の高校卒業後入庁。
実家は中流以下の家庭。母と兄が実家で暮らしている。
24歳の時、父が他界。
25歳、夫佐藤孝雄と結婚、二児の母となる。
結婚前の佐藤は、完璧なまでに優しい男だったというが、結婚後、180度態度を変えている。
安倍は初婚、佐藤は離婚歴2回、安倍が3人目の結婚相手だ。
夫佐藤は、安倍が夜10時~11時まで外で飲酒するのを許さず、5分おきに電話するという嫉妬深さを見せている。
そういう晩は、帰ると必ず暴力を振るわれた。余程、安倍が外で同僚と飲食するのが嫌だったとみえる。
怒鳴り散らし説教するか、暴力を振るったという。帰るのが嫌で日を跨いで飲んだ際には、朝まで説教され、なじられ暴力を受けている。
『母親にくせに』夫、佐藤が毎度口にする言い分。
また、自分が煙草を止めたのに安倍が吸うと、怒鳴って安倍の煙草を平気で捨てる。
佐藤の気に入らない色味が明るめ(赤やピンクなど)だったり、少しでも鎖骨が見える洋服などは、安倍の給料からの小遣いで買ったものであっても、たとえそれが何十万円の物であろうが、本人の了解なしに全て捨てる。兄からプレゼントされたブランド物の時計でさえも、他の男からもらったのではないかと疑われ、いつの間にか捨てられていた。
モラハラだけではない、手を上げ暴力をふるう理由。
それは安倍の父が結婚前に他界し、佐藤に物を言う人間がいないためと考えられる。
その証拠に、過去の結婚時も佐藤は妻に暴力をふるい妻の親から告訴されていた。
佐藤は自分の親にねだり多額の慰謝料を払っている。
安倍の兄も高卒で決して高学歴とは言えず、夫の佐藤は常に安倍の兄を馬鹿にしている。
兄の言うことなど全てディベートで負かすことができる、と安倍を脅していた。
夫婦喧嘩の際、佐藤が口走ったという。
これについては当時の周辺住民の証言が取れている。
5年後、安倍は同居していた自分の母、子供二人を連れて元実家に移り住む。
安倍の兄は当時、仕事で県外におりフォローできなかった。
佐藤から子供に会いたい、の言葉すらなく、そういった趣旨のやり取りは無い。これは安倍の兄からの証言。
保育所や地域のイベントの時にだけ、連絡もなくこれ見よがしに保育園にくる夫の佐藤。
耐えられず安倍は離婚調停を起こすが、佐藤に足元を掬われた。
それまで色々と相談していた男性Aを浮気相手と称された。
実際に交際していたかどうかは不明だが安倍がそういった発言をしたという説もある。
そのため、安倍は逆に子供たちの親権を取られることになる。
他にも養育費毎月10万、子供名義の保険料支払いと満期保険金の譲渡を命じられる。
子供と別れるとき、安倍は子供に言い聞かせている。
『お父さんは強くないから、あなたたちが行って強くしてあげて』
子供は当時の保母に「僕のお父さんは弱いから僕が守ってあげるんだ」と話したという。
周囲からの噂に何も反論せず、安倍は全てを自分の胸にしまい込んだ。そして県庁を離れ、遠地で仕事をした。
ほどなく10歳年下の男性新田と交際を始めるが、5年後破局。
新田は強かで、浮気癖の抜けない男だった。いつも2人の女を天秤にかけないと気の済まない男。そして自分に尽くす女を選んだ。いや、最初の女に飽きて乗り換えるための口実に「自分に尽くす女を選ぶ」と女たちに迫ったのだろう。
交際を始めた時も同様で新田には彼女がいた。安倍は知らずに付き合い出したが新田の行動が不審であったこと、見知らぬ相手から嫌がらせのように車両を傷つけられたりしたことから新田を問いただす。
新田の答えはいつも同じ。
「どちらが僕に尽くしてくれるんだろう」
交際も5年を経て、新田の態度が異状になった。手作りの菓子類やケーキをおすそ分けと称して安倍に持ってくる。明らかに素人くさい猥褻な写真をノートに挟む。新田を問いただすとあっさりと浮気を認め、安倍に別れを告げたという。
佐藤から逃げて5年。
安倍は子供たち以外の人間に尽くすことが嫌になってしまっていた。
浮気をされた経験のない安倍は驚き泣いたが、既に心は新田から離れていたのだろう。トラブルも無く直ぐに新田との交際を終わらせた。
泣いた場面に居合わせた友人からの証言。
麻田がメラメラと目の奥に火を燃やす。
「どうしようもない鬼畜ね。サイコパスだわ。投げ飛ばしたくらいじゃ直りそうにない」
和田と弥皇が2人がかりで麻田を押さえ付けながら同意した。
「確かに。今は新田も県庁にいるはずですけど、見ます?実物」
「弥皇さん、それ同意じゃなくて火に油注いでないですか?嫌ですよ、血みるの」
「そうだね。さ、麻田さん、僕らはあるべき仕事に戻りましょうか。人の噂話が仕事じゃないでしょう」
新田は別れを切り出す前に、安倍に対し子供たちへの手紙を書かせた。
その手紙が縁となり、元夫佐藤から電話が入る。
夫の佐藤は、子供たちに安倍との再同居を決めさせるという一番卑劣で汚い手を使った。小学生の子供なら、普通は母親と暮らしたいと思うだろう。余程母親に苛められた経験がない限りは。
そうして、子供たちが選んだ結果と称して、安倍との再同居を始める。
子供たちは小学生。小さな頃から、常に親の心中を察する子供だったという。
安倍は婚姻と言う形を拒み、同居人として子供の面倒を見るつもりでいたらしい。子供たちが大きくなるにつれ、教育面で子供を叱責するようになった安倍。安倍が叱責しないと、佐藤が子供たちを卑下し叱責し暴力をふるうからである。
佐藤との喧嘩も、教育面が原因でエスカレートしていく。
最終的な進学先を決定したのは夫佐藤だが、今でも安倍のせいにしているという。行きたい高校を諦め進学した子供は素行不良、反省した安倍だったが、直後に安倍は鬱病発症。
鬱病発症は、教育面で夫佐藤と反目したこと、口論、モラハラが主原因と推察される。
1年の休暇後、元気になって復帰した安倍。この間、500万近くの借金を作っている。
だが、2年半後、緑川によって再び1年の休暇を余儀なくされた。
2回の休暇を取っているが、休暇中は、ずっと夫佐藤から無視され、話をしていない。2回目の休みの際は、1,000万を超える借金を作っている。
これは友人たちからの情報である。
その後一旦復職したが、自身が双極性障害・躁鬱の病と気が付いた安倍。
秋に退職を決意し年度末に退職。
病気での退職にも関わらず、佐藤は安倍にフルタイムで仕事をするよう命令している。
公務員時代の給料とまではいかずとも。これは職業紹介所、ハローワークの記録からも明らかである。
何社か面接に行ったが、全て採用には至っていない。
退職間際、退職後にも何度か夫佐藤から極度の負荷を掛けられている。
幻聴に悩まされ、統合失調症ではないかと疑い精神科を受診している。
病気に関しては、兄からの情報。
麻田は容赦ない。結婚後の安倍の性格があまり好きではないようだ。
「なるほどね。なんだかわかんない人だわ。鬱とかの発症を人のせいにしてる気がする」
「元々明るい人格が売りだったようですから、病気を受け入れることができない」
「他人に明るいと思われたい人だったのね」
「自分を作らないと人前に立てなかったんでしょう。ないですか?そういうこと」
「ない」
「鋼鉄のような麻田さんにはわからないか」
「五月蝿い。次。夫の佐藤と怪しい関係の吉田、続けていくわよ」
夫、佐藤孝雄。地元の大学を卒業後、入庁。
こちらは中流の家庭に育つが、両親の喧嘩が絶えない家庭だったという。
佐藤は金銭に汚く、自分名義の銀行引き落とし等が決済されないと、毎回安倍をなじりお金を巻き上げる。
自分が悪く言われることを極端に嫌う。
周囲の評価は二分。デキる上司または、ワンマン上司。
人間的評価も若い時から二分しており、安倍との結婚を心配した者すらいる。
周囲には絶対に見せないが、妻に対し暴力をふるう。妻を蔑む傾向がある。
得意分野はディベート。自身の能力に相当の自信を持っていると推察される。
子供の親権争いも得意のディベートで安倍を完膚なきまでに追い詰めたという。
妻の安倍が鬱を発症し自殺未遂など図った際も、優しい言葉を掛けず無視している。2回目の休暇から、喧嘩の時以外は一切安倍とは話をしなくなった。
安倍が退職する前後から、喧嘩のたびに出る言葉がある。周辺住民からの証言だ。
「俺が出ていくからお前が自宅のローンを払え」
安倍を精神的に追い詰める言葉である。現在無職の安倍にとって家を失うことは必至であり、子を守るために、自死による保険金取得も考慮に入れることは、推測するまでもない。
以上が佐藤の人間性。
佐藤は外面が良く、身内が自分の思い通りにならないと癇癪を起す。金遣いについては、貯金をしたことがない。慰謝料を親に払わせたのも、自身に全く貯金が無かったからである。給料を妻に渡さない。使い道を妻に話そうとしない。使い道を聞くと、喧嘩になる。
これは昔の妻たちの証言である。
帰宅はいつも遅い。昔はギャンブルばかりしていたが、吉田に会ってからはギャンブルを止めている。その時間を逢瀬の時間に充てていると考えるのが妥当。女性へ金を渡している節がある。該当者は、吉田と緑川と思われる。捜査令状がないため、銀行口座は未確認。
吉田洋子。
緑川と同世代の女性職員。
男にだらしないという噂が同世代の間で広く出回り良い噂を聞かない。緑川同様、年上の男性を主なターゲットとし放蕩三昧を繰り返していた。
一方で婚活にも余念がなく、金持ちの分野にスポットをあてアタックを続けていた模様。
めでたく婚活成功するが、夫は国家公務員キャリアで主として東京勤務。同居を持ちかけられるが拒否した。これは元夫からの証言。
その後子供を産んだが、子供が一歳の時、協議離婚。子供の親権を手にしたが、その子供は両親に預けている。地方事務所に配属された際、子供を産み県庁に戻ってやる、と息巻いたと言う。
極秘だが、夫は結婚直後から別居の形をとっており、子供の出自に疑問を抱いたことからDNA鑑定を行おうとした。それを知った吉田が上手く言いくるめ、養育費だけの協議離婚で落ち着いたのだとか。
DNA鑑定の話が無ければ、もっと夫から金を搾り取る思惑だったとみられる。子供が一歳になった際に離婚し、子供を両親に預け自分は放蕩三昧の生活に戻った。
放蕩三昧の男好きということで嫌う人間も多いのは確かだが、サイコパスではない。根っから多数の男性が好きなだけ、というのが心理分析的なカテゴリである。
子供の本当の父親は未だもって不明のまま。知っているのは吉田のみであろう。過去、同僚だった男性陣は、吉田の名を出すと、必ず言葉を濁す。その男性たちには、何らかのモーションがあったことは想像に難くない。殆どの男性がかなりスレスレか、或いは一線を越えているのだろうと推察される。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
入力を終えた和田と麻田が会話している。弥皇はじっとうつむいたままだ。
「なんだかどろどろですねえ」
「ああ、安倍のこと?」
「佐藤です。過去にも2回離婚していますね、どっちも子供いなかったみたいだけど」
「元嫁から、もっとなんかこう、新種の情報引き出せなかったのかしら、佐藤の」
「元嫁にも暴力をふるったらしいですよ、ただ、元嫁の父親が元気で」
「やりたい放題は無理だったと」
「佐藤そのものは、安倍が子供に言った通り、小心者なんですかね」
「どうかしら。なんでこういう男が大きな顔して、のさばっているのか私には解せないわ」
弥皇が、暗い影を落とすように呟く。
「力の暴力。それが無くなったら、今度は言葉の暴力、モラハラ。精神的殺人者」
モラハラ、このところ、世の中に浮上したハラスメントの一種だ。異様なまでの精神的暴力。麻田曰く、これは男女どちらに多いとかではなく、たまたま男性から女性に向ける場合が多い傾向にある、というだけだが。
安倍が受けたモラハラ。
母親にくせに、というお定まりのモラハラ劇場。
別居時、周囲の人が見ている時にしか参加しない保育園イベント。
再同居時の子供たちへの責任転嫁(子供が選んだから俺は許した、と叫んだとされる)
妻が自分で買った洋服などを勝手に捨てる。
ある種の強欲さとして、躁鬱病で退職しているのに、働くことを強要、無理強いしている。
ただでさえ双極性障害・躁鬱病患者が新しい環境の中に身を置くことは、一種の賭けとも言える。症状が劇的に悪くなる場合があるからだ。過剰適応など起こせば最悪の事態も招きかねない。にも関わらず、安倍の体調を心配する素振りは見受けられない。
佐藤自身は、周囲に「安倍は公務員よりも別の仕事が向いている」と言い訳しているようだが、50歳を超えた女性で、双極性障害・躁鬱病を患っている者が、ある程度の賃金を得るには、身も心もボロボロになるまで働かなければいけないだろう。再発しないとも限らない。一番心配なのは、再発し自死に至る最悪のパターンである。
佐藤が故意にそれを望めば別だが。
安倍の兄は、安倍が働くことに反対していたが、佐藤に進言しても無視されるという。
佐藤はあくまで、自分が好きに使える金が欲しいのだろう。他人から見える家の事などは尤もらしく行う。自分が他者から悪く言われるのを極度に嫌う。
といったような調子で、モラハラが恒常的に行われていたと推測される。結婚して五年間は暴力に苦しみ、再度同居しモラハラに苦しみ五年後鬱発症、そこからまたモラハラは留まるどころかスピードを上げて安倍を襲った。
安倍は、親しい友人に漏らしたとされる。
「毎日、玄関の開く音がすると、心臓がドキッとする」
「暴言を吐かれると、決まって幻聴が聞こえた。ドンドンとドアを叩く音や、誰かが自分に話しかける声。もしかしたら、統合失調症かもしれない」
ただし安倍にも悪い点はある。借金を重ねすぎた。いくら自分で支払ったとはいえ。首が回らないほどの借金。そこだけは、夫の佐藤が怒る気持ちもわからないではない。全て鬱病や躁鬱病を患っている時期ではあったが。
いずれ、借りを重ねたものは返さなければならない。その点でも夫は安倍を支えようとはせず、安倍は夫に借金返済を手伝ってもらったことすら、ただの一度もない。借金について、悪いということは安倍自身、十分に理解していると思われる。
夫、佐藤はこれからも一緒に暮らす限り、安倍を働かせ給料を貪るだろう。
通常なら夫しか働いておらず、2,3人の子を持つ家庭など、ざらにあるというのに。安倍が拒めば、自分が出ていくから家のローンを返済しろ、とか、さもなくば安倍を追い出して、今度は子供たちから貪るだろう。
子供から金銭を貪ることが妥当かどうかはその家庭によるが、公務員という職業を考えれば、佐藤の給料をもって、子供から貪るのは鬼畜にも等しい行為だ。
「ああ、腹の立つ男だわ」
「でも自己防衛反応に異常に長けてるねえ」
「僕はこういう夫にもなりたくないし、こういう父親にもなりたくないです」
「安倍にも問題はあるけどね。病気を借金の理由にするのは間違ってる。自分で働いた金で相殺するんでしょうから、自業自得ね」
「貪られると知りつつも、これからも働くでしょうし」
「それが子供に対するせめてもの償いだよね、この場合」
「間違った結婚だけど、子供が優しく育ったことだけがこの夫婦の唯一の宝じゃないの」
こんな報告書を見た後だ。和田の結婚への意欲は減退の一歩。恋愛と結婚の最たる違いをまざまざと見せつけられ、元気をなくしている。意気消沈という言葉が似合う、和田であった。
「和田くん。かのカリスマですら結婚はしていないよ。自分の推理力を鈍らせるから」
「さ、あとは緑川と佐藤の関係よ。佐藤が人事に口を出すなら、今回緑川が異動する可能性もあり得る」
「人事サイドがどの程度、佐藤の言葉を聞くかによるでしょう」