第2章 第1幕 The third case ~ Monster
近頃大きな事件も無く、定時に帰宅するサイコロ課の面々。
佐治は家で邪険にされるのが怖くて、定時帰宅の日は図書館巡りに出向いているらしい。なんという、可哀想なお父さん。
それでも、過去に起きた事件の載った新聞記事などを集めているコーナーに入り浸っているという話も聞く。
なんとまあ、仕事熱心な事か。
そんな佐治が、ある日結婚詐欺の話題をもって颯爽と登庁してきた。
「おう、独身3人組!結婚詐欺なんぞに引っ掛かるんじゃないぞ。ちょうど1年前に結婚詐欺から始まった殺人未遂事件があったそうだ」
和田が自分の机から立ち上がり、データベース用デスクに向かうと、わらわらと検索し始める。
弥皇と麻田は、己の興味の範疇にない男女間のトラブル~事件である。故に何の反応も見せない。
弥皇に至っては徐に席を立ち、珈琲タイムだと言わんばかりに課内に設置されている珈琲サーバーに手を伸ばす。
片や麻田ときたら、警視庁内の規則が書かれた例規集を紐解いているように見せつつ、その下には沖縄リゾートの旅行ガイドブック。
佐治は自分の椅子に座らずに、自分の向かい側にある弥皇の椅子に座ると、隣にある麻田の机をガン見する。
二人の思考を見透かしたかのように佐治が咳払いすると、ぐるりと遠巻きに歩いていた弥皇が麻田の机に辿り着き、麻田に囁いた。
「結婚詐欺って、結婚した後に態度が変わって邪険にするのも含まれると思いませんか。籍入れたら一生飼い殺しですよ、怖い怖い」
麻田が弥皇の顔を見ながら大きな声でほざく。
「同感だわ。金持ってかれたとしても、結婚しなくて済んだなら、これもまた幸いよね」
麻田の隣にある弥皇の椅子に腰かけている佐治に聞えたようだ。というか、さも聞こえるように大きな声を出したとしか思えない麻田。
「そこ!なんだとぉ」
「何も言ってませんよ、ねえ、麻田さん」
麻田は直ぐに裏切る。おまけに、地雷を踏みまくる。
「弥皇くんがね、結婚後に態度変わるのも結婚詐欺だって言ってるー。佐治さん、心当たりあるー?」
「どのツラして言う、弥皇よ」
弥皇はまさに佐治家の地雷を踏んだ。
家庭の話を佐治に振るのは自殺行為だ。佐治は元々の顔が怖い。身体も鍛えているから、痩せた弥皇がひょろひょろと見える。
弥皇はその分、身のこなしが速いと言うか、逃げ足が速い草食動物のように動き回る。弥皇は麻田の右肩をポン、と叩いて向かい側にある和田の机がある場所に逃げる。佐治が自分の机に戻ると、今度は麻田の椅子の後ろに逃げる。その繰り返しだ。
佐治は追いかけるのを止め、どっしりと自分の椅子に座りこんだ。
「お前女性と付き合ったこともないんだろ。まさかのゲイか?」
「まさか。女性には優しいでしょ、僕。結婚に興味ないだけですよ」
弥皇の返事を待つかのように、麻田が今度は時限爆弾をもってやってくる。
「言われてみれば弥皇くんって、誰に対しても優しいよね。好みのタイプとか無いの?」
「綺麗に越したことはないし、料理上手に越したことはないですけど」
麻田の顔が鬼のように赤らんできた。
「おう、弥皇よ。あたしの前で料理の事言うかね?あとで休憩室にて寝技かけてやる」
「麻田さん、綺麗でしょう。料理は上手か知らないけど」
弥皇は麻田の怒りなど構わずに”正直者”を演出し、なおかつ言葉にする。
麻田が怪獣のようにガオーッと両手を上げるのを見ながら、佐治はやれやれと言った表情で、データベースに集中している和田に声を掛けた。
「どうだ、何か出てきたか。サイコパス系の結婚詐欺」
「そういえば。前に結婚詐欺か何かで捕まった事件がありましたね」
「サイコパス系なんてあるの?」
麻田と弥皇が同時に反応した。
この二人、どちらかと言えば性格的に似ているのかもしれないと和田は考えている。
二人を見てか見ずしてか、和田が顔を上げて右手人差し指を上に突き出す。
「あ、あったあった。ありましたよ、物凄いのが」
「物凄いって、何が」
「カテゴリですよ、覚えてませんか?弥皇さん」
誰にでもフェミニストの弥皇は、思い出せないでいるらしい。
弥皇よりも麻田が最初に、事件の概要を思い出したようだ。
「あ、思い出した。あれ、かなりのカテゴリだったわねえ。流石の私もぶっ飛んだ」
事件の概要を知らされ、佐治と弥皇も思い出した。
「サイコパス女性の際たる実証、結婚詐欺事件ですね」
「ああ、あの・・・」
4人全員が口を揃える。
「あり得ないカテゴリ」
今度は皆が一斉に話し出す。誰が誰に話しかけているのかもわからない。傍目から見れば、全員が独り言を言っているように聞こえるかもしれない。それくらい、目と目を合わすことなく、相槌を打つでもなく、好き勝手に話しているのである。
「そうだな。カテゴリ的にはあり得ない。でも確か、料理が上手かったはずだよな」
「男性は料理上手の女性に弱いですからねぇ」
「でも、あれって我々の業務にとって、一番参考になるケースじゃない?」
「サイコパスは男性の方が多いとする論文もあったはずだけど」
「そうですね、連続切り裂き事件とかが有名です」
「それは殺人とか凶悪な犯罪をデータに落とし込んでいるだけで、実際には女性のサイコパスだって多いと思うわ」
「男性の結婚詐欺なんて、騙して捨てて終わりでしょ。最後に追いすがられて殺すのが常套。サイコパスかどうかも怪しいわよ、あの事件とは比べ物にならないわ」
「女は怖いと言いますけど、下手に料理上手な人は危ないんですかね」
「佐治さんのお宅では、奥さんの料理ってどんな感じです?」
佐治はどうでもいいといった面持ちで、そっぽを向く。
「女性も男性も、料理上手に越したことはないだろう」
「佐治さんはもう結婚しているから別として、弥皇さんならどうです?あの事件の被害者のように、お金、渡しますか?」
「ああ、僕はお金持ってないから大丈夫。和田くん。詐欺ってね、お金持ってる人が引っ掛かるから」
麻田が半ば囃し立てるように、弥皇の方を見ながら小さく拍手する。
「弥皇くんらしいわ。生活能力まるでなし。結婚できないわけだ」
「麻田さん、僕は出来ないじゃなくて、しないんです。間違えないでくださいよ」
もうたくさんだという顔をする佐治。
「どっちも理解不能だ。俺は家族が大事。それだけだよ」
和田が、佐治に向かって天使のような微笑みを返す。
「僕はまだ彼女もいないですけど、佐治さんや課長のような家庭を持ちたいです」
と、和田を指差し、口に手を当てて、ひそひそ声で話すフリをしながら、その実、大きな声が課内に響き渡る。
「あ、和田の坊主がいい子ちゃんしてるわよ」
「ホントだ。お坊ちゃまがいい子ちゃんしてる」
性格の悪いアラフォー2人組。麻田と弥皇である。
さて。
彼らが話題にしているのは、データベースに登録された結婚詐欺の事件だ。関西と関東でそれぞれ、女性が男性から金をだまし取り、様々な方法で男性たちの命を奪ったとされる事件。
40代から80代の男性合わせて10人以上が犠牲になっているはずだ。
女性たちは、『カテゴリ』とサイコロ課の面々が口にするように、美人と評する人は少ないと思われる。男性なら容姿に目が向くのでは?と思いがちだが、実は違う。
最終的な伴侶を決めるのは、女子力。料理の腕前であったり、家庭的な雰囲気であったり。
事件の犯人も、さもありなん。料理上手な面や面倒見の良さを己が武器として、次々と男性に近づいたと言われている。
それにしても、これら事件の異様さは、金を巻き上げ、巻き上げた直後に次々と命を奪った点にある。
直情型犯行ではなく、綿密に計算したであろう、すべて違った方法で男性たちは命を落としている。火事が3件、入水自殺が2件、練炭自殺が3件、車の自爆自殺が2件。
調書を見る限り、共犯者の影は見えない。女性は綿密に計画及び実行したつもりだったようだが、警察からすれば犯行手口そのものは幼稚極まりなかった。練炭の購入記録や男性たちの胃から見つかった薬物など、至る所に綻びが見つかり、そこから犯人と言えるだけの状況証拠は揃った。
しかし、確実な『自白という証拠』は何一つない。
裁判では、『疑わしきはこれを罰せず』
だから状況証拠だけで捕まえても犯罪の立証にはならないのである。
罪を問われない。
もしも、女性達がそこまで考えて犯行に及んでいるとしたら、犯行の立証は一筋縄ではいかないだろう。
「サイコパスの一番の素質と言うか、彼らの中に蠢くものって、自己防衛反応なんでしょうか」
「だから状況証拠は残しても、確実に自分を指し示す証拠は残さない、か」
「状況証拠のみをわざと残すのかもねぇ」
麻田は紅一点として、射的ターゲットにされているような錯覚に捉われる。
「私に聞かれても。ただ、和田くんのいう自己防衛反応には長けている、私もそんな気がする」
「この犯人はこうして警察の手に落ちたから、これ以上の犠牲はでないけど、世の中じゃまだまだあくどいサイコパスが、蜘蛛の巣のように網を張って待っているかもしれないというわけか。怖いもんだよ」
「サイコパスの要素は、見かけじゃ判断不能だから困るよね。僕らだって、いつ引っ掛かるかわからないわけだろう?ねえ、麻田さん?」
「弥皇。あんたは早く詐欺に引っ掛かれ」
「どうしてそう捻くれたものの言い方をするかな、素直になって欲しいなあ、麻田さん。仲良くしましょう」
「あ、言い過ぎたかな。さすがに。ごめーん」
「とにかく、仲良くしましょう。5人しかいないサイコロ部隊ですから」
麻田も弥皇くんに一本取られた格好だ。
冷静に対処しなければ、サイコパスの餌食になるのは目に見えている。
「おい、そろそろ雑談は仕舞にしろよ」
市毛課長のお出ましで、大論争は終わりを見た。
一番ほっとしたのは佐治だろう。結婚詐欺を口走ったばかりに、大論争に発展し自分の家族のことを聞かれる。佐治はこの半年、いや、1年。家で誰とも話をしていなかった。それを誰かに悟られることを嫌って、自分のことはなるたけ話さないようにしていたのだ。
「課長。何かありましたか?」
佐治の声とともに皆が一斉に立ち上がり、市毛課長を見る。
「新手の結婚詐欺事件だ。和田、早速データベース入力してくれ」
「はい、承知しました」
和田が入力している間、他のサイコロ人はぼんやりとしている。天井を見上げる者あり。目を閉じて微動だにしない者あり。机に片肘を突き、前を凝視する者あり。
そう、ぼんやりした先輩方と和田は思っていたのだが、どうやら違っているのがわかった。各々が何かをイメージでもしているのか、どこかに魂を放り投げているような気がする。
今回の事件は、当該県警において膨大な資料を作成しており、和田も入力に手間がかかった。
お前の居場所はサイコロ課ではなくなるぞ、そんな囁きが耳の奥で聞こえるような錯覚に捉われる和田。
そう、意見するたび出るのは、非情な言葉の刃。
どっちを取るべきか、未だ答えの出ない若造クンなのである。
「本筋、入力完了」
和田の一言で、皆の魂は元の身体に舞い戻り、和田以外全員の目つきが、ぱっと変わる。
市毛課長が号令を掛ける。
「和田、概要を読み上げてくれ」
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
東北地方で起きた、結婚詐欺と思しき事件。
以前に発生した結婚詐欺と、手口的には同様と推測される。
被害者は40代の公務員男性。
死因は、高低差のある地形での、ブレーキ痕無しの車体ダイブ。
ただし、ブレーキが甘くなっていた。当該県警の鑑識では、これくらいだと踏んでも効かないレベル、とまではいかないという判断が付記されていた。
手っ取り早く言えば、ブレーキをがっちり踏んでいればセーフ、浅く踏めばアウトという寸法である。
薬物やアルコール類なども検出されたが、普段から抗不安剤の常用者であり、通院歴もある。アルコール中毒との報告は入っていない。
現在、被害者の遺書のみが、唯一の物的証拠とのことだ。
弥皇が、はあ?と言いがなら遺書を読む。
「君なしでは生きていけないから、あの世に行きます?なんだ、これは」
「遺書でしょ」
「いい年こいた男がこんな遺書、書くかい?確か、40代の公務員男性だろう」
「これ、パソコンプリントアウトしたのか。ねえ、和田くん。遺書だってどうして断定したのかしら」
「断定と言うか、証拠品であるということです。指紋がないようなので、かなり妙なんですが」
「って、指紋すらないわけ?そんな遺書ないでしょうが」
弥皇は信じられないと言った様子で肩を竦めた。
「まあまあ。そう血気盛んになるな。和田、結婚詐欺の被疑者は分かっているのか」
市毛課長が容疑者の写真を出すよう和田に指示すると、和田がキーを叩きながら返事をする。
「はい、今から写真出します」
皆が、目を見張る。静寂が課内を包みこむ。男性陣は、漏れなく溜息をついていた、和田を除いては。
「すげえ美人。いくつ?」
「えーと、42歳です」
「これなら引っ掛かるわけだ」
弥皇が涎を垂らして写真に見入る。
「出た。弥皇の美人好き」
「麻田さん、ここは僻まないでください。ほら、美人のカテゴリに入るでしょ」
「ま、認めるわね。で、どうしてこの女性が被疑者の結婚詐欺だと断定したの」
「この女性の預金口座に、一度に多額の振り込みがあったそうです」
「いくら?」
「800万円です」
「振込ねえ。なんか秘密握って、脅した可能性もあるんじゃないの」
麻田の容赦ない意見に、同調する者は皆無だ。今度は佐治が引っ掛かっている。
「いや、麻田。脅すような顔じゃない。見ろよ、このか弱い雰囲気」
「それは痩せているからでしょう。168cm、38kg。すごっ!」
「なあ、和田。こんなおねえさんなら、お前も恋したくなるだろう」
和田が間髪入れずに答える。
「僕はこういう顔、キライです。媚びた顔は苦手中の苦手です。凛とした顔が好みだし。ましてや、42歳でこの体重じゃ、脱いだら鶏ガラですよ。みっともない」
まるで競馬場の中、鼻さでゴールし画像シーンをドキドキしながら皆で見つめるような、静寂に包まれシーンと静まり返る、課内。
次の瞬間、大爆笑が巻き起こる。和田以外の4人は腹を抱えて自身の机に突っ伏した。
「脱いだ瞬間まで考えるよな、そりゃ」
「確かに。媚びた顔、か。美に惑わされると思考回路が麻痺するんだな」
「まったく。麻痺しなかったのは私と和田くんだけだった、と。ねえ、弥皇くん」
麻田は弥皇の方を向いて、あっかんべえと舌を出す。
「課長まで見惚れるなんて、珍しいですね」
「おいおい、俺はさっきから何一つ言葉発してないぞ。俺を入れるな」
課長の場合、見惚れすぎて言葉が出なかった可能性の方が高い。
「課長。我々を欺こうとしても無理ですよ。ほら、よだれ」
「え、何処だ?」
焦る課長を見て、見惚れすぎた一番の阿呆と思うサイコロ課人たち。
「多分この中で一番初めに引っ掛かるのは課長ですね」
「そうそう。鼻の下、伸びてますよ」
「課長も鶏ガラ趣味でしたか。残念です」
「よだれなんてないぞ。誰だ、俺を騙した奴は!」
「知りませーん」
ひとしきり笑いは渦を巻き、ようやく本来の顔に戻ったサイコロ課員。
弥皇が手を上げる。
「ただの結婚詐欺なら、うちのデータベースには情報来ないでしょう?どうして今回、この件が回って来たんです?」
市毛課長が咳払いをして、一言だけ告げる。
「サイコパスの可能性が高い。結婚詐欺もそうなんだが、周囲で色々あるようだ」
サイコロ課員たちは、段々眉間に皺が寄ってきた。
まさか、まさかの東北長期出張---。
断末魔のように、喉の奥から声にならない声を絞り出す弥皇。周囲が、どうしたんだと言わんばかりに弥皇を見る。
「弥皇くんはね、来月くらいまでの間に休暇欲しかったみたいなの。長期で」
「僕の心理や行動をよくご存じですね、麻田さん」
「旅行のガイドブックやらツアーの概要書やら、机に山積みでしょうが」
「あ、そうでした?いや、失礼。一人旅ってのは良いですよ。煩わしさが無い」
「同感ね。そこだけは」
「初めて意見合いましたねえ。東北か、まだ行ったことないな」
「どこかいいとこあったら後で教えてよ、弥皇くん」
市毛課長が再び咳払いをして麻田と弥皇を牽制する。
「弥皇、麻田。旅行の話はあとで、こっそりと2人でやれ。今はこっち。事件だ」
和田がポン!とエンターキーを押し、入力が完了したことを知らせた。
「県警が集めた詳細なデータです。長いので、ご自由にどうぞ」
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
【東北結婚詐欺事件被疑者:サイコパスの疑い濃厚:聞き取り資料等】
氏名 緑川聖泉
年齢 42歳
職業 地方公務員
生まれたときから非常に可愛らしく、親の愛情を一心に受けて育つ。
そのためか、一人っ子。
あまりにも可愛らしいため弟妹を蔑ろにしそうで、両親は弟妹が必要なかったという噂。高校は女子校。
大学でも美人として有名。
大学卒業後、一旦銀行に勤めるが1年余りで退職。
翌々年、地方公務員を受験し合格。
最初の配属先こそ自宅近辺だったが、その後は12年ほど、県の本庁舎にて勤務。
今も両親と3人で暮らしている。
「ホント、どうしてこんな美人が独身なんでしょうかね」
「下まで読んで見ろ」
独身の理由(推測)
勿論、高嶺の花と男性が近寄れなかった、とも言えるだろう。
しかし、当該県庁においては、過去にも何人もの高嶺の花がいた。彼女たちは漏れなく生涯の伴侶を見つけ結婚している。
その彼女たちを凌ぐほどの美人か、目を釘付けにするかと言われれば、答えは「不明」
緑川はとても社交的で、つんとお高く留まっていないから、声を掛けやすい雰囲気。
凛とした顔の美人ではなく、可愛らしいという表現が似合う。
実際、地方事務所勤務ながら仕事で県庁に来て、緑川の下を訪れ挨拶していく男性職員は後を絶たない。
緑川はそれぞれに笑顔を振り撒き、しばし廊下や喫茶ルームなどで歓談している。
廊下と喫茶ルームの差がどこにあるのか、それは誰にもわからない。
一方、女性に対しても一見、敵対心を持つようには見受けられない。
昼食を一緒に摂る女性たちも、毎日違う。嫌われている様子もない。
一人娘で可愛いがため、結婚などさせるか、と親が話を断っているという。
過去の生い立ち(周辺からの聞き取り)
緑川は、小さな頃から何処へ行っても女王様である。
幼稚園でも。
小学校でも。
中学校でも。
小さな頃から、聖泉は、自分の言うことを聞かない子を嫌った。
苛めはしない。
彼ら彼女らのマイナス面や規律違反などを、嘘を交えて先生に報告するだけ。
当然、その子たちは先生から叱られる。
その子たちは、自分は嘘をついていないと先生に反論し訴えるだろう。
しかし、当時から既に口達者な緑川は、先生たちからの信頼を得ていた。
信頼のおける子供のいう言葉が真実に成り易いのも、火を見るより明らかな現実だ。
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「華々しいサイコパスデビューだねぇ」
「此処からはメモ書きです。聞き込みを行った捜査員の意見ですね」
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(捜査メモ)
ここで重要なのが、誰がそれを先生に告げ口したか、である。
覚えにないだろうか、犯人捜し。
退屈な日常に色を付けてくれる不思議な事件。すると、なぜそうなったのか、誰かが先生に告げ口したのではないかという疑心暗鬼の渦。皆が皆を疑いつつ、本音を言い出せない、ある意味のスリル。
ここで緑川は、いつも上手く立ち回った。
そう、自分よりも先生の信頼を得ている女子を犯人に仕立て上げる。
それも、自分の口からは絶対に言わない。
その子の名前が出るようなフレーズを二つ、三つ、周囲に流せばそれで良い。
周囲は緑川の誘導に惑わされ、流され、結局、犯人はその女子になってくれる。
そうやって、邪魔な女子は排除していった。
誰も自分がやったとは気付いていない。
自分は何もしていない。
あの女子が犯人なのだ。
そうだ、彼女が悪いのだ。
脳内変換とでもいうべきだろうか。いや、完全なる脳内変換である。
自分の行いを反省することもなく、自己保身のために動く。
或いは欲望のために同級生などの日常を狂わせながら日々を過ごした。
幼稚園や小学校なら容易い嘘も、中学校になると上げ足を取られかねない。
中学校に進学すると、周囲を味方に引き寄せるために何をしたか。
母にねだって、お菓子やアクセサリを大量に買い込んだ。
そして、それらをばら撒き、女子の気を引いた。
男子は何も言わずとも、自分の味方になってくれた。
中学校三年生の夏頃。
高校進学の三者面談があった。
緑川は、勿論県内トップクラスの高校を選んだ。
当時は男女別学だったので偏差値も問題ない。
当県は現在、総て共学化したため偏差値は変動している。
当時の緑川の偏差値では、現在県内一の偏差値を誇る高校は不合格の可能性が高い。
しかし、緑川の心は自尊心の塊であり、今でも自分なら合格したと思っているだろう。
男子に対して、そう興味を抱かなかったのも、高校が別になるからかもしれない。
金ない男子、権力の無い男子に、抱く(いだく)感情など無かった模様。
逆に、女生徒で自分より偏差値のいい一人の女生徒には、猛烈に嫉妬した。
憎しみにも近い感情を抱いたとみられる。
入学受験当日、緑川は、かなり早めに入試会場入りし、受付を済ませた。
そして、コートを着たまま、陰でその女生徒が来るのを待った。
女生徒が来ると、何気なしに駆け寄った。
まだ受付を済ませておらず、コートを着ているのを確認した。
さり気なく言葉を交わし、すれ違いざまに相手のコートの右ポケットに針を入れた。
そして、後ろを振り返った。
「右のポケットから何か落ちそう」
当然、その子は無意識に右ポケットに手を入れた。
そこに入っていた針に指が刺さる。
通常の日なら、何でもない怪我であり、それこそ犯人捜しに発展する事例だ。
しかし、その日は中学生にとって、一大イベントだった。
少し気持ちが違っただけで、結果は全然違うものとなる場合も多い。
皆、自分のことで精一杯で、他の生徒に気を回すことなどなかっただろう。
そう、誰かが落ちれば自分が入れるかもしれないのだから。
針が指に刺さり吃驚した女子は、いい意味での緊張感を保つことができなかった。
結局、その女生徒は、入試に失敗した。
緑川の中学女子同級生の中で一番偏差値が高く、平常心で会場入りしたにも拘らず。
以上の入試事件は、針が刺さった本人からの証言として残しておく。
高校生になると、周囲は女子だけで面白くなかった。
しかし、自分よりも容姿のずば抜けた生徒もいない。
それだけで優越感に浸り、自尊心を満たすことができた。
成績が上位だったとは言えない。
学年で百番前後。
一学年320人を超える高校だったから、決して低い方ではないが、特別高くもない。
大学受験を控え、両親から地元に残る様懇願された。自分としては県外で一人暮らししてみたかったが、アルバイトするのは嫌だった。
教師には県内の国公立大学は難しいと言われていた。最初から県内私立一本はプライドが許さない。
受けるのは自由だからと、県内の国公立大学を受けた。
周囲には、「合格圏内だったが、その日体調が悪かった」と嘘をついた。
憶測だが、緑川の中で脳内変換され、其れが真実と化していたと思われる。
一応滑り止めとして受けた私立大学に行くと、男子も多く、緑川は持て囃された。
教授たちからも目立つ存在だったようだ。
学内でセクハラ疑惑のあった教授を助けたことがあった。早速、男性教授に取り入り、自分の要求を何でものませた。利用できるものは何でもする。
テストの成績が悪くとも、男性の教授なら下駄を履かせてくれる。
女性の教授は物理的な陽動作戦に出た。
それが無理なら、男子学生にレポートを書かせて凌いだ。
全ては就職のためである。
最初は公務員など興味もなかった。地味な職場は嫌いだった。
大手の銀行や、地方銀行でも県内に本拠を置く銀行なら、パーティーなどもあると聞く。親にねだって、地方銀行に財を蓄えた。親が同居を望み、自分も同居することで家事一切もせず食費の1円も払わなくて済む。まさに働きながらのパラサイト生活。
それすらも『親の願いを聞き入れる私は親孝行者』と脳内変換する、コーディペンデンシー、共依存。
就職活動も程々に、県内大手の銀行を第一候補にし、合格した。
緑川の性格上、苦痛以外の何物でもなかった社内研修が終了すると配属が決定する仕組みと聞いた。
勿論、秘書室を希望していた。自分の容姿と頭脳なら必ず配属されるはずだと。
その期待を大きく裏切る形で配属されたのは、行内の経理関係部署だった。窓口業務はなく、一般客との接触はないので楽だが、地味な仕事しかない。
生まれて初めての、計り知れない挫折感。
そう、緑川にしか理解できない挫折感だったはずで、傍目から見ればただの配属が、緑川本人にとっては一生を覆すような大きなうねりだったのだろう。
そうした気持ちを気取られないようにするため、仕事を他の女子行員に押しつけた。緑川本人は男性たちと休憩場所で話ばかりしていた。
こればかりは気取られないようにするためなのか、元々の本人の資質だったのかは不明。これ以降の箇所における仕事ぶりを見ても自分で黙々と仕事をしている姿は見受けられず、いつの時点が出発点なのか疑問の残るところ。
兎角、銀行は女性が華ともいうべき場所である。
瞬く間にその噂は広がり、女性行員から嫌味を言われることもあったようだ。そんなときのために、取って置きの策を用意した。
上司に入れ知恵を忘れるような緑川ではない。言葉巧みに飲みに誘い、身体の関係だけは避けて骨抜きにするまで上司を口説く。身体を避ければその分相手は寄ってくることも承知の上だった。
自分の奴隷とでもいうべき存在にするまでに、飲んで口説いてを繰り返した。
そして、その上司に嫌味を言った女子行員の名を出した。
自分は何もしていないのに誹謗中傷されたと嘘をつく。周囲では嘘だと分かっていたが、下手に口を出せば自分も巻き添えを食いかねないと、知らぬ顔をする。
男性たちは自分が話をしていると知られれば辺鄙な土地に転勤の可能性があるため、嘘と分かっていても誰も口を割らない。
損をするのは、嫌味を言った女子行員のみだった。
案の定、女子行員はほんのわずかなミスを皆の前で延々と叱責された。叱責された行員は余程悔しかったと見える。
女子行員は間近に結婚を控えていたこともあり、寿退社で幕引きと相成った。
同僚の話では、寿退社で幕を引かせたのは銀行側であったという。
実際には鬱病を発症し、結婚はご破算、元女子行員は引きこもり生活になった模様。
その後緑川の仕事に対する姿勢が良くないと総務本部への匿名投書があった。
経理の上司を丸め込んでいたので、直ぐ耳に入った。こればかりは相手も特定できず、どうやって総務の上司を丸め込もうか悩んだ。経理の上司を唆してみたが、総務にまでは手が届かない。
仕方なく、仕事をしているふりをして机に向かう。その実、成果品らしい成果品は無いに等しい状態だった。
翌年。人事異動。緑川は今度こそ秘書室に行けると思っていた。
またしても希望は叶わず、配属先は、市内の工場地帯にある店舗。それも、窓口業務。
一日だけ、窓口に出た。月初めの一番手頃な時期である。
一日で嫌になり、生理休暇を取った。
そして辞職願を書いた。
通常なら一ヵ月前までに提出しなければならない、と規定で定められた辞職願。
経理の元上司に頼みこんで2月中の日付にし、強硬に処理させた。多額の財もそれに役に立ったのか、それはわからない。
退職し、ほとぼりが冷めた頃、預けていた財は皆解約し、他の銀行へ移している。
無職になった。
家事手伝いと言えば聞こえはいいが、たまにフリーターと揶揄する大学の同期もいる。
出来の良い自分が無職のままでは、聞こえが悪い。
地方公務員の中でも、県職員試験を受けた。大卒用の試験は、昔はとても条件が厳しく試験内容も難しかった。国公立大学卒業でないと合格できないような試験だったが、緑川の時代は違っていた。
大学のランクはどうあれ、面接で自分の長所をアピールすれば良い。アピール力には自信がある。
思った通り、面接は集団形式だった。自分が総て仕切ってテーマを上手く纏めた。
自分にはその点の才能が確かにある。自己採点では、採用は確実だった。
合格者が発表された。合格している。自分が落ちるわけがない。自分を落す要因など見つからないのだから。
採用の知らせを待った。
勿論、本庁舎の秘書課が目当てだった。
県の秘書課と言えば、県知事が出入りするところだ。
これほど自分に似つかわしい場所は無い。
本採用の知らせが来た。
憮然とした。自宅近くの福祉関係の事務所だった。
福祉関係の事務所で何の仕事をしたかなど、一つも覚えていない。覚えていなくて当たり前だ。仕事などしたことが無い。周囲からは不満の声も漏れていたが、上司を抱き込むことで、それを無視した。50代男性は何処でも同じだ。
上手く甘えれば、自分に有利に動く。骨抜きにしてしまえば問題ない。
たまに、自分を妾のように扱う上司もいた。利用できるだけ利用して、あとは切って捨てる。追ってくるようなら、セクハラされたといえば済む。
緑川は、不完全な計算高さを持っていた。今の世の中、女性の言葉を蔑ろにはできまいという世論が彼女の計算だった。
仕方なく3年福祉関係の事務所で我慢した。家からも近く父が毎日朝に送ってくれた。
月に一度「お腹が痛い」といいながら4日続けて生理休暇を取った。
副業に従事するためだ。地方公務員に限らないが、一般的に公務員の副業は各々規定で禁止されている。
家に帰ってからするのも面倒だから、休んで従事する。何の副業かと言えば、翻訳の仕事だった。簡単な書類ではあったが。
銀行に勤めたとき、取引先の社長に引き合わせてくれた上司がいた。
取引先は、部品製造の子会社。誰も英語が解らないというので翻訳を手伝った。以来、その会社やその周辺の会社から来る簡単な書類を翻訳している。
緑川自身、英語が堪能なわけではない。
福祉事務所の上司にねだって、高額の翻訳機を買って貰った。副業で翻訳機は大活躍した。福祉事務所や元いた銀行にも内緒で、月々結構な報酬を貰い続けることができた。
今も報酬を得ているが、向こうも礼金や翻訳料として経費計上していない。お互いに、美味しい仕事と言うわけだ。
3年後、漸く県庁本庁舎に勤務内示が出た。またしても秘書課ではない。
何故自分が秘書課でないのか?誰かが邪魔しているのかと訝った。ただ単に、生理休暇や遅刻が多いので秘書業務に合わないと判断されただけなのだが。
副業も変わりなくこなしている。誰も知る者はいない。副業に有給は勿体無いので、月に4日間は生理休暇として休みを貰う。
アラフィフに手が届く今でも休暇の使い方は変わっていない。
県庁に来てから、様々な部署に異動し、15年以上の時が経ていた。
福祉関係、税務関係、商業関係など。未だに秘書課への希望は叶わない。
緑川は、直前にいた商業部署の上司から休みがちなことで注意を受けたことがある。休むなら、とことん休んで体調を整えろと。
緑川にとって、これは屈辱的な「命令」だった。
2か月だけ休んで、復職した。もっと休めと言われたが、頑として断った。上司からパワハラされて自分は休む羽目になったと、周囲に向け訴えた。
その上司は休む原因が何なのか本当に分かっていたのかいなかったのか。副業とは夢にも思わなかっただろうが。
その間、次々と秘書課に行きそうな若い女子たちを潰してきた。
精神的に止む方向に持っていかせる場合が殆どだった。自死した者もいる。
子供が出来そうな背景にある職員は行かない、と聞き、若い男性を差し向けた。その男と付き合い結婚し、子供が出来る者はまだいい。
ストーキングスレスレのところまで持っていく。いや、ストーカーそのものが犯罪だ。
緑川に操られ、秘書課候補の女性と無理心中した男性職員までいる。
総てに於いて、緑川の犯行を証明できる手立てはなく、証拠もない。
被害者総数20名余り
精神のみを病んだ女子職員、約10名余り。(下記ストーカーの犯行を含む)
自死した女子職員3名。ストーカーで逮捕された男性職員3名。無理心中した職員2組。
そこまで人の人生を左右しておきながら、緑川自身の生活は変わらない。
仕事をしないのは相変わらず。周囲から全庁的に、薄らと副職の噂が漏れていることに気が付いていない。公務の仕事が何たるかを弁えている者は、緑川の考え方や、その行動を是としない。
酒の席になると、彼らの鬱憤は一気に爆発するようだ。隣席に収まり、話の中身を聞いた。
「あいつ、自分の仕事はしないで、さも偉そうに他の奴に押しつけて」
「自分は課内で喋ってるか、喫茶ルームに行ってるか、どちらかでさ。困ったもんだ」
「ああ、聞いた、聞いた。前にいた部署でもそうだったらしい」
「鼻の下伸ばして嬉しそうに話す奴見ると、がっかりする」
「それ、使えない男だな、絶対」
「女の本性も見分けられないんじゃ、出世は無理だろうねぇ」
「お前は自信ある?見分けるの」
「どうかな」
「そういえば、昔彼氏いたんだって?フラれて激やせしたって噂だぜ」
緑川の男関係が浮上。
上司を骨抜きにする以外では初めての男性関係だ。
10年ほど前、緑川が30歳前後だろう。
大学生になりたての男子と付き合い始めた。
だが、ほどなく破局する。理由は不明。
当該男性を探し当てるも、一切の話を拒否。ただ嫌悪感を露にしていたのが印象的。
失恋が与える心の痛みは、女性にとって計り知れないものがあるが、緑川の場合、尋常ではなかった。
50キログラム近くあった体重が、10キログラムはゆうに痩せたと思われる。現在は40キログラム弱の体重を維持している。
緑川は何も口にしなかったようだが、破局の噂が庁内人事サイドに流布されている。
それ以後は、交際らしい交際の噂が無い。
福祉関連部署や税務関連部署で骨抜きにした上司を、今もトリガーとして使う。彼らも出世してきたから、使いやすくなった。
気に入らない人間は、彼らにお願いして消してしまえばいい。
そんな折、またしても屈辱的な人事異動の命が下った。
総務関係部署の「集計担当事務」
簡単に言えば、数字のとりまとめだ。方々から集めた数字を取りまとめる。そして他の部署に数字を流す。
自分が目立たない、縁の下の仕事。この世で緑川が最も忌み嫌う仕事。
緑川は、仕事も上下で差別する。
自分が目立つ仕事が上の仕事。
知事に近い関係者、メディア関係者などが出入りする仕事は上の仕事。
イベント関係など外部に顔を売る仕事は上、経理など内部事務は下、と解り易い。
の割に、仕事をしない。いつまで残業するのだろうというくらい。出口をチェックしているが、いつまでも出てこないときが多い。
本人は英語力堪能を誇示しているが、会話を聞いた者は一人としていない。
先だって、興味深い話を聞いた。
集計事務を一緒に担当した嘉藤優花が周囲に漏らしたとされる内容だ。
「緑川が開口一番に、あたしはこんな仕事をするような人間じゃないと嘯いて、当時は仕事をするのが辛かった」というものである。
やはり、緑川は上の仕事と下の仕事を線引きしていたことが証明された。
あるとき、緑川の後輩、鈴木明子が、先月結婚した。
兎に角、話術が得意で、海外事務所から秘書課に戻り、また海外事務所に行った子だ。
結婚式に参加した緑川は、職場でその話をしていた。
総務部署の先輩、安倍みちるに「あの子は男性にモテるから」と聞き、顔色がかわった。
その安倍先輩も顔色に気付き、同僚に話しているという証言有り。
他の同僚が、洗面所での緑川の呟きを覚えている。
”あいつ如きブスが”
海外で男性職員にちやほやされただけよ。
緑川自身、言い聞かせるように呟いたと思われる。
余程腹の虫が収まらないのだろうと、同僚たちは怖くなったという。
鈴木が秘書課を希望し、すんなり配属されたらしいという話も怒りに輪をかける。
緑川は、鈴木との交友を避けるようになっていった。
当時の上司は、昔骨抜きにし、今や緑川にぞっこんの相手だった。緑川はことある毎に職務内容の変更か、人事異動を願い出ていた。
その年の冬。
世間では、ロングブーツにショートパンツ、ふわふわ毛皮付ニット。そんな洋服が雑誌を賑わせていた。緑川は、いつも本の中から抜け出してきたようなスタイルで仕事をしている。そう、ロングブーツにショートパンツ、ふわふわの毛皮付ニット。
ロングブーツは常時着用していた。
誰も何も言わなかったが、安倍先輩が陰でこっそりとロングブーツを注意した。
安倍先輩は毛皮も気に入らなかったようだが、注意されたのはブーツだけ。
毛皮着用での仕事などもってのほか、と思いつつも、最低限のブーツだけ注意した。
「ブーツは防寒用に外で履く物であり、屋内で着用するものではないよね」と、優しく。
緑川は、その場こそするりと抜けて外に出たものの、心の中で爆発したに違いない。
メモに書き、破ったものをそのままゴミ捨て場に捨てたため、掃除婦の男性が見つけた。
自分に指図する?
高卒如きのあんたが?
何様のつもり?
「あいつ如きが、このあたしに注意するなんて許さない」
久々に、緑川本来の姿が現れた。緑川は、自分にぞっこんの上司と夜に一席設けた。その際、安倍先輩から、あることないこと言われたと大泣きした。
上司は烈火のごとく怒りを露にし、緑川の敵討ちを約束してくれた。
次の日、安倍先輩は上司に叱責された。
「メモの数字を何度も間違えるな!」
それも、フロア全体に響くような大声で。
思わず、安倍先輩は泣いた。大粒の涙が頬に伝うのを一切拭いもせず、数字を調整しコピー機のある場所まで移動してコピーを取っていた。
緑川はそろそろとコピー機に近づき、安倍先輩の背後に回り込んで耳元でそっと囁いた。
「大丈夫ですかあ?」
その後、2か月間、安倍先輩は朝から晩まで、誰とも一言も話さなかった。パソコンだけを見つめながら、8時間ぶっ通しで仕事をしたという。
周囲は心配したらしい。元々精神を病み、良くなったところで現在の部署に来た安倍先輩だった。
緑川から囁かれた瞬間、敵討ちされたと漸く理解し、再び精神が乱れて生理も止まったと行き付けの精神科で話している。
(あたしの勝ちね)
緑川は、そう思ったようだ。その証拠に、毎日室内でロングブーツをこれ見よがしに履いたという。どうやら、安倍先輩に見せびらかすつもりだったようである。これは複数の元課員が証言している。
その代り、緑川に成り代わり敵討ちした骨抜き上司は、毎日のように仕事中に緑川を別室に呼んだ。二人きりで何時間も話をさせられた。部屋の中で、何があったのかはわからない。緑川も当時の上司も、他者に語ることは一度もなかったから。
骨抜き上司にしてみれば、ある意味、自分へのご褒美だったのだろう。その上司は退職間際だった。
緑川にしてみれば疎ましいことこの上ないが、あと数カ月のの辛抱と思いお付き合いしたと思われる。
それを部署の人間が気付かぬはずもない。皆、陰で噂をしていたようだが、敵討ちの噂も早々に広まっており、表面上、周囲は静かだった。
翌年度の異動。
秘書課への異動は無理だったが、集計事務からは解放された緑川。退職間際のぞっこん上司が、荒業を使った。緑川の思いとおり、職務内容を変更し、マスメディア対応もある職務に据えた。
その代りに、3人の女性が犠牲になった。
一人は、それまでマスメディア対応の仕事をしていた女性職員藤田玲子。まだ若く出来も良かったが、介護という事情があり仕事を続けるか悩んでいた。
彼女はこともあろうに、ぞっこん上司に相談した。それが運の尽きだった。上司は部署内の皆に早々と藤田の退職を公言した。藤田は悩む間もなく、退職を余儀なくされた。
これで職務内容の変更は目処がついた。残るは、集計担当に誰を回すかである。緑川の知ったことではなかったが、ぞっこん上司に進言した。緑川の前に集計担当をしていた女子職員がいたから、それを宛がえば、と。それが、ブーツを注意した安倍先輩だった。
(あんたは、クズみたいな仕事していればいいのよ)
ぞっこん上司は緑川の言うとおり安倍先輩を集計業務に据えると、退職し、いなくなった。
緑川は周囲に「嫌だったわ、あの人」と漏らすようになった。切って捨てられた方も気の毒だ。
たまに緑川の姿を見に来ていたようだが、事前に察知するらしい。緑川は、いつも物陰に隠れて様子を窺っていた。全ての事情を知るもう一人の山田先輩は、緑川に手出しはしなかったが、内心では緑川を嫌っていたと思われる。
新年度、代わりに来た上司。
自分に話しかけてはくるときもあるが、靡く気配がない。自分に靡かせるため、必死になった。洋服も、毎日かっちりとしたスーツ姿に変え、毎日パンプスを履いた。
間違っても、冬にブーツや毛皮など着用せず。一年前の服装は何だったのか?と言わんばかりの変身術。
それでも上司は靡かない。その上司は、緑川のブーツ事件で精神を乱した安倍先輩の知り合いだった。緑川は、いつか何かを告げ口されるのではないかと心配しつつも、平気なふりをした。自分とあのぞっこん上司の約束など、誰も知るわけがないと高を括っている。
心配は徒労に終わった。怒られる気配はない。かといって、靡く気配もない。
よく見ると、今回の異動では、以前秘書課出身者が数名、転入してきた。新しい上司は、その数名とばかり仲良く会話していた。緑川の自尊心は大きく揺さぶられ傷を負ったとみられる。自分が行きたいのに行けない秘書課。なのに、どうしてあんな出来損ないばかり行くのだろう。
(あたしの方が余程相応しいのに)
夏になり、翌年度行きたい部署を尋ねられた。迷わず秘書課と答えた。上司は言いも悪いも何も言わず、すぐに面談は終わった。
ブーツを注意した安倍先輩も変わる時期らしく、何か聞かれていた。ふん、あんな高卒女に出来る仕事なんかない。
その矢先。
安倍先輩はまた身体に不調を訴え、長期に渡り休むようになった。
全ての事情を知るもう一人の山田先輩が、その煽りを食らって転勤できなくなった。
緑川は、秘書課を希望したが、年齢的にも42歳。もう、秘書の役目を果たす年齢ではない。かといって、係長に抜擢されるような実績も残していない。
結局、福祉関係部署に異動した。
噂によれば、県庁ではなく地方事務所に行く予定だったという。誰かがどこかで人事をひっくり返したのだろうと推測される。
煽りを食らった山田先輩は、その年度末、早々に退職した。長期休暇の安倍先輩も、翌年度末、退職した。
緑川は「どちらもあたしのせいじゃない」と周囲に漏らしたという。
緑川は、次の骨抜きターゲットを探した。
福祉関係の部署では、時間内に完璧に仕事をこなし、回りからの評判も良い年下の女性がいた。次は秘書課かと噂されているようだ。年下のその女性、千田祥子は、結婚し夫がいる。
子供はまだいない。
緑川は、千田が不倫しているような写真をでっちあげた。上司と人事当局、そして千田の夫に、匿名で写真をばら撒いた。千田の秘書課行きは消えたも同然となり、夫との仲も拗れ、千田は自死を図った。
未遂に終わったが、千田はそのまま退職。夫と離婚して実家に戻った。
緑川は、罪悪感さえ持たない。
(あいつが秘書課に行かなきゃ何だっていいわ)
また、自分の同期で、明らかに容姿が自分より劣ると思われる女性、久道早紀がいた。そちらは早々に秘書課に行った。緑川より八年ほど早く、秘書課に行っている。
その時も悔しい思いをしたが、昨年、久道が係長になった。自分の方が女子力も仕事力も上回っているはずなのにと思った。
これは実際に悪口を話したことが確認されている。
自分が骨抜きにし、今や各部で偉い立場にある元上司たちがいる。
彼等に「自分を係長にしてほしい」「秘書課に行きたい」と方々で願いを伝えた。
だが、そこは酒の席である。YESともNOとも返事は無く、煙に巻かれてしまう状況が現在も続いている。
いくら緑川を目に掛けるとはいえ、仕事のできない部下である。ラインに据えることだけは、できなかったのだろう。或いは、押したが人事当局で潰したかのどちらかだ。
なお、現在は名目上でも交際中の男性の姿は浮かび上がらない。
男性の好みは、10歳以上年下の男性。新規採用者を好んで相手にするところから、大方躾けたい願望があるのではと推察される。見かけは勿論だが、素直で若い男性は漏れなくターゲットにしている。
自分が気に入ると、どんなに断っても迫る傾向有。そして、私は人事を意のままにできる、と若い男性に対し嘯く傾向有。男性と本気で交際する気があるのかどうかは、今のところ不明。
先日の結婚詐欺事件については箝口令が敷かれたらしく、県庁内外での証言を得ること叶わず。
(捜査メモ終了)